モンテビデオ
テンプレート:世界の市 モンテビデオ(テンプレート:Lang-es)は、ウルグアイの首都でありモンテビデオ県の県都である。メルコスールの事務局が置かれている。ウルグアイの南部、[n 1] ラプラタ川の左岸河口に位置し、ウルグアイ最大の都市であり、2004年における人口は約132万人である。ウルグアイ最大の貿易港を兼ね温暖な気候で知られる。
美しい砂浜を備え、ポシートス、ブセオ、マルビン、プラシャ・デ・ロス・イングレセス(イギリス人の砂浜)、プラシャ・ベルデ(緑の砂浜)、プンタ・ゴルダ(太い岬)、カラスコなどがあり、他にも観光地として多くの記念碑や博物館、歴史的建造物や通りがある。マーサー・ヒューマンリソースコンサルティングによると、モンテビデオはラテン・アメリカで最も生活の質が高い都市である[1]。(ブエノスアイレスとサンティアゴ・デ・チレが続く) 世界でも安全な都市の30位に入る。
目次
歴史
語源
モンテビデオ (Montevideo) の語源として最小の同意されるな説は、現在のセロの丘に対して、聖オヴィディオ山 (Monte Ovidio) と命名し、それが変化して都市の名前になったというものであり、市の観光案内でもそのように教えている。[2]
しかし、他にも二つの説がある。第一の説はフェルディナンド・マゼランの艦隊がこの土地を見つけた時にポルトガル語で言った、「Monte vide eu」(我、山を見たり)が語源という説である。第二の説はスペイン人がこの土地を地図に記す際に「Monte VI De Este a Oeste」(東から西に向けて六番目の山だ)と言って記したからだという説である。
初期の歴史
1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスがここを訪れたがその後チャルーア族に殺害されてしまう。1624年に現在のモンテビデオの地にグアラニー族へのイエズス会伝道所が建設された。
その後1680年にポルトガル人が今のモンテビデオの西にコロニア・デル・サクラメントを建設する。その後、スペイン人はトルデシリャス条約を持ち出してポルトガル人と戦い、1720年にサンホセ要塞が建設された。1726年にブエノスアイレス総督のブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラがサンホセ要塞を拡大して都市サン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオを建設する。これが現在のモンテビデオ市の基礎となった。
1828年に独立したウルグアイの首都となった。
1832年7月26日から8月19日まで、ダーウィンの乗ったイギリス海軍のビーグル号が投錨した。ダーウィンはここを拠点にして周辺の調査旅行をしている。彼はバイア・ブランカ(アルゼンチン)に近いプンタ・プラタで、巨大な化石貧歯類メガテリウムの、歯の一本ついた顎骨を発見した[3]。ビーグル号は第1回の測量調査を終えて1832年11月14日から27日までの間、2回目の停泊をしている。この間にダーウィンはライエルの『地質学原理』第2巻を受け取っている[4]。
19世紀から20世紀のはじめまでアルゼンチンとブラジルの影響を回避するためにイギリスの強力な影響下で発展し、1869年 には内陸に向かう鉄道が開通した。 テンプレート:Clearleft
20世紀以降
1860年に57913人だった人口は多くの移民を迎えて、1884年には104472人になった。移民の大半はスペインおよびイタリアからであるが、中欧からも多くの移民を受け入れた。1930年にはFIFAワールドカップが開催され、初代優勝国の栄冠を勝ち取った。
1939年12月13日プンタ・デル・エステ沖に現れたドイツ海軍のポケット戦艦グラーフ・シュペーをイギリス海軍が追撃し、ラプラタ沖海戦が起きた。海戦の後、艦長のハンス・ラングスドルフ大佐はモンテビデオに退避した。この間にウルグアイの中立を巡るドイツ・イギリス・ウルグアイの外交戦が繰り広げられ、この町は一躍世界的に有名になった。ウルグアイは親英的な立場で中立を貫き、シュペー号は72時間の停泊の後、12月17日にモンテビデオ港外で自沈した。
1950年代には90万人近い人口に達したが、その頃から経済停滞に苦しみ、さらに軍事政権(1973-85年)下の混乱の影響もあって街は衰退し、その後遺症は現在まで続いている。多くの貧しい地方出身者が都市に溢れ、特に旧市街に集中した。2002年にはブラジル、アルゼンチンから波及した経済危機により貨幣価値が下落、物価が高騰した。
2004年には135万人近い人口を数え、大モンテビデオ都市圏を含めると180万人になる。近年の経済回復とウルグアイの隣国の強力な貿易の結びつきは農業の発展を導き、将来の繁栄が望まれている。
地理
ラプラタ川が大西洋に流れ込む河口部の左岸に位置する。
気候
温暖湿潤気候に属し、一年を通して降水がある。 テンプレート:Weather box
区域
市街は下記の地区に分かれる。
人口
1860年に、モンテビデオの市街地人口年は57,913人でした。[5] テンプレート:いつ範囲モンテビデオの市街地に住んでいる人口は約1,349,000人であるが、大モンテビデオ都市圏を加えると1,814,400人が住んでいることになる。 モンテビデオ市民はヨーロッパ人の影響を特に強く受けており、イタリア系、スペイン系の家系が最も一般的だが、その一方でアフリカ系ウルグアイ人の家系やユダヤ人の共同体の存在も重要である。 モンテビデオにはおおまかに言って国民の約44%が居住しており、モンテビデオの郊外と言っても良いカネロネス県は約12%を占めている。
交通
市民の足としては、もっぱらバスとタクシーが使われている。
近隣諸国や国内各地への主な交通手段は、長距離バスや、ブケブス社によるラプラタ川を運航する船舶の他に、航空機が利用されており、近郊にあるカラスコ国際空港が使用されている。だが、同空港には長距離国際線がそれほど就航していないため、欧米など遠くに行く場合には隣国ブラジル・サンパウロにあるグアルーリョス国際空港、アルゼンチン・ブエノスアイレス郊外にあるエセイサ国際空港が利用されることも多い。
教育
共和国大学などのウルグアイの主要教育機関が集中する。
スポーツ
モンテビデオ市民にとって最も親しいスポーツはサッカーである。1930年にはエスタディオ・センテナリオで世界初のFIFAワールドカップが開催された。この1930 FIFAワールドカップでロス・チャルーアズ(ウルグアイ代表チームの愛称)は勝利を飾り、ウルグアイは初代優勝国となった。国内リーグにおいては、ペニャロール、ナシオナル・モンテビデオなどのクラブチームが熱い戦いを繰り広げている。
その他、バスケットボールや競馬なども盛んである。
観光
主にアルゼンチンとブラジルから観光客がやって来る。ポシトスや旧市街が観光地として有名である。
1月から2月にかけては、約1ヶ月にわたりカーニバルの期間となる。特に2月上旬(年により変動)の2日間に行なわれるジャマーダス (Llamadas) は、数十組の打楽器奏者やダンサーからなるパレードからなる祭りで賑わいを見せる。
姉妹都市
- アフリカ
- テンプレート:Flagicon アイウン、西サハラ (2009年12月13日) [6]
- テンプレート:Flagicon メリリャ、スペイン (2008年) [7]
- アメリカ州
- テンプレート:Flagicon ベリッソ、アルゼンチン (2011年6月6日)
- テンプレート:Flagicon ブエノスアイレス、アルゼンチン
- テンプレート:Flagicon コルドバ、アルゼンチン
- テンプレート:Flagicon フルリンガム、アルゼンチン
- テンプレート:Flagicon ラ・プラタ、アルゼンチン
- テンプレート:Flagicon マル・デル・プラタ、アルゼンチン
- テンプレート:Flagicon ロサリオ、アルゼンチン (1998年6月1日) [8]
- テンプレート:Flagicon コチャバンバ、ボリビア
- テンプレート:Flagicon コロイコ、ボリビア
- テンプレート:Flagicon [ラパス]]、ボリビア
- テンプレート:Flagicon サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ、ボリビア
- テンプレート:Flagicon ブラジリア、ブラジル
- テンプレート:Flagicon クリチバ、ブラジル (1990年4月10日) [9]
- テンプレート:Flagicon リオデジャネイロ、ブラジル (1997年4月30日) [10]
- テンプレート:Flagicon サン・パウロ、ブラジル
- テンプレート:Flagicon ボゴタ、コロンビア
- テンプレート:Flagicon モンテビデオ、アメリカ
- テンプレート:Flagicon マイアミ、アメリカ
- テンプレート:Flagicon ケベック、カナダ
- テンプレート:Flagicon ミシサガ (オンタリオ州)|ミシサガ、カナダ
- アジア
- テンプレート:Flagicon 青島、中華人民共和国
- テンプレート:Flagicon 蔚山広域、大韓民国 (2012年6月11日) [11]
- ヨーロッパ
- テンプレート:Flagicon バルセロナ、スペイン
- テンプレート:Flagicon カディス、スペイン
- テンプレート:Flagicon マドリード、スペイン
- テンプレート:Flagicon サンクトペテルブルク、ロシア
関連項目
脚注
出典
外部リンク
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 37ページ
- ↑ パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 38ページ
- ↑ http://www.tacuy.com.uy/Servicios/Montevideo/index.htm
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