順治帝
テンプレート:基礎情報 中国君主 順治帝(じゅんちてい)は、清の第3代[1]皇帝。姓名は愛新覚羅 福臨(アイシンギョロ・フリン、満州語:テンプレート:Mongol[2])、廟号は世祖。在世時の元号を取って順治帝と呼ばれる。
入関後の清の土台を確固たるものとし、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三世の春、いわゆる康雍乾盛世の黄金時代を導く役割をした。
生涯
ホンタイジの第9子として生まれる。母は永福宮荘妃(博爾済吉特氏)。1643年、ホンタイジが急病で遺言を残さずに崩御した。ホンタイジの長子は粛親王ホーゲ(豪格)であったが、叔父の睿親王ドルゴンを推す一派もあり、双方の牽制の結果、ホーゲの異母弟である6歳のフリンが皇帝となり、ドルゴンが摂政となった。生母の荘妃は皇太后とされた。
翌1644年3月19日に李自成率いる順軍が北京を陥落させ明を滅ぼした。清軍はドルゴンの主導の下に、山海関を開城して清に下った呉三桂を先頭に北京へ向かった。北京の順軍は明を滅ぼした後、各々の官職を決めたり、明の高級官僚を処罰したりに忙しかったが、山海関の中に入った清軍を4月23日に迎え討った。清軍は大勝し、さらに敗走する李自成を追って通城(現在の湖北省)まで南下し、順を滅ぼした。
順治7年(1650年)に摂政ドルゴンが死去すると、13歳の順治帝による親政が始まる。順治帝は「朕は今日官民の苦を均しく知る」と宣言し、内政の改革を始めた。当時全国各地から名産品を皇帝に献上する事になっていたが、これをいくつかの場所で止めた。また質の悪い官僚を追放し、官職の合理化を進め、税金逃れのために僧や道士になっていた者を還俗させた。
また宦官が政治に関与する事を厳重に禁止し、破れば即座に死刑とした。歴代中華王朝の衰退の大きな原因となった宦官の悪弊は清代ではほとんどその姿を現さなかった。漢文化に心酔していていた順治帝は非常な読書家であり、自らだけでなく臣下にも積極的に漢文化の習俗を取り入れさせた。
順治16年(1659年)、鄭成功の北伐軍を跳ね返し、国内をほぼ平定した。
順治18年(1661年)に天然痘で急死した。24歳での若すぎる死に「順治帝は死んだのではなく、本当は寵愛する妃の菩提を弔うべく出家して五台山で生きている」との説が生まれ、「孝陵(順治帝の陵墓)には、骨壷はあっても棺はない」とも噂された。その遺体は仏教に傾倒していた本人の希望で火葬されたようである。清東陵に陵墓がある。
后妃
- 孝恵章皇后(博爾済吉特氏、仁憲皇太后)
- 孝康章皇后(トゥンギャ氏、佟佳氏) 子:皇三子玄燁(康煕帝)
- 孝献皇后(ドンゴ氏、董鄂氏) 子:皇四子栄親王(夭逝)
- 静妃(ボルジギン氏、博爾済吉特氏、廃皇后)
- 貞妃(ドンゴ氏、董鄂氏)
- 淑恵妃(ボルジギン氏、博爾済吉特氏)
- 恭靖妃(浩斉特博爾済吉特氏)
- 端順妃(阿覇垓博爾済吉特氏)
- 寧愨妃(ドンゴ氏、董鄂氏)子:皇二子裕親王福全
- 恪妃(石氏)
- 庶妃巴氏 子:皇長子牛鈕(夭逝)、皇三女(夭逝)
- 庶妃陳氏 子:皇五子恭親王常寧、皇長女(夭逝)
- 庶妃唐氏 子:皇六子奇綬(夭逝)
- 庶妃鈕氏 子:皇七子純親王隆禧
- 庶妃ムクトゥ(穆克図)氏 子:皇八子永幹(夭逝)
- 庶妃楊氏 女:皇二女和碩恭愨長公主
- 庶妃ウス(烏蘇)氏 女:皇四女(夭逝)
- 庶妃王氏 女:皇五女(夭逝)
- 庶妃ナラ(納喇)氏 女:皇六女(夭逝)