巻誠一郎
テンプレート:サッカー選手 巻 誠一郎(まき せいいちろう、1980年8月7日 - )は、熊本県下益城郡小川町(現:宇城市)出身のサッカー選手。J2・ロアッソ熊本所属。ポジションはフォワード。
実父はJ2ロアッソ熊本持株会理事の巻昇治、実弟は巻佑樹(元名古屋グランパス所属。現在は名古屋グランパススカウト)、実妹はハンドボール選手の巻加理奈。
経歴
幼い頃は色々なスポーツに触れて育ち、小学1年生からアイスホッケー、小学5年生からサッカーを続け、高校2年生まで両スポーツを両立していた[1]。高校1年時には父親が監督を務めるアイスホッケー熊本県代表チームの選手として国体にも出場した[1]。熊本県立大津高等学校では2年次に冬の選手権でベスト8進出に貢献。高校時代も本職はFWだったが、DFとしてプレーした際の評価のほうが高く、実際Jリーグのクラブのほか、スペインからもDFとしてオファーがあった[2]。
高校卒業後は駒澤大学へ進学し、1年目からスタメンとして出場するようになる[2]。深井正樹とコンビを組み「大学サッカー史上最高の2トップ」と謳われた。4年次の2002年にはチームを関東大学リーグ初優勝に導き、深井正樹と同数の12得点で得点王にもなった[2]。また2001年夏季ユニバーシアードの日本代表に選出された。
2003年、ジェフユナイテッド市原に入団。同年から監督に就任したイビチャ・オシムの下で指導を受ける。1年目は17試合に出場、2年目の2004年は途中出場が多かったもののリーグ戦全試合に出場した[2]。2005年以降は先発FWの主軸として定着した。2005年に自身初の二桁得点となる12得点を挙げ、翌年もまた12得点を記録した。
2005年にジーコから日本代表に初選出され、2005年7月31日の東アジア選手権・北朝鮮戦で初出場した[3]。2006年、ワールドカップ・ドイツ大会の日本代表に滑り込みで選出される[4]。グループリーグ最終節のブラジル戦では先発出場を果たした。イビチャ・オシムが代表監督に就任後もジーコ時代の代表メンバーが大幅に入れ替わる中で、引き続き代表選出を果たす[5]。
2007年シーズン終了後、千葉から主力選手が大量に移籍する中、自身も大宮アルディージャからのオファーを受けたが、残留を選んだ[6]。2008年9月14日にJ1通算13000ゴールを挙げる。2009年5月9日(J1第11節)、自身Jリーグ通算50得点目をヘディングで決めた。2009年はチームと自身共に不調で5得点に終わり、J2降格も経験。また、この年を最後に代表に呼ばれなくなった。
2010年は若返りを目指すクラブの方針もあり先発出場が大きく減り、また6月にはクラブの幹部から翌季の契約見送りの意志を伝えられていたという[6]。ロシア・プレミアリーグのアムカル・ペルミからのオファーを受け、2010年7月23日に完全移籍が発表された。退団会見では、「笑われるかもしれないが、このクラブ(ジェフユナイテッド)は僕にとってマンUやバルセロナと同じ価値がある。また戻ってこられるように頑張りたい」と涙を浮かべながら述べた[7]。
アムカル・ペルミ退団後、2011年3月、日本人選手獲得を公言していたフィリップ・トルシエ率いる中国スーパーリーグの深圳紅鑽球倶楽部と契約し、楽山孝志と共に入団したが[8]、右側足首痛症負傷。治療する環境が揃っていない事を理由に契約解除し退団した[9]。
2011年8月17日、東京ヴェルディに加入[10]。1年ぶりにJリーグへ復帰した。
2011年11月20日、味の素スタジアムで古巣である千葉相手に決勝点を決めた。ヒーローインタビューでは両チームのサポーターから拍手を受け、巻は「今でも心の中には千葉というクラブがあり続けるし、感謝の気持ちや千葉のサポーターの方々に育ててもらったという思いは僕がサッカーを辞めてもずっと残り続けるもの」とコメントした[11]。
2011年12月15日、アイスホッケーチーム東北フリーブレイズのメンタルアドバイザーに就任[12]。
2012年は、開幕直後の練習中に顔面骨折で全治3ヶ月の重傷を負って戦線離脱。その後復帰したが、9月20日に右足間接骨折で全治3ヶ月と診断され、残りのシーズンを棒に振った。
2013年は7月に入るまでスタメン出場がないなど調子が上がらなかったが、その後ある程度持ち直しこの年からヴェルディに加入した高原直泰と、元日本代表2トップを組むなどして奮闘した。
2014年1月15日、ロアッソ熊本への完全移籍が発表された[13]。
所属クラブ
ユース経歴
- 1987年 - 1992年 宇城市立河江小学校
- 1993年 - 1995年 宇城市立小川中学校
- 1996年 - 1998年 熊本県立大津高等学校
- 1999年 - 2002年 駒澤大学
プロ経歴
- 2003年 - 2010年7月 テンプレート:Flagicon ジェフユナイテッド市原/ジェフユナイテッド市原・千葉
- 2010年7月 - 2011年2月 テンプレート:Flagicon アムカル・ペルミ
- 2011年3月 - 7月 テンプレート:Flagicon 深圳紅鑽足球倶楽部
- 2011年8月 - 2013年 テンプレート:Flagicon 東京ヴェルディ
- 2014年 - テンプレート:Flagicon ロアッソ熊本
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1998||大津高||-||-||colspan="2"|-||colspan="2"|-||1||0||1||0 |- |2001||rowspan="2"|駒大||rowspan="2"|9||rowspan="2"|-||colspan="2"|-||colspan="2"|-||2||0||2||0 |- |2002||colspan="2"|-||colspan="2"|-||2||1||2||1 |- |2003||rowspan="8"|市原/千葉||rowspan="8"|18||rowspan="7"|J1||17||2||4||0||3||1||24||3 |- |2004||30||6||5||4||1||0||36||10 |- |2005||33||12||10||4||2||1||45||17 |- |2006||32||12||5||3||1||0||38||15 |- |2007||34||5||6||0||1||0||41||5 |- |2008||30||11||3||0||0||0||33||11 |- |2009||31||5||5||1||3||1||39||7 |- |2010||J2||13||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||13||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2010||アムカル||9||プレミア||9||0||0||0||colspan="2"|-||9||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2011||深圳紅鑽||18||超級||4||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||4||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2011||rowspan="3"|東京V||41||rowspan="4"|J2||14||3||colspan="2"|-||2||0||16||3 |- |2012||rowspan="2"|18||18||1||colspan="2"|-||0||0||18||1 |- |2013||19||3||colspan="2"|-||2||2||21||5 |- |2014||熊本||36||||||colspan="2"|-|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始207||53||38||12||11||3||256||68 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行64||7||colspan="2"|-||4||2||68||9 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行colspan="2"|-||colspan="2"|-||5||1||5||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行9||0||0||0||colspan="2"|-||9||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行4||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||4||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終284||60||38||12||20||6||342||75 |}
- Jリーグ初出場 - 2003年3月22日 J1 1st第1節 東京ヴェルディ1969戦 (市原臨海競技場)
- Jリーグ初得点 - 2003年8月2日 J1 1st第15節 浦和レッドダイヤモンズ戦 (国立霞ヶ丘競技場)
その他の国際公式戦
- 2006年
- A3チャンピオンズカップ 3試合2得点
代表歴
- A代表初出場 - 2005年7月31日 東アジアサッカー選手権2005 北朝鮮戦 (大田ワールドカップ競技場)
- A代表初得点 - 2006年2月10日 国際親善試合 アメリカ戦 (SBCパーク)
出場大会など
- ユニバーシアード日本代表
- 2001年 - 2001年夏季ユニバーシアード
- 日本代表
- 2005年 - 東アジアサッカー選手権2005
- 2006年 - ドイツW杯
- 2007年 - アジアカップ2007
試合数
- 国際Aマッチ 38試合 8得点 (2005年-2009年)[3]
テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |2005||3||0 |- |2006||14||3 |- |2007||9||4 |- |2008||9||1 |- |2009||3||0 |- !通算 |38||8 |}
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2006年2月10日 | アメリカ、サンフランシスコ | テンプレート:USAf | ●2-3 | 親善試合 |
2. | 2006年2月22日 | 日本、横浜市 | テンプレート:INDf | ○6-0 | AFCアジアカップ2007 (予選) |
3. | 2006年5月9日 | 日本、大阪市 | テンプレート:BGRf | ●1-2 | キリンカップサッカー2006 |
4. | 2007年3月24日 | 日本、 横浜市 | テンプレート:PERf | ○2-0 | キリンチャレンジカップ2007 |
5. | 2007年7月16日 | ベトナム、ハノイ | テンプレート:VNMf | ○4-1 | AFCアジアカップ2007 グループリーグ |
6. | |||||
7. | 2007年9月11日 | オーストリア、クラーゲンフルト | テンプレート:SUIf | ○4-3 | 3大陸トーナメント |
8. | 2008年2月6日 | 日本、さいたま市 | テンプレート:THAf | ○4-1 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
エピソード
ジェフ千葉の入団懇親会で、当時監督のイビチャ・オシムが「お父さん、あなたは子供さんを最後まであきらめずに走る子に育てましたか」と尋ねたところ、巻の父親は「うちの子は下手です。でも親として、監督が今おっしゃったことだけは自信があります」と答え、オシムは「そうなら、わたしが責任を持って育てます」と約束し、巻を徹底的に鍛えた[14]。
上記のようにオシム語録には巻と関わり深いものが多い。下記はその代表的な例である。
- 「一生懸命頑張った人間が報われた典型的な例だ」 (巻のW杯メンバー入りに対して)[15]
- 「まずは俺の練習を100%でやれ。今のおまえに足りないものは、その練習に全部詰まっている」(巻に「自分には何が足りないんですか?」と聞かれて)[2]
- 「巻はジダンにはなれないでしょう。でも、ジダンにはないものがあります」[16]
脚注
- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 テンプレート:Cite web
- ↑ 3.0 3.1 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「nationalteam
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ メンバー発表の記者会見においてジーコが23番目に「巻」と発表すると、記者からどよめきが起こった
- ↑ オシム体制下では、常に先発出場しながら結果を残せないというその現実を憂い、川淵三郎キャプテンからメディアの前で名指しで「下手」と言われるなど各方面から批判を浴びた。
- ↑ 6.0 6.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 涙浮かべる巻「このクラブは僕にとってマンUと同じ価値がある」 スポニチ 2010年7月27日
- ↑ 巻誠一郎がトルシエ率いる中国超級深セン入り発表
- ↑ 巻、中国超級リーグ深セン退団していた スポーツ報知 2011年7月9日
- ↑ 巻 誠一郎 選手 加入のお知らせ 東京ヴェルディ公式サイト 2011年8月17日
- ↑ 2011 Jリーグ ディビジョン2 第36節 東京ヴェルディ公式サイト 2011年11月20日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 巻 誠一郎選手、東京ヴェルディより完全移籍加入のお知らせ ロアッソ熊本公式サイト 2014年1月15日
- ↑ 2006ドイツ大会ひたむきに出番待つ =「泥臭さ」発揮できるか - 5人目のFW 巻誠一郎選手 時事通信 2006年6月20日
- ↑ 千葉・オシム監督、巻の代表選出に喜ぶ 一方阿部の落選には複雑な表情 スポーツ報知 2006年5月15日
- ↑ 【J1:第3節】千葉 vs 福岡:オシム監督(千葉)記者会見コメント(2006.03.18) J's GOAL
関連項目
- サッカー日本代表出場選手
- 2006 FIFAワールドカップ日本代表
- ジェフユナイテッド市原・千葉の選手一覧
- 東京ヴェルディ1969の選手一覧
- ロアッソ熊本の選手一覧
- 日本国外のリーグに所属する日本人サッカー選手一覧
- 兄弟スポーツ選手一覧
外部リンク
テンプレート:ロアッソ熊本のメンバー テンプレート:Jリーグ記念ゴール テンプレート:AFCアジアカップ2007 日本代表 テンプレート:2006 FIFAワールドカップ日本代表 テンプレート:Sister