長谷部誠
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:サッカー選手 長谷部 誠(はせべ まこと、1984年1月18日 - )は、静岡県藤枝市出身のプロサッカー選手。ブンデスリーガ・アイントラハト・フランクフルト所属。ポジションはMF、DF。日本代表のキャプテンを務めている。
目次
来歴
生い立ち
静岡県藤枝市出身。祖父が「誠」と命名。3歳のときにサッカーアニメ「キャプテン翼」の大空翼に憧れてサッカーを始め、藤枝市立青島東小学校のスポーツ少年団、藤枝市立青島中学校サッカー部を経て、静岡県の名門藤枝東高校に入学。同期には岡田佑樹、金澤大将などがいる。2年の終わり頃からレギュラーとしてプレーした[1]。U-18日本代表候補への選出、全国総体準優勝などの実績はあるものの高校サッカー選手権出場は果たせなかった[2][3]。当時のコーチや対戦相手の監督からは能力は高いもののフィジカルが弱すぎると評価されていた。静岡県内のプロクラブへの入団を希望していたがオファーが届かず、県選抜でのプレーを見た浦和のスカウトから誘いを受け[3]、この他には名古屋からも興味を示されていた[4]。
浦和レッズ
高校卒業と同時に、浦和レッズに入団。1年目はほとんど出場機会がなかったが、2年目の2003年はトップ下やボランチの選手として年間通して出場機会を得た。そして、3年目の2004年はシーズン当初こそ山瀬功治に代わってトップ下で出場していたが、シーズン中盤以降は鈴木啓太とダブルボランチを組み、浦和の2ndステージ優勝などに大きく貢献した。この年はナビスコカップ・ニューヒーロー賞、Jリーグ・ベストイレブンに選出された。
2005年から2007年の間も鈴木啓太と中盤の底でコンビを組み、J1優勝やAFCチャンピオンズリーグ優勝をはじめとした浦和のタイトル獲得にレギュラーとして貢献した。2005年末に初めて日本代表に選ばれたが、2006年のワールドカップの代表メンバーからは漏れてしまう。その後、イビチャ・オシムが監督を務めると日本代表に復帰したが、2007年はシーズン序盤に負傷したこともあって代表戦の出場機会はなく、同年12月に代表監督に再任した岡田武史に選ばれるまでは日本代表から遠ざかっていた。
ヴォルフスブルク
2008年1月1日、ドイツ・ブンデスリーガのVfLヴォルフスブルクに移籍。代理人は香川真司、内田篤人らと同じトーマス・クロート。2月、冬季中断明け初戦のビーレフェルト戦に後半開始から出場し、海外リーグでのデビューを移籍後早々に果たした。同年4月27日のアウェーでのレバークーゼン戦でブンデスリーガ初得点を記録。
移籍2シーズン目となる2008-09シーズンは前シーズンまでのボランチに加え、右サイドハーフ、右サイドバックでもプレー。2009年3月28日に行われた南アフリカワールドカップ・アジア最終予選バーレーン戦の試合中の故障により、優勝争いも佳境に迫ったリーグ終盤戦に一時離脱するアクシデントがあったものの、クラブのドイツ国内主要大会初優勝に貢献した。このシーズン途中に移籍してきた大久保嘉人とともに、奥寺康彦以来31年ぶりにブンデスリーガ優勝を経験した日本人となった。
9月16日、UEFAチャンピオンズリーグの開幕戦であるCSKAモスクワ戦に途中出場し、日本人選手として5人目のUEFAチャンピオンズリーグ出場を果たした。また、リーグ戦では9月18日の第6節シャルケ04戦でエディン・ジェコの決勝点をアシスト、9月26日の第7節ハノーファー96戦で今季初得点を決めるなどの活躍を見せ、2009-10シーズンはリーグ戦1得点6アシストを記録する。9月30日、CLグループリーグ第2節、アウェーでのマンチェスター・ユナイテッド戦ではスタメン出場し、後半11分に絶妙なクロスでジェコの先制点をアシストした。
2011年8月19日、ボルシアMG戦で2シーズンぶりとなるリーグ戦での得点を決めた。9月17日、第6節ホッフェンハイム戦では右サイドバックとして出場するも、1点ビハインドでの後半35分にGKのマルヴィン・ヒッツがレッドカードで退場。チームは既に交代枠を使い切っていたため、長谷部が急遽GKを務めることになった[5]。馴れないポジションでありながら、正確なロングフィードを出したり、クロスボールにも飛び出してキャッチするなど奮闘するも、後半40分に失点し、チームは1-3で敗戦した。なお、日本人が欧州5大リーグでGKを務めるのはこれが初めてであった。2011-12シーズンは23試合に出場するも本職とは違うサイドバックでの起用がほとんどであった。
2012-13シーズンに入ると開幕から8試合連続ベンチ外という苦しい状況が続いたが、成績不振により監督のフェリックス・マガトが解任された直後の第9節デュッセルドルフ戦でリーグ戦初出場を果たすと、アシストを決めるなどチームの開幕戦以来の勝利に貢献した。その後は前シーズンと同じくサイドバックでの起用が多かったがスタメンの座は守った。
ニュルンベルク
2013-14シーズン開幕後、本職であるボランチでの出場を希望し自ら移籍を志願。2013年8月31日、1.FCニュルンベルクへの移籍が発表された。ニュルンベルクはそれまで勝利がなく、長谷部にかかる期待は大きかったが以降もチーム状況は上向かず、結局ブンデスリーガ史上初の前半戦未勝利に終わった。1月の合宿で右ひざの半月板を損傷し離脱すると、2月にはチーム練習に合流するも再び同箇所を痛め帰国。2月28日に再手術を行ったことがクラブより発表された。5月11日の最終節で復帰を果たしたが、チームは不振から脱せず2部降格となってしまった。シーズン終了後、フランクフルトへ移籍。
日本代表
2006年1月の代表合宿、2月のアメリカ遠征の際にサッカー日本代表に初選出された。2月11日、親善試合のアメリカ戦では後半途中から出場し、持ち味であるドリブル突破や試合終了間際に見せたスルーパスなど、デビュー戦ながら存在感を示した。2月22日のアジアカップ予選のインド戦に先発し、後半13分に代表初得点を決めたかと思われたが、審判団の協議の結果、長谷部のシュートが巻誠一郎に当たって入っており巻の得点となった。2006年のドイツワールドカップのメンバーには選ばれなかった。イビチャ・オシムが日本代表監督に就任すると、再び代表に選出されたが、2007年以降は代表から漏れることが多くなった。
2008年5月15日、岡田武史の監督就任後初めて日本代表に選出。キリンチャレンジカップ第1戦(対コートジボワール)に出場し、前半、右サイドを駆け上がっての絶妙なセンタリングで、同じく代表に復帰した玉田圭司のゴールをアシスト。1-0の勝利に大きく貢献した。以後の代表戦において、遠藤保仁とのダブルボランチを形成しレギュラーに定着する。
2009年6月6日、ワールドカップ出場権獲得に王手をかけた南アフリカワールドカップ・アジア最終予選アウェーでのウズベキスタン戦にスタメン出場。この試合に1対0で勝利し、4大会連続4度目のW杯出場を決めた。
11月18日、アジアカップ最終予選の香港戦で代表初得点を挙げた。
2010年5月10日、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに選出。岡田から長らくキャプテンを務めていた中澤佑二に代わるキャプテンに指名され、W杯ではグループリーグ3試合と決勝トーナメント1回戦に先発出場し、日本代表のベスト16入りに貢献した。
10月8日、国際親善試合のアルゼンチン戦では、岡崎慎司の決勝点の起点となる強烈なミドルシュートを放つなど活躍し、日本代表の歴史的勝利に貢献した[6]。
南アフリカW杯後に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニからも引き続きキャプテンを任され、2011年1月にカタールで開催されたアジアカップでは、全6試合にフル出場し、日本代表の2大会ぶりの優勝に貢献。グループリーグのシリア戦では先制点を挙げた。
2014年6月に開催された2014 FIFAワールドカップ前には、同年2月に手術した右膝の炎症が再発し直前の親善試合を全て欠場。本大会では全試合スタメンで出場したが、チームはグループリーグ敗退となった。
プレースタイル
センターハーフを本職としつつサイドでの起用にも対応する高い戦術理解力と抜群の安定感を兼ね備える[7]。献身的なプレスでボール奪取に貢献し、裏をつく長距離ドリブルと絶妙なスルーパスで決定機を演出するテンプレート:要出典。
浦和レッズ時代は繊細なボールタッチを持ち味とする司令塔として活躍したが、ヴォルフスブルク移籍後は中盤の攻撃的な位置や守備的な位置に加え、最終ラインに入ることもできるユーティリティプレイヤーに進化[8]。持ち前のテクニックに加え、欧州仕様のフィジカルと対人プレーの強さを体得し、守備でも危険察知力、カバーリングが成長した[9][10][11]。
エピソード
- ゴールを決めたときに天に向かって人差し指を突き上げるゴールパフォーマンスをする。これはプロ1年目のときに亡くなった祖父を想ってのことである。祖父は長谷部が大学進学かプロ入りかを迷っていたとき、周囲がプロ入りに反対する中でも「男なら挑戦してみろ」と背中を押してくれたという[12]。
- Mr.Childrenの大ファンでブログにて好きな曲ベスト10を発表しているほか[13]、長谷部を特集した2011年7月10日放送の「ソロモン流」の中で桜井和寿との対談が実現している。また、2012年4月から自身が出演するキリンビバレッジ 『大人のキリンレモン』のCMには、本人が大好きな楽曲であるという縁から、「youthful days」がCMソングとして起用された。[14]
- ワールドカップ南アフリカ大会での活躍により、2010年7月に藤枝市スポーツ栄誉顕彰を授与された[15]。
- 2011年3月に幻冬舎から出版した自己啓発書『心を整える。』から得た印税は全額を同月に発生した東日本大震災の支援のために日本ユニセフに寄付することを決めた[16]。本は9月までに100万部を売り上げ、スポーツ選手の著書としては初のミリオンセラーとなった[17]。2013年3月のビルト紙によると、売上は140万部を超えており寄付額も180万ユーロに達している[18]。
所属クラブ
- ユース経歴
- プロ経歴
- 2002年 - 2007年 テンプレート:Flagicon 浦和レッドダイヤモンズ
- 2008年 - 2013年 テンプレート:Flagicon VfLヴォルフスブルク
- 2013年 - 2014年 テンプレート:Flagicon 1.FCニュルンベルク
- 2014年 - 現 在 テンプレート:Flagicon アイントラハト・フランクフルト
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2002||rowspan="6"|浦和||32||rowspan="6"|J1||0||0||1||0||0||0||1||0 |- |2003||rowspan="5"|17||28||2||9||1||1||1||38||4 |- |2004||27||5||8||2||4||2||39||9 |- |2005||31||2||9||2||5||2||45||6 |- |2006||32||2||6||0||4||1||42||3 |- |2007||31||1||2||0||1||0||34||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2007-08||rowspan="7"|ヴォルフスブルク||rowspan="7"|13||rowspan="9"|ブンデス1部||16||1||colspan="2"|-||1||0||17||1 |- |2008-09||25||0||colspan="2"|-||2||0||27||0 |- |2009-10||24||1||colspan="2"|-||1||0||25||1 |- |2010-11||23||0||colspan="2"|-||1||0||24||0 |- |2011-12||23||1||colspan="2"|-||1||0||24||1 |- |2012-13||23||2||colspan="2"|-||4||0||27||2 |- |rowspan="2"|2013-14||1||0||colspan="2"|-||0||0||1||0 |- |ニュルンベルク||15||14||0||colspan="2"|-||0||0||14||0 |- |2014-15||フランクフルト||20||||||colspan="2"|-|||||||| |- テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始149||12||35||5||15||6||199||23 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行149||5||colspan="2"|-||10||0||159||5 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終298||17||35||5||25||6||358||28 |} その他の公式戦
- 2004年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2006年
- スーパーカップ 1試合0得点
テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2007||浦和||17||11||2||3||0 |- テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |- |2008-09||rowspan="2"|ヴォルフスブルク||rowspan="2"|13||6||1||colspan="2"|- |- |2009-10||2||0||6||0 |- !通算!!colspan="2"|AFC |11||2||3||0 |- !通算!!colspan="2"|UEFA |8||1||6||0 |- |} その他の国際公式戦
- 2007年
- A3チャンピオンズカップ 3試合1得点
経歴
- 公式戦初出場:2002年5月12日 ナビスコカップ vs名古屋グランパス (駒場スタジアム)
- 公式戦初得点:2003年7月2日 ナビスコカップ vs東京ヴェルディ1969 (味の素スタジアム)
- A代表初出場:2006年2月11日 親善試合 vsアメリカ (アメリカ・サンフランシスコ/SBCパーク)[19]
- A代表初得点:2009年11月18日 AFCアジアカップ2011 (予選) vs香港 (香港/香港スタジアム)[19]
タイトル
クラブ
- AFCチャンピオンズリーグ : 2007年
- Jリーグ : 2006年
- 天皇杯 : 2005年、2006年
- ナビスコカップ : 2003年
- XEROX SUPER CUP : 2006年
代表
- テンプレート:Flagicon 日本代表
個人
- ナビスコカップ・ニューヒーロー賞 (2004年)
- Jリーグベストイレブン 1回 (2004年)
- Jリーグアウォーズ・優秀選手賞 4回 (2004年 - 2007年)
代表歴
出場大会
- U-19日本代表
- 2002年 ノキア・デビテル杯
- U-20日本代表
- 2003年 トゥーロン国際大会
- 日本代表
- 2010年 2010 FIFAワールドカップ
- 2011年 AFCアジアカップ2011
- 2013年 FIFAコンフェデレーションズカップ2013
- 2014年 2014 FIFAワールドカップ
試合数
- 国際Aマッチ 81試合 2得点 (2006年 -)[19]
テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |2006||6||0 |- |2007||0||0 |- |2008||10||0 |- |2009||11||1 |- |2010||10||0 |- |2011||15||1 |- |2012||11||0 |- |2013||14||0 |- |2014||4||0 |- !通算 |81||2 |}
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2009年11月18日 | 香港 | テンプレート:HKGf | ○4-0 | AFCアジアカップ2011最終予選 |
2. | 2011年1月13日 | カタール | テンプレート:SYRf | ○2-1 | AFCアジアカップ2011 |
出演
CM
イメージキャラクター
書籍
- 2011年3月 『心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣』 (幻冬舎) ISBN 978-4344019621
関連項目
脚注
外部リンク
テンプレート:アイントラハト・フランクフルトのメンバー テンプレート:Jリーグベストイレブン (MF) テンプレート:Jリーグカップニューヒーロー賞
テンプレート:Navboxes- ↑ 広報ふじえだ、2009年5月20日
- ↑ W杯アジア地区最終予選 Jで成長の県勢がけん引、中日新聞、2009年6月7日
- ↑ 3.0 3.1 挑む県勢(5) 浦和 長谷部誠(22) 日本サッカーの新星、静岡新聞、2006年5月1日
- ↑ 『スポーツパラダイス』(静岡朝日テレビ、2009年6月18日放送)
- ↑ “緊急GK”長谷部!奮闘も1対1決められたスポニチ、2011年9月17日
- ↑ キャプテン・長谷部、V弾呼ぶ強烈ミドルサンスポ、2010年10月9日
- ↑ 長谷部誠が迎えるキャリアの分岐点。「ヴォルフスブルクを去ることが最良の選択」な理由とは socer king 2012年07月16日
- ↑ 日本人ブンデスリーガーの貢献度を測る ドイツ人記者が分析する今後の活躍指数 スポーツナビ 2013年3月6日
- ↑ 長谷部誠 Number Web
- ↑ 長谷部 誠 OCNスポーツ
- ↑ 17長谷部 誠 Number Web
- ↑ 岡田Jの心臓・長谷部 背中押してくれた祖父に誓う活躍、朝日新聞、2010年6月15日配信、9月3日閲覧。
- ↑ Mr.Children、GUAPOオフィシャルブログ、2010年4月23日
- ↑ Mr.Children名曲が長谷部×翼「大人のキリンレモン」CM曲に 2012年4月3日付 ナタリー
- ↑ 藤枝市、長谷部をスポーツ栄誉顕彰…市民に感動読売新聞、2010年7月3日
- ↑ 長谷部 7万超え自著の印税全額を寄付へスポニチ、2011年3月27日
- ↑ 長谷部誠選手:著書「心を整える」が100万部突破 スポーツ選手の著作で初まんたんウェブ、2011年9月15日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 19.0 19.1 19.2 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません