ブエノスアイレス

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テンプレート:Pathnav テンプレート:世界の市 ブエノスアイレスBuenos Aires)は、人口289万人(2010年[1]を擁するアルゼンチン首都

どのにも属しておらずブエノスアイレス自治市(Ciudad Autónoma de Buenos Aires)とも呼ばれる(なお、1880年の首都令以来、ブエノスアイレス州の州都はラ・プラタ市である)。意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである.ラ・プラタ川Río de la Plata スペイン語で「銀の川」の意)に面しており、対岸はウルグアイコロニア・デル・サクラメント大ブエノスアイレス都市圏都市圏人口は1,312万人であり、世界第20位である[2]。建国以来アルゼンチンの政治、経済、文化の中心である。2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第20位の都市と評価されており[3]、南米の都市では第1位であった。アルゼンチンの縮図ともなっている一方で、内陸部との差異が大きすぎるため、しばしば「国内共和国」と呼ばれる。市民はポルテーニョ(porteño,女性はポルテーニャporteña; 港の人、港っ子の意)と呼ばれる[4]

概要

南米パリ」の名で親しまれ[5][6]、南米の中で最も美しい町の一つとして数えられる。

独立当時は「偉大な田舎」と呼ばれる人口5万人程の小さな町だったが、サルミエント(Sarmiento)政権による欧州化、文明化政策の実施以降数多くの移民がイタリアスペインなどから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。かの有名なアルゼンチン・タンゴはこの街のボカ地区で育った。また、サッカーが盛んなことでも有名で、マラドーナが在籍したボカ・フニオルスリーベル・プレートなど名門チームを数多く擁する。

歴史

1516年スペイン王の命により新大陸の探検をしていた、スペイン人航海者 フアン・ディアス・デ・ソリスは、ラ・プラタ川に到達した。ソリスは今日のラ・プラタ地域に到達した最初のヨーロッパ人だと思われるが、今日のウルグアイ領で、先住民のチャルーア族により殺害される。

ファイル:Buenos Aires shortly after its foundation 1536.png
創設当初のブエノスアイレス市

1536年2月2日バスク人貴族でスペインの探検家だったペドロ・デ・メンドーサPedro de Mendoza)の植民団一行は、現在のブエノス・アイレス南部のサン・テルモ地区に、ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市(Ciudad de Nuestra Señora Santa María del Buen Ayre 直訳すると「良き風の我々の聖母マリア市」)[5] を建設した。しかしグアラニー族やチャルーア族を始めとする先住民の包囲攻撃と、それに伴う飢餓のために町は1541年に放棄され[7][8]、生き残りはパラナ川を上ってアスンシオンを建設した。

1580年、アスンシオンからパラナ川を下って来た、テンプレート:仮リンク率いるヨーロッパ人植民団により、街はラ・トリニダー(La Trinidad)市として再建された[9]。町は当初ラ・プラタ地域の皮革などを輸出する貿易港として賑わったが、16世紀、17世紀の大半をスペインの植民地政府は、ヨーロッパへの輸出品は全てペルーリマを経由することを強制しつづけたので、市内の貿易業者の不満が高まり、イギリスやフランス、オランダとの密貿易が盛んになった[5]

1776年にブラジル方面から侵攻を続けるポルトガルからバンダ・オリエンタルを防衛するために、ペルー副王領が分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となり、正式に開港された。しかし、完全な自由貿易を求めるクリオーリョ達にとっては、この措置は未だに不十分なものであり、スペイン当局への憤懣を鬱積させるもとになった。フランス革命後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインがフランスと同盟を結ぶと、スペインの敵対国となったイギリスはこの地域の支配を目論み、1806年、ブエノスアイレスに侵攻を試みた(テンプレート:仮リンク)。ラ・プラタ副王は逃亡したが、ポルテーニョ民兵隊は副王不在のままイギリス軍を撃退し、翌1807年再侵略をも撃退すると、自信をつけたポルテーニョ達のスペインへの忠誠は揺らいでいった。現在もブエノスイアレス市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのはこの時の民兵隊の名前から来ている。

1808年にナポレオン・ボナパルトの指導するフランス帝国がスペインに侵攻し、兄のジョゼフ・ボナパルトをホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1810年5月25日に五月革命が勃発し、ラ・プラタ副王はポルテーニョ達により追放され自治政府が発足した。1816年7月9日にはトゥクマンの議会でブエノスアイレスを首都に定めたリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言された。独立後はすぐに連邦同盟のアルティーガス派との内戦が続いたが、各州の妥協により、ブエノスアイレス州が連合州の外交権を行使することが認められた。1821年にベルナルディーノ・リバダビアが州内務大臣として辣腕を振るい、ブエノスアイレス大学が設立された。

1825年のブラジル戦争の最中に連合州はアルゼンチンと改名し、リバダビアはブエノスアイレス市をブエノスアイレス州から切り離した連邦直轄の首都に定める憲法を公布したが、この憲法はブエノスアイレス港を中央政府に奪われることを嫌って反対運動を起こした連邦派、統一派双方の利害よって流れ、結局この憲法とブラジル戦争の指導失敗が下でリバダビアは失脚した。

リバダビアの失脚後、連邦派のマヌエル・ドレーゴが戦争の指導を継続するが、イギリスの圧力により、1828年のモンテビデオ条約ウルグアイの独立を認めさせられると(事実上の引き分け)帰還兵の不満は募り、同年ドレーゴは統一派のフアン・ラバージェによって暗殺され、ラバージェが自ら州知事になった。このことがさらに連邦派と統一派の戦いを激化させ、1829年、ラバージェを打倒したフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事となった。

1835年、ロサスが州知事に返り咲いた。ロサスは州内一の「馬上の人」(モントネーロ)であり、自らもガウチョより上手に馬を操ったといわれ、黒人や都市下層民、ガウチョ、友好的なインディオから圧倒的な支持を得ており、ロサス時代にはそのような人々からなる街に「ロサシート」と呼ばれるロサス派が街練り歩き、街はロサスの肖像画と、ロサスが好んだ連邦派の赤色で埋め尽くされた。また、秘密警察が市民を監視し、多くの自由主義者がチリのサンティアゴをはじめとする国外に亡命することになった。しかし、1852年、連邦派でロサスの腹心だったフスト・ホセ・デ・ウルキーサが、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んでエントレ・リオス州からロサスに対して反旗を翻すと、1852年2月3日ブエノスアイレス郊外のカセーロスの丘(現在は市街地になっている)でロサスはウルキーサを迎え撃つが、ウルキーサ軍に破れるとイギリスに亡命し、ロサスは失脚した。

ウルキーサは連邦主義を体制化することを望み、フアン・バウティスタ・アルベルディが起草した1853年憲法を連邦の憲法に制定して同年アルゼンチン連邦の成立を宣言したが、ブエノスアイレス州は連邦派の支配を嫌って離反し、連邦はエントレ・リオス州のパラナに首都を置いた。その後、連邦とブエノスアイレスの戦いが繰り返されたが、1862年11月に州知事のバルトロメ・ミトレがウルキーサをバポンの戦いで破ると、ここにブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言された。

ミトレは当時のアルゼンチンの自由主義者の御多分に漏れず、ヨーロッパを崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌っていたが、こうした自由主義者が政権を握ったことにより、以降ブエノスアイレスから黒人は消えていくことになる。1865年にアルゼンチン初の国政調査が行われた際、全人口の165万人の内およそ2万人が黒人だったが、1864年にパラグアイロペス元帥が起こした三国同盟戦争により、黒人は人口に対して不釣合いな規模が徴兵された。1871年に黄熱病が流行したが、これが黒人のコミュニティに止めを刺し、僅かな黒人もウルグアイなどの周辺国に出国していった。

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1880年のラ・ボカの港

1880年にブエノスアイレス州の反対を押し切ってブエノスアイレス市が分離され、ブエノスアイレスは連邦直轄区となり、正式にアルゼンチンの首都になった。また、この頃にカサ・ロサーダが大統領府となった。自由主義者の政権はヨーロッパから多数の移民を導入し、アルゼンチンの発展を目指した。リアチュエロ川河口の港に面したラ・ボカ地区ではイタリア系移民が多く集まり、彼等によってタンゴが発達した。また、輸出経済の進展と共にアルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスのレティーロ駅に行き着いた。

1911年にはスペイン語圏、及び南半球初の地下鉄(A線)が五月広場から市内西部に向かって開通した。1920年代以降はアルゼンチンの富裕さを反映して南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つとして成長すると同時に、内陸部諸州からの国内移民が増加し、市内に吸収しきれなかった人口が郊外に巨大なスラム街(ビジャス・ミセリアス)を築いた。

1976年ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が治安維持のために「汚い戦争」に従事し、多くの反体制、左翼、及び全く政治活動に無関係の市民を暗殺したが、しかし経済の回復は全く見込めず、日夜スト、デモ、暴動が起き、情勢はより悪化した。こうして殺害された市民の数はおよそ30,000人と見積もられている[10]1987年には急進市民同盟ラウル・アルフォンシン政権の下で、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため首都をパタゴニア北端のリオネグロ州の州都ビエドマに移転する法案が下院を通過したものの、上院で否決され遷都案は立ち消えとなった。

1992年5月17日、イスラエル大使館がイスラム系のテロ組織に爆破され、多くの死傷者を出した。メネム大統領(たまたまアラブ系である)はこの事件を非難した。

近年は政情の安定を反映して暴動などはあまり起きていないが、それでもサッカーの試合の際にサポーターが暴動を起こしたり(ボカが負けると危険である)、マルビーナス戦争帰還兵がデモを行うことが多い。

風景

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プエルト・マテロからのブエノスアイレスの夜景

政治

選挙によって選ばれた市長が行政の長である。1880年の首都令によって正式にアルゼンチン共和国の首都となり、政府や議会が置かれている一方で、同法令によりブエノスアイレス州の首都は南東のラ・プラタ市に移されたため、同州の州都ではない。

地理

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ラ・プラタ川流域を捉えた衛星写真

パンパの真ん中に位置し、東を大西洋に接している。市内をリアチュエロ川とラ・プラタ川が流れる。

気候

気候は温暖湿潤気候で四季がある。しかし南半球にある為、北半球日本とは季節が逆になり、一番暑いのは1月(平均気温25.1℃)、一番寒いのは7月(平均気温10.9℃)である。年間通じて降雨があるが、3月と10月、11月がやや多く、6月と7月はやや少ない。年間降水量は1214mm[11]。史上最高気温は1957年1月29日に記録された43.3°Cである[12]

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環境

アルゼンチンの全産業の中心地でもあるため、都市部を中心に環境汚染が酷い。特にリアチュエロ川の汚染が酷くなっている。

経済

2008年、プライスウォーターハウスクーパースの公表した調査によると、ブエノスアイレスの都市GDPは3620億ドルであり、世界第13位である[13]。南米ではサンパウロに次いで第2位。また2011年3月、英国のシンクタンクにより、世界第64位の金融センターと評価されており、南米ではサンパウロリオデジャネイロに次ぐ第3位である[14]

アルゼンチンはブエノスアイレス一極集中型の経済を持ち、ブエノスアイレスはアルゼンチンのすべての産業の中心となっている。

ブエノスアイレスは港町として発展してきた歴史を持ち、現在でもアルゼンチン最大の港を持つ。世界有数の肥沃な農業地域であるパンパの中心部にあり、さらにラプラタ川の水運とも連絡があるため、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉小麦大豆トウモロコシ、さらに羊毛皮革などの輸出港として発展してきた。ラプラタ川を通じてパラグアイと、さらにウルグアイやブラジルともつながりがあり、アルゼンチンのみならず南アメリカ大陸南部の物流拠点となっている。

工業としては、パンパからの農業輸出に関連した食品加工や製粉業、皮革工業に加え、自動車や石油精製、繊維や出版などの産業も盛んである。

交通

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ブエノスアイレスの中心にある7月9日大通り。世界で最も幅が広い道路である。中央に見えるのはオベリスコ

ブエノスアイレス市内で最も一般的な移動手段はコレクティーボ(市内バス)であり、地下鉄、タクシーも使いやすい。1990年代に鉄道の長距離路線が廃止されたため、国内の地方都市や海外を訪れるには長距離バスや航空機を使うことが多い。

鉄道と地下鉄

テンプレート:Main ブエノスアイレスには地下鉄ライトレールトラム、近郊列車があり、近郊列車の路線網はアメリカ大陸ではニューヨークに次いで第2位の規模を誇る。また、大部分が減便・廃止となったものの長距離列車も走っている。

長距離バス

レティーロ駅の付近にレティーロ長距離バスターミナルがあり、国内各地やブラジル、ウルグアイ、パラグアイボリビアチリペルーといった近隣諸国を結んでいる。

市内交通

市内はコレクティーボ(バス)が多数運行しており、深夜12時過ぎまで運行している。タクシーは黄色と黒で塗り分けられている。

海運

プエルト・マデーロ地区のフェリー乗り場から、ブケブス社によりウルグアイのコロニア・デル・サクラメントモンテビデオ行きのフェリーが毎日運行している。

空港

国内線はホルヘ・ニューベリー空港(AEP) から運行しており、ポルテーニョからはエアロパルケと呼ばれて親しまれている。国際線はブエノスアイレス州エセイサにあるミニストロ・ピスタリーニ国際空港(EZE)から運行し、ラテンアメリカ諸国やヨーロッパ北アメリカオセアニアアフリカを結んでいる。

観光

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ラ・ボカ地区のカミニート(2008年4月撮影)


主な観光地としてはコロン劇場、レコレータ墓地、カミニートなど。

フロリダ通り、ラバージェ通りは日夜観光客で賑わい、サン・テルモ地区には「バー・スール」、「エル・ビエホ・アルマセン」を始めとした多くの老舗タンゲリア(タンゴ・バー)があり、多くの観光客を引き寄せている。

かつてロサスの私邸があった場所はカセーロスの戦いの日を記念して、サルミエントにより2月3日公園(パレルモ公園)が建設されており、現在はポルテーニョの憩いの地となっている。

市民

ブエノスアイレス市民はポルテーニョと呼ばれ、プロビンシアーノと呼ばれる内陸部の住民とはお互いに感情的対立がある。

ブエノスアイレス市には303万人(2007年)の人口が居住しているが、ブエノスアイレス州の一部を含めた周辺の大ブエノスアイレス都市圏には約1240万人が居住している。これは国民の約3割ほどである。

住民の大多数を19世紀半ばから20世紀初めに移民してきたヨーロッパ系の白人が占めるが、その一方で、国内の貧しい州から移住してきた先住民系のアルゼンチン人や、近隣のボリビア、パラグアイからの移民、日系人、中華人民共和国系人、韓国系人、台湾系人、ラオス系人などのアジア系アルゼンチン人は見た目で非白人だと分かる人も多い。また、アフリカ系アルゼンチン人はかつてに比べれば大きくその数を減らしたが、それでもいなくなったわけではない。

市域は15のコムーナ(共同体)、48のバリオ(地区)に分けられる。詳細はコムーナとバリオを参照。

文化

「南米のパリ」として知られ、白人系人口と、ヨーロッパ的な建築物の多さにより、南アメリカで最もヨーロッパ的な都市となっている。

建築

市は五月広場がセントロであり、広場付近にはカビルド、カテドラル、国会議事堂、カサ・ロサーダなどのヨーロッパ風の豪華な建築物が多い。7月9日大通りにはオベリスコがあり、その近くには世界三大劇場の一つ、コロン劇場がある。

カテドラルにはアルゼンチン、チリ、ペルーの解放者、ホセ・デ・サン=マルティン将軍の亡骸が安置されている。

言語

ロサリオ、モンテビデオと共に、リオプラテンセ・スペイン語が話される最大の都市である。ポルテーニョのアクセントはイタリア語のナポリ方言に近い。

アルゼンチンは19世紀に多くの移民を受け入れ、移民の多くはブエノスアイレスに定着したため、今でもブエノスアイレスではドイツ語フランス語ガリシア語など多種多様な言語が話されている。

南米先住民の言語もパラグアイからの移民によるグアラニー語や、ブエノスアイレスで最も危険なスラムとなっているボリビア人街ではアイマラ語が使われている。 アジア系の言語も近年増加したアジア系の移民により、中国語ラオ語、ボリビア人街のすぐ側の韓国人街では韓国語が日常的に使われている。日系人もいるが、日本語はあまり話されていない。

タンゴ

アルゼンチン・タンゴの本場である。タンゴはこの街のラ・ボカで発祥したとも言われている。

スポーツ

ボカ・ジュニアーズリーベル・プレートCAサンロレンソウラカンなどのサッカークラブがブエノスアイレスに本拠地を置いている。

ボカ・ジュニアーズのホーム、ラ・ボカには1938年にラ・ボンボネーラが建設され、1996年に近代化改装を施されてヌエバ・ボンボネーラとして生まれ変わった。

一方リーベルも当初はボカからスタートしたものの、上流階級の住む山の手地区に引っ越したため、現在ホームは別の地区にある。

姉妹都市・友好都市

ブエノスアイレス市と姉妹関係にある都市を列挙する。

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ブエノスアイレス市と姉妹関係にある地域や州を列挙する。

脚註

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参考文献

  • 松下マルタ/松下洋訳「ブエノスアイレス 南米のパリからラテンアメリカ型首都へ」『ラテンアメリカ都市と社会』国本伊代、乗浩子編、新評論、1991年(ISBN 4-7948-0105-X)
  • 栗本斉『ブエノスアイレス 雑貨と文化の旅手帖』毎日コミュニケーションズ、2008年(ISBN 978-4-8399-2530-7)
  • 栗本斉『アルゼンチン音楽手帖』DU BOOKSディスクユニオン)2013年 ISBN:978-4-925064-79-8

関連項目

外部リンク

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テンプレート:アルゼンチンの地方行政区画 テンプレート:ユースオリンピック開催都市 テンプレート:Coord


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  1. テンプレート:Cite web
  2. Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  3. 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表)
  4. テンプレート:Cite web
  5. 5.0 5.1 5.2 Argentina: A Short History by Colin M. Lewis, Oneworld Publications, Oxford, 2002. ISBN 1-85168-300-3
  6. 'Paris of the South' by Kenneth Bagnell, Canoe travel, 7 March 2005.
  7. Aborígenes de la Argentina. (Spanish) John D. Torres Barreto. Retrieved 9 February 2012.
  8. Pedro de Mendoza. (Spanish) Retrieved 8 February 2012.
  9. Calendario Histórico – Segunda fundación de Buenos Aires. (Spanish) Gobierno de la Ciudad de Buenos Aires. Retrieved 9 February 2012.
  10. We are Millions: Neo-liberalism and new forms of political action in Argentina, Marcela Lópéz Levy, Latin America Bureau, London, 2004. ISBN -X
  11. テンプレート:Cite web
  12. テンプレート:Cite web
  13. プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP
  14. The Global Financial Centres Index 9
  15. テンプレート:Cite web
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  17. Hermanamientos con Latinoamérica (102,91 kB). [29-9-2008]
  18. Ley Nº 682
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  21. 21.0 21.1 テンプレート:Cite web
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