中澤佑二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:サッカー選手 中澤 佑二(なかざわ ゆうじ、1978年2月25日 - )は、横浜F・マリノスに所属する日本サッカー選手埼玉県北葛飾郡吉川町(現:吉川市)出身。ポジションディフェンダー(DF)で、センターバック(CB)を務める。

日本代表でも長年中心選手として活躍しており、出場数は歴代4位の110試合を記録している[1]。また、2010 FIFAワールドカップの開幕前までキャプテンを務めていた(開幕時より長谷部誠に変更)。

来歴

幼少期~ブラジル留学時代

サッカーを始めたのは小学校6年生とプロ選手の中では遅めだった[2]埼玉県立三郷工業技術高等学校はサッカーの名門校ではなかったために、卒業後Jリーグに売り込む価値を上げるべくブラジルへサッカー留学を計画する。ブラジルのサッカークラブ・FCアメリカに加入し、次第に練習試合などにも起用されるようになった。チームメイトにはジウベルト・シウバなどがいた。一年後にビザ更新の為日本に帰国したところクラブから必要書類が届かずブラジルでのプレーを断念した。

練習生時代

Jリーグの各クラブへ売り込みをかけたがどのクラブからも誘いは来ず、母校のサッカー部で在校生に混じって練習を続ける。1998年にヴェルディ川崎のユースチームとの練習試合で得点を挙げ、これをきっかけに練習生契約での入団が決まる。練習生契約では給料は支払われず、必要費用をクラブに支払って練習に参加する。認められればプロと一緒に練習が出来るが、クラブからは交通費など金銭補助は無く自腹での練習参加の身となり、地元の埼玉県吉川市からヴェルディの練習場がある東京都稲城市まで(交通費は往復で約1800円)片道2時間かけて練習に参加していた。この時の待遇と経験は本人にとっても屈辱だったようで、プロの練習を横目に単調な反復の基礎体力練習に明け暮れ、練習に付き合ってくれたトレーナーと共に嘆息していた[3]

Jリーグでの活躍

1999年からプロ契約がきまった。同年のシーズンでレギュラーポジションを獲得し、Jリーグ新人王に輝き、シドニー五輪をめざすトルシエ率いるU-23サッカー日本代表に招集され本大会にも出場。

2002年に横浜F・マリノスに移籍し、チーム初の2連覇(2003年2004年)と3ステージ連続優勝(2003年1st、2ndステージ完全制覇、2004年1stステージ)。2004年度にはJリーグMVPを受賞した。2006年のオールスターゲームでは、当時の日本代表GK川口能活から直接フリーキックを決め、DFとして初めてMVPを受賞した[4]。本人のインタビューによれば、直接フリーキックでのゴールは初めてとのこと[5]

日本代表

1999年9月8日に行なわれたイランとの親善試合でA代表デビューを果たし、翌2000年に行なわれたAFCアジアカップ2000予選シンガポール戦で代表初得点[6]。その後はシドニーオリンピックAFCアジアカップ2000ではレギュラーとして活躍するが、2001年に入ってからスランプに陥り、代表でも同ポジションの松田直樹の控えに甘んじる事が増え、2002 FIFAワールドカップ本大会のメンバー入りは叶わなかった。

その後しばらくの間招集されることはなかったが、2003年に横浜を年間優勝に導く活躍から代表へと復帰を果たす。復帰してからしばらくは控えであったものの、ジーコ監督が本格的に3バックを導入した頃からレギュラーとして出場することが増え、AFCアジアカップ2004ではグループリーグのタイ戦で決勝点を含む2得点、バーレーンとの準決勝では敗戦の危機を救う同点ゴールを決めるなど、玉田圭司と並んでチームトップタイの3得点を記録する活躍で優勝の原動力となった。その後もレギュラーとして出場を続け、2006 FIFAワールドカップ本大会ではグループリーグ全3試合にフル出場したが、決勝トーナメント進出はならなかった。

ワールドカップ終了後に日本代表から引退することを発表し、2006年内は代表戦に出場しなかったものの、2007年2月千葉県内で行われる日本代表候補合宿のオシムジャパン体制でメンバーに初選出され、代表復帰を果たした。その後は不動のレギュラーとして君臨し、2010 FIFAワールドカップでは田中マルクス闘莉王とともにセンターバックのコンビを組んでグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合に先発出場し、日本代表の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に大きく貢献。大会終了後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成した報告書では、空中戦の強さと視野の広さがあると評されている[7]

日本代表では守備だけでなくセットプレーにおける得点源としても活躍し、通算得点数17は日本代表におけるDF登録の選手では史上最多記録である。

評価

デンマークで発行されているワールドカップ専門雑誌『VM2010』において、1対1での守備力の高さや得点力を理由に、闘莉王と共に脅威的存在であると報道されている[8]

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1996||rowspan="2"|アメリカ-MG|||||||||||||||||||| |- |1997|||||||||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1999||rowspan="2"|V川崎||rowspan="3"|22||rowspan="15"|J1||28||1||2||0||3||1||33||2 |- |2000||29||4||3||0||2||0||34||4 |- |2001||東京V||26||0||2||0||0||0||28||0 |- |2002||rowspan="12"|横浜FM||38||27||1||0||0||2||0||29||1 |- |2003||rowspan="11"|22||29||4||7||2||2||0||38||6 |- |2004||27||1||0||0||1||0||28||1 |- |2005||27||3||3||0||1||0||31||3 |- |2006||23||1||2||0||3||0||28||1 |- |2007||32||2||7||0||1||0||40||2 |- |2008||33||4||3||0||3||1||39||5 |- |2009||32||3||3||0||1||0||36||3 |- |2010||22||0||2||1||0||0||24||1 |- |2011||33||1||5||0||5||0||43||1 |- |2012||33||3||3||0||5||0||41||3 |- |2013||34||1||8||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始|||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行435||29||50||1||30||2||515||31 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終|||||||||||||| |} その他の公式戦

テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2004||rowspan="2"|横浜FM||rowspan="2"|22||2||0 |- |2005||4||0 |- !通算!!colspan="2"|AFC |6||0 |}

個人タイトル

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 110試合 17得点 (1999年 -2010年)[6]

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1999||1||0 |- |2000||6||2 |- |2001||2||0 |- |2002||1||0 |- |2003||4||0 |- |2004||15||5 |- |2005||12||1 |- |2006||12||1 |- |2007||13||2 |- |2008||16||4 |- |2009||14||2 |- |2010||14||0 |- !通算 |110||17 |}

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2000年2月13日 マカオ テンプレート:SINf ○ 3-0 AFCアジアカップ2007 (予選)
2.
3. 2004年6月9日 日本埼玉 テンプレート:INDf ○ 7-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選
4.
5. 2004年7月24日 中国重慶 テンプレート:THAf ○ 4-1 AFCアジアカップ2004
6.
7. 2004年8月3日 中国、済南 テンプレート:BHRf ○ 4-3
8. 2005年8月7日 韓国大邱 テンプレート:KORf ○ 1-0 東アジアサッカー選手権2005
9. 2006年2月10日 アメリカサンフランシスコ テンプレート:USAf ● 2-3 国際親善試合
10. 2007年6月1日 日本、袋井 テンプレート:MNEf ○ 2-0 キリンカップサッカー2007
11. 2007年7月25日 ベトナムハノイ テンプレート:KSAf ● 2-3 AFCアジアカップ2007
12. 2008年1月30日 日本、埼玉 テンプレート:BIHf ○ 3-0 キリンチャレンジカップ2008
13. 2008年2月6日 日本、横浜 テンプレート:THAf ○ 4-1 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選
14. 2008年6月2日 日本、東京 テンプレート:OMAf ○ 3-0
15. 2008年6月14日 タイバンコク テンプレート:THAf ○ 3-0
16. 2009年2月4日 日本、東京 テンプレート:FINf ○ 5-1 キリンチャレンジカップ2009
17. 2009年10月8日 日本、静岡 テンプレート:HKGf ○ 6-0 AFCアジアカップ2011 (予選)

エピソード

テンプレート:スポーツ選手の出典明記

  • 高校時代、プロサッカー選手になる夢を誰にも信じてもらえず、サッカー部の監督だけが相談相手だったという。
  • ヴェルディの練習生時代、少しでもサッカー関係者の目につくようにという理由で、伸ばし始めたセミロングにパーマをかけた独特のヘアスタイルにする。それまでは坊主だった。このヘアスタイルはのちに「ボンバーヘッド」と命名され、いまや本人の代名詞となっている。一時期そのボンバーヘッドをばっさりと切ったことがあるが、すぐに戻した(短髪の中澤が出場した試合で解説を務めた早野宏史からは「短いのも悪くない」と評されている)。略して「ボンバー」という愛称で呼ばれることも多く、2009年シーズンより、ユニフォームの背中ネームも「NAKAZAWA」から「BOMBER」に変更している[注釈 1]
  • 本人は「髪が短いほうが楽」と述べており切りたがっているが、上記の理由もあり髪型をキープしている。また「引退したら切る」とも述べている。
  • 練習生時代、同じくブラジル留学経験のある三浦知良に「同じ留学経験のあるカズさんなら」とブラジル留学時代と同じようなハードタックルをした所、カズが「ふざけんじゃねえよ!誰だお前!」と激怒し、髪を鷲掴みされ引きずられた。後にカズはこれについて「僕も若かったから」と苦笑している。なお、2011年3月に行なわれたチャリティーマッチではカズと共にJリーグ選抜として選出され、肩を並べて選手の集合写真に写っている。
  • 2002年開幕直前にヴェルディから横浜F・マリノスへ移籍を決断するが、ヴェルディに所属する唯一の代表選手ということで、正式決定までに時間が掛かり開幕直前の発表となった。その影響で同シーズン用の集合写真や選手プロフィール用の撮影が済んでしまっていたことから、2002年の選手名鑑等に掲載されるチームの集合写真ではマリノスではなくヴェルディの集合写真に中澤の姿がある。
  • 横浜FMに移籍した2002年は、第7節ジュビロ磐田戦で移籍後初得点を決めたが、その2節前の第5節ガンバ大阪戦での移籍後初オウンゴールの方が先になった。
  • 2007年に日本代表復帰を決断した理由として、バスケットボール選手の田臥勇太と対談した際に「自分がNBAに挑戦することで何か変えられるのでは」という田臥の言葉を聞いて「僕は良い環境にいながら、なぜここで立ち止まっているんだ」と考えたことがきっかけであるとコメントしている。
  • 早寝早起きで毎日早朝のランニングを欠かさない。
  • 妻から貰う小遣いは月5万円である事を自身のブログやインタビューで告白している。
  • 安室奈美恵のファンであることを公言しており、毎年ライブにも行っている。
  • 地元吉川市で「NAKAZAWA SC」というサッカースクールを開設している。
  • 2007年のファン感謝イベントで若手選手たちと一緒に「DJオズマリノス」と称して「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」でダンスを披露した。この好評を受けて、2008年はマリザイル、2009年はマリケル・ジャクソンと銘打ち、2013年はゴールデンボンバーの樽美酒研二に扮しダンスを披露。F・マリノスのファン感謝祭をレベルの高いものとしている。2011年は「オレっち」と称してなぞかけを披露した。
  • 週刊ヤングマガジンに『中澤佑二物語』(塀内夏子原作)という漫画が不定期連載され、2009年に講談社より単行本化された。中澤のブラジル時代からのエピソードが描かれている。単行本化に際し受けたインタビューでは「本屋で見つけたら目立つように並べ替えたいくらいです」と語り、喜びを表した[9]
  • M-1グランプリの決勝戦で、2007年度から毎年スタジオゲストとして出演していた。
  • 毎年撮影されるチームの集合写真では一人だけ顔を違う方向に向けている(高校時代から集合写真は1人明後日の方向を見ていると後輩の間では有名)。
  • 代表のチームメイトでは楢崎正剛中村俊輔と仲がよい。なお、日本代表における得点の1点目から4得点目までは中村のアシストから決めたものである。
  • 2010年6月11日に放送されたアニメ「クレヨンしんちゃん」にサッカー仙人役で出演し、声優デビューを果たした。

出演CM

注釈

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 三浦知良の「KAZU」、中村憲剛の「KENGO」、佐藤勇人の「YUTO」など、本名をもじった愛称をユニフォームに入れた先例はあったが、本名に全く関係ない愛称を入れたのは、同年に「JIRO」に変更したチームメイトの清水範久とともにJリーグで初めてである

参考文献

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. テンプレート:Cite news
  2. プロフェッショナル 仕事の流儀 第113回 2009年3月17日放送。
  3. 媒体などでこの頃を振り返る時もかなりトーンダウンで語っているが、自らの体験を踏まえ、実績がなくて無名であってもプロの門を叩く者らにエールを送っている。
  4. MVPは中澤(横浜FM)の手に!年に一度のJリーグの祭典にサポーターが酔いしれたJ's GOAL、2006年7月16日発行。
  5. MVP賞を受賞した中澤佑二選手(EAST/横浜FM)の試合終了後のコメント、J's GOAL、2006年7月16日発行。
  6. 6.0 6.1 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「daihyo」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  7. ドリブル技術の高さ 空中戦の強さ FIFAが評価した日本代表3人 - スポニチ 2010年9月3日(2010年9月5日時点のアーカイブ
  8. “得点源”中沢&闘莉王をデンマークが警戒 スポーツニッポン 2010.5.23付記事
  9. 週刊ヤングマガジン 2009年6月15日号

関連項目

外部リンク

テンプレート:横浜F・マリノスのメンバー テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes