キト

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キトテンプレート:Lang-es)は、エクアドル共和国首都グアヤキルに次いで人口が多い。南米有数の世界都市。人口1,399,378人(2001年)。キトの北23kmに赤道記念碑ミッター・デル・ムンドがあり、線で赤道の位置が示されているが、実際の赤道との誤差がある。

歴史

キトの発祥は紀元1000年以前までさかのぼることができる。当時、その一帯は遊牧民たちの遊牧する土地であったが、その後今のキトの位置に市が開かれた。

15世紀末にはインカ帝国の支配下に置かれ、11代インカ皇帝ワイナ・カパックの母親が当地の出身だったため、帝国の第二の首都として整備されることとなる。第一の首都であるクスコからキトまでは、インカ道が通された。 しかしその後、帝国ではクスコ派とキト派との対立が深まり、ワイナ・カパックの死後、帝国は2人の息子により分けられ、ワスカルがクスコを中心に帝国の大部分を、そして、アタワルパがキトを中心に北部を治めることとなる。

その後起こった内戦で勝利を収めたアタワルパは、キトからクスコへ向かう途中、侵略してきたスペイン人の捕虜となり、処刑される。そしてキトは、スペイン軍の侵略を防ぐために、アタワルパの武将であったルミニャウィによって破壊された。

結局、インカ人の反乱は制圧され、フランシスコ・ピサロは1534年、キトへの殖民を開始。街は「サン・フランシスコ・デ・キト」と名づけられた。 地元民は改宗させられ、教会の建設などに酷使された。そしてその後300年にわたり、キトはスペインの植民地として支配されることとなる。

1800年代初頭には人口1万人を数える都市に成長していたキトだが、そのころにはスペインからの独立の気運が高まってきていた。しかし、その運動は、1810年にリマから派遣されたスペイン軍により鎮圧されることになる。

にもかかわらず、その後も運動は続き、救援に来たアントニオ・ホセ・デ・スクレが1822年にスペイン軍にピチンチャの戦いで勝利したことで、スペインからの独立を勝ち取り、大コロンビアの一部となる。1830年にはそこから独立したエクアドルの首都となる。 テンプレート:Clearleft

地理

「新市街」と呼ばれる地域と、「セントロ」(旧市街)と呼ばれる地域があり、坂道に沿って古い建物が並ぶ旧市街は「キトの市街」の名で世界遺産に登録されており、サン・フランシスコ教会・修道院や大統領府、パネージョの丘にある聖母像など観光地も多いが、治安は良くなくスリも多いとされるので、訪問の際には注意が必要である。また、露天市などもある。

新市街は、オフィス街と住居地域が混在しており、またホテルやレストランといった設備も多い。また競馬場の跡地を1980年代に整備したラ・カロリーナ公園は、緑に溢れた市民の憩いの場となっている。 テンプレート:Clearleft テンプレート:Wide image

気候

赤道直下に位置しているが、アンデス山脈の中腹でも標高2850メートルとかなりの高地にあることから一年を通じて冷涼な気候になっている。夏の一時期を除くと、概ね降水量は多い。 テンプレート:Weather box

交通

陸上交通

専用レーン上を走る路線バスのほか、トロリーバスの路線が整備されており、旧市街と新市街を結んでいる。またタクシーの数も多い。また各地を結ぶ高速バスのターミナルが旧市街にある。

鉄道路線は、キトに駅があり、バストラックを改造したレールバスのほか、観光用に蒸気機関車牽引の客車列車が発着しているが、交通機関として利用しづらい。

空港

市内に軍民共用のマリスカル国際空港があり、国内各地および、南米各国やアメリカスペインなどに就航便がある。ただし街中にあって手狭なこともあり、新たに新キト国際空港が建設され、2013年2月に開港した。

ギャラリー

姉妹都市

キトはSister Cities International, Inc. (SCI)によって指定された、3つの姉妹都市を有している。

関連項目

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脚注

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外部リンク

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