慧能
テンプレート:Infobox Buddhistテンプレート:Sidebar 慧能(えのう、諡は大鑑禅師、638年2月27日(貞観12年2月8日) - 713年8月28日(先天2年8月3日))は、范陽(河北省涿州市)の盧氏出身の禅僧で、中国禅宗(南宗)の第六祖である。
生い立ち
本貫は范陽だが、父親が嶺南の新州(広東省新興県)に流されたので、その地で生まれ育つ。父が早くに亡くなり、薪を売って母親を養っていた。ある日、町で『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞いて出家を思い立ち、東山の五祖弘忍の下に参じたが、文字が読めないため、行者(あんじゃ)として寺の米つきに従事した。
その後、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、兄弟子の印宗より具足戒を受けて正式な僧侶となり、曹渓宝林寺に移って布教を続け、兄弟子の神秀より朝廷に推挙されるも病と称して断り、以後713年に亡くなるまで布教を続けた。
伝説
壁に書かれた詩について
- 慧能が弘忍の跡継ぎとして認められた時、次のような伝説がある。弘忍は悟りの心境をうまく詩に表せた者を後継者と認めようといい、当初、弘忍門下筆頭だった神秀が壁に偈を書いたが、弘忍は認めず、それを聞いた慧能が神秀の詩を否定するような詩を書き、それを弘忍が認めたので六祖となったという。
- 神秀の詩
身是菩提樹 心如明鏡臺 (身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し)
時時勤佛拭 莫使有塵埃 (時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ)
- 慧能の詩
菩提本無樹, 明鏡亦非臺;
- 慧能の詩(多版本)
菩提本無樹 明鏡亦無臺 (菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い)
佛性常清淨 何處有塵埃 (仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)
心是菩提樹 身為明鏡臺 (心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)
明鏡本清淨 何處染塵埃 (明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか)
死後
死去後、彼の遺体は即身仏(ミイラ)として塔に安置されたが、ある時叫び声がするので、寺の僧たちが見にいった所、慧能の首を持ち去った男がいたので、捕まえた所、新羅僧に頼まれたと言い、地元政府は極刑にしようとしたが、寺が信仰心からの犯行との事で許したため、無罪にしたという。大韓民国には、この時に盗まれた慧能の首と言われるものが現存するという。 現在、慧能のものとされるミイラは広東省韶関市郊外の南華寺に祀られている。科学的な調査によって唐代中期に作成されたものと推定され、中国に現存するミイラとしては最古のものと言われる。衣服を含めて漆で塗り固められているため、外見からミイラの状態を確かめることはできない。文化大革命時代、紅衛兵に一部を破壊された。後に修復する際、頭骨を含めた骨格と補強の鉄材を確認することができたという。
思想
慧能は「本来正教無有頓漸(正しい教えに本来は頓も漸もない)」と説いたことは、法話集である『六祖壇経』から明らかであるが、荷沢神会を始めとした鼓吹派が、神秀の漸修禅(北宗)に対して頓悟禅(南宗)を説き、それが新興士大夫階級に受け入れられて爆発的に教線が拡大し、青原行思(石頭宗)、南嶽懐譲(洪州宗)、南陽慧忠などの優れた弟子を持ち、後の五家七宗全てがその一門から出た。
語録
弟子
伝記
參考資料
師:弘忍 | 禅宗 | 弟子:荷沢神会、青原行思、南嶽懐譲、南陽慧忠 |