ドルゴン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 テンプレート:Wikisourcelang ドルゴン多爾袞満洲語: 20px, ラテン文字転写: Dorgon[1]万暦40年10月25日1612年11月17日) - 順治7年12月9日1650年12月31日))は、後金から初の皇族テンプレート:仮リンク。甥にあたる順治帝摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮し、大きな役割を果たした。養子にテンプレート:仮リンク[2]がいる。

生涯

太祖ヌルハチの第14子として生まれる。母は太祖の4番目の正妃であるテンプレート:仮リンク出身のテンプレート:仮リンクで、太祖が崩御した際に殉死を命じられている。ハーン位を継いだ異母兄の太宗ホンタイジの下でモンゴルチャハル部を討つことに功績を挙げ、族内の実力者となった。

崇徳8年(1643年)に太宗が崩御すると皇位をめぐって、ドルゴンおよびその同腹の兄弟である英郡王テンプレート:仮リンクと豫郡王テンプレート:仮リンクの一派と、太宗の長男の粛親王ホーゲを支持する一派に分かれて対立した。結局、清が二分することを避けるためにドルゴン・ホーゲ双方が皇位に就かず、太宗の第9子であるフリンが6歳で即位した(順治帝)。順治年間初期にドルゴンは摂政王として実権を握り、ホーゲら政敵を粛清して権勢をふるった。

翌順治元年(1644年)に李自成によって滅ぼされると、対清の最前線である山海関の守将であった呉三桂は清に対して、李自成を討つための援軍を求めた。これに応えたドルゴンは、自分と兄弟たちの支配下にある軍と皇帝直属軍を率いて南下し、順軍を破った。順軍が敗走した後に北京に入城した清軍は、自殺した明の崇禎帝を厚く弔い、減税・特赦を行うなど明の遺民の心情を慰める一方で、満洲族の風習である辮髪漢民族に強制し、「髪を留める者(頭を剃らない)は首を留めず」と言われるような苛烈な政策で支配を固めた。順治5年(1648年)、皇父摂政王と称された。順治7年(1650年)に狩猟中に死去した。追尊して懋徳修道広業定功安民立政誠敬義皇帝され、成宗廟号を与えられた。

死後

ドルゴンが死去すると、それまで押さえつけられていた反ドルゴン勢力の不満が一気に噴出した。順治帝はドルゴンに大逆などの罪があったとして、順治8年(1651年)に爵位を剥奪して宗室から除名し、墓を暴いて屍を斬首に処した。乾隆43年(1778年)に王号と名誉が回復されての諡を贈られた。

ドルゴン死後の厳しい処置については、ドルゴンが兄太宗の妃であり順治帝の母である荘妃を娶っていたからだという説がある。兄嫁を娶る行為儒教の感覚からでは非常な不義にあたるが、満洲族の習慣では珍しいことではなかった。荘妃がドルゴンと再婚していたかどうかについて真偽ははっきりとはしないが、もしそうであるならば、幼少期から漢文化に傾倒していた順治帝は叔父と母の行動を許せなかったため、死後のドルゴンに対してつらく当たったのではないかと推測される[3]

登場作品

小説
テレビドラマ

脚注

テンプレート:Reflist

テンプレート:金庸作品の登場人物テンプレート:Link GA
  1. 満洲語でアナグマを意味する。
  2. ドルゴンの同母弟ドドの五男。
  3. 陳舜臣 『中国の歴史(6)』 講談社文庫