ピョートル・チャイコフスキー
テンプレート:Redirect テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Portal クラシック音楽 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(テンプレート:Lang-ru-short [ˈpʲɵtr ɪlʲˈjitɕ tɕɪjˈkofskʲɪj]Ru-Pyotr Ilyich Tchaikovsky.ogg 発音を聞く </span>;ラテン文字表記の例:PyotrあるいはPeter Ilyich Tchaikovsky、1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))は、ロシアの作曲家。
目次
概略
叙情的で流麗・メランコリックな旋律や、絢爛豪華なオーケストレーションなどの要因で人気の作曲家となっている。またリズムの天才と言われ、一つのフレーズを発展の連結にしたり、半音階上昇させたり、または下降させたりと他の作曲家には見られないものがある。曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚な表情が見られる。
作品は多岐にわたるが、とりわけ後期の交響曲・バレエ音楽・協奏曲などが愛好されている。
チャイコフスキーの繊細な心はあらゆる弱いものに向けられた。孤児や可哀想な動植物、同性愛などへも、彼らに理解を寄せて共に時間を過ごす事もあった[1][2]。 しかし、その弱いものへの深い愛情と共感について日記や手紙において熱烈な表現を使ったために、様々な憶測を呼んだ。その手紙により、彼が晩年に男性への愛情を注いだに違いないと推測された人物は、実際のところ聾唖(ろうあ)の障害がある少年であった。
略歴
- 1840年、ウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師の次男として生まれる。チャイコフスキーとは祖父ピョートル・フョードロヴィチの代にチャイカ(Чайка; 伝統的なウクライナの苗字で、カモメを意味する)から改めた姓であり、家系は現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウクライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ[3]。幼少のころから音楽的才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、10歳でサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学させた。
- 1854年、コレラに罹患した母親が40歳の若さで亡くなり、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた。
- 1859年、法務省に勤務する。
- 1861年、アントン・ルビンシテインが設立した音楽学校に入学。
- 1863年、法務省の職を辞して音楽に専念。
- 1866年、交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の初演、初のオペラ『地方長官』を完成。同年、アントン・ルビンシテインの弟、ニコライが創設したモスクワ音楽院に講師として招かれる。
- 1868年、オペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ち、毎晩、彼女の元へ通うようになる。この事が誰の目にも明らかになり、自分の父親に結婚したい旨を手紙で書き送る。婚約にまで至るが翌年破局。
- 1875年、ピアノ協奏曲第1番(作品23)を作曲。初演を依頼したニコライ・ルビンシテインの酷評を受け、ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送る。ビューローによる初演は大成功し、ヨーロッパの各都市で演奏された。ニコライはチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになった。
- 1876年、富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メックから資金援助を申し出られる。チャイコフスキーとの間には頻繁に手紙が交わされたが、2人が会うことは一度もないまま、この交際は14年間にわたってつづいた。このころ作曲された交響曲第4番(作品36)はフォン・メック夫人に捧げられた。またトルストイとも知り合う。
- 1877年、アントニナ・イワノヴナと結婚。この結婚は失敗し、チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。バレエ『白鳥の湖』完成、オペラ『エフゲニー・オネーギン』完成。
- 1878年から約10年間、ヨーロッパ周辺を転々とし、大作から遠ざかる。『弦楽セレナード』(作品48)、大序曲『1812年』(作品49)が書かれる。
- 1881年、友人ニコライ・ルビンシテインの死。彼の死を悼んでピアノ三重奏曲(作品50)の作曲を着手する。翌年完成し、ニコライの一周忌に初演。原稿には"A la mémoire d'un grand artiste"(ある偉大な芸術家の思い出のために)と書かれていた。
- 1885年、マンフレッド交響曲完成。
- 1888年、交響曲第5番(作品64)完成。バレエ『眠れる森の美女』(作品66)完成。この年と翌1889年はヨーロッパ各地で自作の演奏も行う。この際ライプツィヒで、かつての恋人デジレ・アルトーと旧交を温める。
- 1890年、フォン・メック夫人から財政援助を打ち切られる。
- 1891年、バレエ『くるみ割り人形』(作品71)作曲。アメリカに旅行、カーネギー・ホールのこけら落としに出演。
- 1893年、交響曲第6番『悲愴』(作品74)初演。それから9日後の11月6日に急死。死因には諸説があるが、後述するように現在ではコレラ及び肺水腫によるものとされている。
死因について
急死の原因は主にコレラによるとする説(発病の原因として、観劇後の会食時にイタリアン・レストランで周りが止めるのを聞かずに生水を飲んだことが理由とされる)が死の直後からの定説である。なお直接的な死因は、死の前夜10時頃に併発した肺水腫であることが分かっている[4]。
1978年にソ連の音楽学者アレクサンドラ・オルロヴァは、チャイコフスキーは貴族の甥と男色関係を結んだため、この貴族が皇帝アレクサンドル3世に訴えられ、秘密法廷(チャイコフスキーの法律学校時代の同窓生の、高名な裁判官、弁護士、法律学者等が列席)なるものが開かれ、そこでチャイコフスキーの名誉を慮って砒素服毒による自殺が決定・強要されたという説を唱えた。実際チャイコフスキーの死の直後にもこのような説を唱える者がいたという。
しかしこの説は、研究家であるアレクサンドル・ポズナンスキーの1988年の論文を皮切りに、チャイコフスキーを診た医者のカルテなど、残されている資料を調査した結果、やはりコレラ及びその余病である尿毒症、肺気腫による心臓衰弱が死因であるという反論が出され(例えばオルロヴァは埋葬式時に安置されたチャイコフスキーの遺体にキスをした者がいた[注 1]という証言を持ち出して「消毒をしなければコレラ患者の遺体にありえないことだ」と主張したが、チャイコフスキーの遺体は安置される前に消毒されていた記録が残っている)、現在ではやはりコレラによる病死だったという説が定説となった。なおチャイコフスキー自身、発病当日にはオデッサ歌劇場の指揮を引き受ける手紙も書いている。
ポズナンスキーは緻密な検証を行った末、結局陰謀死説なるものが「21世紀の今となっては、歴史のエピソードに過ぎない」ことであり「まったく根拠のない作り話」であると結論付けている[注 2]。
作品評価の変遷
チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は、現在でこそ冒頭の部分などだれでも聞いたことのあるほどポピュラーだが、作曲された際にはニコライ・ルビンシテインによって「演奏不可能」とレッテルを貼られ、初演さえおぼつかない状態にあった(しかし、後にルビンシテインはこの曲をレパートリーとするに至った)。
ピアノ協奏曲同様、現在では非常に有名なヴァイオリン協奏曲の場合も、名ヴァイオリニストのレオポルト・アウアーに打診するも、「演奏不可能」と初演を拒絶されてしまった。そのためこの曲はアドルフ・ブロツキーのヴァイオリン、ハンス・リヒター指揮によって初演された。しかし聴衆の反応は芳しくなく、評論家のエドゥアルト・ハンスリックからは「悪臭を放つ音楽」と酷評された。しかしこの作品の真価を確信していたブロツキーは各地でヴァイオリン協奏曲を演奏し次第に世評を得るようになったという。その後アウアーもこの曲を評価し自身のレパートリーにも取り上げるようになった。
最後の交響曲である交響曲第6番『悲愴』も、初演時の聴衆の反応は好ましいものでなかったとされる。不評の理由は作品のもつ虚無感と不吉な終結によるものと思われる。しかし、世評を気にしがちなチャイコフスキーも『悲愴』だけは初演の不評にもかかわらず「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と周囲に語るほどの自信作だったようだ。
チャイコフスキーのバレエ作品としてのみならずバレエの演目の代表として知られる『白鳥の湖』も1877年のボリショイ劇場での初演は失敗に終わり、たいへん意気消沈した彼は再演を拒否するほどであった。しかし不評の原因は振り付けや演奏などの悪さによるものであり、死後2年後にマリウス・プティパらが遺稿からこの作品を発掘し、振り付けなどを変えて蘇演した。この公演はたいへんな人気を博し、以降もたくさんの振付師が、独自の作品解釈でこの作品の振り付けと演出に挑戦している。現代では『白鳥の湖』はもっとも有名なバレエの演目のひとつであると同時に、多くの舞踏家振付師の関心をひく端倪すべからざる作品となっている。
なお数は多くないが、正教会聖歌も作曲している(『聖金口イオアン聖体礼儀』など)。これはロシア正教会の事前の許可を得ずに作曲されたものであったため、一時は教会を巻き込んだ訴訟沙汰にもなった。現在ではロシア正教会・ウクライナ正教会・日本正教会などで歌われている。
また、後のロシアの著名な作曲家による批評であるが、ストラヴィンスキーやプロコフィエフは作曲家としてのチャイコフスキーを高く評価する一方、ショスタコーヴィチは全く評価しなかったとの証言がある[5]。
なお、宗教及びロシア帝国を否定した旧ソ連時代には、出版や演奏においてチャイコフスキーの宗教的および愛国的な作品のタイトルが改竄されたり(『戴冠式祝典行進曲』→『祝典行進曲』など)、ロシア帝国国歌の引用が削除される(『序曲「1812年」』。グリンカ作曲の歌劇『イワン・スサーニン(皇帝に捧げし命)』の終曲に差換え)などした。これらはソ連崩壊後に原典版に戻された。
代表的な作品
- Op11 弦楽四重奏曲第1番ニ長調
- Op20 バレエ音楽「白鳥の湖」
- Op23 ピアノ協奏曲第1番変ロ短調
- Op31 スラヴ行進曲
- Op33 ロココの主題による変奏曲イ長調
- Op35 ヴァイオリン協奏曲ニ長調
- Op36 交響曲第4番ヘ短調
- Op37b 「四季」-12の性格的小品
- Op42 「なつかしい土地の思い出」
- Op48 弦楽セレナーデ ハ長調
- Op49 大序曲「1812年」
- Op50 ピアノ三重奏曲「ある偉大な芸術家の思い出のために」
- Op58 マンフレッド交響曲
- Op64 交響曲第5番ホ短調
- Op66 バレエ音楽「眠れる森の美女」
- Op71 バレエ音楽「くるみ割り人形」
- Op74 交響曲第6番ロ短調「悲愴」
- 幻想序曲「ロメオとジュリエット」
7曲の交響曲(標題交響曲「マンフレッド」を含む)のほか、多数のオペラや声楽曲等を残す。
一番有名なのはバレエ音楽で、「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」の3曲はチャイコフスキーの三大バレエ(人気のうえでは、すべてのバレエの中の三大バレエでもある)として、その旋律は世界中で知られている。上演の頻度が高いだけではなく、組曲やハイライト、単独曲の形で演奏会で取り上げられるケースも多く、全曲盤を含めた録音も数多い。
その他、室内楽などにも秀逸な作品を残している。芳醇な和声感覚は他の追随を許さず、当時ロシアの大作曲家であったアントン・ルビンシテインの才能ですら凌駕した、早熟な才能であったテンプレート:要出典。
欧米において「くるみ割り人形」はクラシック音楽の年末(クリスマス期)の定番(日本における「第九」のような位置付け)になっており、年末になると頻繁に上演される。
作品リスト(楽曲の種類による分類)
歌劇
- 「ヒュペルボラ」(1854)(作曲者により放棄)
- 「ヴォエヴォーダ(地方長官)」 作品3 (1867-68)(作曲者により破棄され断片のみ現存)
- 「オンディーヌ」(1869)
- 「マンドラゴラ」(1870)(未完)
- 「オプリチニク」 (1870-73)
- 「鍛冶屋のヴァクーラ」 作品14 (1874)(改訂され「チェレヴィチキ」へと改題)
- 「エフゲニー・オネーギン」 作品24 (1878)
- 「オルレアンの少女」 (1879、82)
- 「マゼッパ」 (1881-83)
- 「チェレヴィチキ」 (1885)(「鍛冶屋のヴァクーラ」の改作)
- 「チャロデイカ」 (1885-87)
- 「テンプレート:仮リンク」 作品68 (1890)
- 「イオランタ」 作品69 (1891)
交響曲
- 交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」(1866,1874)
- 交響曲第2番ハ短調作品17「小ロシア」(1872,1879)
- 交響曲第3番ニ長調作品29「ポーランド」(1875)
- 交響曲第4番ヘ短調作品36(1877-78)
- マンフレッド交響曲作品58 (1885)
- 交響曲 第5番ホ短調作品64(1888)
- 交響曲 第6番ロ短調作品74「悲愴(Pathétique)」 (1893)
- 〈後世の補筆版〉交響曲第7番変ホ長調、または「未完成交響曲『ジーズニ』」
- チャイコフスキーは『人生』と銘打った交響曲を作曲し始めたが、それを途中で破棄した。後、この草稿をピアノ協奏曲に編曲しようとしたが、第1楽章だけしか完成をみなかった。これがピアノ協奏曲第3番変ホ長調作品75である。1950年代に、ロシアの作曲家セミヨン・ボガティレフがピアノ協奏曲第3番およびその他の素材を補筆・再構成して4楽章の交響曲に編集し直したものが「交響曲第7番変ホ長調」と呼ばれている。さらに、2005年にロシアの作曲家ピョートル・クリモフが再び同様の試みを行い、3楽章の交響曲として公表した。日本ではこのクリモフ版を「チャイコフスキーの未完成交響曲『ジーズニ』」と呼び、日本初演と録音が行われている。
協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)
- ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23 (1874-75)
- ピアノ協奏曲第2番ト長調 作品44 (1879-80)
- ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 作品75 (1893)
- ピアノと管弦楽のための協奏的幻想曲ト長調 作品56 (1884)
- ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35 (1878)
- ロココの主題による変奏曲(チェロと管弦楽のための) イ長調 作品33 (1877)
- 憂鬱なセレナード(ヴァイオリンと管弦楽のための) 作品26 (1875)
- テンプレート:仮リンク(チェロと管弦楽のための) 作品62 (1887)
バレエ音楽
劇付随音楽
- 「ボリス・ゴドゥノフ」(1863-64頃)
- 「大混乱」(1867)
- 「僭称者ドミトリーとヴァシリー・シュイスキー」(1880)
- 「セビリャの理髪師」(1872)
- 「雪娘」 作品12 (1873)
- 「モンテネグロ」(1880)
- 「ヴォイェヴォーダ」(1886)
- 「ハムレット」 作品67b (1891)
- 「妖精」
その他の管弦楽曲
- 交響的バラード「地方長官」作品78 (1890-91)
- 組曲第1番 ニ短調 作品43 (1878-79) (6曲)
- 組曲第2番 ハ長調 作品53 (1883) (5曲)
- 組曲第3番 ト長調 作品55 (1884) (4曲)
- 組曲(第4番)ト長調「モーツァルティアーナ (Mozartiana)」作品61 (1887) (4曲)
- 組曲 「くるみ割り人形」 作品71a (1892)
- 幻想序曲「ロメオとジュリエット」(1869,70,80)
- 幻想序曲「ハムレット」 作品67a (1888)
- 幻想序曲「テンペスト」 作品18 (1873)
- 幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」 作品32 (1876)
- 幻想曲「テンプレート:仮リンク」 作品77 (1868)
- 序曲「テンプレート:仮リンク」 作品76 (1864)
- デンマーク国歌による祝典序曲 作品15 (1866)
- 序曲「1812年」 作品49 (1880)
- 弦楽セレナーデ ハ長調 作品48(1880)
- ニコライ・ルビンシテインの誕生日のためのセレナード(1872)
- イタリア奇想曲 作品45 (1880)
- スラヴ行進曲 作品31 (1876)
- 戴冠式祝典行進曲 (1883)
- 法律学生行進曲 (1885)
室内楽曲
- 弦楽六重奏曲ニ短調 作品70「フィレンツェの想い出(Souvenir de Florence)(1887-92)
- 弦楽四重奏曲変ロ長調 (1865)(第1楽章のみ)
- 弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11(1871)
- 弦楽四重奏曲第2番ヘ長調 作品22(1874)
- 弦楽四重奏曲第3番変ホ短調 作品30(1876)
- ピアノ三重奏曲イ短調 作品50「ある偉大な芸術家の思い出のために」(1882)
- なつかしい土地の思い出(ヴァイオリンとピアノのための) 作品42 (1878)
ピアノ曲
- ピアノソナタ 嬰ハ短調 作品80 (1865) - 4楽章構成
- 「ハープサルの想い出」作品2 - 1.城跡(1867)・2.スケルツォ(1863,1864)・3.無言歌(1867)
- 50のロシア民謡 (1868-69) - 民謡を4手連弾のために編曲した作品。
- 6つの小品 作品19 (1873)
- 同一主題による6つの小品 作品21 (1873)
- 四季(12の性格的描写)-作品37bis (1875-76) - 雑誌の企画で詩とともに毎月載せられた、それぞれの月に由来する12の小品からなる
- 1月-炉端にて 2月-謝肉祭 3月-ひばりの歌 4月-待雪草 5月-五月の夜 6月-舟歌 7月-刈り入れの歌 8月-収穫の歌 9月-狩りの歌 10月-秋の歌 11月-トロイカ 12月-クリスマス
- 中級程度の12の小品 作品39 (1876-78)
- ピアノソナタ ト長調 作品37 「グランドソナタ」 (1878) - 4楽章構成
- 子どものアルバム(24の易しい小品)作品39 (1878)
- 6つの小品 作品51 (1882) - 4曲目「ナタ・ワルツ」、6曲目「感傷的なワルツ」
- 「ドゥムカ」ハ短調 作品59 (1886) - 「ロシアの農村風景」という副題を持つ
- 18の小品 作品72 (1893)
合唱曲
- オラトリオ(1863-64頃)
- カンタータ「歓喜に寄せる」(1865)
- ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調の第4楽章と同じくシラーの詩のロシア語訳による。
- 「花と昆虫の合唱」(1869)
- 「ピョートル大帝生誕200周年記念カンタータ」(1872)
- 「ペトロフの舞台生活50周年祝賀カンタータ」 (1875)
- カンタータ「モスクワ」(1883)
歌曲
- 6つの歌 作品6 (1869) - 6曲目「ただあこがれを知る者だけが」
- 「ロメオとジュリエット」 (1893) - 未完の二重唱曲。同名の幻想序曲より素材を転用。
正教会聖歌
- 聖金口イオアン聖体礼儀 作品41 (1878)
- 晩祷 作品52 (1882)
- 9つの宗教音楽作品 (1884-85)
著書
- 和声実習入門 (Руководство к практическому изучению гармоний、Guide to the Practical Study of Harmony 1871年) - モスクワ音楽院講師時代に書かれた和声教科書。
日本語訳書
- 楽聖書簡叢書 第2編 チャイコーフスキイの手紙 (森本覚丹訳 音楽世界社 1936年)
- 一音楽家の想ひ出 (堀内明訳 角川文庫 1950年)
- 一音楽家の思い出 (渡辺護訳 音楽之友社(音楽文庫) 1952年)
- 愛の書簡 (ナデイダ・フィラレトウナ(フォン・メック夫人)共著 服部竜太郎訳編 音楽之友社(音楽新書) 1962年)
チャイコフスキー国際コンクール
チャイコフスキーの偉業を記念し、ロシアでは4年おきにチャイコフスキー国際コンクールが開かれている。同コンクールは世界的な権威を誇り、世界3大コンクールのひとつとして数えられている。
メディア
テンプレート:Multi-listen start テンプレート:Multi-listen item
関連書籍
チャイコフスキーを題材とした作品
- 映画『チャイコフスキー』(イーゴリ・タランキン監督、ソ連、1970年)
- 映画『テンプレート:仮リンク』(ケン・ラッセル監督、イギリス、1970年)
備考
注釈
- ↑ なお正教会の埋葬式においては、遺体や遺体の額に巻かれているイコンに接吻する事は一般的な習慣で、特別な事例ではない。
- ↑ Wikipedia 英語版「チャイコフスキーの死」の項目 では、これほど断定的には述べていない。チャイコフスキーの死にはさまざまな説が唱えられているが、いずれも決定的な証拠はないとしている。
脚注
- ↑ テンプレート:Citation
- ↑ テンプレート:Citation
- ↑ Чайковский - Словарь Русских фамилий テンプレート:Ru icon
- ↑ 伊藤恵子著『チャイコフスキー』2005年刊
- ↑ ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ著、クロード・サミュエル編、田中淳一訳「ロシア・音楽・自由」みすず書房、1987年、89頁
- ↑ テンプレート:Cite web
外部リンク
- テンプレート:IMSLP
- Classic Cat - Tchaikovsky mp3s
- Tchaikov.Ruテンプレート:Ru iconチャイコフスキーの書簡その他、有用な資料を掲載。
- チャイコフスキーの音楽