エディルネ

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Coord テンプレート:世界の市 エディルネEdirneギリシア語Αδριανούποληブルガリア語Одрин)は、トルコ都市。トルコの最西端、ヨーロッパ側の東トラキア地方の国境地帯に横たわるエディルネ県の県都で、市街中心部からギリシャ国境まで5km、ブルガリア国境まで10kmの国境の町である。2000年の人口は約12万人。

旧市街はブルガリア領に源流を発し、ギリシャとトルコの国境地帯を流れるメリチ川(エヴノス川、マリツァ川)が、その支流トゥンジャ川と合流する地点近くの左岸(北岸)に位置する。旧市街の西を流れるトゥンジャ川の中州には、トルコの伝統競技であるヤールギュレシ(オイルレスリング)の大会が行われるクルクプナルの草原がある。

歴史

エディルネはローマ帝国トラキア支配の要とした古代都市ハドリアノポリス(アドリアノープル)の後身であり、トルコ語名のエディルネはハドリアノポリスがトルコ語化したエドレネボルの転訛である。14世紀オスマン帝国の統治下に入って以降はルメリ州の州都となり、またブルサに次ぐ第二の宮廷が置かれてコンスタンティノープルイスタンブル)が征服されるまで100年にわたり帝国の実質上の首都であった。15世紀にイスタンブルが正式の首都となった後もオスマン帝国の副都として宮廷が置かれ、帝国のバルカン半島支配の重要な拠点であり続けたが、近代にギリシャ、ブルガリアが相次いで独立、オスマン帝国も消滅したために国境地帯の地方都市に過ぎなくなった。

オスマン帝国以前

エディルネは先史時代から人類が居住してきた非常に古い歴史をもつ町である。古代ローマ時代にはウスクダマ(Uskadama)あるいはオレスティス(Orestias)と呼ばれるトラキア人の町で、紀元前2世紀にローマに征服された。紀元125年、ローマ帝国の皇帝ハドリアヌスはバルカン支配の拠点としてこの町に目をつけ、四角の城壁に囲まれたローマ都市を整備してハドリアノポリス(ハドリアヌスの町)と命名した。この町の名として広く知られるアドリアノープルは、ハドリアノポリスの英語形である。

ゲルマン人がローマ帝国領内への南下を激しく行うようになるとこの町は帝都コンスタンティノポリス防衛の最前線となり、378年に行われたハドリアノポリスの戦いではウァレンス帝が西ゴート族に敗れて戦死した。その後もハドリアノポリスは東ローマ帝国の重要拠点であったが、6世紀にはアヴァール10世紀にはブルガリア帝国の侵攻を受けるなど、たびたび戦乱にさらされた。1204年には第四回十字軍によって占領され、西欧人の手に落ちる。その後、東ローマ帝国が奪還するものの、1362年頃にオスマン帝国のムラト1世によって征服された。

オスマン帝国時代

エディルネはオスマン帝国にとってもバルカン征服の前進拠点であるソフィアベオグラードに繋がる幹線道路の通り道であったことから政治的・経済的・軍事的に重要視され、ムラト1世は征服からまもなく1365年にこの町に宮殿を築いて帝国の首都とした。オスマン帝国は旧来の手狭な市壁を越えて市街地を拡張し、モスクキャラバンサライなどイスラム都市としてのインフラ整備を行ってムスリム(イスラム教徒)の移住を促進した。その結果、オスマン帝国下のエディルネでは旧来の主要な住民であるブルガリア人に加えてトルコ人人口が増加し、数多くのモスクが建設されるようになる。

1453年メフメト2世がコンスタンティノープル(イスタンブル)を征服し、首都を移した後もエディルネには宮殿が残され、帝国のバルカン地方における副都として位置付けられた。国家によるインフラ整備も盛んに進められ、16世紀にはスレイマン1世やその子のセリム2世によって宮殿や壮麗なモスク、橋など現存する多くの公共建設物が築かれた。

メフメト2世からスレイマン1世の時代にエディルネの郊外に造営された宮殿は、森と草原と川に囲まれた自然豊かな場所にあったことから歴代のオスマン帝国の君主に愛され、イスタンブルへの遷都後も18世紀頃までたびたび君主が滞在した。17世紀頃までは君主の所在する場所に政府機能が随行してきたため、国家の政治的な決定や祝祭・儀礼が行われる政治都市でもあった。

近代のエディルネ

19世紀に入ると、バルカン情勢の悪化と帝国の軍事的衰退のために、エディルネも直接の戦火にさらされる最前線となった。数度にわたった露土戦争において、1829年1878年にエディルネはロシア軍に占領され、軍の駐屯に利用された宮殿は荒廃した。

さらに、1912年に始まる第一次バルカン戦争でブルガリア軍の攻撃を受け、エディルネを含む東トラキア地方は占領され、1913年5月に結ばれた休戦によってブルガリアの領土に割譲されることが決まった。しかしブルガリアの領土拡大をめぐってギリシャ、セルビアモンテネグロルーマニアがブルガリアと敵対したことから6月に始まった第二次バルカン戦争でオスマン帝国軍が奪還し、エディルネは8月の講和条約によって再びオスマン帝国領に定められた。この戦争においてブルガリア・オスマン両国の争奪の的となったエディルネは甚大な被害を受け、トルコ人の報復を恐れたブルガリア人たちはブルガリア領に立ち去っていった。

続く第一次世界大戦後の1920年に結ばれたセーヴル条約で、エディルネを含む東トラキア地方はギリシャへの割譲が定められたが、トルコ人の祖国解放戦争に敗北したギリシャはトラキアの取得を放棄し、トルコ共和国への編入が確定した。この際、住民交換協定が結ばれてトルコ領に住むギリシャ人はギリシャへの強制移住を余儀なくされ、エディルネは完全なトルコ人の町となった。

エディルネの旧蹟

エディルネにはローマ帝国時代の遺跡はほとんど残っていない。わずかに市街に埋もれて東ローマ時代の城壁のごく一部と、「マケドニア人の塔」と呼ばれる物見塔が残っているだけである。

オスマン帝国時代の建造物の中でもっとも有名なものは、町の中央部の丘の頂上にあるセリミエ・モスクである。1569年から1575年まで足かけ7年をかけて建設されたこのモスクは、イスタンブルのアヤソフィアを越える直径31.5mの大ドームを持ち、大建築家ミマール・スィナンの最高傑作として名高い。そのほか、市街中央部の大建造物には、高さ68mのミナレットをもつユチュ・シェレフェリ・モスクや、1414年建造のエディルネ現存最古のエスキ・モスク、メフメト2世の父ムラト2世の建設したムラディエ・モスクなど、この町がオスマン帝国の首都であった時代に築かれたさまざまなモスクがある。

オスマン帝国の人々は狭苦しい市街に留まらず郊外地区に宮殿や別荘を盛んに造営した。エディルネ宮殿は市街の西を流れるトゥンジャ川の西岸に造営され、イスタンブルのトプカプ宮殿に次ぐ壮麗な規模を誇ったが、度重なる戦乱で破壊され現在では一本の塔と若干の廃墟が残るのみの、牧草地となっている。エディルネ宮殿跡の東を流れるトゥンジャ川の中洲はクルクプナルの野と呼ばれ、オスマン帝国時代以来、トルコの伝統格闘技であるヤールギュレシ(オイルレスリング)の会場となっている。

同じくトゥンジャ川の西岸には、メフメト2世の子バヤズィト2世が作ったモスク複合施設がある。オスマン帝国はこれら川向こうの施設と市街地をつなぐために多くの現存する石造りの橋がつくったが、なかでも町の南のカラアガチ地区やギリシャ国境検問所との間を結ぶ、メリチ川にかかるメリチ橋はミマール・スィナンの作品として有名である。また、カラアガチ地区には、オリエント急行開業当時にオスマン帝国側国境駅として開設されたカラアガチ駅の旧駅舎がトラキア大学の一部として残存している。

またエディルネはバルカン戦争の激戦地であることから、戦争を記念する軍事遺跡やモニュメントが数多くある。

外部リンク

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