シュリーヴィジャヤ王国

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シュリーヴィジャヤ王国の勢力圏

シュリーヴィジャヤ王国(シュリーヴィジャヤおうこく、Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)はインドネシアマレー半島フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島マレー海上交易国家漢文では「室利仏逝」と音訳表記される。王国の起源ははっきりしないが、7世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置をしめるようになった。

概要

シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの港市国家をしたがえる交易帝国であり、東はスマトラ島のパレンバン、西はマレー半島西岸のクダないし北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていた。この海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、中国インドともさかんに通商をおこなった。旅行者の記録ではスマトラの沿岸部では金貨が流通していたが、内陸部には及んでいなかったとしている。

タイ南部スラーターニー県チャイヤーがシュリーヴィジャヤの一時的な首都だったのではないかと主張する歴史家もいる[1]が、これには多くの異論もある。ただし、チャイヤーが王国の地域的な中心のひとつであった可能性は高く、チャイヤーのボーロマタート寺院にはシュリーヴィジャヤ様式で再建されたパゴダがある。

1920年代フランス人歴史学者テンプレート:仮リンクが、『新唐書』に漢文で「室利仏逝」と記される国が、古代ムラユ語(古マレー語)碑文にいうシュリーヴィジャヤ(Sribhoja)ではないかと指摘したことにより、諸資料が再検討に供され、研究が進展した。漢籍には、「室利仏逝」は670年代に出現し、741年までに朝貢する国として登場し、碑文の古代ムラユ語の表記には、南インド系のパッラパ文字が用いられている。碑文は10点ほど残り、王国はしばしば「カダトゥアン」[2]と呼ばれる。

歴史

マラッカ海峡周辺の地域に外側から最初に強い文化的影響を与えたのはインドを起源とするシヴァ信仰(のちのヒンドゥー教)であり、また、スマトラには仏教425年頃までには伝来している。

西暦500年頃、シュリーヴィジャヤ王国の起源となる勢力が現在のパレンバン周辺で発展したものと考えられ、600年頃の中国の記録では、ジャワ島の3つの王国と同じようにジャンビとパレンバンを本拠としたスマトラの2つの王国についてふれている。

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シュリーヴィジャヤ・マレー様式の黄金製の仏像。ジャンビ(インドネシア)
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チャイヤー(タイ)のワットプラケオ

7世紀にはの僧、義浄がインドへの旅の途次、この地に長期間滞在し、記録をのこした。彼の記録は7世紀後半のシュリーヴィジャヤについての貴重な資料のひとつとなっている(詳細後述)。7世紀から9世紀にかけて、シュリーヴィジャヤは貿易や征服を通じて地方の支配を始め、テンプレート:仮リンクを乗っ取った。王国の伸張は、マレー文化がスマトラ島やマレー半島、ボルネオ島西部などの各地にひろがるのを助けた。

南インドの文字で記された碑文資料は、パレンバン、バンカ島、ジャンビ、スマトラ南端のパラス・パセマなどから出土しており、いずれも7世紀後半のものである。これらの碑文から、当時のシュリーヴィジャヤでは大乗仏教がおこなわれていたこと、兵2万人の動員が可能であったこと、スリ・ジャヤナーシュという王が「幸ある園」を建設したことなどが知られる。

「室利仏逝」の記録は、741年の朝貢を最後に姿を消している。マレー半島中部のナコンシータマラートタイ王国ムアンナコーンシータンマラート郡)で発見された、775年サンスクリット語の碑文には、ヴィシュヌという名の「シャイレーンドラ王家のシュリーヴィジャヤ王」が3寺院を建立したと記されていることから、この時期、シュリーヴィジャヤ王国がシャイレーンドラ王家に支配されるようになったということがうかがわれる。また、741年の最後の遣使ののち、インドネシアの地域から中国へ遣使をしたのはジャワ島の「訶陵」という勢力であった。この「訶陵」からの中国への遣使は670年にいったん中断し、768年に再開されているところから、シュリーヴィジャヤ王国は8世紀後半より訶陵(シャイレーンドラ朝)の影響下にあったと考えられ、この状態は9世紀後半までつづく。碑文の存在は、ジャワの勢力がスマトラのみならずマレー半島にもおよんでいることを物語る。その後、都は北西方のジャンビにうつり、中国史料では「三仏斉」と称される勢力がマラッカ海峡をのぞむ地域一帯に出現し、10世紀初頭以降、中国へ使節を派遣している。

こののち、ジャワ島のクディリ朝ダルマヴァンシャ王は、シュリーヴィジャヤの交易独占を阻止しようと、992年からマレー、スマトラ各地に侵攻した。しかし、1016年に地方領主の1人であったウラウリ王の反乱によって、ダルマヴァンシャが殺害された。その背後に、シュリーヴィジャヤの力が働いていたのではという説がある。

1025年に南インドを支配していたチョーラ朝ラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けて衰退した。スマトラ島はジャワのシンガサリ朝、続いてマジャパヒト王国からの征服にさらされた。同時期、アラブインドの商人との接触を通じて広まったイスラム教徒がスマトラ島の地方にアチェ王国を建国した。13世紀の後半までに、サムドラ王国の君主はイスラム教徒に改宗した。同じ頃シュリーヴィジャヤ王国はクメール王朝の、後にスコータイ王朝の属国になった。

1414年までにシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子テンプレート:仮リンクがイスラム教に改宗し、マレー半島のマラッカスルタン制が始まった。マラッカ王国1511年8月24日ポルトガルによって征服された。

義浄の記録

テンプレート:インドネシアの歴史 東アジアに説一切有部系の経典類をもたらした唐の高僧義浄は、インドへの旅の往復に、シュリーヴィジャヤに長期間滞在した。

往路は、671年広州から出航し、20日たらずで室利仏逝に到着し、半年間そこでサンスクリット音韻論を学んでいる。その後、摩羅遊(ムラユ、現在のパレンバンと考えられている)に2か月滞在し、羯荼(クダ)を経由してインドに向かった。

復路は、687年にクダ経由でパレンバンに到着したが、このときパレンバンは室利仏逝の都となっていた。パレンバンで見つかったテンプレート:仮リンクには、682年にシュリーヴィジャヤの王が遠征に成功し、町を建てたことが記されている。したがって、シュリーヴィジャヤはそれ以前、広州からパレンバンのあいだのどこかに王宮があり、摩羅遊を征服したのち、そこに都を遷したものだと考えられる。義浄は、695年までその地にあって、仏典の漢訳にたずさわったほか、『テンプレート:仮リンク』と『テンプレート:仮リンク』を著した。

義浄は、当時の摩羅遊が僧侶1,000人あまりを擁し、法式も整備され、インドのナーランダー僧院に匹敵するほどの大乗仏教教学の中心地であったと記している。

脚注

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  1. 鈴木峻『シュリヴィジャヤの謎』(2008)など。
  2. ムラユ語で「王国」「王宮」「王都」の意である。

関連項目

出典

関連文献

外部リンク