劉賀

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テンプレート:基礎情報 中国君主 劉賀(りゅう が)は、前漢の第9代皇帝霍光に擁立されて即位するも、間もなく廃された。一般的には即位前の王号を取って、昌邑王(しょうゆうおう)と呼ばれることが多い。

生涯

昌邑哀王・劉髆(りゅうはく)の子。武帝の孫にあたる。父の早世により幼くして王位を継いだ。

紀元前74年に叔父の昭帝が急死すると、当時輔政の任に当たっていた大司馬大将軍霍光の推薦により、昭帝の皇后・上官氏(霍光の外孫)の命で昌邑から都長安に招かれ、帝位に即いた。

しかし、その道中や長安に入り皇帝になってからの不行跡があまりにも酷いということで、霍光・張安世ら重臣の奏上を容れた上官皇太后の詔により、在位27日で帝位を剥奪され、海昏侯四千戸の領主に降格された。

ただ、劉賀の廃位から宣帝擁立までに至る動きが何かと不自然な行為があったといわれる。西嶋定生は、この事件で劉賀の家臣がことごとく処罰されていることから、実権を握っている霍光らを排除して劉賀の権力を確立する計画があったのではないかと推測している。しかし、計画は霍光らに露見し、彼らによる逆クーデターという事態になったのではないかという見方がなされている(この事件で許された劉賀の家臣、郎中令龔遂中尉王吉と学問の師の王式らが密告者だと疑われている)。

劉賀の逝去後、海昏侯の世襲は認められなかった。しかし元帝の時代に、嗣子の劉代宗が特例として海昏侯位を継いだ。海昏侯は後漢の代まで在続したという。

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