教皇領
教皇領(きょうこうりょう、ラテン語:Civitas Ecclesiae, イタリア語:Stato Pontificio または Stato della Chiesa)は、歴史用語で、ローマ教皇あるいはローマ教皇庁の支配していた領土である。最終的には国家としての体裁を持ったため、教皇国、教皇国家とも呼ばれる。
起源と成立
西ローマ帝国滅亡後、都市やその領土等のローマ教皇への寄進によって教皇のものとなっていた領地というものは存在したが、後に教皇領となった地域は古代末期から中世初期には東ゴート王国、それを滅ぼした東ローマ帝国のラヴェンナ総督府(en:Exarchate_of_Ravenna)、ついで6世紀にイタリアに侵入して東ローマ領を侵食したランゴバルド人のランゴバルド王国などが支配していた。
本格的に教皇領が世俗の国家のように成立するのは、8世紀にフランク王国の国王ピピン3世(小ピピン)がランゴバルド王国から奪ったイタリアの領土を寄進してからである。カトリック教会の中心であるローマ教皇庁が領土をもったことは、精神的な存在であるはずの教会の世俗化につながった。
962年にオットー1世(大帝)がローマで戴冠する際、教皇領を保障したが、その後、神聖ローマ皇帝やシチリア王がしばしばイタリア支配を目指して教皇領に侵攻することがあった。1254年に教皇の意を受けたフランス王ルイ9世の弟、シャルル・ダンジュー(カルロ1世)が神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝を滅亡させると、それ以降は教皇領は安泰となった。しかし、教皇のアヴィニョン捕囚(1309年 - 1377年)が起こると、教皇による教皇領への支配が弱まり、各地を支配する代官が僭主(シニョリーア)として独立君主のように振舞うようになった。
教皇アレクサンデル6世(1492年 - 1503年)は、庶子チェーザレ・ボルジアを用いて教皇領の再統一を進め、ユリウス2世(1503年 - 1513年)の時代以降、フランスやスペイン、オーストリアの圧力を受けながらも、教皇領は国家としての機能を持つようになった。教皇領は17世紀に最大となったが、ヨーロッパに対する教皇権力は衰微した。
フランス革命およびナポレオン時代
フランス革命は、カトリック教会全般にとってと同様、教皇座の現世の領域にとって悲惨な状況をもたらした。1791年に、コンタ・ヴネサンおよびアヴィニョンがフランスによって併合された。その後1796年、ナポレオン1世を司令官とするフランス軍のイタリア侵略により、教皇領公国は併呑され、チザルピーナ共和国の一部となった。2年後の1798年、教皇領全体がローマ共和国の樹立を宣言したフランス軍によって侵略された。教皇ピウス6世は1799年にフランスで幽閉中に没した。教皇領は1800年6月に復活し、教皇ピウス7世が戻ったが、1808年に再度フランスが侵略し、この時には教皇領の残りがフランス領に併合され、ティブル県およびトラジメーヌ県とされた。
1814年にナポレオン体制が倒れたことにより、教皇領はウィーン会議で復活した。
国民国家イタリアの勃興と教皇領の終焉
近代国家誕生の激動の中、教皇領はイタリア統一運動(リソルジメント)により縮小させられ、1870年に起こった普仏戦争にフランスが敗北したことにより、ローマ教皇領を守護していたフランス軍が撤退すると、1861年に成立していたイタリア王国によってローマが占領され、教皇領は完全に消滅した。
以降、教皇は数代にわたって自らを「バチカンの囚人」と呼び、イタリア政府との交渉を拒否した。しかし、ピウス11世の時代にイタリア政府とバチカンの間での和解が模索され、ラテラノ条約によってその実を結んだ。
1929年のラテラノ条約によって成立した世界最小の独立国バチカン市国は、教皇庁がイタリアから独立していることを示す象徴的なものであり、教皇領という意味合いのものではない。
関連項目
- バチカン市国 (世界遺産)
- バチカン
- カステル・ガンドルフォ - 別荘ガンドルフォ城がある。
- サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂 - ローマ市にある。