紀元前1世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千年紀: | 紀元前1千年紀 |
世紀: | 紀元前2世紀 - 紀元前1世紀 - 1世紀 |
10年紀: | 紀元前90年代 紀元前80年代 紀元前70年代 紀元前60年代 紀元前50年代 紀元前40年代 紀元前30年代 紀元前20年代 紀元前10年代 紀元前0年代 |
紀元前1世紀(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)とは、紀元前を区分する世紀で紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す。
できごと
- 紀元前99年 - 前漢の李陵が匈奴に降伏する。
- 紀元前98年 - 前漢の武帝が泰山で封禅の儀を執行する。
- 紀元前91年 - 前漢で巫蠱の獄。
- 紀元前91年 - 古代ローマで同盟市戦争(- 紀元前88年)。
- 紀元前89年 - 前漢の武帝の「輪台の詔」。
- 紀元前88年 - 古代ローマでミトリダテス戦争(- 紀元前63年)。
- 紀元前82年 - ルキウス・コルネリウス・スッラがローマの終身独裁官に就任。
- 紀元前73年 - 古代ローマで剣闘士のスパルタクスが反乱を起こす(- 紀元前71年)。
- 紀元前63年 - 古代ローマのポンペイウスがセレウコス朝シリアを滅ぼし、ユダヤを平定する。
- 紀元前60年 - 古代ローマでカエサルが執政官に就任、ポンペイウス、クラッススと共に第一回三頭政治を開始。
- 紀元前58年 - カエサルがガリア戦争を開始(- 紀元前51年)。
- 紀元前54年 - 匈奴が東匈奴と西匈奴に分裂。
- 紀元前53年 - カルラエの戦いでパルティアがクラッススを破る。
- 紀元前52年 - 弥生時代の池上曽根遺跡から出土した神殿らしい高床式建物に使用されていた柱を年輪年代測定法で検査すると、この年の伐採ヒノキ材であることが判明した。
- 紀元前48年 - カエサルがファルサロスの戦いでポンペイウスを破る。古代ローマの主導権を得る。
- 紀元前47年 - クレオパトラ7世がエジプトの主権を握る。
- 紀元前46年 - ローマにおいて1年が445日存在する(翌年にローマ暦に代わってユリウス暦が導入されるための移行措置で、歴史上もっとも1年の日数(暦年)が多かった年とされている)。
- 紀元前44年 - 3月15日、 カエサルがブルートゥスらにより暗殺される。
- 紀元前43年 - アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスが第二回三頭政治を開始。
- 紀元前37年 - ヘロデ大王がユダヤ王となる(- 紀元前4年)
- 紀元前37年ごろ - 高句麗が成立する。
- 紀元前36年 - メソアメリカ最古とされる長期暦の日付がメキシコ・チアパス州、チャパ・デ・コルソの石碑2号に刻まれる。
- 紀元前33年 - 前漢の王昭君が匈奴の呼韓邪単于に嫁ぐ。
- 紀元前32年 - オルメカの祭祀センター、トレス=サポーテスの石碑Cの日付。
- 紀元前31年 - アクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合軍を破る。
- 紀元前30年 - プトレマイオス朝エジプトが滅び、ローマの属州となる。
- 紀元前27年 - 1月16日、オクタウィアヌスがローマ皇帝に就任、元老院からアウグストゥスの尊称を与えられる。この時を以て、古代ローマが共和政から帝政に移行したとされる(帝政ローマ)。
人物
共和政ローマから帝政ローマ
ヘレニズム国家と西アジア
- ポセイドニオス(前135年頃 - 前51年) - シリアのアパメア出身の地理学者・天文学者・アンティキティラ島の機械とも関係があったか
- ミトリダテス6世(前132年 - 前63年) - 小アジアのポントス王国国王(在位前120年 - 前63年)・共和政ローマと三度戦争を行う
- ミトラダテス2世(? - 前88年) - パルティア王(在位前123 - 前88年)・クテシフォンに遷都・最盛期を迎え「諸王の王」を名乗る
- アンティオコス13世(? - 前64年) - セレウコス朝シリア最後の王(在位前69年 - 前64年)・ポンペイウスに滅ぼされる
- アンティオコス1世(? - 前38年) - 小アジアのコンマゲネ王国国王(在位前69年 - 前38年)・ネムルト山墳墓を造営
- スレナス(前84年 - 前52年) - パルティアの貴族・将軍・カルラエの戦いでローマに大勝しクラッススを倒す
- ヘロデ(大王)(前73年頃 - 前4年) - ローマ共和政から帝政にかけてのユダヤの王(在位前37年 - 前4年)・ヘロデ朝を創設
- クレオパトラ7世(前70年 - 前30年) - エジプトのプトレマイオス朝最後の女王・カエサルやアントニウスとの親交で名高い
南アジア
中国と周辺諸国
- 武帝(前156年 - 前87年) - 前漢の皇帝(在位前141年 - 前87年)・匈奴征討など積極外交策を行う・治世後期は内政再建を実施
- 桑弘羊(前152年 - 前80年) - 前漢の政治家・財政家・武帝に仕え均輸法・平準法・専売制の実施など財政改革を行う
- 蘇武(前140年頃? - 前60年) - 前漢の官僚・使者として匈奴に赴くが捕縛され帰順を拒んで20年近く抑留される
- 李広利(? - 前88年) - 前漢の軍人・武帝の命で汗血馬を求め大宛を攻略・後年は匈奴に降伏し粛清される
- 司馬遷(前145年 - 前87年) - 歴史家・『史記』の著者・武帝の前で李陵を弁護して怒りを買い宮刑に処せられる
- 李陵(? - 前74年) - 前漢の軍人・李広利の救援に急ぐが匈奴と戦い敗北・降伏した後は匈奴の右校王となる
- 江充(? - 前91年) - 前漢の官僚・巫蠱の獄により戻太子を失脚させんとして太子に斬殺される
- 劉屈氂(? - 前90年) - 前漢の丞相・皇族で武帝の甥・戻太子の反乱を鎮圧・帝位継承で李広利との密約が露見し処刑される
- 霍光(? - 前68年) - 前漢の政治家・大将軍・武帝亡き後の昭帝を補佐・その後は昌邑王劉賀を廃し宣帝を擁立
- 劉旦(? - 前80年) - 前漢の皇族(燕王)・武帝の子で昭帝の異母兄・上官桀らと霍光打倒の反乱を起こすが鎮圧される
- 丙吉(? - 前55年) - 前漢の丞相・もとは獄吏だったが巫蠱の獄に際し戻太子の孫(後の宣帝)を庇護した功で昇進し善政を行う
- 宣帝(前91年 - 前49年) - 前漢の皇帝(在位 前73年 - 前49年)・武帝の曾孫・戻太子の孫・前漢中興の祖とも呼ばれる
- 呼韓邪単于(? - 前31年) - 匈奴の単于・匈奴の内紛のため前漢に帰順し宣帝と会見・後に元帝時代にも入朝
- 戴徳(生没年不詳) - 前漢の儒者・宣帝の治世に「礼」の記録を整理し「大戴礼」を編纂・甥の戴聖(小戴)に対し大戴と呼ばれる
- 桓寬(生没年不詳) - 前漢の官僚・始元6年の「塩鉄の議」の記録を宣帝の時代に『塩鉄論』としてまとめたことで知られる
- 劉向(前77年 - 前6年) - 前漢の学者・政治家・宣帝から成帝に仕え『説苑』『列女伝』を著す
- 王昭君(生没年不詳) - 前漢の宮女・元帝時代に匈奴の呼韓邪単于の入朝に選ばれてその妻女となる
- 王政君(前71年 - 13年) - 前漢の元帝の皇后で成帝の生母・外戚の王氏一族を伸張させる・甥王莽の帝位簒奪には反対した
- 王鳳(? - 前22年) - 前漢の政治家・王政君の兄弟は「五侯」として列侯に封じられたがその中心として大司馬大将軍となる
- 趙飛燕(? - 前1年) - 前漢の成帝の皇后・歌舞音曲に通じ成帝の寵を得る・稗史『飛燕外伝』では傾国の美女とされている
- 王莽(前45年 - 23年) - 前漢の政治家・外戚として権力を握り哀帝没後に平帝を擁立・前漢を簒奪して新王朝を立てる
10年紀と各年
紀元前100年代 | 前109 | 前108 | 前107 | 前106 | 前105 | 前104 | 前103 | 前102 | 前101 | 前100 |
紀元前90年代 | 前99 | 前98 | 前97 | 前96 | 前95 | 前94 | 前93 | 前92 | 前91 | 前90 |
紀元前80年代 | 前89 | 前88 | 前87 | 前86 | 前85 | 前84 | 前83 | 前82 | 前81 | 前80 |
紀元前70年代 | 前79 | 前78 | 前77 | 前76 | 前75 | 前74 | 前73 | 前72 | 前71 | 前70 |
紀元前60年代 | 前69 | 前68 | 前67 | 前66 | 前65 | 前64 | 前63 | 前62 | 前61 | 前60 |
紀元前50年代 | 前59 | 前58 | 前57 | 前56 | 前55 | 前54 | 前53 | 前52 | 前51 | 前50 |
紀元前40年代 | 前49 | 前48 | 前47 | 前46 | 前45 | 前44 | 前43 | 前42 | 前41 | 前40 |
紀元前30年代 | 前39 | 前38 | 前37 | 前36 | 前35 | 前34 | 前33 | 前32 | 前31 | 前30 |
紀元前20年代 | 前29 | 前28 | 前27 | 前26 | 前25 | 前24 | 前23 | 前22 | 前21 | 前20 |
紀元前10年代 | 前19 | 前18 | 前17 | 前16 | 前15 | 前14 | 前13 | 前12 | 前11 | 前10 |
紀元前0年代 | 前9 | 前8 | 前7 | 前6 | 前5 | 前4 | 前3 | 前2 | 前1 |