ペレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:サッカー選手 ペレ (Pelé) こと、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento, 1940年10月23日 - )は、ブラジルの元サッカー選手アフリカ系ブラジル人

サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した[1]その実績から「サッカーの王様テンプレート:Lang-enテンプレート:Lang-pt[1]」、あるいは「20世紀最高のサッカー選手」と評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と見做されている選手である[2][3][4][5][6][7][8]

生い立ち

ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスで生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、発明王のトーマス・エジソンにちなんで「エドソン (Edson)」と名付けられた[9]。しかしペレの出生証明書には「エジソン (Edison)」と表記されており、この誤表記は現在も訂正されていない[9]

父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称テンプレート:仮リンク)はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた[10]。180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり[10][11]、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあった[12]が膝を痛めて退団[12]。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなどサッカー選手としての成功とは無縁の人生だった[10][注 1]

1944年サンパウロ州バウルのサッカークラブに移籍したことを契機に家族でバウルへ引越し、選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した[15]。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた[16]。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた[17]。ペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていた[18]が、やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった[19]

ペレ」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ (Bilé) 」のファンであったことに由来している[20]。当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。いつしかクラスメイトから自身も「Pelé」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エドソン」と呼ばれることを望んでいた。そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けた[20]。 またペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」[21]、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた[11][22][23]

1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催された。優勝候補の本命と目されていた[24]同国は1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。同年7月16日のウルグアイ戦当日はペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れパーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた[24]。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇)家中が深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった[24]。ペレはこの光景にショックを受けたものの、悲しみにくれる父を励まそうとテンプレート:Quotationと約束したという。

10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた。1954年に地元のテンプレート:仮リンクが下部組織(通称バキーニョ)を創設することに伴い、同チームに入団。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のテンプレート:仮リンクに出会い指導を受けることになった。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教え[25]、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった[26]。ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりバキーニョを去っていったが、その後も連絡を取り合い15歳の時に両親を説得してサントスFCへの入団を取り持った[27]

クラブ経歴

サントスFC

プロデビュー

1956年にサントスに入団。しかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であった[28]こともあって直ぐにトップチームでプレーすることは叶わずリザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった。月給6000クルゼイロで仮契約を結び[29]、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った[28]。数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた。国内のリーグ戦でFWのヴァスコンセロスが骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった[30]。ヴァスコンセロスはペレの入団以来、先輩として友人として親しく接していた[30]が、この怪我からの復帰後も以前のようなプレーを取り戻す事は出来ず、他のクラブへ移籍した[30]1957年サンパウロ州選手権では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ。

1958年には同じくFWを務めていたテンプレート:仮リンクが欧州のクラブに移籍したことでポジションを不動のものとし、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献した。同年にはジトペペジウマールらと共にブラジル代表としてワールドカップに出場し初優勝に貢献(後述)。ブラジル代表での活躍もあってクラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。サントスFCは収容人数の少ないスタジアムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行い、必要な収入を確保しなければならなかった。ペレはそれらの全ての試合で奇跡を起こすことを期待されていた[31]が、1959年に行われた最初の欧州ツアーは6週間に22試合をこなす過密日程だった。

また、クラブでのプレーと平行して兵役の義務を負わなければならなかった[32]。ペレは「ブラジル代表として国の為に戦ったのだから再び国に仕える義務はない」と主張した[32]が、医学的に正当な理由がない限り義務が免除されることは許されず[32]。サントスの沿岸防衛部隊に配属され同年11月には軍選抜チームに選ばれ南米軍人選手権に出場した[32]

同年にはサントス、ブラジル代表、サンパウロ選抜、兵役で配属された沿岸防衛部隊のチーム、そして軍選抜の合計5チームの選手として年間通算で103試合に出場[33]。24時間に2試合に出場することが9回ほどあり、時には48時間に3試合に出場するなど、多忙な日々を送った[33]

国外からのオファー

ファイル:PELÉ - 1963.jpg
サントス時代のペレ

1961年3月5日マラカナン・スタジアムで行われたリオ・サンパウロ選手権のフルミネンセFC戦。自陣のペナルティエリア外でボールを受けると、そのままドリブルを開始し相手選手を次々に振り切りゴールキーパーを含めた6人抜きドリブルから得点を決めた[34][11]。サンパウロの『テンプレート:仮リンク』紙から「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛され[34]、この得点を記念して同スタジアムには「ペレはこのマラカナン・スタジアムにおいて歴史上、最も美しい得点を決めた」と刻まれたプレートが設置された[34][11]。この時の得点は後に「ゴウ・ジ・プラッカ」(gol de placa、プレートのゴールの意)と呼ばれるようになり[34]、ペレのサッカー人生において最も美しいゴールの一つとされている[34]

また同年のサンパウロ州選手権、グアラニFCでは自身のシュートがゴールラインを割っていないにも関わらず主審により得点が認められる珍事もあった[35]。ペレは浮き球で2人の相手DFを翻弄した後で3人目のDFを振り切りシュートを放ったが、クロスバーに当たった後に地面に叩きつけられておりゴールラインを割っていたか否かは微妙な状況だった[35]。グアラニの選手やファンは猛抗議をしたが主審は「あれだけ見事なプレーなのだから、ゴールを割っていようがいまいが関係ない」と主張した[35]ため判定は覆らずゴールが認められた[35]

こうした活躍からヨーロッパの有力クラブの関心を集め、スペインレアル・マドリードは会長を務めるサンティアゴ・ベルナベウが直接オファー[36]。1961年にイタリアに遠征した際にはインテルナツィオナーレ・ミラノから4000万クルゼイロ、ユヴェントス会長のテンプレート:仮リンクからは百万ドルから数千万ドルの移籍の申し入れがあった[37]

ペレはこれらのオファーに乗り気ではなく、所属クラブのサントスもペレを放出する意思がないことを示したが、この移籍騒動は、後にブラジル政府が「ペレは輸出対象外の国宝である」と公式に宣言して移籍を阻止する事態にまで発展した[37][38]。また所属するサントスFCはペレを慰留させるための多額の金銭を工面した[36]。なおペレは欧州のクラブでプレーをしなかった理由について「ジジがレアル・マドリード、ジノ・サニジョゼ・アルタフィーニACミランへ移籍したように欧州のクラブでプレーをした選手が何人かいたが、私はサントスFCでの生活に満足していた[39]」「欧州に移籍することも考えたが、サントスFCと共にあることを選んだ[38]」と発言している。

1980年代頃まで世界中の多くのクラブでは外国人枠は「2人」までに設定されていた[40]が、欧州のサッカー先進国ではその時代によって国外からの選手移籍に制限を加えようとする動きも見られ[41]、イングランドでは1978年まで旧植民地以外の国からの選手移籍を制限[41]。イタリアではFIFAワールドカップでの代表チームの成績不振を理由に1966年から1980年の間イタリア系アルゼンチン人以外の外国籍選手との契約を禁止[38][41]、スペインでも1965年から1970年代初頭まで外国籍選手との契約を禁止[42]するなど、他国のリーグでプレーをする機会は必ずしも多くは無かった。

ペレは他の多くの選手と同様にブラジル国内に留まってプレーを続けて、国内のリーグ戦で世界トップレベルの技術を磨いていた[43][注 2]

国際タイトルの獲得

テンプレート:Smaller

1962年、南米のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスに出場し決勝に進出。ウルグアイのペニャロールとの対戦となったが、1勝1分で迎えた最終戦でペレの2得点などで勝利し、ブラジル勢として初のタイトルを獲得した[45]。この勝利によりインターコンチネンタルカップへの出場権を得てエウゼビオを擁するポルトガルのSLベンフィカと対戦。ホームでの第1戦は自身の2得点などで3-2と勝利。敵地リスボンでの第2戦も好調なプレーを維持[45]。ベンフィカの守備陣を翻弄し3得点1アシストという活躍で5-2と勝利を収め、クラブ世界一となった。なおリスボンで行われた試合を「私のキャリアにおいて最高の試合」「素晴らしい内容で、生涯忘れることの出来ない芸術的な試合」と語っている[45]

1963年にもコパ・リベルタドーレスに出場してアルゼンチンのボカ・ジュニアーズを下して大会2連覇、インターコンチネンタルカップにおいてもイタリアのACミランを下して2年連続クラブ世界一となった。

一方で数々のタイトルを獲得し著名になっていったことで、ペレは対戦相手から執拗なマークを受けるようになった[46]。かつてのような新進気鋭の若手選手ではなく打倒すべき勝利者とみなされ、クラブや代表チームでもいかにペレの動きや周囲とのコンビネーションを止めるかに焦点が当たるようになった[46]。相手DFはペレがどこのポジションに付いていても終始マンマークを付けてラフプレーも辞さない激しいプレーを仕掛け[46]、時には言葉による挑発を仕掛けて故意に退場を誘おうとする選手もいた[46]

この頃にはブラジル国内においても高額の収入を得るようになっていた[47]が、「ペレ」の愛称が多くの価値を生み出すことに気が付き、商標権を獲得して様々な商品に名前の使用を認めることで更に多くの収入を得るようになった[47]。またサントスFCのチームメイトを誘い投機事業に出資を行うなどした[47]が、一切の財産管理を一任していた人物が投機に失敗し多額の借金を背負うことになった[48]。ペレはクラブの役員会で事情を説明し、クラブ側に有利な条件で契約を更改するかわりに借金を肩代わりしてもらうことになった[48]

アフリカ遠征

クラブは必要な資金を捻出するために依然として国外への遠征ツアーを続けていたが、それまでの欧州や南米だけでなく北米アジアアフリカといった後進地域のチームとも試合を行うようになった。特に自らのルーツであるアフリカに遠征した際には世界観が変わっただけでなく、社会における自分の立場のあり方を考える契機になった[49]。ペレは人種差別のない国で黒人が社会的に成功を収める事が出来る生きた証として崇拝の対象となり[50][51]、アフリカの人々はペレの姿を一目見ようとスタジアムだけでなく空港まで押し寄せるなど各地で熱狂的に迎えられた[50][51]

1969年1月、最初の遠征地であるコンゴはコンゴ民主共和国コンゴ共和国の間で紛争状態にあった[52]が、双方の指導者は試合観戦のために休戦に合意した[52]。サントスFCはコンゴで数試合を行い、同月23日のコンゴ民主共和国代表戦では2-3で敗れたが、この試合を記念して同国大統領のモブツ・セセ・セコは「国民のスポーツの日」と定めた[52]。次の遠征先はビアフラ戦争により内戦状態にあったナイジェリアだったが、同国とビアフラ共和国との間で試合前後の48時間は停戦し、ペレらが滞在する首都のラゴスへは侵攻しないとの合意がなされ、親善試合は予定通り行われた[53]

1000得点達成

ファイル:Huellas de Pelé.jpg
マラカナン・スタジアム50周年を記念して設立された殿堂に展示されている足型を模ったプレート

同年の夏になると通算1000得点が成るかにメディアやファンの注目が集まった[54]。10月に990得点を達成し、11月14日にレシフェで行われたボタフォゴFC戦で999得点目を決めて1000得点まで王手をかけると遠征先の都市では1000得点の瞬間を祝おうとカーニバルが催され、スタジアムは宛らワールドカップ決勝のように熱狂して迎えた[55]。メディアによる報道も加熱し「ペレは1000得点を達成し不老不死となる」と大仰に書き立てる新聞もあった[54]

11月19日、マラカナンスタジアムで行われたCRヴァスコ・ダ・ガマ戦では6万5千人の観客が見守る中、後半33分にペレがペナルティエリア内で倒されペナルティキックを獲得[56]。これを自らゴール右すみに決め1000得点を達成した[56][注 3]。この際にペレが放ったシュートはキックの瞬間に一瞬動きを止めてキーパーの動きを確認してから、その動きと反対方向に決めるという物だった[56]が、この技は後に「パラディーニャ」(ポルトガル語で小休止の意)と呼ばれるようになった[56]

1000得点が達成されるとスタジアム中が熱狂した。試合は中断され記者やレポーターがペレに殺到しコメントを求めた[58]。ペレはテンプレート:Quotationと答えるとウイニングランを行ってサポーターの声援に応じた。この発言は物議を醸し「偽善者だ」「民衆を扇動しようとしている」と批判を受けた[58]が、ペレは自著の中で「その日が誕生日だった母に捧げるというべきだったが、咄嗟に思いつかなかった」「私のような立場の人間がメッセージを発することは重要だ」と述べている[58]。その後、ブラジル郵政省からは記念切手が発行され[50]、ブラジル政府は1000得点を達成したペレに勲章を与え翌日を休日とした[50]。サンパウロ市はこの記録を記念して1995年に11月19日を「ペレの日」と定めた。

サントスFCでの引退

所属するサントスFCはリベルタドーレス杯とインターコンチネンタル杯で2連覇を達成した当時の選手達が去り[59]、長期的な展望もなく監督が短期間のうちに次々と入れ代わるなど徐々に衰退を始めていた[59]。このような状況もあって、かつてほどサッカーを楽しめなくなり、引退後の生活を考えるようになった[59]。1970年代には大学や企業の招きを受けて講演を行う機会が増えていたが、高い教育を受けた人物と交流するうちに学業への意欲が芽生えるようになり[60]、サントスFCでフィジカルコーチを務めていたテンプレート:仮リンクの指導を受けて試合や練習の合間に勉強を続け、大学入試資格に必要な中等教育課程を修了[60]。大学入試試験にも合格し体育学を専攻した[60]

1973年にはペプシコーラとの間で世界中の子供たちを対象とした「インターナショナル・ユース・フットボール・プログラム」というプロジェクトの契約を結んだ[61]。この契約は当初1年間の予定だったが、更に5年間延長されペレはマゼイと共に世界64か国を訪問しサッカー教室を開き、サッカーの普及に努めた[61]。また「ペレ--キングの法則」と題した教則映画は数々の賞を受賞した[61]

1974年10月2日、18年間を過ごしたサントスFCでの最後の試合となったポンチ・プレッタ戦。試合開始20分に中盤でボールを受けると両手でキャッチしてセンターサークルへと向かい、ボールを置くとピッチに跪き両手を広げ十字架のようなポーズをとり集まったファンへの感謝の意を示すと共に別れを告げた[62][52]

ニューヨーク・コスモス

1975年北米サッカーリーグ (NASL) に所属するニューヨーク・コスモスに移籍。これはアトランティック・レコードの創設者であるアーティガン兄弟やワーナー・ブラザーズ社長でニューヨーク・コスモスのチェアマンを務めていたスティーヴ・ロスからの勧誘を受けてのもので、2年契約で移籍金は900万ドル[63]。この契約の背後にはアメリカ合衆国国務長官で熱狂的なサッカーファンのヘンリー・キッシンジャーの存在があった[63]。1970年代当時、サッカー不毛の地と呼ばれたアメリカにサッカーを普及させ、いずれワールドカップを招致したいという思惑があり[64]、ペレのニューヨーク・コスモスへの移籍についても「わが国でプレーする事で発展に協力して欲しい」との旨を記した公文書を発行し移籍を支援した[63]

同年6月15日に行われたトロント・メトロス戦には2万5千人の観客が集まり、この後も北米リーグの平均観客数は2万人台を維持した。2年後には西ドイツからフランツ・ベッケンバウアー、ブラジルからカルロス・アウベルトが加わりオールスターチームの陣容を呈し、1977年には同チームの北米選手権のタイトルを獲得。サッカー不毛の地と言われたアメリカでサッカーの伝道師としての役割を果たし人気選手となり活躍[65]したことで、ニューヨーク市の名誉市民に選ばれた。

同年10月1日にジャイアンツ・スタジアムで行われた引退試合のコスモス対サントスFC戦には7万5千人の観衆が詰掛けた。ペレは前半はコスモスの選手として後半はサントスの選手としてプレーし前半に1得点をあげ自らの引退の花道を飾った。試合後のセレモニーでは「愛を!皆に愛を!世界に愛を!」の言葉で締めくくった[66]

代表経歴

ファイル:Djalma Santos, Pelé and Gilmar 1958.jpg
優勝を果たしジウマールの肩にもたれかかり涙を流すペレ(中央)。左側の人物はジャウマ・サントス

ブラジル代表デビューは1957年7月7日アルゼンチン戦。16歳9ヶ月での代表デビューは当時の史上最年少出場記録であった。試合は1-2で敗れたが、ペレ自身は唯一の得点を決める活躍を見せた。その後、所属クラブでの活躍もあって代表チームに定着していった。

1958 FIFAワールドカップ

サンパウロ州選手権2年連続得点王の実績もあって1958年スウェーデン大会の代表メンバーに招集され、背番号は10番を与えられた。大会直前のテストマッチで膝の故障もあってグループリーグの2試合を欠場したが、第3戦のソビエト連邦戦でワールドカップ初出場を果たした。なお17歳でのワールドカップ出場は1982年ワールドカップ・スペイン大会北アイルランドノーマン・ホワイトサイドによって塗り替えられるまで史上最年少記録であった[67]

準々決勝のウェールズ戦にも先発出場を果たすと、66分にペナルティエリア内からシュートを決め、ワールドカップ史上最年少となる17歳と239日での得点を記録。続く準決勝のフランス戦では52分、64分、75分と立て続けに得点を決めハットトリックの活躍を見せた。

決勝のスウェーデン戦では、55分に浮き球で相手DFを交わしてからボレーシュート決めて追加点、終了間際にはマリオ・ザガロとのパス交換から駄目押しとなるヘディングシュートを決め5-2の勝利に貢献。大会通算6得点の活躍で同国にワールドカップ初優勝をもたらした。なお、この試合の55分にペナルティエリア内で相手選手のベングト・グスタフソンテンプレート:Enlinkの頭上にボールを浮かして置き去りにしてから決めたボレーシュートは全キャリアの中でもベストゴールのひとつだったと語っている[68]。この優勝の後、ペレは世界中の新聞や雑誌の表紙を飾り「新たなキングの誕生」と称された[69]

なおこの大会でペレは「背番号10」でプレーし、以降のサッカー界で背番号10番はエースナンバーと見なされるようになったが[70]、これは大会当時、チーム内の抽選で割り振られたという全くの偶然から生まれたものであった[71][72]

1962 FIFAワールドカップ

1962年ワールドカップ・チリ大会では1次リーグ初戦のメキシコ戦で1得点1アシストと好調を維持していたが、続く第2戦のチェコスロバキア戦の25分にドリブル突破からミドルシュートを放った直後に太股の筋肉を痛めた。当時の規定で交代出場は認められておらずピッチに留まったが、負傷したことを知ったチェコスロバキアのヨゼフ・マソプストヤーン・ポプルハールらはペレを故意に痛めつけようとはしなかった[73][74]。ペレはチェコスロバキアの選手達の行為を「真のスポーツマンシップ」と賞賛した[73][74]が、後の試合に出場することは難しくなった[74]。ブラジルはペレを欠いたもののガリンシャらの活躍もあって大会2連覇を成し遂げた。一方でブラジル代表チームは2度目のワールドカップ優勝を成し遂げたことで国民と国家のシンボル的存在となった[75]

1966 FIFAワールドカップ

1966年のワールドカップ・イングランド大会では25歳と選手としてピークを迎えていたが、大会前から怪我を抱えていた。初戦のブルガリア戦で1得点を決めたものの相手DFのテンプレート:仮リンクの激しいマークもあって負傷し、第2戦のハンガリー戦は首脳陣の判断もあってペレを温存する事となった。ペレを欠いたブラジルは1-3で敗れ、決勝トーナメント進出が厳しくなると最終戦のポルトガル戦では怪我をおして出場することになった。この試合でペレは相手DFのテンプレート:仮リンクの執拗なマークに苦しみ前半途中に膝を負傷したが、その後もモライスのペレに対するラフプレーは続き、負傷退場せざるえなくなった。当時のルールで選手交代は認められておらず[76]ペレを欠いたブラジルは10人で試合を進めたが、1-2で敗れ大会3連覇を逃した。

メディアからは「ブラジルの世界支配は終わりを告げた[77]」と酷評され、選手や監督の自宅は暴徒化したファンの襲撃を受けた[77]。またギリシャではブラジル人女子留学生がブラジルの敗退を苦に船から身投げをする事態まで起こった[77]。ペレは度重なるラフプレーの横行や、それを見逃す審判員たちに嫌気が差し失意のあまり「ワールドカップには二度と出場しない」と宣言するほどだった[78]

1970 FIFAワールドカップ

2年間のブランクの後、再び頂点に立ちたいとの意識が芽生え代表に復帰を決意。3度目の優勝を果たせばジュール・リメ杯を永久保持する権限が与えられる事も重要な動機の一つとなった。

1970年ワールドカップ・メキシコ大会ではペレを筆頭にリベリーノジェルソントスタンジャイルジーニョという攻撃陣を擁して雪辱を賭ける。1次リーグ初戦でチェコスロバキアに4-1と大勝すると、第2戦では前回優勝国のイングランドを1-0で退けて決勝トーナメント進出を決める。準々決勝ではペルー、準決勝ではウルグアイを下し2大会ぶりの決勝進出を果たした。ペレ自身は決勝まで3得点に終わったが、周囲のタレントを生かすゲームメーカー役を務めていた[79]

決勝のイタリア戦では18分にヘディングで先制点を決めると、71分のジャイルジーニョの得点をアシスト、88分のカルロス・アウベルトの得点をアシストする活躍で3度目のワールドカップ制覇に貢献。試合終了後には興奮した観客がピッチに乱入し選手達を担いでウイニングランを行い優勝を祝福した。ワールドカップで3度目の優勝を果たしたことは、「ブラジルの奇跡」と評された高度経済成長期と重なったこともあり熱狂的に受け入れられ[75]、ブラジルの国威高揚に大きな役割を果たした[80]

代表引退

その後、1971年7月18日にマラカナン・スタジアムで行われたユーゴスラビア戦を最後にブラジル代表からの引退を表明した。ブラジル代表としては国際Aマッチ92試合に出場し77得点を記録[81]。通算成績は67勝14引分け11敗。ブラジル代表はペレが去った後、24年間ワールドカップの優勝から遠ざかることになった。

引退後

引退後は国際サッカー連盟 (FIFA) の大使、フェアプレー委員会の一員として世界中で広報活動に携わったほか、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使に任命され子供の基本的権利の保護を訴えたイベントに関わった。2001年にはFIFAとユニセフがパートナーシップを締結したが、ペレはこの仕事に携わっている[82]

芸術面での才能を生かし、映画出演を度々行っている。1978年に公開された『Os Trombadinhas』では脚本を担当、1981年に公開された『勝利への脱出』ではマイケル・ケインシルベスター・スタローンと競演し、サッカーシーンのテクニカルアドバイザーを担当した[83]。また特技のギター演奏を生かして作曲した楽曲がエリス・レジーナセルジオ・メンデステンプレート:仮リンクといった著名なミュージシャンに演奏されたこともある[84]

1993年、ペレは自身が経営するマーケティング会社がブラジル全国選手権の放映権を獲得するにあたり[85]ブラジルサッカー連盟 (CBF) から100万ドルの賄賂を要求されたとして、ブラジルサッカー界の腐敗ぶりを告発した[86][87][88]。ペレは賄賂を要求した人物を特定しなかった[88]が、これによりCBF会長のリカルド・テイシェイラとテイシェイラの妻の父であるジョアン・アベランジェとも対立することとなり[87][89]、FIFA会長を務めていたアベランジェは報復として同年12月にロサンゼルスで行われた1994 FIFAワールドカップ抽選会からペレを除外した[88]

1995年フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領の下でスポーツ大臣に就任。ペレはブラジル史上初の黒人閣僚として1998年までの3年間この職務を務めた。在任期間中は、「オリンピック・ヴィレッジ」と呼ばれる各地方政府と協力してスポーツ施設を建設する公共事業や、ペレ法 (Lei Pelé) の制定に取り組んだ。ヨーロッパにおけるボスマン判決のブラジル版ともいえるペレ法は選手がクラブに契約で拘束されず自由に移籍を行えるようにした法律で、1998年4月29日に可決され、3年後の2001年3月26日から施行された[90]。これにより従来のパス(選手保有権)が廃止され、契約終了後の移籍金が発生することはなくなった。

一方でスポーツ大臣としてサッカー関連の法制定に取り組んだことでアベランジェとテイシェイラとの関係は更に悪化し、ペレの会社はビジネスの場から事実上締め出されていたが、2001年1月に和解が成立し8年間に及んだ争いに終止符を打った[86]。しかしメディアからは「王が平民に成り下がった」「スポーツ倫理と戦ってきた我々に対する最大の裏切り」と批判された[91]

多くの名誉職に任命されたほか、1998年にはサッカーにおける功績と数々のボランティア活動を讃えられイギリス政府から大英帝国勲章を授与された[92]。またペプシコーラ、プーママスターカードコカコーラなど世界各国で数々の大企業の広告に出演するなど引退後もCM出演依頼が後を絶たない[93]2002年には製薬会社のファイザーから依頼を受けて勃起不全 (ED) 治療のスポークスマンを務めた[93][94]。「ペレ・カフェ」というコーヒーブランドを持っているが、これは1960年代にブラジル・コーヒー協会がヨーロッパへ進出した際に立ち上げたもので、東欧や中東など世界中で飲用されている[93]

2010年8月1日、選手時代に在籍したニューヨーク・コスモスが再建されることに伴い、同クラブの名誉会長に就任することになった[95]

現役復帰説

ペレは、ニューヨーク・コスモスでの現役引退後に慈善試合や、1980年9月24日に行われたベッケンバウアー引退記念試合[96]や、1987年1月に地元ブラジルで開催されたシニア・ワールドカップ[57]など8試合に出場している[97]。また引退から9年後の1986 FIFAワールドカップの際には、ブラジル代表のメンバーとして出場する可能性があり[97]、当時のテレ・サンターナ監督も「控え選手として上手く起用出来ればありえない話ではない」と発言していた[97]。この時、既に45歳を迎えていたペレの大会出場が実現すればワールドカップ最年少出場記録と最高齢出場記録を保持することになったが、最終的に参加は見送られた[97]1990年10月31日には生誕50周年を祝してイタリア・ミラノにあるスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァで記念試合が行われ、ブラジル代表の10番として世界選抜と対戦し前半42分までプレーしたが[97] [98]、これが最後の試合出場となっている[57]

2011年、古巣のサントスFCがコパ・リベルタドーレスを48年ぶりに制し同年12月に日本で開催されるFIFAクラブワールドカップ2011への出場権を獲得したが、同大会へのペレの出場が取り沙汰された[99]。同年8月に同クラブの会長は「70歳という年齢から、長い時間プレーすることは難しいが、皆を感動させるには彼のたった一つのプレーだけで十分である」とペレの現役復帰の可能性を示唆し[99]、最終的な判断は監督のムリシ・ラマーリョに一任すると述べた[99]

その一方で、ペレの代理人はメディアの取材に対し「ペレのスケジュールは1年間を通じて全て埋まっており、実現は不可能である」と会長の発言を否定[100]。同年11月にラマーリョ監督によりFIFAクラブワールドカップに出場する23名の選手が発表されたが、ペレの名前はなかった[101]

人物

プレースタイル

身長171センチと小柄な体躯であるが身体能力が高く[19][36]、バランス感覚に優れ[36]自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けしなかった。また跳躍力を生かした打点の高いヘディングも得意としていた[19]。ペレは100m走を10秒台で走る俊足と[36]、アフリカ系黒人選手特有の瞬発力や脚の筋力を生かし[102]、リズムを急激に変えることでDFのマークを外すドリブル突破を得意としたが[36]、ドリブルの際には大きなスライドでなく常に足下にボールを置き細かなステップでコントロールしていた[19]。打点の高いヘディングや足下に吸い付くようなドリブル、左右両足から放つ正確なキックといったフォワードとしての基本技術は、ペレと同じく現役時代にセンターフォワードを務めていた父親のドンジーニョの教えによるものだった[19][103]

身体能力や得点能力が際立つが背番号9タイプの古典的センターフォワードのように前線で孤立してチャンスを待つのではなく、下がり目の位置から前線に飛び出すプレーを好んだ[19]。ペレは自著の中でテンプレート:Quotationとプレースタイルについて語っている[19]。一方でテンプレート:Quotationと語るように独創的なプレーの持ち主でもあった[104]。1958年ワールドカップのスウェーデン戦でみせた、突進するDFの頭上にボールを浮かせてから相手の背後に回りこむ「シャペウ」(ポルトガル語で帽子の意)あるいは「レンソウ」(ポルトガル語でハンカチの意)とも言われるプレー[105][106][107]、1970年ワールドカップ準決勝のウルグアイ戦で相手GKのラディスラオ・マズルケビッチと1対1になった場面で、ボールを意図的にスルーしてGKの予測の裏を突き、反対側をすり抜けてシュートを放った[108][109]「ドリブレ・ダ・バッカ」(ポルトガル語で牛のドリブルの意)の変形ともいえるプレー[110]など、予測のつかないプレーを一瞬で判断して実行した[111]。またトップスピードで走る複数の選手が壁パスを繋ぎながらゴール前に迫る「タベリーニャ」と呼ばれるコンビネーションプレーを考案したと言われる[112]

ブラジル代表時代の同僚だったガリンシャとの比較において、「ドリブルの技術ではガリンシャの方が上[102]」との声もあるが、自由奔放にプレーをしていたガリンシャとは異なり年齢と共にポジションを下げチームプレーに徹し[102]、状況に応じて積極的な守備を行う知性を持ち合わせていた[102]。また恵まれた反射神経を生かしてゴールキーパーを務めることもあり[113]、サントスFCでは4試合、ブラジル代表では1試合に出場した[113]

家系

ペレの祖先の出自にはアンゴラ出身とする説とナイジェリア出身とする説がある[114]。ナシメントという姓は祖先がアフリカ大陸からブラジルに奴隷として連れられた際に、最初に働いていた農場の経営者の姓だと言われている[114]。ブラジルで奴隷制度が廃止されたのは1888年であり[114]、この頃に生まれたペレの祖母らは生まれながらに自由を獲得できた最初の世代となった[114]

父ドンジーニョは前述のように元サッカー選手であり、伯父のフランシスコも元サッカー選手であり才能豊かな選手だったが早逝した[115]。弟のジャイール(通称ゾカ)も一時はサッカー選手を志しポジションはミッドフィールダーを務めていた[116]。兄と同様にサントスFCに入団し将来を嘱望されていた[116]が、マスコミから兄と比較される続けることに嫌気が差し若くして引退[116]。その後は弁護士に転身した[116]

私生活

1966年に白人女性と最初の結婚をし一男二女に恵まれたが1978年に離婚。長男のテンプレート:仮リンクは後にサッカー選手を志し、父親の古巣であるサントスFCのテストを受けて合格。父親とは違いゴールキーパーを務めていたが、怪我の影響もあって1999年に現役を引退した[117]。エジーニョは引退後は父の経営するサッカー事業に携わっていたが、2005年に麻薬密売に関わっていた容疑で逮捕され[118][119]刑務所に収監された[117]。仮釈放後は麻薬中毒のリハビリを受けていたが2006年に麻薬密売組織の資金洗浄に関わった容疑で再逮捕された[120]

最初の妻との離婚後、ドイツ系ブラジル人のマリア・ダ・ガラサ・メネゲルと交際した[121]。彼女はテンプレート:仮リンクという芸名でモデルとして活動しており、1980年代初頭には『PLAYBOY』誌の表紙を飾った。後にブラジルの子供番組の司会者に抜擢されると、ペレは彼女の経歴を懸念しPLAYBOY誌と独占インタビューに応じる代わりに彼女の写真のネガを引き渡す取引を行った[121]。シュシャはこの番組出演を皮切りに映画出演や歌手としても成功を収め、ペレ自身も彼女の番組に特別出演した[121]。シュシャはペレと別れた後はF1ドライバーアイルトン・セナと交際したが、このことからシュシャを巡ってペレとセナの間でトラブルがあったとの噂が広まった[121]

1994年4月に心理学者でゴスペル歌手のテンプレート:仮リンクと再婚し、1996年に双子が生まれた。アシリアは2006年にゴスペル界のグラミー賞といわれるGMA賞にノミネートされた[122]

これまでに2度強盗事件に見舞われている。1999年10月にサンパウロ市内で自動車強盗に遭遇したが、その際にペレは着用していた黒い帽子を脱ぎ顔を露わにすると強盗は謝罪して何も盗らず逃走したという[123]2008年6月13日にはサンパウロ州グアルジャで渋滞にあった際に10人程度の自動車強盗団の襲撃を受け、時計ネックレス携帯電話などを奪われかけたものの、強盗団のうち数人がペレであることに気づきその場で返却した。しかしネックレスを奪ったものはペレであることに気づかずにそのまま逃走した[124]

人となり

努力家であるが[86]、その一方で非常に負けず嫌いな人物である[125]。また、ピッチの上でも外でも自分を神のような存在であろうとする人物とも評される[86]。短く刈り上げたヘアスタイルが特徴であるが、これは父親に敬意を示したものであり[126]、メキシコで「ペレカット」として流行したことがある[127]。また「エンテンデ ?」(entende、「分かるかな ?」という意)というフレーズが口癖であるが、ブラジル国内ではしばしば物真似をされている[86]

人間関係

マラドーナとの関係

テンプレート:Main

1980年代から1990年代のスター選手であるアルゼンチンディエゴ・マラドーナとはしばしば比較対象とされている[128][129][130]2000年12月にFIFA20世紀最優秀選手が発表されることになったが、ペレはFIFAの役員を始めとしたサッカー関係者による投票では72.25%の投票率を得て2位のアルフレッド・ディ・ステファノと3位のマラドーナを上回ったものの、FIFA公式サイトによるインターネット投票ではマラドーナが53.6%の投票率を得たのに対しペレは18.53%と下回った。FIFAは当初、最優秀選手を一人だけ選ぶ事にしていたが、双方の結果に対しブラジルとアルゼンチンの両国間で激しい論争となった。事態の沈静化に乗り出したFIFAは最終的にペレをFIFA選考委員会による最優秀選手とし、マラドーナはインターネット投票による最優秀選手として賞を分け合うことに決め、両者はイタリアのローマで行われた授賞式に出席した[131][132][133]

このように両者並び立つ存在として評価され、お互いに偉大な選手として一定のレベルで認め合う存在ではあるが[134][135]、その一方で長年事あるごとに批判や非難の応酬を繰り返している。ペレは2008年にマラドーナの薬物違反について「彼はドーピング検査で陽性反応が出ている以上、受賞したタイトル全てを剥奪されるべきだった。ドーピング検査で陽性反応となったオリンピック選手らはメダルを剥奪されているのだから、マラドーナが剥奪されないのはおかしい」とマラドーナを批判し[135]2009年9月には、マラドーナが「彼はW杯を多く勝ち取っているが、欧州でプレーするのはまた別のことだ」とペレの記録を軽視する発言をした直後に、ペレは「マラドーナは偉大な選手だが、右足で蹴ることができず、ヘディングでの得点はなかった。彼がヘディングで決めた唯一の重要な得点はハンドだったことが判明している」と反論[134]2010年6月には、2010 FIFAワールドカップの開催を過去に疑問視していた時期があったペレを[136]マラドーナが大会開幕後に当時の発言を持ち出して批判すると[136][137]、これに対しペレは「彼が代表監督を引き受けたのは、金と仕事を必要としていて、再び世間の注目を集めたいと思っていただけだ。監督にしたのは大間違いだ」「私にもっと敬意を払うべきだ」と反論[136][137]。更にマラドーナも自分の監督手腕を疑問視されたことで「(ペレは)博物館へ戻るべきだ」[138]とコメントし、非難の応酬を繰り返した。

ガリンシャとの関係

テンプレート:Main

ファイル:Benbella-pele-garrincha.jpg
左側からペレ、アルジェリア民主人民共和国大統領のアフメド・ベン・ベラ、ガリンシャ(1965年6月17日)

ペレは当初ガリンシャのプレースタイルについて「次に何のプレーを選択するのか読めない」と当惑していたが、何度も話し合いを持つうちにやがて名コンビとなり[139]、ブラジル代表で二人が揃って出場した試合は負け知らずという記録を残した[139]。しかし、このことは当の本人達は一切知らず、話題にも上らなかった[139]。また、後にガリンシャの妻となるサンバ歌手のテンプレート:仮リンクとペレが交際していたとの噂が広まったこともあった[140]が、ペレの自著によると根拠のないゴシップだとしている[140]。ブラジル国内では比較対象とされることの多い[141]二人だが、現役時代は活動拠点がそれぞれ異なっていたこともあって、ブラジル代表を離れると交流機会は少なかった[139]

引退後は全く異なる人生を送っていたがガリンシャの死の2か月前、1982年末にブラジルのテンプレート:仮リンク誌により二人の特集が企画され再会を果たした[142]。一方で翌1983年1月の葬儀にリオデジャネイロ選手組合会長のジーコらと同じく姿を見せなかったことが地元メディアの話題となった[142]

アベランジェとの関係

1958年ワールドカップの際に17歳だったペレをブラジル代表メンバーに抜擢するように主張したのは当時ブラジルサッカー連盟 (CBF) 副会長を務めていたジョアン・アベランジェと言われている[143]。また1966年のワールドカップでペレが「二度と代表チームではプレーをしない」と宣言した際には、あらゆる手を尽くして代表に復帰するように粘り強く説得した[144]。これらの経緯からアベランジェは「ペレは私に大きな貸がある」と考え[144]、ペレ自身も敬意を示していた[144][89]

アベランジェがFIFA会長選挙立候補のためにアフリカ諸国を訪問した際にペレもこれに同行してアベランジェへの投票を陳情するなど全面的に協力[89][145]。反アパルトヘイトを掲げて[145]理事達の支持を得て1974年に南米出身者として初めてFIFA会長の座についた。アベランジェは各年代別の国際大会創設やスポンサーの獲得など手腕を発揮したが[146]、後に独裁ぶりが非難をされるようになった[146]

影響

ペレの後継者と目される選手や、その国を代表とする攻撃的なポジションの選手は「○○のペレ」との異名が付けられることがある。ペレの現役時代には7歳年下のトスタンがゲームメイク能力と得点能力を併せ持った事から「白いペレ」[147]、ソビエト連邦のストライカーだったエドゥアルド・ストレリツォフが「ロシアのペレ」[148]の異名で呼ばれた。

1980年代から1990年代にはジーコが「白いペレ」[149][150]サウジアラビアマジェド・アブドゥラーが「砂漠のペレ(アラブのペレ)」[151]の異名で呼ばれた。ガーナアベディ・ペレは10代の時に国外遠征に赴くためにパスポートを発給する際に本名の「アイェウ」を隠して偽名で「ペレ」を名乗ったが、そのプレーぶりが「ペレ」を名乗るのに相応しかったこともあって、「アベディ・ペレ」という選手名として定着していった[152]。その後、1991年から3年連続でアフリカ年間最優秀選手賞に選ばれるなど、20世紀のアフリカを代表する選手の一人と評されるようになった[152]。また1990年に同国のニイ・ランプティが16歳で欧州のクラブと契約してプロデビューを果たし[153]、翌1991年に17歳以下のガーナ代表としてFIFA U-17世界選手権で優勝し大会最優秀選手に選ばれた際にはペレ自ら後継者に指名した[154]

2000年代に入った後もブラジル国内ではロビーニョネイマールといった若手選手が「新しいペレ」「ペレ二世」として紹介されることがあり[155][156]、両者は比較の対象となっている[157]。イングランドのウェイン・ルーニーは「白いペレ」と呼ばれており[158][159]、彼が所属するマンチェスター・ユナイテッドFCのサポーターが唄うルーニーのチャント(応援歌)の中にも「白いペレ」の名が取り入れられている[160]。また、ブラジル女子代表のエースストライカー・マルタは、2007年のパンアメリカン競技大会優勝時に、ペレ自身から「スカートを穿いたペレ」 (Pelé de saia) という異名を与えられた。これは従前からファンの間で両者を比較する声があり、大会終了後、ペレがこの比較に同意しながら「世界最高のサッカー選手は間違いなくスカートを穿いたペレだ」というコメントを出したものである[161]

また選手の中ではロナウジーニョ[162]ロベルト・カルロス[163]ウィントン・ルーファー[164]テンプレート:仮リンク[165]セルジオ越後[166]吉村大志郎[167]与那城ジョージ[168]、それ以外の分野ではブランドン・ラウス(アメリカ合衆国、俳優)[169]らがペレのファン、あるいはペレに影響を受けたことを公言している。

ペレの予想

FIFAワールドカップの優勝国予想がことごとく外れることで知られている[170][171]1994 FIFAワールドカップではコロンビアの優勝を予想したがグループリーグで敗退した[170]。この他にドイツを有力候補に挙げ、ブラジルについては「優れた選手を有するがチームとして機能していない」ことを理由に候補から外していたが、ドイツは準々決勝で敗退しブラジルが優勝した[172]

1998 FIFAワールドカップでは最も注目しているチームとしてスペインを挙げていたがグループリーグで敗退した[170]。イギリスの日刊紙『ガーディアン』によればペレはこの大会でスペインを優勝候補の筆頭に挙げ決勝の相手はブラジルになると予想、開催地の利のあるフランスイングランドを有力候補に挙げていたとしている[172]

2002 FIFAワールドカップではアルゼンチンとフランスが決勝に進出すると予想しブラジルは優勝できないと予想したが、アルゼンチンとフランスはグループリーグ敗退に終わり優勝できないと断言したブラジルが優勝した[170]。また、イタリアポルトガルを有力候補として挙げていたがイタリアは決勝トーナメント1回戦で、ポルトガルはグループリーグで敗退した[172]

2006 FIFAワールドカップでは優勝候補の筆頭としてブラジルを挙げ、イングランドやイタリアやオランダやフランスについてはエース級の選手の代役となり得る選手が存在しない点を理由に優勝の可能性は低いと評した[173]。その一方でブラジル、アルゼンチン、イングランド、フランスを優勝候補に挙げていたが、いずれも準々決勝で敗れている[172]

2010 FIFAワールドカップではメキシコが優勝[174]と予想したもののベスト16で敗退した。この他にも「アフリカ勢が2000年までにワールドカップで優勝する」と予想していたが、2014 FIFAワールドカップに至るまでアフリカ勢は準決勝進出すら果たしていない[170][172]

また、ガーナのニイ・ランプティやイングランドのニック・バーンビーのように「ワールドクラスの選手になる」と才能を高く評価した若手選手が伸び悩むこともある[170]2008年に「これ以上サッカーを続けることは難しいだろう」と予想していたロナウドが、2009年3月にコリンチャンスに移籍しサンパウロ州選手権で14試合に出場し10得点を上げるなど復活を果たした[170]

2014 FIFAワールドカップでは地元開催のブラジルを筆頭にドイツとスペインを優勝候補に挙げ[175]、アルゼンチンとチリも注目のチームとしていた[175]。また、イングランドについては「難しい組み合わせとなったがグループリーグを突破できるだろう」との見解を示した[175]。スペインはグループリーグ敗退、ブラジルは準決勝敗退という結果となったが、ドイツの優勝を的中させた[176]

評価

テレビインターネットが普及していない情報伝達の遅い時代に様々なプレーを考案し実行した先駆的存在である[177]一方、ペレのプレーを止める為にラフプレーが横行し蔓延する結果となり[178]、その対策として選手交代やイエローカードとレッドカードの制度が導入される[178]など、その存在がサッカー競技に変化をもたらした[178]。ブラジル代表ではペレ以降背番号10がエースナンバーとなったが、後に引き継いだ選手には相当のプレッシャーとなったという[179][注 4]

当時の選手では殆ど前例がない中、引退後の生活を考えて企業の広告塔として活動したこともあって1970年代に欧州で行われたブランドとしての知名度の調査ではペレの名前はコカコーラに次いで第2位にランクされた[182]。1973年にブラジル国内で行われた知名度の調査ではテンプレート:仮リンクリチャード・ニクソンを上回りペレが1位を獲得[183]。引退後の1993年に世界109か国991人のスポーツ記者を対象に行われたワールドカップ史上最も偉大な選手の投票において第1位に選ばれた[183]。知名度の高さについて自ら「イエス・キリストより有名かもしれない」と発言したこともある[184]

かつてビアフラとナイジェリアの内戦を一時的に停止させるなど政治家以上の影響力を持ち[185]、引退後はブラジル大統領に就くことを公言してきた[185]。1990年代にはブラジルのスポーツ大臣として利権者たちと対決して腐敗を告発し、一時期ブラジルサッカー界の近代化のための旗手となった[86]1999年にはタイム誌の選ぶ「20世紀の最も影響力のある100人」の一人に選ばれるなど、サッカーの枠を超えた影響力のある人物と評価されている。またバスケットボールマイケル・ジョーダンボクシングモハメド・アリと匹敵する存在であると評する者もいる[186]

選手時代から病院や公共施設に多額の寄付を行い[183]、孤児のための基金を設立するなどの功績により人徳者として紹介される[183]一方で、前述のようにブラジルサッカー界の腐敗を正す立場にありながらあっさりと権力者と手を結んでしまった姿勢[187]や、ブラジル代表や現役としてプレーする選手たちへの辛辣な発言が物議を醸すことがあり[86][188]、一部で人間性に疑問の声も出ている[86][189]。ペレについてはかつてのチームメイトや対戦相手だけでなく政治家や芸術家など様々な分野の人間がそれぞれの立場からコメントを残している。

獲得タイトル

クラブ
代表
個人
  • FIFAワールドカップ・最優秀若手選手賞 1回(1958年)[205]
  • サンパウロ州選手権得点王 10回(1957年、1958年、1959年、1960年、1961年、1962年、1963年、1964年、1965年、1973年)[1]
  • タッサ・ブラジル得点王 3回(1961年、1963年、1964年)[1]
  • リオ・サンパウロ選手権得点王 1回(1963年)[1]
  • コパ・リベルタドーレス得点王 1回(1965年)[1]
  • 南米年間最優秀選手賞 1回(1973年)[1]
  • 北米サッカーリーグ最優秀選手賞 1回(1976年)[1]
  • BBC選定年間最優秀スポーツ選手(1970年)
  • アメリカ合衆国サッカー殿堂(1993年)
  • 大英帝国勲章(1997年)
  • 国際連合児童基金選定20世紀最優秀サッカー選手(1999年)
  • タイム誌選定20世紀の最も影響力のある100人(1999年)
  • 20世紀の偉大なサッカー選手100人 1位(ワールドサッカー誌選出 1999年)
  • 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 選定20世紀最優秀サッカー選手(1999年)
  • 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 選定20世紀最優秀南米サッカー選手(1999年)
  • 国際オリンピック委員会 (IOC) 選定20世紀最優秀アスリート(1999年)[1]
  • 国際サッカー連盟 (FIFA) 選定20世紀最優秀サッカー選手(2000年)
  • ローレウス世界スポーツ賞生涯功労賞部門 (2000年)
  • FIFA 100 (2004年)[1]
  • BBC年間最優秀スポーツ選手生涯功績賞(2005年)

個人成績

国際サッカー連盟 (FIFA) 公式サイトによると、1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働23年で通算1363試合出場、1281ゴール[1]。公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録である(非公式ではゲルト・ミュラー1461点、アルツール・フリーデンライヒの1329ゴールなど上回る記録はある)。1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックは92回、1試合最多得点は8点としている[1]

年度 クラブ サンパウロ州
選手権
[206]
リオ・サンパウロ
選手権
タッサ・ジ・
プラタ
全国選手権 タッサ・
ブラジル
リベルタ
ドーレス杯
インター
コンチ
ネンタル杯
スーペル・
コパ
合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1956 サントス 0 0 - - - - - - - 0 0
1957 14+15 19+17 9 5 - - - - - - 38 41
1958 38 58 8 8 - - - - - - 46 66
1959 32 45 7 6 - - 4 2 - - - 43 53
1960 30 33 3 0 - - 0 0 - - - 33 33
1961 26 47 7 8 - - 5 7 - - - 38 62
1962 26 37 0 0 - - 5 2 4 4 2 5 - 37 48
1963 19 22 8 14 - - 4 8 4 5 1 2 - 36 51
1964 21 34 4 3 - - 6 7 - - - 31 44
1965 30 49 7 5 - - 4 2 7 8 - - 48 64
1966 14 13 0 0 - - 5 2 - - - 19 15
1967 18 17 - 14 9 - 0 0 - - - 32 26
1968 21 17 - 18 12 - 0 0 - - 3 2 42 31
1969 25 26 - 12 12 - 0 0 - - 6 2 43 40
1970 15 7 - 13 4 - 0 0 - - - 28 11
1971 19 8 - - 21 1 0 0 - - - 40 9
1972 20 9 - - 16 5 0 0 - - - 36 14
1973 19 11 - - 30 19 0 0 - - - 49 30
1974 10 1 - - 17 9 0 0 - - - 27 10
通算 ブラジル 412 470 53 49 57 37 84 34 33 30 15 17 3 7 9 4 666 648
年度 クラブ リーグ[207] 背番号 リーグ戦 その他 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1975 ニューヨーク NASL 10 9 5 14 10 23 15
1976 10 24 15 18 11 42 26
1977 10 31 17 11 6 42 23
通算 NASL 64 37 43 27 107 64

統計

RSSSF (The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation) による統計[208] 。なお、上記の個人成績表との誤差については不明。

チーム 期間 公式戦 親善試合 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点
サントスFC 1956-1974 659 643 456 446 1115 1089
サントス・バスコ連合 1957 0 0 4 6 4 6
ブラジル代表 1957-1976 92 77 20 18 112 95
軍選抜チーム 1959 3 1 8 13 11 14
サンパウロ州選抜 1959-1969 13 9 0 0 13 9
サンパウロ体育組合 1961-1962 0 0 2 3 2 3
ニューヨーク・コスモス 1975-1977 64 37 41 26 105 63
アメリカ選抜 1976 0 0 2 0 2 0
チャリティーマッチ 1977-1990 0 0 8 5 8 5
フルミネンセ 1978 0 0 2 0 2 0
フラメンゴ 1979 0 0 1 0 1 0
総合計 831 767 544 517 1375 1284

関連情報

映画

  • O Barao Otelo no Barato dos Bilhoes:1971年
  • A Marcha:1973年
  • Os Trombadinhas:1978年
  • 勝利への脱出』(Escape to Victory):1981年
  • 『ヤング・ジャイアンツ〜奇跡のイレブン〜』(A Minor Miracle):1983年
  • Pedro Mico:1985年
  • Os Trapalhoes e o Rei do Futebol:1986年
  • 『炎のストライカー』(Hot Shot):1986年
  • Solidao, Uma Linda Historia de Amor:1990年
  • Mike Bassett: England Manager:2001年
  • Pele Eterno:2004年
  • ペレを買った男』(Once in a Lifetime):2006年

書籍

  • 『サッカーわが人生--ペレ自伝』(My life and the beautiful game鈴木武士訳、講談社、1977年)
  • 『ワールドカップ殺人事件』(World cup Murder、安藤由紀子訳、東京創元社、1990年)
  • 『ペレ自伝』(伊藤淳翻訳、白水社、2008年)

脚注

注釈

  1. ブラジルのサッカーはイギリス人の父を持つテンプレート:仮リンク1894年に英国留学から帰国後に競技の普及に努め、白人の富裕層のスポーツとして親しまれるようになった[13]。イタリア系やドイツ系やポルトガル系などの移民がそれぞれのクラブを設立し競い合ったが、その中のメンバーには黒人や黒人との混血児は除外されていた[13][14]1909年にドイツ系と黒人との混血であるアルツール・フリーデンライヒが初めてサッカークラブでプレーする事を認められ[13]1917年にCRヴァスコ・ダ・ガマが初めて黒人選手の導入に踏み切った[13]が、白人と黒人が共にプレーをするようになった後も人種差別は残されていた[14]1930年代にはブラジル国内でプロリーグ設立の動きが始まったことで、多くの黒人選手や混血の選手がプロ選手としてクラブと契約[13]。プロ選手として活躍することで社会的地位は向上させることが可能となり[14]、その中でレオニダス・ダ・シルバが黒人選手として最初のスター選手となった[13]。ペレの父であるドンジーニョはブラジルのプロサッカー黎明期の選手にあたる。
  2. 現在ではペレらの時代とは異なり、ブラジル国内の若手選手は国内のリーグ戦で活躍を見せると、直ぐに欧州のクラブへ移籍する傾向がある[43]。かつてはブラジル国内で選手同士が切磋琢磨し、若手選手はベテランからブラジルサッカー伝統の駆け引きやテクニックを学んでいった[43][44]が、今日では選手が青田買いをされ早くから欧州スタイルのフィジカルを重視した戦術に馴染んでしまうため[43]、ブラジルスタイルのサッカーを身に付けることが出来ない[43]。そのため標準レベルの選手は登場してもスケールの大きな選手が現れにくくなってしまうとの意見がある[43]
  3. 近年の研究によると1969年11月19日のCRヴァスコ・ダ・ガマで達成した1000得点と、1971年1月28日テンプレート:仮リンク戦で達成した1000試合出場は、それ以前の試合で達成されていた可能性があると言われている[57]
  4. ブラジルでは攻撃的な内容で勝利しなければ、仮に勝利を収めたとしてもメディアやファンが納得しないと言われる[180]。1994年のワールドカップでブラジル代表が24年ぶり4回目の優勝を果たした際には「守備的で手堅いサッカー[181]」「消極的すぎてブラジルらしくない」と批判を受けた[43]
  5. 1958 FIFAワールドカップ準決勝でのプレーについて。
  6. 1970 FIFAワールドカップ決勝でのプレーについて。
  7. 1972年5月26日に日本で行われた日本対サントスFC戦でのプレーについて。
  8. 1994 FIFAワールドカップでブラジル代表が優勝したにも関わらず、その後もブラジル国内では「守備的」として批判を受けた。その国内の批判派の中にブラジル代表OBのペレが加わっていたことについて。
  9. 2005年にペレが「ロマーリオは引退をするべきだ」と勧告したことについて。

出典

テンプレート:Reflist

参考文献

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes テンプレート:Normdaten テンプレート:Good article

テンプレート:Link GA
  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  2. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  3. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  4. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  5. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  6. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Es iconテンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Es iconテンプレート:Cite web
  9. 9.0 9.1 ペレ 2008、17頁
  10. 10.0 10.1 10.2 ペレ 2008、18-19頁
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 リベイロ、レモス 2008、16頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name ".E3.83.AA.E3.83.99.E3.82.A4.E3.83.AD.E3.80.81.E3.83.AC.E3.83.A2.E3.82.B921-22"が異なる内容で複数回定義されています
  12. 12.0 12.1 テンプレート:Pt iconテンプレート:Cite web
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 13.5 沢田 2002、64-75頁
  14. 14.0 14.1 14.2 松岡 1994、54-55頁
  15. ペレ 2008、22頁
  16. ペレ 2008、22-25頁
  17. ペレ 2008、25頁
  18. ペレ 2008、26-27頁
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 19.4 19.5 19.6 ペレ 2008、46-47頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name ".E3.83.9A.E3.83.AC_46"が異なる内容で複数回定義されています
  20. 20.0 20.1 ペレ 2008、50-52頁
  21. ペレ 2008、53頁
  22. ペレ 2008、50頁
  23. ウィリアムズ 2007、61頁
  24. 24.0 24.1 24.2 ペレ 2008、54-56頁
  25. ペレ 2008、62頁
  26. ペレ 2008、61頁
  27. ペレ 2008、68頁
  28. 28.0 28.1 ペレ 2008、80頁
  29. ペレ 2008、84頁
  30. 30.0 30.1 30.2 ペレ 2008、89頁
  31. ウィリアムズ 2006、69頁
  32. 32.0 32.1 32.2 32.3 ペレ 2008、129-131頁
  33. 33.0 33.1 ペレ 2008、129-131頁
  34. 34.0 34.1 34.2 34.3 34.4 ペレ 2008、137頁
  35. 35.0 35.1 35.2 35.3 ペレ 2008、138頁
  36. 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 36.5 ウィリアムズ 2007、68-69頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name ".E8.83.8C.E7.95.AA.E5.8F.B710_2"が異なる内容で複数回定義されています
  37. 37.0 37.1 ペレ 2008、139-140頁
  38. 38.0 38.1 38.2 テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  39. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  40. テンプレート:Cite web
  41. 41.0 41.1 41.2 ステファン・シマンスキー、アンドリュー・ジンバリスト著、田村勝省訳『サッカーで燃える国 野球で儲ける国--スポーツ文化の経済史』ダイヤモンド社、2006年、129頁 ISBN 978-4478220047
  42. ロジャー・マクドナルド著、サッカーマガジン編集部訳『写真で見るサッカーの歴史 グローバル・スポーツそのメモリアル・シーン』、ベースボールマガジン、1982年、125頁
  43. 43.0 43.1 43.2 43.3 43.4 43.5 43.6 沢田 2002、213-214頁
  44. ベロス 2006、308-309頁
  45. 45.0 45.1 45.2 ペレ 2008、151-152頁
  46. 46.0 46.1 46.2 46.3 ペレ 2008、154-155頁
  47. 47.0 47.1 47.2 ペレ 2008、140-141頁
  48. 48.0 48.1 ペレ 2008、163-165頁
  49. ペレ 2008、212-213頁
  50. 50.0 50.1 50.2 50.3 松岡 1994、161頁
  51. 51.0 51.1 ヤロップ 1999、128頁
  52. 52.0 52.1 52.2 52.3 リベイロ、レモス 2008、23-25頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name ".E3.83.AA.E3.83.99.E3.82.A4.E3.83.AD.E3.80.81.E3.83.AC.E3.83.A2.E3.82.B923-25"が異なる内容で複数回定義されています
  53. ペレ 2008、221頁
  54. 54.0 54.1 ペレ 2008、222頁
  55. ペレ 2008、224頁
  56. 56.0 56.1 56.2 56.3 ペレ 2008、226-227頁
  57. 57.0 57.1 57.2 ペレ 2008、414頁
  58. 58.0 58.1 58.2 ペレ 2008、227-228頁
  59. 59.0 59.1 59.2 ペレ 2008、256-261頁
  60. 60.0 60.1 60.2 ペレ 2008、253-255頁
  61. 61.0 61.1 61.2 ペレ 2008、264頁
  62. ペレ 2008、271-273頁
  63. 63.0 63.1 63.2 ペレ 2008、278頁
  64. ペレ 2008、262頁
  65. テンプレート:Cite web
  66. ペレ 2008、293頁
  67. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  68. ペレ 2008、114頁
  69. ペレ 2008、118頁
  70. テンプレート:Ja iconテンプレート:Cite web
  71. テンプレート:Ja iconテンプレート:Cite web
  72. テンプレート:Pt iconテンプレート:Cite web
  73. 73.0 73.1 ペレ 2008、144頁
  74. 74.0 74.1 74.2 松岡 1994、128頁
  75. 75.0 75.1 山田 1986、254頁
  76. リベイロ、レモス 2008、20頁
  77. 77.0 77.1 77.2 松岡 1994、146頁
  78. ペレ 2008、174頁
  79. 牛木素吉郎『サッカー世界のプレー』講談社、1970年、142-147頁
  80. 山田 1986、247頁
  81. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「rsssf.com」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  82. ペレ 2008、298-299頁
  83. ペレ 2008、308-309頁
  84. ペレ 2008、307頁
  85. ペレ 2008、316頁
  86. 86.0 86.1 86.2 86.3 86.4 86.5 86.6 86.7 ベロス 2006、159頁
  87. 87.0 87.1 ベロス 2006、480頁
  88. 88.0 88.1 88.2 ヤロップ 1999、294-295頁
  89. 89.0 89.1 89.2 ペレ 2008、317-318頁
  90. ペレ 2008、319-235頁
  91. ベロス 2006、484-485頁
  92. ペレ 2008、324頁
  93. 93.0 93.1 93.2 ペレ 2008、351-354頁
  94. テンプレート:Cite web
  95. テンプレート:Cite web
  96. ペレ 2008、271-273頁
  97. 97.0 97.1 97.2 97.3 97.4 ペレ 2008、271-273頁
  98. 「海外ホットニュース ブラジル」『サッカーマガジン』1991年1月号、217頁
  99. 99.0 99.1 99.2 テンプレート:Cite web
  100. テンプレート:Cite web
  101. テンプレート:Cite web
  102. 102.0 102.1 102.2 102.3 後藤 2010、24頁
  103. 沢田 2002、128頁
  104. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E8.A5.BF.E9.83.A8102」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  105. テンプレート:Cite book
  106. 沢田 2002、132-134頁
  107. テンプレート:Cite web
  108. 後藤 2010、25頁
  109. テンプレート:Cite web
  110. 沢田 2002、128-129頁
  111. 西部 2010、103-104頁
  112. ネルソン・ヒラタ「ペレの神話」『ペレのサッカー--ペレの技術を学ぼう』ペレ著、牛木素吉郎、ブラビス・インターナショナル訳、講談社、1975年、33頁
  113. 113.0 113.1 ペレ 2008、224頁
  114. 114.0 114.1 114.2 114.3 ペレ 2008、213頁
  115. ペレ 2008、19頁
  116. 116.0 116.1 116.2 116.3 ペレ 2008、135頁
  117. 117.0 117.1 ペレ 2008、328-338頁
  118. テンプレート:Cite web
  119. テンプレート:Cite web
  120. テンプレート:Cite web
  121. 121.0 121.1 121.2 121.3 ペレ 2008、303-304頁
  122. ペレ 2008、313頁
  123. テンプレート:Cite web
  124. テンプレート:Cite web
  125. ペレ 2008、355頁
  126. ペレ 2008、230頁
  127. ペレ 2008、252頁
  128. シュレーダー、6-12頁
  129. ペレ 2008、365頁
  130. テンプレート:Cite web
  131. テンプレート:Cite web
  132. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  133. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  134. 134.0 134.1 テンプレート:Cite web
  135. 135.0 135.1 テンプレート:Cite web
  136. 136.0 136.1 136.2 テンプレート:Cite web
  137. 137.0 137.1 テンプレート:Cite web
  138. テンプレート:Cite web
  139. 139.0 139.1 139.2 139.3 ペレ 2008、111頁
  140. 140.0 140.1 ペレ 2008、146頁
  141. ベロス 2006、153-156頁
  142. 142.0 142.1 テンプレート:Cite book
  143. ヤロップ 1999、39-40頁
  144. 144.0 144.1 144.2 ヤロップ 1999、122-123頁
  145. 145.0 145.1 ヤロップ 1999、128-129頁
  146. 146.0 146.1 テンプレート:Cite book
  147. 国吉好弘『サッカーマルチ大辞典 改等版』ベースボール・マガジン社、2006年、315頁
  148. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  149. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  150. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  151. 国吉好弘『サッカーマルチ大辞典 改等版』ベースボール・マガジン社、2006年、194頁
  152. 152.0 152.1 国吉好弘『サッカーマルチ大辞典 改等版』ベースボール・マガジン社、2006年、433頁
  153. テンプレート:Cite web
  154. テンプレート:Cite web
  155. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  156. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  157. テンプレート:Cite web
  158. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  159. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  160. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  161. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  162. 藤原清美『感動!ブラジルサッカー』講談社、2006年、17頁 ISBN 4061498355
  163. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  164. テンプレート:Cite web
  165. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  166. テンプレート:Cite web
  167. テンプレート:Cite web
  168. テンプレート:Cite web
  169. テンプレート:En iconテンプレート:Cite web
  170. 170.0 170.1 170.2 170.3 170.4 170.5 170.6 テンプレート:Cite web
  171. テンプレート:Cite web
  172. 172.0 172.1 172.2 172.3 172.4 テンプレート:Cite web
  173. テンプレート:Cite web
  174. テンプレート:Cite web
  175. 175.0 175.1 175.2 テンプレート:Cite web
  176. テンプレート:Cite web
  177. 後藤、加部、亘 2010、14頁
  178. 178.0 178.1 178.2 ペレ 2008、377-378頁
  179. 後藤、加部、亘 2010、59頁
  180. 沢田 2002、45-47頁
  181. テンプレート:Cite book
  182. ベロス 2006、156-157頁
  183. 183.0 183.1 183.2 183.3 テンプレート:Cite book
  184. テンプレート:Cite web
  185. 185.0 185.1 テンプレート:Cite book
  186. ウィリアムズ 2007、85頁
  187. ベロス 2006、518-519頁
  188. テンプレート:Cite web
  189. フランクリン・フォア著、伊達淳訳『サッカーが世界を解明する』白水社、2006年、145-147頁 ISBN 978-4560049754
  190. 190.0 190.1 『フットボールの歴史 FIFA創立100周年記念出版』、講談社、2004年、Players Portraits
  191. ペレ 2008、153頁
  192. 192.0 192.1 テンプレート:Cite web
  193. ペレ 2008、117頁
  194. ペレ 2008、209頁
  195. テンプレート:Cite book
  196. テンプレート:Cite book
  197. テンプレート:Cite book
  198. テンプレート:Cite book
  199. テンプレート:Cite book
  200. テンプレート:Cite web
  201. ペレ 2008、369頁
  202. ペレ 2008、277頁
  203. ペレ 2008、343頁
  204. テンプレート:Es iconテンプレート:Cite web
  205. テンプレート:En icon テンプレート:Cite web
  206. テンプレート:Cite web
  207. テンプレート:Cite web
  208. テンプレート:Cite web