1世紀
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千年紀: | 1千年紀 |
世紀: | 紀元前1世紀 - 1世紀 - 2世紀 |
10年紀: | 0年代 10年代 20年代 30年代 40年代 50年代 60年代 70年代 80年代 90年代 |
1世紀(いっせいき、いちせいき)は、西暦元年(1年)から西暦100年までの100年間を指す。1千年紀における最初の世紀でもある。
天文学以外では通常、西暦0年は存在せず、また0世紀もない。これは、ヨーロッパで西暦ができた6世紀の時点では、まだヨーロッパ人は零の概念を知らなかったためであると言われることもあるが、元年以前を表すために紀元前が導入されたのは零の概念が普及した後の17世紀のことである。
なお、天文学やISO 8601では、紀元1年の前年、すなわち紀元前1年を西暦0年と定めている。詳細は「紀元前1年」または「0年」を参照のこと。
できごと
- 紀元前後 - 倭は百余国に分かれており、その一部は前漢の楽浪郡に朝献をする(『漢書』地理志)。
- 8年 - 王莽により前漢滅亡。新が建てられる。
- 9年 - トイトブルクの戦いでローマがゲルマニア人に敗れる。
- 14年 - アウグストゥス死去。
- 18年 - 赤眉の乱(- 27年)
- 23年 - 王莽が死亡し、新が滅亡。
- 25年 - 劉秀(光武帝)が皇帝に即位する。後漢王朝の成立(- 220年)。
- 30年頃 - イエス、パレスティナで刑死。この頃、キリスト教が成立。
- 36年 - 後漢の光武帝、中国を統一する。
- 37年 - パルティアとローマが和睦する。
- 40年 - ベトナムで徴姉妹が後漢に対して反乱を起こす(- 43年)。ローマのブリタンニア支配が始まる。
- 57年 - 倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる。(後漢・建武中元2、丁巳;『後漢書』光武帝紀、同東夷伝)
- 62年 - エルサレムでキリスト教エルサレム教会の初代主教ヤコブが殉教。
- 64年 - ローマ大火。ネロがキリスト教を迫害。ペテロとパウロが殉教。
- 67年 - 伝承では初めて仏教が後漢に伝わり、洛陽に白馬寺が建てられる。
- 68年 - ネロ自殺。以降、4皇帝が乱立し内戦状態となる。フラウィウス朝の確立。
- 70年 - ユダヤ戦争でエルサレムが陥落する。
- 73年 - ローマ軍が包囲したマサダ要塞が陥落。
- 79年 - ヴェスヴィオ火山の噴火によりポンペイが埋没。
- 80年 - ローマにコロッセウムが完成。
- 85年ごろ - 鮮卑が北匈奴を破る。
- 90年代 - ヤムニヤ会議においてユダヤ教のヘブライ語聖書(タナハ)が確定される。
- 94年 - 後漢の班超が西域諸国を制圧。
- 96年 - 古代ローマで五賢帝時代始まる(- 180年)。
- 97年 - 甘英が班超により大秦国(ローマ帝国)へ派遣される。
- 1世紀末 - 弥生文化が東北地方に波及する。
発明
人物
古代ローマ・ギリシア
キリスト教関係
- ナザレのイエス(前4年頃 - 30年頃) - ローマ帝国属州ユダヤの宗教家。キリスト教では神(神の子)・救世主・預言者とされる。
- ペテロ(? - 67年頃) - 十二使徒の一人。初代のローマ教皇とされる。皇帝ネロの迫害により殉教したか。
- パウロ(? - 67年頃) - イエス没後の使徒。ローマ市民権を持ち、各地で異教徒に宣教する。皇帝ネロの迫害により殉教したか。
- ヨハネ(6年? - 100年頃) - 十二使徒の一人。『ヨハネによる福音書』あるいは『ヨハネの黙示録』の著者か。
- アンティオキアのイグナティオス(35年頃 - 110年) - アンティオキアの主教。ヨハネの弟子で使徒教父の一人。
- クレメンス1世(? - 101年?) - ローマ教皇(司教、在位91年? - 101年?)。ペテロの弟子で使徒教父の一人。
- シモン・マグス(生没年不詳) - 聖書の登場人物・「魔術師シモン」と呼ばれグノーシス主義の先駆とされる。
西アジア
インド
- ゴンドファルネス(生没年不詳) - インド・パルティア王国の初代国王(在位20年頃?)・サカ人などを平定・使徒トマスと関係があったか。
- クジュラ・カドフィセス(生没年不詳) - クシャーナ朝の初代国王(在位前25年頃 - 60年頃)・大月氏の支配から独立する。
- ヴィマ・タクト(生没年不詳) - クシャーナ朝の第2代国王(在位80年頃 - 90年頃)・西域の支配をめぐり後漢の班超と争う。
東アジア
- 呂母(? - 22年頃) - 前漢末から新の女性。冤罪で県役人に殺された息子の仇討ちで呂母の乱を起こし、動乱時代の幕開けとなる。
- 劉歆(? - 23年) - 前漢末から新の儒学者。『七略』などを編纂。王莽の王朝簒奪に協力し、国師となるが、やがて反目する。
- 王莽(前45年 - 23年) - 新の皇帝(在位8年 - 23年)。前漢を簒奪して新王朝を立てるが、更始帝の軍に殺害される。
- 王匡(? - 25年) - 新末後漢初に蜂起した緑林軍の創始者の一人。更始帝を担いで王莽の新王朝を攻め滅ぼす。
- 更始帝(? - 25年) - 新末後漢初の漢王室の皇族。緑林軍の支持で皇帝となる(在位23年 - 25年)。
- 樊崇(? - 27年) - 新末後漢初に蜂起した赤眉軍の指導者。長安の更始帝政権を攻め滅ぼす(赤眉の乱)。
- 劉盆子(10年 - ?) - 新末後漢初の漢王室の皇族。赤眉軍の支持で皇帝となる(在位25年 - 27年)。光武帝に降伏。
- 隗囂(? - 33年) - 新末後漢初の武将・政治家。王莽から光武帝まで独自の勢力を保持、後漢に背き困窮の中で死す。
- 馬援(前14年 - 49年) - 新末後漢初の武将。隗囂に仕えた後に光武帝に臣従し、統一に協力・ベトナム制圧でも功があった。
- 徴姉妹(徴側(? - 33年)、徴弐(? - 33年 )) - 後漢の支配下にあったベトナム(南越)の反乱指導者。馬援に制圧される。
- 光武帝(前6年 - 57年) - 後漢の初代皇帝(在位25年 - 57年)。王莽没後の混乱から漢王朝を復興。長安から洛陽に遷都。
- 鄧禹(2年 - 58年) - 後漢の武将。赤眉軍と戦った建国の功臣であり「雲台二十八将」の筆頭に位置づけられる。
- 費長房(生没年不明) - 後漢の方士・汝南の官吏であったが仙術を体得したと伝わる・「壺中天」の故事で有名。
- 王充(27年 - ?) - 後漢の文人・思想家。儒教に対する厳しい批判者。非合理を排し合理的な思考を追求した『論衡』を著す。
- 明帝(28年 - 75年) - 後漢の皇帝(在位57年 - 75年)。王朝の安定を背景に西域に勢力を拡大。この時期に仏教が伝来。
- 迦葉摩騰(生没年不明) - インド(中天竺)出身の仏教の僧侶。竺法蘭とともに渡来し、明帝時代に洛陽白馬寺を建立したか。
- 竇憲(? - 92年) - 後漢の政治家・軍人・外戚。匈奴の征伐以後は権力をほしいままにするが、和帝により自殺を命じられる。
- 班固(32年 - 92年) - 後漢の歴史家で『漢書』を編纂。文学者としては「両都賦」を作る。竇憲派とみなされ獄死。
- 班超(32年 - 102年) - 後漢の軍人。班固の弟で班昭の兄。西域都護として西域での後漢の勢力を広げた。
- 甘英(生没年不詳) - 後漢の使者。班超の命で大秦国(ローマ)に派遣されたが、途中の條支国(シリア)で断念する。
- 班昭(45年? - 117年?) - 後漢の女性作家。兄の班固が獄死した後に未完成だった『漢書』を完成させる。
10年紀と各年
0年代 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | |
10年代 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20年代 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
30年代 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 |
40年代 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 |
50年代 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 |
60年代 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 |
70年代 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 |
80年代 | 80 | 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89 |
90年代 | 90 | 91 | 92 | 93 | 94 | 95 | 96 | 97 | 98 | 99 |
100年代 | 100 | 101 | 102 | 103 | 104 | 105 | 106 | 107 | 108 | 109 |