女真

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テンプレート:参照方法 テンプレート:Chinese 女真(女眞、じょしん)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していた満州民族10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになった[注釈 1]。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料ではおおよそ「女直」の方で書かれる傾向にあるようだが、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。民族の聖地長白山としている。

概要

テンプレート:満州の歴史 女真は満洲に居住していた黒水靺鞨と呼ばれた集団の、彼等自身の自称を当て字したものとされる[注釈 2]。主に農耕・漁労・牧畜・狩猟に従事し、中国との間で朝鮮人参・毛皮を貿易していた。黒水部・粟末部など様々な部族が在り、長く統一される事がなかった。また10世紀後半から11世紀に掛けて頻発した高麗軍の入寇のうち、1019年刀伊の入寇において対馬、九州の大宰府を襲った「刀伊」(朝鮮語で外様を意味する)という海賊集団は、女真系の一部族が主体だったと考えられている[1]。刀伊の構成員については高麗人や契丹人なども混じっていたと言われるが詳細は不明である。

歴史に現れて以来、契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真生女真の2大集団に分かれていた[注釈 3]12世紀はじめに完顔部の阿骨打が出て女真の統一を進め、1115年に遼から自立してを建国した。金は、遼、北宋を滅ぼし中国の北半分を支配した。金の時代に、漢字契丹文字の影響で女真文字をつくったが、元・明の間に忘れ去られた。やがて、金がモンゴル帝国に滅亡させられた際には、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真がモンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が死滅し、中原から女真の集団は消滅した。

一方、故地に残って集団を保っていた女真は、モンゴル、元に服属することになった。元代の女真は満洲から朝鮮半島北部にかけて居住して元の支配を受けており、元の日本侵攻(元寇)にも女真兵が加わっている。

元の滅亡後、女真はモンゴルから離れ、小集団ごとに明に服属した。また、朝鮮半島では高麗に変わって登場した李氏朝鮮世宗の時代に朝鮮半島北部の女真居住地域を征伐し、平安道咸鏡道に組み込まれ、半島北部からは女真人の姿は失われていった。15世紀から16世紀にかけて、満洲最南部の朝鮮に接する鴨緑江豆満江流域の女真人たちは、たびたび李氏朝鮮に反撃を仕掛け、豆満江南岸地域の争奪を繰り返した。

は女真を部族ごとに衛所制によって編成し、部族長に官職と朝貢の権利を与えて間接統治を行った。明代後半には、女真は大きく2つのまとまった集団である建州女直(自称は「マンジュ」(満洲))5部・海西女直(自称は「フルン」)4部と、それより東方に住んでまとまりの弱い野人女直(この当時の野人女直は女真族の集団の中では最も勇猛だった)と呼ばれる4部からなっていた。16世紀末に建州女直から出たヌルハチはこれら13部族を統一して、1616年後金を建てた。

ファイル:Goguryeo-Relations.jpg
高句麗の系統が新羅(朝鮮民族の母体)と金(女真族の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。

1635年にホンタイジモンゴルチャハル部を下して元の玉璽を入手すると、漢字としては蔑称のニュアンスを含む上に、モンゴル高原の契丹に従属していた当時の女真の民族名を嫌い、1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)に民族名を満洲族満洲民族の項参照)に改めさせた。また、それまでは女真族王朝である金の後裔として「後金」と名乗っていたが、民族名の変更に伴って翌1636年に国号も「」に改めた。

後に、女真が満州族となり、また、女真と高句麗及び渤海は同じツングース民族の為、黄文雄は著書で、「満州族先祖が築いた高句麗渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている[2]は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている[2]。また南出喜久治も「高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であって、韓民族の民族国家ではない」と述べている[3]。また、『大金国史』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。

脚注

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注釈

  1. たんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。
  2. 唐の時代に入朝した靺鞨人の名乗りが、女真の初見であると記録される。
  3. 熟女真は黒水靺鞨に服属した渤海人のことで(渤海は建国当初から遼(契丹)に滅亡されるまで唐の文化を導入していた)、一方の生女真は粛慎から勿吉以降、ツングース本来の漁労や農耕,養豚,狩猟を生業としていた黒水靺鞨のことである。

出典

  1. 鈴木哲雄「史研究最前線(17)高麗軍に救出された女性の証言--1019年の「女真海賊の侵攻」をめぐる日本と高麗」『歴史地理教育』693、歴史教育者協議会編、歴史教育者協議会、2005年12月。
  2. 2.0 2.1 黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』77頁~80頁 ワック 2005年
  3. いはゆる「保守論壇」に問ふ<其の五>日韓の宿痾と本能論

参考書籍

関連項目