鈴木啓太

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テンプレート:サッカー選手 鈴木 啓太(すずき けいた、1981年7月8日 - )は、日本プロサッカー選手静岡市清水区出身。Jリーグ浦和レッドダイヤモンズ所属。ポジションはMF。夫人はファッションモデル畑野ひろ子。同じくサッカー選手の水野晃樹は従弟[1]日本プロサッカー選手会副会長。元日本代表。マネジメントではスターポリスと業務提携。

来歴

小学生時代は清水FCに所属し、1993年の第17回全日本少年サッカー大会で準優勝を経験。また、中学時代は東海大一中(現在の東海大学付属翔洋中学校)の一員として全国中学校サッカー大会優勝の原動力となった。

東海大翔洋高校卒業後、2000年浦和レッドダイヤモンズに加入し、天皇杯でプロ初出場。翌年のヴィッセル神戸戦でリーグ戦初出場を果たし、そのままレギュラーに定着。2002年からはアテネオリンピックを目指すU-23日本代表にも招集されるようになり最終予選ではキャプテンも務めるも、監督であった山本昌邦が複数ポジションをこなせるユーティリティプレイヤーを好んで選出したため、本大会には選出されなかった。

2006年、日本代表監督にイビチャ・オシムが就任。A代表に初招集され、同年8月9日キリンチャレンジカップトリニダード・トバゴ戦で初出場を果たし[2]、以後オシムジャパンでは唯一全試合先発出場を続けた。

また、クラブでの活躍により2006年、2007年と2年連続でJリーグベストイレブンに選出される。2008年にはサッカー担当記者選出の日本年間最優秀選手賞を受賞している。

2008年は前年まで浦和、日本代表で過密日程の中、フル稼働した疲労が溜まった影響か、扁桃炎の発症や度重なる負傷に苛まれ、苦しいシーズンを送った。また、代表でも扁桃炎で離脱している間に長谷部誠ボランチの定位置を奪われ、病気から復帰した後も本来のプレーを取り戻せないことも相まって2008年6月以降は日本代表に招集されていない。

2009年山田暢久に替わり、チームキャプテンに就任。主に阿部勇樹ボランチでコンビを組み、大きな怪我も無くほぼフル稼働し、浦和の中盤を支え続けた。また、9月19日J1第26節川崎フロンターレ戦では自身2年振りとなるゴールも記録した。

2010年も引き続きチームキャプテンに就任。しかし、細貝萌の台頭などもあり、序盤は阿部勇樹、細貝萌のボランチのコンビが機能していた影響で、自然にベンチを温める機会が多くなった。 8月末に阿部がレスター・シティFCに移籍した影響でボランチの層が薄くなったものの、ここでも怪我などが重なりレギュラー奪取とは行かず、最終的に公式戦出場試合数は前年の約半分程に減った。

2011年ゼリコ・ペトロビッチ新監督からチームキャプテンに指名され[3]、これで3年連続でチームキャプテンを任される形となった。この年はプレシーズンマッチから先発で起用されたが、開幕戦の神戸戦で退場処分を受け、東日本大震災中断明けの第7節名古屋グランパス戦は出場停止となり欠場。その後、出場停止明けの数試合は山田暢久にボランチのポジションを譲ったが、程なくしてレギュラーに復帰。監督が堀孝史に交代後は4-1-4-1システムのアンカーのポジションを任され、J1残留に大きく貢献した。

2012年は阿部勇樹が復帰したことで3年続いたチームキャプテンを譲る形となった。怪我も無く、阿部と共にほぼ全試合に出場した。天皇杯2回戦ヴォルカ鹿児島戦で、前半で散漫なプレーから濱田水輝が交代させられたため、後半開始から阿部勇樹センターバック、鈴木啓太ボランチで入ったものの、攻守にバランスが取れなかったことからポジションチェンジが行われ、公式戦で初めてセンターバックに入った。

2013年はJリーグでは、那須大亮の加入もありゲーム終盤では、トップ下に入る試合が多い。また、ACLでは那須がボランチ出場するためベンチスタートが続いたが、永田充の怪我で那須のセンターバック起用によってACLでもボランチ出場している。

私生活では2008年8月20日ファッションモデル畑野ひろ子との結婚と同時に畑野の妊娠が発表され[4]、2009年1月4日に披露宴が執り行われた。 2008年10月下旬に、PRIMA★STELLA RECORDSより、スペイン音楽より本人が選曲したコンピレーションアルバム「TRIP IN SPAIN」が発売された。

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2000||rowspan="15"|浦和||31||J2||0||0||0||0||2||1||2||1 |- |2001||rowspan="14"|14||rowspan="14"|J1||15||1||2||0||4||0||21||1 |- |2002||26||1||4||1||1||0||31||2 |- |2003||29||1||10||1||1||0||40||2 |- |2004||25||0||8||0||4||0||37||0 |- |2005||29||0||6||2||4||0||39||2 |- |2006||31||1||6||0||5||0||42||1 |- |2007||33||1||0||0||1||0||34||1 |- |2008||23||0||1||0||2||0||26||0 |- |2009||32||1||7||0||1||0||40||1 |- |2010||17||0||5||0||3||0||25||0 |- |2011||26||1||6||0||2||0||34||1 |- |2012||31||2||2||0||3||0||36||2 |- |2013||30||0||4||0||0||0||34||0 |- |2014|||||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始347||9||61||4||31||0||405||13 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行0||0||0||0||2||1||2||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終317||9||57||4||33||1||407||14 |} その他の公式戦

テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2007||rowspan="3"|浦和||rowspan="3"|13||12||0||3||0 |- |2008||1||0||colspan="2"|- |- |2013||4||0|||| |- !通算!!colspan="2"|AFC |17||0||3||0 |} その他の国際公式戦

経歴

個人タイトル

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 27試合 0得点(2006年 -2008年)[2]

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |2006||7||0 |- |2007||13||0 |- |2008||7||0 |- !通算 |27||0 |}

出版

執筆書籍

  • Keita #13 (2005年3月24日発売、ぴあ) ISBN 4835615247

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:浦和レッドダイヤモンズのメンバー テンプレート:浦和レッドダイヤモンズ歴代主将 テンプレート:Navboxes テンプレート:2002年アジア競技大会 サッカー日本代表

テンプレート:AFCアジアカップ2007 日本代表
  1. 2007年5月3日に行われたJ1第9節ジェフユナイテッド市原・千葉戦で鈴木は普段のプレースタイルに似つかわしくない鮮やかな股抜きドリブルを披露したが、その際に股抜きをされた選手は水野だった。
  2. 2.0 2.1 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「daihyo」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  3. 主将は鈴木啓太、副将に平川忠亮|浦和レッドダイヤモンズ公式サイト
  4. 畑野ひろ子が浦和鈴木とできちゃった再婚
  5. 全試合に出場し「今大会最も成長した選手」と評された(雑誌『Number』686号(2007年9月13日発売)、評論家(後藤健生田村修一佐山一郎)の総評)。