シチリア王国

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 過去の国 シチリア王国(シチリアおうこく、テンプレート:Lang-la-short, テンプレート:Lang-it-short)は、中世から近世にかけて、シチリア島イタリア半島南部を支配した王国。現在は、その領域はほぼイタリア共和国領の一部となっている。

歴史

ノルマン・シチリア王国の成立

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11世紀の半ば、フランスノルマンディー地方から兄弟と共にイタリアにやってきたノルマン人の騎士ロベルト・イル・グイスカルド東ローマ帝国領だった南イタリア占領した。1071年、弟のルッジェーロ1世はシチリア全島を占領した。この功によりルッジェーロ1世はロベルトからシチリア伯位を与えられた。

1130年、ルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世対立教皇アナクレトゥス2世から王位を得てオートヴィル朝(俗に言うノルマン朝)シチリア王国が成立した。

1189年、シチリア王グリエルモ2世が後継者なく死去し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世妃である伯母コスタンツァと、伯父の庶子であるレッチェ伯タンクレーディが王位を争ったが、外国の支配を嫌う諸侯の支持を得てタンクレーディが王位についた。しかし1194年のタンクレーディの死後、幼少の息子グリエルモ3世が王位につくが、侵攻してきたハインリヒ6世にパレルモを制圧され、オートヴィル朝は終焉を迎えた。

ホーエンシュタウフェン朝

コスタンツァオートヴィル家のルッジェーロ2世の娘であったため、シチリア王位はホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の手に渡ったが、1197年にハインリヒ6世は死去した。幼少のフェデリーコが王となり、コスタンツァは摂政となったが、彼女もまた翌年世を去った。

1220年、フェデリーコは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王としては1世)になったが、シチリア生まれのフェデリーコはドイツ王というよりシチリア王であり、ノルマン朝の後継者であった。フェデリーコはイタリア半島の支配に乗り出したため、ローマ教皇と激しく対立し、何度も破門を受け、対立王を立てられた。

フェデリーコの死後、シチリア王国は息子たちが後を継いだが、フランスルイ9世の弟でアンジュー=シチリア家の祖となるアンジュー伯シャルルが教皇の要請を受けて征服した。

ナポリ王国の成立とイベリア系王朝の支配

シャルルはカルロ1世としてシチリア王位に就いたが、シチリアの民衆には不評で、1282年シチリアの晩祷事件が発生し、シャルルはシチリア島を脱出した。シチリア島はバルセロナ家アラゴンペドロ3世が獲得し、シチリア王国はシチリア島の領土と半島側のナポリ王国とに分裂した。ペドロ3世の息子たちの間でアラゴンとシチリアの王位は分割相続された。

1302年、分裂状態の2国に「カルタベッロッタの和平」テンプレート:Enlinkが成立し、シチリア島側はトリナクリア王国を称するようになった。フェデリーコ2世はローマ教皇やナポリ王国によるシチリア併合の企てを阻止した。

1409年マルティーノ1世が後継者を残さずに没し、王位を継いだその父、アラゴン王マルティン1世1410年にやはり後継者を残さずに没した後、トラスタマラ家フェルナンド1世1412年にアラゴンとシチリアの王に選ばれるが、フェルナンドはシチリアには総督を置いた。その孫フェルナンド2世の時代にアラゴンとカスティーリャが連合してスペイン王国が事実上成立するが、フェルナンド2世はシチリアに加えて、すでにトラスタマラ家の支流が支配していたナポリ王国も再征服した。

その後、ハプスブルク家がスペインを治めた時代まで通じて、シチリアはスペインの支配下に置かれた。

スペイン継承戦争後

スペイン・ハプスブルク家が断絶した後、ブルボン家フェリペ5世がスペイン王に即位するが、1702年スペイン継承戦争が始まり、シチリア島の領有も争われた。

1713年ユトレヒト条約でシチリア島はサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世の手に渡り、サヴォイア家が王位を得た。しかし、1720年にはシチリア島とサルデーニャ島を交換、オーストリア・ハプスブルク家カール6世が獲得した。ナポリとシチリアはまたもや同じ支配者を持った。

ナポリ・シチリアのブルボン朝

ポーランド継承戦争の結果、1735年にフェリペ5世の息子パルマ公カルロがナポリ王カルロ7世およびシチリア王カルロ5世として即位した。カルロは1759年にスペイン王カルロス3世として即位する際、三男フェルディナンドにナポリとシチリアの王位を譲った。フェルディナンド3世は一時期ナポリ王国をナポレオン勢力に奪われ、シチリアに避難するが、それが戻るとナポリとシチリアの王位を統合し、ナポリを首都とする両シチリア王国を成立させ、両シチリア王フェルディナンド1世となった。これ以来シチリアに王宮は置かれていない。

経済

ノルマン朝のもと、他所からの移住者と領内の再定住者を使っての農業生産力の向上が進められた。 また王国の主な収入としてはナポリ、アマルフィといった海港都市からの輸出品が挙げられる。 主な輸出品は穀物であり、他には豆類、材木、オリーブ油、ベーコン、チーズ、皮革、獣皮、麻、服飾がある。 12世紀末までには南部のメッシーナのこれら開港都市としての発展も見られる。

王国の主な取引先にはジェノヴァ、ピサ、東ローマ帝国、エジプト王国があげられる。 中でもジェノヴァとの様々な協約は国の商業力の保証と強化に役立った。が、 アンジュー朝期に進展した封建制は逆に経済力の低下に繋がった。 またアンジュー朝はフィレンツェの銀行員ら北イタリアの経済と金融に依存したため、これもまた国の経済を悪化させた。 これら経済の失速とともに人口増加と都市化が進展した結果、農業力を発展させようというモチベーションは低減していくこととなった。

関連項目