楢崎正剛
テンプレート:Ambox-mini テンプレート:サッカー選手 楢﨑 正剛(ならざき せいごう、1976年4月15日 - )は、奈良県香芝市出身の日本のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。名古屋グランパス所属。元日本代表でFIFAワールドカップに4大会連続で選出された。国際Aマッチ7試合連続無失点という日本記録を持つ(2011年時点)[1]。
目次
来歴
アマチュア
奈良県香芝市立三和小学校、香芝市立香芝中学校卒業後に奈良育英高校に入学し全国高等学校サッカー選手権大会でベスト4に進出した。同期のチームメイトにフットサル日本代表の藤井健太がいる。
クラブ
奈良育英高校卒業後1995年に横浜フリューゲルスに入団し、長期出場停止処分を受けた森敦彦に代わって新人ながら正GKとして出場した。1996年は開幕から6試合連続無失点のJリーグ記録を樹立し、クラブとしても開幕8連勝を果たすなど優勝争いに大きく貢献した(最終順位は3位)。同年の活躍によりJリーグベストイレブンに初選出された。1998年シーズン限りでのクラブ消滅が決まった後、元日の天皇杯優勝で有終の美を飾り、1999年に名古屋グランパスエイトへ移籍した。この時にGKコーチのマザロッピも名古屋に移籍した。名古屋でもそれまで正GKを務めていた伊藤裕二からポジションを奪い、2000年からは現在(2013年)に至るまで13年連続でキャプテンを務めるなどチームの中心選手として活躍している。一時スペインのアトレティコ・マドリードへの移籍話が浮上したが、実現には至らなかった。2009年7月25日の対浦和レッズ戦(埼玉スタジアム2002)にて、史上初の「Jリーグ公式戦100完封」を達成。
2012年11月17日の対ジュビロ磐田戦で史上2人目のJ1通算500試合出場を達成した。 2013年シーズンに全試合全時間出場を達成。
日本代表
日本代表には1996年に初選出され、1998年2月15日のオーストラリア戦で国際Aマッチ初出場を果たした[2]。日本のワールドカップ初出場となった1998年フランス大会メンバーに初選出されるが、この時は川口能活の控えに回ったため出場機会は無かった。
フランス大会後、代表監督に就任したフィリップ・トルシエの下で出場機会を増やし、2002年日韓大会では川口に代わって正GKを務め、4試合全てに出場する。日本代表史上ワールドカップでの初勝ち点、初勝利(完封勝利)、初の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。また、この間2000年シドニーオリンピック代表にも森岡隆三、三浦淳宏と共にオーバーエイジ枠で選出され全試合に出場した。
日韓大会後のジーコの代表監督就任後も、代表の正GKを務め、2003年10月8日の親善試合チュニジア戦から2004年2月18日のドイツW杯アジア1次予選グループ3第1戦オマーン戦まで、7試合無失点という日本代表連続無失点記録を作った[1]。しかし、怪我で出場できなかったアジアカップにおいて楢﨑の代わりに川口が活躍し、大会後は出場機会が減った。2006年ドイツ大会では控え(正式GKは2大会ぶりに川口)に回った。
ドイツ大会後に代表監督に就任したイビチャ・オシムからは暫く招集を見送られていたが、クラブでの好調さを評価され2007年のキリンカップのメンバーに招集され、モンテネグロ戦で24試合ぶりの先発出場を果たした。2008年のワールドカップアジア3次予選途中からは川口の不調により、正GKは楢﨑に交代となり安定感を見せて、約5年振りとなる代表レギュラーとしてプレーした。
しかし、2010年南アフリカ大会直前の練習試合においては、高地適用で遅れたために[3]スタメンを川島永嗣が務め、本大会でも出場機会は得られず、正GKとして出場出来たのは2002年の日韓大会のみであった。しかし、楢崎本人は日本に帰国してから、エル・ゴラッソの取材に「高山病はガセネタ。毎日練習していたし、高地にも普通に順化できた」と話している[4]。
A代表では、10年以上にわたり、楢崎と川口の二頭体制が続いた。川口が初先発した1997年2月13日スウェーデン戦から、南アフリカワールドカップ直前で、楢崎がスタメン落ちする前の試合である2010年5月23日韓国戦まで、2人のどちらかが先発した国際Aマッチは合計192試合に及ぶ(楢崎76試合、川口116試合)。この間に、2人以外のGKが先発した国際Aマッチは僅か24試合しか無い(川島永嗣8試合、都築龍太5試合、曽ヶ端準4試合、土肥洋一4試合、下田崇1試合、高桑大二朗1試合、権田修一1試合)。
2010年9月7日、グアテマラ戦(長居スタジアム)に先発フル出場(国際Aマッチ77試合目)。その後の記者会見で日本代表からの引退を表明した[5]。
所属クラブ
- ユース経歴
- 香芝市立三和小学校
- 香芝市立香芝中学校
- 1992年 - 1994年 奈良育英高校
- プロ経歴
- 1995年 - 1998年 横浜フリューゲルス
- 1999年 - 現在 名古屋グランパスエイト/名古屋グランパス
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1995 |rowspan="4"|横浜F |rowspan="2"|- |rowspan="4"|J||23||0||colspan="2"|-||2||0||25||0 |- |1996||23||0||14||0||2||0||39||0 |- |1997 |rowspan="18"|1||24||0||7||0||5||0||36||0 |- |1998||34||0||0||0||5||0||39||0 |- |1999 |rowspan="16"|名古屋 |rowspan="16"|J1||25||0||4||0||5||0||34||0 |- |2000||30||0||2||0||2||0||34||0 |- |2001||28||0||6||0||1||0||35||0 |- |2002||30||0||0||0||3||0||33||0 |- |2003||28||0||6||0||2||0||36||0 |- |2004||26||0||0||0||2||0||28||0 |- |2005||32||0||0||0||1||0||33||0 |- |2006||24||0||2||0||2||0||28||0 |- |2007||29||0||4||0||2||0||35||0 |- |2008||30||0||2||0||1||0||33||0 |- |2009||26||0||0||0||3||0||29||0 |- |2010||34||0||0||0||0||0||34||0 |- |2011||24||0||2||0||3||0||29||0 |- |2012||32||0||1||0||4||0||37||0 |- |2013||34||0||6||0||1||0||41||0 |- |2014|||||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始536||0||56||0||46||0||638||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終536||0||56||0||46||0||638||0 |}
その他の国内公式戦
- 2000 XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- 2011 XEROX SUPER CUP 1試合0得点
テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2009||rowspan=3|名古屋||rowspan=3|1||6||0 |- |2011||6||0 |- |2012||7||0 |- !通算!!colspan="2"|AFC |19||0 |}
その他の国際試合
- 2000/01 アジアカップウィナーズカップ 2試合0得点
代表歴
出場大会など
- 1996年 AFCアジアカップ (出場なし)
- 1998年 FIFAワールドカップ・フランス大会 (出場なし)
- 1999年 コパ・アメリカ (1次リーグ敗退、3試合中2試合出場)
- 2000年 シドニーオリンピック (オーバーエイジ枠で全試合出場)
- 2002年 FIFAワールドカップ・日韓大会 (全試合出場)
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ (全試合出場)
- 2003年 東アジアサッカー選手権 (全試合出場)
- 2004年 AFCアジアカップ (出場なし)
- 2006年 FIFAワールドカップ・ドイツ大会 (出場なし)
- 2007年 AFCアジアカップ (出場なし)
- 2010年 FIFAワールドカップ・南アフリカ大会 (出場なし)
試合数
- 国際Aマッチ 77試合 0得点 (1998 - 2010)[2]
テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1998||2||0 |- |1999||3||0 |- |2000||9||0 |- |2001||1||0 |- |2002||10||0 |- |2003||12||0 |- |2004||9||0 |- |2005||4||0 |- |2006||0||0 |- |2007||1||0 |- |2008||12||0 |- |2009||6||0 |- |2010||8||0 |- !通算 |77||0 |}
主な受賞歴
- 横浜フリューゲルス
- 1998年 天皇杯優勝
- 名古屋グランパスエイト/名古屋グランパス
- 1999年 天皇杯優勝
- 2010年 Jリーグ優勝
個人
- Jリーグ最優秀選手賞 (2010年)
- Jリーグベストイレブン (1996年、1998年、 2003年、2008年、2010年、2011年)
- Jリーグ優秀選手賞 (1997年、1998年、1999年、2000年、2002年、2003年、2004年、2008年、2010年、2011年)
出演
CM
映画
- 名探偵コナン 11人目のストライカー (2012年)
エピソード・その他
- シドニーオリンピック準々決勝のアメリカ戦で味方選手と衝突、流血しながら最後までプレーを続けた(試合後に病院に直行。左眉付近が骨折していることが判明した)がPK戦で敗れる。これには後日談があり、アテネ五輪の日本代表監督を務めた山本昌邦が五輪代表のキャンプでシドニーの同じ会場を訪れた際、選手たちに「あれが楢崎が血を流してまで守ろうとしたゴールだ。しっかり目に焼きつけておくように」と語った逸話がある[6]。
- 横浜フリューゲルスへの思い入れが強い。ライバルの川口能活が当時マリノスにいたこともあり、フリューゲルス合併後に統合チーム(F・マリノス)へ所属するという見方はほとんどなかった。「前所属・横浜フリューゲルス」を消したくないので、できるならもう移籍したくないという発言をしている。[7]
- 2010年6月3日号の週刊文春で、阿川佐和子との対談記事の中で、シーズンオフの契約更改で、提示された年俸に対して、「高過ぎる」と辞退した事があったとのことテンプレート:要ページ番号。
- テンプレート:要出典範囲
関連項目
- 横浜フリューゲルスの選手一覧
- 名古屋グランパスの選手一覧
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
- 2002 FIFAワールドカップ日本代表
- 2006 FIFAワールドカップ日本代表
- 2010 FIFAワールドカップ日本代表
脚注
著書
- 「失点 取り返せないミスの後で」2010年6月4日発売 幻冬舎
外部リンク
テンプレート:Navboxes- ↑ 1.0 1.1 日本サッカー協会編「日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011」
- ↑ 2.0 2.1 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「daihyo
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 岡田監督、戦法変える! 岡崎1トップ デイリースポーツ
- ↑ 楢崎とケネディが揃って「バッサリ」合流 エル・ゴラッソ 2010年7月10日閲覧
- ↑ 楢崎が代表引退を表明 スポーツナビ 2010年9月7日閲覧
- ↑ 代表のゴールを明け渡す楢崎正剛。対照的な川口の決断と、川島の課題。(2ページ目)-Number Web
- ↑ 繰り返すな! 横浜フリューゲルスの悲劇-フットボールチャンネル