アイルトン・セナ
テンプレート:Infobox アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人のレーシング・ドライバー。F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。
目次
人物
時代を代表するドライバーの1人とされ、特に計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位だった。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとのライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。
異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が実況中継で使用した「音速の貴公子」がよく知られている。
母国ブラジルにおいては、サッカー選手のペレ、ジーコと並んで、特に偉大なスポーツ選手の1人とされている。イギリス「F1 Racing」誌においては、「史上最速のF1ドライバー」「史上最高のF1ドライバー」に共に1位で選出された[※]。
F1以前
出生・幼少期
ブラジル最大の都市であるサンパウロ市の地主で、農場や牧場、小規模商店、自動車修理工場などブラジル国内でも有数の多角経営者であるミルトン・ダ・シルバの長男として誕生。4歳の誕生日の際、父からレーシングカートを与えられると、たちまちそれに夢中となり、ドライビングに熱中。その才能を磨き、父の豊富な資金と環境がドライビング技術の向上を支えた。また、8歳のころに工場のスクラップ寸前のジープをクラッチを使わずに走ったという珍話もある。
ただし、学業の成績に悪影響があれば、カートを辞めることが常に条件として課されていたという。
カートレース
13歳になるとレースを始め、1977年には南アメリカのカート選手権を制した。また、1978年には当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位入賞。団体戦では増田二三四・平野晴男とともに5位入賞。
1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンと結婚。この頃から各メディアへのPR活動を始め、自ら資金調達を行うようになる。
ジュニア・フォーミュラ
1981年にヨーロッパに渡り、イギリスの名門レーシングスクールであるジム・ラッセル・レーシングスクールを受講し、イギリスのフォーミュラ・フォード1600に参戦して優勝するが、父親との約束があったことに加えて、レース活動資金が不足したために引退を発表しブラジルに帰国した。
しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く主張した妻リリアンと離婚。1982年には再びイギリスに渡り、フォーミュラ・フォード2000に転向し、チャンピオンとなる。
F3
1983年にはイギリスF3に参戦し、開幕戦から9連勝を記録。後半戦以降マーティン・ブランドルの巻き返しを受け、一時は逆転を許すが、最終戦で再びひっくり返しチャンピオンを獲得した。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。
また、初めてF3規格で開催されたマカオGPにセオドールから参戦し、このレースを制している。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、1990年にミカ・ハッキネンとミハエル・シューマッハが更新するまで、7年間にわたりコースレコードであった。この頃から、父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向き名乗るようになる。 テンプレート:-
F1
トールマン時代
- 1984年
当初、F1へステップアップする際にブラバムと交渉したが、当時ブラバムに所属していたネルソン・ピケがセナの加入に反対したため実現しなかった[1]。その後、トールマンからF1デビュー。初戦ブラジルGPはターボトラブルでリタイアに終わったものの、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初の入賞を記録。大雨でハーフレースとなった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。自身とトールマンに初の表彰台をもたらすと同時に、自身初のファステストラップを記録した。
第10戦イギリスGP・最終戦ポルトガルGPでも3位に入り、計3度の表彰台を経験。またティレル勢の記録抹消に伴い、7位で完走していた第3戦ベルギーGPが6位に繰り上がったため、入賞は参戦した15戦中5レースとなった。予選最高位は、ポルトガルGPでの3位グリッドである。
トラブルや若手ゆえの粗さから安定した結果は残せなかったが、第8戦デトロイトGPでの予選7位、第9戦ダラスGPでの予選6位から一時4位走行等、ドイツGPでの一時5位走行など、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。リタイヤは8回を数え、第4戦サンマリノGPでF1キャリア唯一の予選落ちを喫したが、それでもランキングではロータスのナイジェル・マンセルと並び9位に入った。
シーズンの途中で翌シーズンからのロータス移籍を発表するが、トールマンとは複数年契約を結んでいたため二重契約として問題になった。結局はロータスがトールマンに違約金を支払い、セナ自身に1レースの出場停止の処分を課すことを条件にロータスへの移籍は実現した。この影響でセナは第14戦イタリアGPを欠場した。
また、この年はF1以外にポルシェ・956で耐久レースにも参戦した。
ロータス時代
- 1985年
当時名門に数えられていたロータスに移籍し、通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得した。豪雨の決勝でもスタートから終始トップを走行、2位のミケーレ・アルボレートに1分以上の差、3位以下は全て周回遅れにする独走劇で、念願のF1初優勝を果たす。シーズン前半は安定感に欠け、入賞レースがポルトガルGPのみという状況だったが、FLや連続PPを記録するなど速さは見せていた。
シーズン後半には安定して結果を残し、第10戦オーストリアGPから5戦連続で表彰台を記録。特に、雨模様となった第13戦ベルギーGPでは、予選2位からスタートでトップを奪取、以後ゴールまで独走という、ポルトガルGPと類似した展開で自身2勝目を挙げた。マシントラブルやガス欠などにより、予選でのPP7回に対し優勝は上記の2回と少ないものとなったが、シーズン後半に安定してポイントを積み重ねたことで、チームのエースだったエリオ・デ・アンジェリスを上回るランキング4位となった。
「予選」と「雨」に強さを見せた一方で、車体下面・後方から立ち上がる火花などから、レギュレーション違反を疑われ[注釈 1]、検査がなされたり(結果的に違反は見当たらなかった)、ダーティーな走りが問題にされる一面もあった。特に第4戦モナコGP予選では、他者のタイムアタックを妨害したとしてアルボレート、ニキ・ラウダらに非難され、後にセナが謝罪する事態となった。
アンジェリスがシーズン後にブラバムへ移籍し、ロータスは後継のドライバーにデレック・ワーウィックを推そうとしたが、セナは強硬に反対し、ワーウィックの移籍は破談になった。当時のワーウィックは実力者と評価されており、イギリスのチームであるロータスに同国籍のワーウィックが加入した場合に、チーム内での自分の立場が危うくなると感じての行動であった。このため、後継ドライバーは新人のジョニー・ダンフリーズとなった。
- 1986年
前年は名目上セカンド・ドライバーであったが、この年よりチームのエース・ドライバーとなる。シーズン前半は8戦中入賞6回と手堅くポイントを獲得し、第2戦スペインGP・第7戦デトロイトGPで勝利を記録。特にスペインGPでの勝利は、記録背後に迫るマンセルを0.014秒という僅差で抑えきったもので、完全ドライのレースでのF1初勝利でもあった。
しかし、シーズン後半はトラブル続きでリタイヤが多くなり、ポイントは停滞していった。マンセル、プロスト、ピケとのチャンピオン争いが佳境に入る中、第12戦オーストリアGPでは、エンジン・トラブルでレース前半にリタイヤ。第13戦イタリアGPにおいては、クラッチ・トラブルでスタート直後にリタイヤ。第14戦ポルトガルGPでは、終盤まで2位を走行していたが、ファイナルラップでガス欠に見舞われ4位に終わり、この時点で2戦を残しタイトルの可能性を逸した。最終的なランキングは4位。
予選では前年を上回るシーズン16戦中8度のPPを獲得するも、優勝は前年同様2勝に留まった。またウィリアムズ・ホンダ勢との争いの中、その強さを身をもって体感したことで、ホンダエンジンを手にしたいとの思いを抱くようになった。
- 1987年
ロータスとセナは念願のホンダエンジンを獲得、これに伴いホンダと縁の深いルーキーの中嶋悟がチームメイトとなった。しかし実戦に投入した開発途上のアクティブサスペンション[注釈 2]に不具合が多発し、苦戦を強いられる結果となった。それまでの2年間多数獲得していたPPも、この年は第2戦サンマリノGPのみに留まっている。それでも市街地で行われた第4戦モナコGP・第5戦デトロイトGPでは、タイヤの磨耗が少ないというアクティブサスペンションの利点を生かし、タイヤ無交換で走り切り2連勝を果たすが、以後はシーズンが進むに従って成績が下降していった。
第7戦イギリスGPでは3位となり、4位に入った中嶋とともにホンダエンジン勢1-4位独占の一角を占めるものの、1-2位フィニッシュを決めたウィリアムズ・ホンダ勢には周回遅れとされる。第11戦イタリアGPではレース終盤までトップを走行、久々に優勝のチャンスが巡って来たが、残り8周というところで、最終コーナーにてコースアウト。ピケの先行を許し2位に終わり、この時点で5戦を残しチャンピオン争いから脱落した。
ウィリアムズ・ホンダによって支配されたシーズンとなったが、16戦中11戦入賞と勝利レース以外でも堅実に結果を残し、ランキングは3位に上昇した[注釈 3]。また、初めて鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPでは、予選7位から2位でフィニッシュし、ホンダエンジンに母国での初表彰台をもたらしている。
マクラーレン時代
- 1988年
マクラーレンに移籍し、当時すでに2度のタイトルを獲得していたアラン・プロストとコンビを組むこととなる。セナの移籍に伴い、この年よりマクラーレンにもホンダエンジンが搭載されることとなった(一説ではホンダからマクラーレンにエンジンを供給する条件がセナの雇用だったとも言われている)。こうしてセナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンチームは開幕から連勝を重ねた。またチームはジョイントNo.1体制[注釈 4]を取ったために、第5戦カナダGP、第7戦フランスGP、第10戦ハンガリーGPなど、2台のマクラーレンによる激しいバトルが再三行われた。
2人のポイントが分散したため、コンストラクターズタイトルが第11戦ベルギーGPで決定したのに対し、ドライバーズタイトル争いはシーズン終盤までもつれ込んだ。セナはベルギーGP以降一時不調に陥るも、第15戦日本GPでスタート失敗による14番手転落から追い上げて優勝、自身初のタイトルを獲得した。この年の16戦中8勝・13PPという数字は、いずれも当時の史上最多記録を更新するものであった。
「ホンダRA168E」を搭載した「MP4/4」と2人のドライバーにより、チームは15勝を上げ、10度の1-2フィニッシュを記録。特に第2戦サンマリノGP・第6戦デトロイトGPでは、3位以下を周回遅れにしての1-2フィニッシュを達成するなど、マクラーレン勢が他を圧倒した記録的なシーズンとなった。しかし、第13戦ポルトガルGPでの幅寄せ行為[注釈 5]以降、2人の関係には溝が出来始めていた。
- 1989年
初めてカーナンバー1を付けてシーズンに挑み、予選では前年同様13度のPPを獲得。特に第5戦アメリカGPでの通算34度目のPPは、それまでジム・クラークが保持していた当時の最多記録を、21年ぶりに更新するものであった。
決勝では第2戦サンマリノGPでシーズン初勝利となったが、このレースで「先に第1コーナーに進入した者がレースの主導権を得る」というプロストとの間での紳士協定(案を出したのはプロスト)に反し、赤旗中断を経た再スタート直後、2コーナーでプロストを抜いてしまう事件が発生(紳士協定事件[注釈 6])。これ以後、前年に兆候があった2人の溝は決定的なものとなり表面化、チームは大きな問題を抱えることとなった。
その後セナは第4戦メキシコGPまで3連勝を記録しランキングトップに立つが、第5戦アメリカGPからは逆に4戦連続リタイヤ(終盤にストップした第6戦カナダGPは完走扱い)となり、セナの勝利時にも確実にポイントを積み重ねたプロストに、大きくリードを許すことになった。それでも争いはシーズン終盤まで縺れたが、第15戦日本GPにおいて、トップ争いの中で両者はシケインで接触。再スタートしたセナが、レース後に失格処分となったことを受け、タイトルは一旦プロストの手に渡った。セナとマクラーレンは失格処分に抗議して民事裁判に持ち込み、最後の可能性を掛け最終戦オーストラリアGPに挑んだが、トップ独走中に周回遅れのマーティン・ブランドルに追突しリタイヤ、裁定を待たずしてタイトルの可能性を失った(日本GPの結果も、結局覆らなかった)。
プロストが4勝ながら13度の入賞(うち2位7回)を記録したのに対し、セナはプロストを上回る6勝であるものの、他の入賞が第10戦ハンガリーGPのみという成績であり、安定感の差が総ポイントに現れる結果となった[注釈 7]。チームメイト同士の接触という後味の悪いものとなったことに加え、セナは当時、FIAの会長であったジャン=マリー・バレストルから一方的に「危険なドライバー」と見なされ、スーパーライセンス不発行の危機に陥る。ライセンスが発行されたのは、年が明けた2月のことだった。
- 1990年
前述のライセンスの問題から引退危機に晒され、本人も後に「もう走らないつもりだった」と語る状態だったが、最終的にセナが謝罪という形により、開幕直前にライセンスが発行。この年の参戦が決定した。
開幕戦アメリカGPでは、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝では優勝。セナのF1キャリアにおいては、最も後方のグリッドからの優勝であり、前年にデビューしたティレルのジャン・アレジと繰り広げたバトルは、「歴史に残る名バトル」の1つとして後々まで語られることとなった。
この年もタイトル争いは、セナとフェラーリに移籍したプロストとで争われ、3年連続両者の争いとなった。セナは予選で10度のPPを獲得しており、特に第14戦スペインGPでは、自身が目標としていた通算50回目のPPを獲得。決勝でも6勝を挙げ、また前年とは対照的な手堅いレース運びも見せるようになった(入賞計11回)。第8戦イギリスGP以外はポイントリーダーの座を守り、最終的に5勝のプロストを押さえ2度目のチャンピオンに輝いた。
ただし、その決定劇は第15戦日本GPにおいて、スタート直後に両者が2年連続で接触するという後味の悪いものとなった。翌1991年の日本GP後に、セナはこの接触が故意によるものだったと認めている。セナは前年の同GPでの接触をプロストの故意によるものと捉えており、報復の意図があったことを示したが、大きな批判を受けた。
- 1991年
当時の新記録となる開幕4連勝を記録。特に第2戦ブラジルGPでは、ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中で、念願の母国初優勝を達成している。しかし、第5戦カナダGP以降はウィリアムズ勢が巻き返し、マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。
第10戦ハンガリーGPでは、直前に本田宗一郎が死去。弔い合戦となり喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポールトゥーウィンを達成、6戦ぶりに表彰台の頂点に立った。続く第11戦ベルギーGPでも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録し、再び苦しいレースを強いられた。だが第15戦日本GPは、それまでとは打って変わりマクラーレン勢が優勢となり、チームメイトのゲルハルト・ベルガーがPPから先行し、セナはタイトルを争うマンセルを抑えて2位を走行。10周目、セナに急接近したマンセルは1コーナーでコースアウトしてリタイア。この時点で、セナの3度目のチャンピオンが決定した(レースは2位)。その後、豪雨で大幅短縮となった最終戦オーストラリアGPも制し、7勝でシーズンを終えた。
この年も安定して結果を残し、全戦ポイント制復活初年度において全16戦中完走15回・入賞14回を記録。中盤以降は苦戦を強いられていたが、結局一度もランキングトップの座は譲らなかった。この年限りでマクラーレンを離れ、ウィリアムズへ移籍することを決めていたが、ホンダ側からの熱心な説得により、翌1992年も残留することに決まった。しかし、後にセナは「僕はウィリアムズに行くべきだった。僕のミスだ。」と語った[2]。
- 1992年
マンセルが開幕から5連勝するなど、ウィリアムズ・ルノーが前年以上の強さを見せ、マクラーレンは劣勢を強いられた。そんな中でも、第6戦モナコGPでは、6連勝目前だったマンセルのタイヤ交換の際にトップに立つと、そのまま押さえ切り同GP4連覇を記録。第10戦ドイツGPでも、終盤にリカルド・パトレーゼの追走を抑え、2位を得るなど、時折存在をアピールした。
しかし、優勝3回・PP1回に留まり、リタイヤは7回を記録(F1参戦中、デビューした1984年に次ぐ2度目の多さ)。得意とする雨のレースでも結果を残せず、第5戦スペインGPでは、2位走行中の終盤にスピンでストップ。第12戦ベルギーGPでは、雨が強くなる中スリックタイヤで走行を続けるギャンブルに出たが、裏目に出て5位に終わっている。結局、ランキングはウィリアムズの2人に加え、ミハエル・シューマッハにも敗れて4位に終わった。シーズン中1度もランキングトップに立てなかったのは、1985年シーズン以来のことだった。
さらに、セナに6年間エンジンを提供し続けてきたホンダが、この年をもってF1活動を一時休止を表明。休止発表の直後に行われた第13戦イタリアGPでは、ウィリアムズ勢に揃ってトラブルが出たこともあり、ホンダエンジンでは自身最後となる優勝を飾った。しかしホンダの母国ラストレースとなった第15戦日本GPでは、ヘルメットに日の丸をペイントした他、コクピット内に日の丸の小旗を支込み、チェッカー後に日本人ファンとホンダへの感謝を示すべく振ろうと挑んだものの、僅か3周目にそのホンダエンジンにトラブルが発生、レース中最初のリタイヤ者となってしまう。最終戦オーストラリアGPでは、予選から好調を維持しながら、首位争いの中でマンセルと接触。ホンダでのラスト2戦をリタイヤで終えた。
- 1993年
ホンダ撤退に伴い、この年のマクラーレンは、カスタマー仕様のフォードHBV8エンジンを搭載。マクラーレンはフォード・コスワースに対しワークス仕様の供給を求めたが、ワークス仕様の供給を受けるベネトンが当然これを拒絶したため認められなかった。このため、マクラーレンは1年間の休養から復帰したプロストを擁するウィリアムズ・ルノー陣営に対して1992年以上に不利な状況と見られていた。ウィリアムズへの加入を意図しながら、かなわなかったセナは、マクラーレンチームに不満を抱いており、1993年の休養もほのめかしていた。前年チャンプとなったマンセルがCARTに転向したことから、セナもCART転向も考えるようになる。
シーズン前には同胞の先輩であるエマーソン・フィッティパルディのペンスキーをテストドライブしていた。しかし、最終的には開幕直前にマクラーレンに残留する。第7戦カナダGPまでは1戦ごとの契約で走った後、第8戦フランスGPにて正式にシーズン契約を結び、最終的には全戦に出走した。
開幕戦南アフリカGPでは予選2位から、一時はトップを走行しての2位。第2戦ブラジルGPでは、ペナルティにより一旦は4位まで転落するが、レース途中の豪雨によるプロストのリタイヤ、セーフティーカー導入も味方となり、撒き返して母国2勝目を挙げた。第3戦ヨーロッパGP(ドニントンパーク)でも、大雨の中オープニングラップで4台抜きを見せてトップに立ち、2連勝した。第6戦モナコGPでは、グラハム・ヒルを上回るモナコ6勝目を達成し、1989年からのモナコGP連勝記録を5に伸ばした。
しかし、これ以後ウィリアムズが復調、雨のレースが無くなったこともあって、セナは表彰台にも立てないレースが続く。プロストにポイント差を広げられ、シューマッハや、プロストのチームメイトであるルーキーのデイモン・ヒルとの争いにも敗れることも多くなっていた。序盤の好成績から、第9戦イギリスGPよりベネトンと同じ最新スペックのエンジンを手に入れることに成功したが、ベネトンも序盤には未搭載だったアクティブサスペンションやTCSを装備することで、より戦闘力が向上しており、セナの成績向上には至らなかった。第13戦イタリアGPでのリタイアで、セナはタイトル獲得の可能性を失い、続く第14戦ポルトガルGPでプロストのタイトルが決定した。このポルトガルGPでは、マイケル・アンドレッティに代わり同レースからチームメイトとなったミカ・ハッキネンに予選で敗れる出来事もあった(決勝ではスタートで先行した後、リタイヤするまで前を走っていた)。
第15戦日本GPでは開幕戦南アフリカGP以来の予選2位を獲得し、久々にチャンスが巡ってくることとなる。セナは決勝前のフリー走行時に、自分のグリッド側を何度も走ってライン上の埃を払い除け、不利とされるイン側ながらスタートを決めて首位を奪取。中盤以降に降った雨もセナには追い風となり、久々の勝利を挙げた。最終戦オーストラリアGPでは、この年初となるPPを獲得。決勝でもタイヤ交換時以外はトップを譲らない走りでシーズン5勝目を記録、これが生涯最後の勝利(通算41勝)となった。
ウィリアムズ時代
- 1994年
長年慣れ親しんだマクラーレンを離れ、前年のチャンピオンチームであるウィリアムズ・ルノーへ、念願の移籍を果たす。人々はウィリアムズに移籍したセナが全勝するのではないかと予想。しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテク技術がこの年のルール変更により禁止され、新車FW16は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常にナーバスなマシンに仕上がっていた。
特にアクティブサスペンションはニューウェイの作りだすマシンの空力的に神経質な部分を補っていたため、その禁止はウィリアムズにとって大きな打撃となった。1994年第3戦サンマリノGP前にはセナはベルガーに、「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。マシンには空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない」と語っている[3]。
開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイヤ。第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタート直後にハッキネンとニコラ・ラリーニに追突されてリタイヤ。開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。
事故死
迎えた第3戦サンマリノGPは、開幕戦、第2戦共にノーポイントでの結果で終わったセナは「ここが自らの開幕戦」と誓い、レースに臨んでいった。しかし予選からセナの気合をかき消す重大事故が多発。まず予選1日目には、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送された。結果的には鼻骨を骨折という軽傷であったものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であった。そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。
これら一連のアクシデントの中でセナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。ただし、夜には落ち着きを取り戻し、「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」語っていたという。
セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、直後にミハエル・シューマッハを従えて超高速・左コーナー「タンブレロ」において時速312kmで首位を走行中に、そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km-220kmまで急減速していた)、セナが駆るマシン・FW16は大破した。車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るもののマシンが曲がらないままコンクリートウォールに向かう映像が残っている。また、カウンターを当てたのか一瞬マシンが右に向く場面もあって謎が謎を呼び、その後自殺説やチームオーナーのフランク・ウイリアムズが追及されたりと、さまざまな憶測も飛び交うこととなったが事故原因の確定的な結論には至らぬままだった。
セナは意識不明のままヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に、34歳で死亡した。
※事故の詳細はウィキペディア英語版w:Death of Ayrton Sennaを参照
死後
ブラジル国内の反応
セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去をアナウンス、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していたブラジルのテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞、雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、国葬が行われた。
セナの亡骸がイタリアから母国ブラジルに搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラスMD-11のファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。
ブラジル政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ人への手紙8:39)」に因む。
ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を記念した。その他、リオデジャネイロ市がネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称するなど、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。
日本国内の反応
- ホンダ
- 死亡当時、セナが3度のF1ワールドチャンピオンを獲得した際にエンジンを供給していたホンダ(本田技研工業株式会社)は、既にF1から撤退しており、セナとは何の正式な契約・関係もなかった。しかし、セナとの「お別れ」をする日本のファンのために、セナが1992年にドライブしていたマクラーレンMP4/7A・ホンダとヘルメット(ロータス時代)を青山の本社1階に展示した。
- その際、1991年に死去していた創業者の本田宗一郎の「自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような社葬などしてはいけない」との生前からの言葉に合わせるように、通常は一般に開放していない本社地下の駐車場を、車で訪れたファンに対して無料で開放するなど、最大限の配慮を持ってセナの死を悼んだ。記帳した人にはその後、ホンダからセナのポストカードが3枚入った封筒が郵送された。
- フジテレビ
- セナのクラッシュは、フジテレビではF1グランプリ中継の前番組である「スポーツWAVE」で報じられ、続いてF1グランプリ中継がイモラサーキットからの生中継で開始された。放送は、その後一旦決勝レースの録画放送になったが、それから約20数分後にセナの訃報が「ニュース速報」として字幕スーパーで伝えられてから、レースシーンの放映を中断。再び生中継に変わり、既にレースが終わって夕刻を迎えていたイモラサーキットから、このレースの実況担当の三宅正治と解説の今宮純、ピットリポートの川井一仁が、視聴者にセナの死を涙を堪えながら伝えた。
- その後は即席のセナ追悼放送に切り替わり、その場にフェラーリの後藤治が通りかかり、ホンダ時代のセナとの思い出を語るとともに、「苦しまずに逝ったことが救い」と沈痛な面持ちで答えていた。後日に深夜放送枠で、司会古舘伊知郎、森脇基恭・中嶋悟をゲストに迎え、前出の3人もイモラから衛星放送で参加する形で追悼放送が行われた。その後に、本放送時にほとんど放送されなかった決勝レースの全編が改めて放送された。これは民放の地上波でありながら、CF無しのノーカットでの放送だった。</br>なお、当時F1中継のノーカット放送を行っていた衛星放送のWOWOWでは、1週間後の5月8日に決勝レースの模様とセナの追悼映像を放送した。
その他
1994年の第4戦モナコGPでは、前戦で事故死したセナとラッツェンバーガーのために、レースに際してグリッドの最前列をあけ、PPのグリッドにセナの母国ブラジル国旗が、セカンドグリッドにはラッツェンバーガーの母国オーストリア国旗がペイントされた。
セナを偲んでニキ・ラウダは「去年、セナがドニントン(1993年第3戦ヨーロッパGP)で勝った時、すぐに彼に電話したんだ。私は『これまで見た中で、君の最高のレースだ。F1史上最高のレースかもしれない』と言ったんだ。セナは本当にマジックだよ。私が一番印象深いのは、彼のモチベーションだ。常に自分の能力の限界を求め続けた。そして過去に誰も成しえなかった技術と完璧さを持った、最高のドライバーだった。それを我々は失った。今後彼のようなドライバーが出てくるかどうかは分からない」と語った[4]。
特筆すべきレース
- 1984年第6戦モナコGP
- 予選を13位で通過。大雨となった決勝レースでは、ファステストラップを更新しながら猛烈な勢いで追い上げ、この年チャンピオンとなるマクラーレンのニキ・ラウダを、雨の中でオーバーテイクするなどの活躍を見せた。首位のプロストとの差を縮めつつあったものの、大雨により31周終了時点でレース中断の赤旗が振られた。ラップタイム差だけを見ればプロストをオーバーテイクして初優勝の可能性もあったため、セナは新人にして僅か6戦目で初の表彰台を獲得したにもかかわらず、表彰台で笑顔は見られなかった。
- 1985年第2戦ポルトガルGP
- 予選で初のPPを獲得すると、大雨となった決勝レースでは一度も首位を譲ることなく、2位以下に1分以上の差をつけ初優勝。ファステストラップも記録し、「雨のセナ」の片鱗を見せ、完全な勝利を飾った。
- 1988年第3戦モナコGP
- 予選で2位のチームメイトのプロストに1.427秒、3位フェラーリのベルガーに2.687秒の大差を付け、別格の速さを見せ付ける。この予選についてセナは「意識的な理解を大きく越えていると実感したので突然怖くなり、ゆっくりピットに戻って、それ以上は走らなかった」と語っている[5]。
- 決勝レースでも圧倒的な速さを見せ、66周終了時点までトップを独走するが、67周目にトンネル手前のポルティエコーナーでガードレールにクラッシュ。充分なマージンを築きながら首位走行中の不用意なミスであった。以降のセナのレーススタイルに大きく影響したレースと言われている。
- 1988年第15戦日本GP
- 優勝すればタイトル獲得という有利な状況で、予選でPPを獲得。タイトル獲得の可能性を大きく引き寄せて望んだ決勝レース、セナはスタートに失敗してエンジンをストールしかける。ゆるい下り坂に救われ、辛うじてスタートを切ったものの、中段に沈み1コーナーを14位で通過。オープニングラップで8位まで挽回するも、優勝は困難に思われた。しかしここからセナは次々にオーバーテイクを繰り返しながら、首位プロストを猛追。小雨がぱらつく天候にも助けられレース中盤には追いつき、27周目のシケイン出口でプロストのスリップストリームに入ると、次の1コーナーでオーバーテイク。そのまま首位でフィニッシュし、初のドライバーズタイトルを獲得した。
- 1989年第15戦日本GP
- セナがタイトルを獲得するためには、最低でもこのレースに勝たなくてはならない。プロストは、セナがノーポイントであればここでタイトル獲得が決まる。圧倒的に不利な状況、様々な遺恨・確執を抱えながら望んだレース。セナは予選で2位プロストに1.730秒の大差をつけてPPを獲得。しかし、プロストは決勝レースでのセッティングに重点を置いていた。そのため、スタートでプロストに先行されたセナは、予選では大差をつけたにもかかわらず、なかなか抜くことができない。
- 延々と続くかに思われた2人の攻防に、思わぬ形で終止符が打たれる。数周に渡り同様の狙いを見せた後、47周目のシケインでセナがプロストのインに飛び込んだ結果、セナに対して意図的に切り込んだプロストと激突[6]。2台のマシンは並んで停止。プロストは即座にマシンを降りたが、タイトル獲得には優勝しかないセナは、マーシャルにマシンを押してもらい、シケインをショートカットする形でレースに復帰。ノーズ交換のためにピットインするも、この間に首位に立っていたナニーニを猛追し、オーバーテイク。ひとまずトップでチェッカーを受けた。しかし、レース終了後にセナに下された裁定は失格。その理由はシケインのショートカット、後に押し掛けに変更されるという不可解な裁定ではあったが、この結果プロストのタイトル獲得が決定した。セナは控訴していたが後に棄却された。
- 1990年第15戦日本GP
- またしてもプロストとのタイトル争いの場となった日本GP。プロストがノーポイントであればセナのタイトル獲得が決まるという、昨年とは逆の立場でセナはこのレースを迎えた。3年連続でフロントローにはセナ・プロストの順で並ぶ。過去2年、スタートを失敗しているセナは、このレースでもスタートで出遅れる。1コーナー進入時にはプロストのフェラーリがアウト、セナがイン。前に出たプロストが、レコードラインを守りインに切れ込む。セナはインを譲らず2台のマシンは接触してグラベルに弾き出され、双方共にリタイア。セナのタイトル獲得が決定した。
- 前年のプロストとの接触をプロストの故意によるものと判断したセナの報復行為に非難が浴びせられた。
- 1991年第2戦ブラジルGP
- 1984年のデビュー以来、母国ブラジルで未勝利であったセナが、8度目の挑戦で初めて母国優勝を収めたレース。雨の中、ギアボックスにトラブルを抱え6速ギアしか使えないマシンで、ゴールまで走りきるという離れ業を演じ、なおかつトップでチェッカーを受けた。シートベルトが体を締め付けるなどのトラブルもあり、レース終了後には車から降りられないほど疲労していた。ウイニングラップ時のセナ本人の感動の嗚咽を、国際中継担当の地元のテレビ局が無線傍受し放送電波に乗せて全世界に配信した。マクラーレンが傍受されにくいケンウッド製無線システムを前倒し導入したのは、この一件が原因である。
- 1991年第15戦日本GP
- 予選から、僚友のゲルハルト・ベルガーと共に当時のレコードラップを更新しあう走りを見せ、2番手グリッドを獲得。決勝前にベルガーと「最初に1コーナーに入った者が優勝する」という紳士協定を密かに結びレースに挑む。決勝はベルガーが先行し、セナは、優勝しかチャンピオンへの道がない3番手のマンセルを抑え、ベルガーを逃がす作戦に出る。しかし、マンセルが10周目の2コーナーでコースアウトしセナのチャンピオンが確定したことで、作戦を変更しベルガーを追撃する。ベルガーは序盤でエキゾーストパイプが破損、エンジン出力が低下したことでラップタイムが落ち、追撃してきたセナにあっさり抜かれてしまう。紳士協定違反に当惑するベルガーを尻目に、セナは磐石の走りでトップを快走。このまま終わると誰もが思った最終ラップの最終コーナー、セナはベルガーに合図を送りながらイン側を明け渡し、ベルガーがセナを抜き優勝した。この行為は、チャンピオン獲得に協力してくれたベルガーへのセナからのプレゼント、と好意的な行動に評価する声と、セナが自身の速さを充分見せつけて真の勝者を印象付けた後で紳士協定に基づき仕方なく優勝を譲った、とする恣意的な行動に評価する声に二分され、レース後、ことのいきさつについて当事者とロン・デニスの3人が激論を交わし、特にベルガーはその露骨な譲り方に怒りを抱いていたことが明らかになっている。[7][8]後にベルガーはフジテレビのインタビューに対して、「スローダウンしたから、エンジンがトラブりやがったな、ざまあみろと思って前に出たら、違っていた。もし意図がわかっていたら抜かなかった」との旨を語っている。
- 1992年第6戦モナコGP
- 予選はウィリアムズの2台に続く3位。決勝レースではスタートで予選2位のパトレーゼをかわして2位に浮上。しかしこの年ここまで開幕以来5戦連続でポールトゥウィンを飾っている首位のマンセルのペースに付いていけない。6連勝・自身初のモナコGP優勝を目前にしたマンセルであったが、レース残りわずか8周となった71周目にタイヤに異常を感じて緊急ピットイン。セナとの差は28秒。マンセルがタイヤ交換を終え、ピットアウトした時には、セナが首位に立っていた。しかし、フレッシュタイヤを装着したマンセルが、ここからセナを猛追する。74周目には予選6位に匹敵するほどのファステストラップを叩き出すと、残り3周でセナの背後に迫る。右に左にマシンを振りながら僅かな隙を突こうとするマンセルに対して、セナは僅かにレコードラインをはずしながら要所をおさえ、つけ入る隙をまったく見せない。タイヤが限界に近いセナは、ヌーベルシケインの進入でリアをスライドさせながらも巧みにコントロールし、ミスもしない。マンセルは狭いコース幅を一杯に使い、あらゆるコーナーでインからアウトから果敢にオーバーテイクを狙うがかなわず。押さえきったセナが、わずか0.215秒差で首位でチェッカーフラッグを受けた。マンセルの6連勝を阻むと同時に、自身モナコGP4連勝を達成。通算では5勝となり、モナコマイスターと呼ばれたグラハム・ヒルの記録に並んだ。また、モナコGP50回目の記念レースでもあった。
- 1993年第3戦ヨーロッパGP
- PPのプロストに1.6秒以上の大差をつけられ、予選4位。決勝はウェットコンディションでスタート。セナはスタートで出遅れ、1コーナー通過時には5位に後退するも、ここから一気にペースを上げる。次の2コーナーでシューマッハをパスすると、3コーナーではアウトに大きくはらみながら加速し、4コーナー手前でベンドリンガーをパス。そのままの勢いでヒルの後ろに付くと、7コーナーで一気にヒルのインを突きオーバーテイク。セナの勢いは止まらず、10コーナーのメルボルンヘアピン進入でプロストのインに並ぶとそのまま抜き去り、オープニングラップで首位に立った。スタートで出遅れたにもかかわらず10コーナーまでに4台をパスするという見事なラップであった。予選でのタイム差や抜かれたドライバーたちの顔ぶれを見ても、このラップの凄さがうかがえる。「雨のセナ」をあらためて強烈に印象付けたレースである。追い抜かれたドライバーの1人であるカール・ベンドリンガーは「これは下手に付いて行かないほうがいいと直感した」とその瞬間の心情を語っている。その凄まじさは、「F1史上最も記憶に残るレース」「オープニングラップですべてのドライバーの戦意を喪失させた」などなど、歴代のチャンピオンドライバーや当時のドライバーたちが驚嘆する数々の発言を残している。通称「雨のドニントン(・パーク)」。
- 1993年第6戦モナコGP
- 予選はプロスト、シューマッハに続く3番手。スタートでトップ3に順位の変動はなかったものの、プロストにフライングの裁定が下り、10秒間のストップ&ゴーペナルティーが科せられる。12周終了時点でプロストはペナルティーを受けるためにピットイン。10秒間の停止の後スタートを切るがクラッチが繋がらずにエンジンストール。大きくタイムをロスして周回遅れとなり完全に優勝争いから脱落する。これで首位に立ったのはシューマッハ。セナとの差は20秒近くあった。その後セナがその差を少しずつ詰めるものの、追いつくほどのラップタイムの差はない。シューマッハの優勝の可能性も見え始めたレース中盤の33周目、ローズヘアピンでシューマッハのマシンがアクティブサスペンションのオイル漏れにより出火してリタイア。セナは首位に立つとそのままトップでチェッカーを受けモナコGP5連勝、通算6勝目を飾りグラハム・ヒルの記録を塗り替えた。勝利数だけでなく、1992年とこの年に続けて奇跡的な勝利をあげたことが「モナコ・マイスター」としての印象を強くしている。
ドライビングスタイル・技術
- 予選
1986年以前のセナは、予選では決勝レースに備えたセッティングには重点を置かず予選向きのセッティングを作り上げ、予選セッションに集中し、グリッド上位を狙って注目を集めていた。トールマンからロータス・ルノーで出場した1986年まではエンジンの信頼性が著しく悪く、強豪チームにアピールするため、また上位が崩れたときに確実に入賞するためこのような予選スタイルとなったとされる。
しかし1987年にロータスにホンダエンジンが供給されることになり、その信頼性が充分であったため、前年までの決勝レースを無視するほどの予選アタックは影をひそめた。優勝した1987年第4戦モナコGP予選では、残り時間があるにもかかわらず「ここは2位でいい」と言いタイムアタックを中止。予選中から決勝レース用セッティングを始めるようになり、スタイルの変化が現れている。
しかし以後も予選では速さを見せており、1988年と1989年には、2年連続して16戦中13回のPPを記録し、これはそれまでの9回の記録を大幅に更新する、当時の年間最多獲得記録であった。また、1988年第14戦スペインGPから1989年第5戦アメリカGPにかけて、8戦連続でPPを獲得しており、これを破ったドライバーはまだいない。またPP65回は、2006年にシューマッハが破るまで最多記録だった。獲得率は40.1%で歴代4位の記録である。これはレースの年間開催数が増え、個人の参戦数が増え始めた1970年代以降のドライバーの中では群を抜いており、最多記録を更新したシューマッハでさえ25.3%に留まっている。
予選でのセナは、最後の最後に最速ラップを出すケースが多かった。最後の最後にポールを奪うことから、メカニックなどピットクルーからは、セナが「ポケットの中のコンマ1秒を出した」とジョーク交じりに言われていた。
決勝レースではPPから首位を保持し、レース序盤で2位以下に大差をつけ、その差を維持するというスタイルで勝利を掴むことが多かった。このようなスタイルは、PPからスタートするドライバーの戦略として有効で、序盤で敵の戦意を削ぐことを意図しており、レース後半の展開を楽にできる(セナ以前に最多PPを保持していたジム・クラークもこのスタイルであった)。セナの現役時代の大半は再給油が禁止されており、ファステストラップはマシンが軽くなるレース終盤に記録されることが多かった。この時代背景と、先述の戦略スタイルから、ファステストラップ獲得数が19回(2011年シーズン終了時・歴代11位タイ)は、勝利数41回(歴代3位)、PP数65回(歴代2位)に比較して目立って少ない。
- セナ足
セナのテクニックでよく知られるものに、コーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビングがある。日本では『セナ足』と言われるそのテクニックは、進入時の安定性を向上させるとともに、コーナー脱出時の早いエンジンの吹け上がりをもたらしていた。小刻みで独特な回転数コントロールは、元々ターボのタービンの回転を高く保ち、いわゆるターボラグの発生を抑えるためとされる。しかし、セナ足はカート時代に編み出されたテクニックであり、それ以降の下位フォーミュラ、F1でのターボ、NA関係なく見られた。それらのことから、上記の説には異論もある。セナは、「セナ足」をターボに限らず、コーナーの立ち上がりで可能な限り早く加速するための技術として完成させた。
セナ以前にもケケ・ロズベルグが「ケケ足」として類似したテクニックを使っていたが、ロズベルグのそれは、まさにアクセルを「小刻みに煽る」のであり、セナのそれは一秒の間に6回ともいうアクセルコントロールによる開閉の繰り返しであり、煽るというより痙攣に近い頻度のものであることが、テレメトリーデータから分かる。それらから、ロズベルグなどの「ケケ足」とは全く異なるテクニックであるとされる[9]。ホンダのエンジニアがエンジンの動弁系にドライブ・バイ・ワイヤ[注釈 8]を採用する際、信号のノイズを除去するためのフィルターを設けていた。しかし、セナ足によるアクセルワークが、ノイズとして識別されるほど微細で敏速であったため、アクセルワーク自体が無視されてしまうという、セナだけにしかあり得ないトラブルが発生していた。この問題の解決には四苦八苦したとのこと。
セナ足については、その理論的・実践的根拠を求めて日本国内のF3000級(当時)のプロドライバーたちが検証したことがあり、その結論は「分からない」。中谷明彦は「常人の理解を超えた領域でのテクニックだろう」と語っている。これらから、限界点の抽出、荷重のコントロール、人間トラクションコントロールなど、一般に思いつく単純な理屈だけでは説明が付かないとも言われる。チームメイトだったプロスト、ベルガーもセナ足を試みたが、いずれも再現は不可能との結論に達している[10]。
このテクニックにより、多少燃費は悪くなるものの、その後のストレートのスピードで大きく差がつく。1988年には、同僚のプロストにテレメトリーのデータでは常に100 - 300回転ほどの差を付けており、プロストが「ホンダはセナにいいエンジンを与えている」と疑っていた。後藤治によると、ホンダの調査ではプロストはシフトアップをセナより早いタイミングで行うため、高回転域を使い切れていないことが原因としている[11]。1989年第12戦イタリアGP・モンツァ・サーキットでは、予選時に高速レズモ・コーナーにおいて、プロストより1000回転も高くホンダV10エンジンを高回転域で使用していたという。
後にRacing Onでセナ没後10年企画が行われた際、「セナ足による細かいスライドを打ち消しつつ旋回するため、車をアンダー気味にセッティングしておくことで、ニュートラルに近い挙動を生み出していたのではないか」と解説されていた。
日本のサックス奏者本田雅人がセナを追悼するために1994年に制作(発表は1998年)した楽曲「Condolence」にはセナ足を連想させるフレーズが存在している。
- 雨
「レインマスター」「雨のセナ」と呼ばれるなど、雨のレースを非常に得意としていた。しかし当初から得意だったわけではなく、「カートを始めたばかりの頃、ウェットレースで他のドライバーたちからあらゆる箇所で簡単に抜かれ、その悔しさからの鍛錬による」と本人が語っている。セナは、上記の出来事の後、サーキットに練習に行ってはコース上に水をまいて水浸しにし、ウェットで速く走れる術を研究したという。
得意とすることとは裏腹に、本人はあまり雨のレースが好きではないことを告白している。危険が増すコンディションを嫌うことはレーシングドライバーとしては普通の反応であり、雨のレースが得意なことから「雨のナカジマ」と呼ばれた中嶋悟も同様である。
- サーキット別
雨と同時に、ストリート(市街地)コースを得意とすることでも知られ、F1での全41勝中18勝をストリートコースで挙げた[注釈 9]。走行した6ストリートコース[注釈 10]のうち、デビュー年のみの開催だったダラスは未勝利に終わったが、他の5コースではいずれも2勝以上を記録している。モンテカルロでは5連勝を含む6勝(1987, 1989 - 1993年)、スパ(2/3が公道)では4連勝を含む5勝(1985, 1988 - 1991年)、デトロイトでは3連勝(1986 - 1988年)をマークしている。特に1991年シーズンは、ストリートコースで開催された4GP(フェニックス、モンテカルロ、スパ、アデレード)の勝者がいずれもセナであった。
パーマネントコースにおいても、埃が多く滑りやすいなど、ドライバーの技術を問われる悪条件を得意とした。ハンガロリンクでは、3勝(1988, 1990, 1991年)・2位4回を記録している。F1唯一の予選落ちかつ最期の地という負の面のあるイモラも、3勝(1988, 1989, 1991年)・8PPとキャリアを通しては得意コースとなり、特にPPの獲得回数は自身最多となる。
逆に鬼門とされていたのはモンツァ、エストリル、地元ブラジルGPの舞台となったジャカレパグア・インテルラゴスなどである。モンツァでは最終的に2勝を挙げたものの、1987年から1989年まで3年連続目前で勝利を逃し、1990年の初勝利までに6年を要した。初のポールポジションを獲得したエストリルでは一勝しか挙げられなかった。ジャカレパグアは6年間で未勝利となり、表彰台すら1986年の2位1度のみとなった。インテルラゴスも5年間で2勝を挙げたものの、1990年の中嶋悟との接触、1994年のシューマッハ追走中のスピンなどが発生している。
また、ライバル・プロストの母国であるフランスGPにおいては、10年間[注釈 11]でついに1勝も挙げることは出来なかった(最高位は1988年の2位1回)。プロストは母国においても、セナの母国ブラジルGPにおいても高い勝利率を記録しており[注釈 12]、この面では対照的な結果が残ることとなった。
- 危険な走行
その速さや技術の高さは評価されている一方で、危険な走行に対する批判もある。3度の世界チャンピオンで自他共に認める良識派だったジャッキー・スチュワートはその点を憂慮し、セナへのインタビューで苦言を呈したことがある。これに対しセナは「(ジャッキーに対し)あなたのような経験豊かなチャンピョンドライバーの発言内容として驚きだ」「我々F1ドライバーは2位や3位になるためにレースをしているのではない」「優勝をするために全力でレースを闘っている」「レーシングドライバーならば、僅かな隙を突くべきだ」「僕には僕の思ったことしかできない」と反論した。同じく3度の世界チャンピオンであるジャック・ブラバムは、1990年日本GPの1コーナーでプロストと接触した件について、自分たちの時代には集団の先頭であのような事故は起きなかったと述べ、マシンの安全性向上によってドライバーのモラルが低下したと嘆いた[12]。後述するトップ・ギアのセナ特集でマーティン・ブランドルは「セナは道を譲るか、リタイヤするかの二択を迫ってくるんだ」と語っている。
人間関係
セナは神経質で内向的な性格と言われていた。ただ、マクラーレンでコンビを組んだゲルハルト・ベルガー、ウィリアムズでチームメイトだったデイモン・ヒル[13]、トレーニング・ジムで知り合ったティエリー・ブーツェン、ブラジルの公用語であるポルトガル語を話せるペドロ・ラミー、同胞で後輩のマウリシオ・グージェルミン、ルーベンス・バリチェロらとは良好な関係を築いていた。バリチェロが94年のイモラにおいて事故を起こした際には、その入院先に家族よりも先に訪れ、意識を取り戻すまで付き添っていた。バリチェロは目覚めた時にセナが傍らに居て驚いたというエピソードを後に語っている。
ロータス時代チームメイトだった中嶋悟は、「彼は、レースの闘い方やコースのこと、(マシン)セッティングのこと、そして、政治的なことまで全てをつつみ隠さずアドバイスしてくれた」「彼ほど性格が真面目なドライバーを見たことがない」と語っており、またF1で心から話が出来たチームメイトはセナだけだったと語っている。
2度の選手権王者となった1990年頃には、若手ドライバーへのアドバイスをしたり、レース中に無線で冗談まで言うようになっていた。1993年日本GPではセナが周回遅れにしようとしていたエディ・アーバインがセナに進路を譲らなかった一件で、レース後にアーバインに殴りかかる事件も起こった。アーバインは殴られたと公言しているが、これは1987年第3戦ベルギーGPでマンセルと殴りあったのとは違い、周囲の制止で思いとどまっている(詳細はエディ・アーバインを参照)。この一件では6か月の執行猶予付きで2戦出場停止処分を受けた[14]。
ドライバーではないが、セナの現役時代にFIA会長を務めていたジャン=マリー・バレストルは、同じフランス人のプロストに露骨に肩入れした一方で、89年鈴鹿のシケインでの事件による失格裁定や、1990年のPPの位置を巡る争いなど、セナとは犬猿の仲で知られた。これらの構図は、慢性的にF1界を取り巻いてきた欧州封建の側面と対峙するかのようなセナの姿勢を印象付け、特に欧州圏外での熱狂的なファン獲得に繋がった要因とも言われている。
ライバル関係の一例
- ネルソン・ピケ
- 3度のF1ワールドチャンピオンに輝いたネルソン・ピケとは、母国の先輩・後輩でありながら犬猿の仲だったことが知られ、生涯友好的な関係ではなかった。また、「奴の乗ったマシンに乗るときは念入りに消毒する必要がある」「サンパウロのタクシードライバー」「女に興味のないラジコン狂」など、マスメディアによって伝えられた悪口も数多い。しかし、1992年にピケがインディ500予選時に両足複雑骨折の重傷を負った際には、見舞い電報を送っており、ピケ本人は「読んで涙が流れた」と語っている。ピケはセナの葬儀に出席していないが、セナ死去時の追悼コメントでは、「暫くは出てこない存在」などセナを評価する言葉を残している。
- ナイジェル・マンセル
- マンセルとは、殴り合いの喧嘩なども含めていざこざが多数あるものの、遺恨を残すようなことはなかった。1991年にセナがチャンピオンを獲得した際には、タイトル争いの相手であったマンセルは、ピットで迎え祝福。逆に1992年にマンセルが初タイトルを獲得した際には、セナがピットまで赴き祝福の言葉を述べている。また、1992年のモナコGPではお互いを讃えあうなど、よきライバル関係を築いていた。セナが他界した後、日本のテレビ番組に出演した際にも「お互いに凄い奴だと認め合っていた」と、その関係について語っている。当時のF1の救急医療班の代表であり、セナとは家族ぐるみの交流があったシド・ワトキンスも、マンセルとセナは友好的な関係だった、と語っている[13]。
- アラン・プロスト
- プロストとは、前述のように様々な因縁があった。しかし、後述のプロストのコメントにもあるとおり、プロストがF1を休養していた1992年には2人は個人的に連絡を取り合っていたという。今宮純と川井一仁もその共著の中で「2人はカメラが回っていないところでは、話もよくしている」と記述している。また、後にプロスト自身はセナとの関係について「問題を抱えていた時期もあったことは確かだが、マスコミによって多くの人物にライバル以上の敵対関係として捉えられることとなった」と語っている。2人が険悪だったとされる1989年でも、ピケとマンセルの様に情報を交換しないということはなく、ミーティングなどではプロフェッショナルな関係を保っていたという。1994年のサンマリノGPの最中である4月29日、フリー走行中のセナは地元のテレビ局による中継の解説を務めていたプロストに対し、無線で「親愛なるアラン元気かい? 君がいなくなって淋しいよ」と伝えている。セナの事故死はその2日後だった。これらのことから、2人の関係が悪かったと一概には言えない。プロストはセナの死後、セナのファンクラブのフランス支部名誉会長も務めている。
- また、フジテレビ主催のセナ追悼イベントのインタビューの中では次のように語っている。
- 「事故から3か月が過ぎた今でも、毎日のようにセナのことを考えます。彼がいなくなったことで、私のF1での大切な思い出が失われてしまいました。彼は、モチベーションを保つために、ライバルが必要だと感じていました。セナには僕が必要だったのです。彼は私を倒すことに熱中しました。でも、そこには互いに尊敬の気持ちがありました。(1992年に)一年間レースを休養していたときにも、セナとはよく電話で話しました。彼は、私がいないとやる気が出ないと話していました。その年の彼はレースへの情熱を失っているように感じました。セナが最も私を魅了したのは、彼が100%をレースに捧げていたことです。実際に100%を捧げるのは簡単ではありません。私には家庭もあり、休養もあり、ゴルフやスキーに熱中したりもします。私の場合、98%くらいをレースに捧げているのだと思います。でも、セナにはレースが全てでした。私ならマシンにトラブルが起これば、すぐにピットに戻ります。でもセナは、本能で走ろうとするのです。今では、彼と共に走ったことが、私にとって一番大切な思い出です」。
- ミハエル・シューマッハ
- デビュー当時のシューマッハはベテラン相手に物怖じせず、セナとの間に何度かトラブルが生じた。1992年第3戦ブラジルGPではテンプレート:要出典セナに対して、シューマッハが「チャンピオンのする行為ではない」と批判テンプレート:要出典。第8戦フランスGPでは、スタート直後に追突してきたシューマッハを、再スタート前のグリッド上でセナが厳しく諭す一幕があった。両者はその後ドイツ・ホッケンハイムリンクにおいて、テスト走行中のトラブルで乱闘寸前になった。しかし、1994年には互いに認め合い、安全面について話し合うこともあった。
- サンマリノGPの悲劇を眼前で目撃したシューマッハは、レース後モーターホームに閉じこもり、婚約者のコリーナと泣き続けたと後に語っている。2000年イタリアGPではセナに並ぶ通算41勝目を挙げ、レースの記者会見でその感想を質問されると、突然カメラの前で号泣しはじめた。落ち着いた後、インタビュアーから41勝目という数字がなぜ大きな意味を持つのか、と再び尋ねられると、「別の質問にしてください」と返答を拒否した。
ホンダとの関係
1987年、ホンダがロータスにエンジンを供給し、セナとホンダとの蜜月関係が始まる。これは、1988年にセナがマクラーレンに移籍した後も続き、結局1992年まで6年間ホンダエンジンをドライブし続けることになる。本田宗一郎と会った際に「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われ、「本田さんは日本での父」と感涙した。
また、1987年までホンダF1総監督だった桜井淑敏とは、桜井がホンダを退社した後もセナが何かと相談を持ちかけるほどの深い友人関係にあった。
開幕戦ブラジルGPでは、エンジンに異常を感じてリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいなかった。しかし、ホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたところ、パーツが壊れてエンジンブローする寸前だったという。この一件で、ホンダのエンジニアのセナへの評価や信頼が上昇することとなった。
1988年の鈴鹿でのレース後に、セナはアラン・プロストと共に、本田から食事に招待され、本田から「うちのクルマで勝ってくれてありがとう」と言われた。セナは、お礼を言われるとは思ってもみなかったので、ほとんど食べず、ただ涙を流していたという[15]。
レース以外でもホンダとは関係を持ち、1989年にホンダのフラグシップ・スポーツカー、NSXの開発テストに参加。これはセナが生涯の中で唯一手掛けた市販乗用車であった。同車のテストにおいて、剛性不足を指摘されたホンダが、剛性を確保するために取り付けたバーは、通称『セナバー』とも呼ばれる。また、「セナさんの休日」のキャッチコピーで、同社のVT250スパーダ(2輪)の紙面広告に出演。その後、同社のプレリュード(4代目)のCMにも出演した。キャッチコピーは「Just move it 」。
また、マクラーレンで担当エンジニアだった木内健雄と最後に会った時に、「俺は若いから、まだ何年でも待っていられるから、もう一回ホンダに乗るから」と、F1の舞台での再会を誓っていた。
2013年、ホンダは1989年日本GPにおけるセナの予選最速ラップを最新技術で再現する「Ayrton Senna 1989プロジェクト」を発表。エンジン音や走行ラインを3DCGで再現するウェブコンテンツ「3D-View」などを公開した[16][17]。
ホンダエンジン搭載車でのセナの記録
1987年はロータス、1988 - 1992年はマクラーレンで通算6年間ホンダエンジン搭載車でドライブした。なおここでは記録のパーセンテージのうち小数点以下は四捨五入して掲載している。
- ドライバーズタイトル3回 1988、1990、1991年と全てマクラーレン・ホンダ時代に獲得。
- 優勝通算41回中32回 自身の全優勝の78%がホンダエンジンでの優勝である。
- PP通算65回中46回 自身の全PPの70%がホンダエンジンでの記録である。
- FL通算19回中14回 自身の全FLの74%がホンダエンジンでの記録である。
- 通算ポイント614点中435点 自身の通算ポイントの71%がホンダエンジンでの記録である。
ドライバーズタイトル、優勝、PP、FL、通算ポイントといずれもホンダエンジンのドライバー別通算記録の中で最多記録となる。
F1における主な記録
- ワールドチャンピオン獲得3回(歴代4位タイ 当時歴代2位タイ)
- 1988年、1990年、1991年
- 優勝41回(歴代3位 当時歴代2位)
- 1991年第2戦ブラジルGPでジャッキー・スチュワートの27勝を更新。
- ポールポジション65回(歴代2位 当時歴代1位)
- 1989年第5戦アメリカGPでジム・クラークの33回を更新。2006年第4戦サンマリノGPでミハエル・シューマッハが更新。
- 年間ポールポジション13回(歴代2位タイ 当時歴代1位)
- 1988年、89年に連続して記録。1984年ネルソン・ピケの9回を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。
- 年間ポール・トゥ・ウィン7回(歴代3位 当時歴代1位)
- 1988年、91年に記録。それまでの5回を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。
- 連続ポールポジション8回(歴代1位)
- 1988年第14戦スペインGP - 1989年第5戦アメリカGPにかけて記録。
- 同一GPでの連続PP7回(歴代1位)
- サンマリノGPにおいて、1985年 - 1991年にかけて記録。
- 同一GPでの連続優勝5回(歴代1位)
- モナコGPにおいて、1989年 - 1993年にかけて記録。
- 開幕からの連続優勝4回(歴代3位タイ 当時歴代1位)
- 1991年に記録。それまでの記録2勝を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。
- 開幕からの連続PP6回(歴代2位タイ 当時歴代1位)
- 1988年に記録。1977年のジェームス・ハントの3回を更新。1993年にアラン・プロストが更新。
- モナコGP6勝(歴代1位)
- 1993年に更新。1987年、1989年 - 1993年に記録し、1969年にグラハム・ヒルが記録した5勝を更新。
エピソード
- パーソナルデータ
- 家族・恋人
-
- 両親は父ミルトン、母ネイジ、兄弟は姉ビビアーニ、弟レオナルド。「セナ」は母方のファミリーネーム。
- 姉のビビアーニ・セナ・ラッニは弟の死後「アイルトン・セナ財団」の代表に就任し、1994年日本GPにゲストとして来日し、日本のファンへ感謝のスピーチを述べた。ビビアーニの息子(アイルトンの甥)ブルーノ・セナは後にレーサーとなり、2010年にF1デビューを果たした。
- 一時期、当時ブラジルの国民的アイドルシューシャと交際していた。その出演番組にセナがゲスト出演したこともある。1988年のクリスマス番組で彼女がセナに「欲しい物は何?」と聞くと「ここでは言えない」と言って彼女にだけ耳打ちした。その後シューシャはワールドチャンピオンのお祝いと称し「新年の分」「1990年の分」「1991年の分」「1992年の分」「1993年の分」として何度も彼の顔にキスをしている。能天気なまでのキスシーンとは裏腹に「1993年の分」で終わることが1994年の事故を暗示していると後に評判となる。また、1990年ブラジルGPでは、シューシャがセナの応援に来ており、セナの葬儀にも参列した。
- 信仰心
- ビジネス
- F1ドライバーとしての収入とは別に、自身で発足した会社を持ち事業を展開していた。通称「セナビル」と言われる自宅兼社屋をサンパウロ市内に私有、「セニーニャ」という自身をモチーフにしたキャラクター商品などの販売で収益を得、またその一部は寄付などにも充てていた。
- 交渉術
- チームとの交渉事ではタフな一面を見せた。マクラーレンではドライバーの個人スポンサーのPRを認めていなかったが、特例としてナシオナル銀行 (NACIONAL) のキャップやロゴの露出を認めさせた。契約金が合意しなかった時は、ロン・デニス代表とコイントスで決めたこともあった。
- 1993年はフォードのワークスエンジン獲得を訴え、サンマリノGPでは金曜日のフリー走行開始直前までサーキット入りせずチームへプレッシャーをかけた。
- 一方、ベルガーと共にワニの棲む池にロン・デニスを叩き落とし、「契約金を上げると約束すれば、助けてやる」という交渉をしたこともあった。なお、この際は、ロン・デニスが契約金上昇を約束し、2人に助けられている。
- 投票結果
- イギリスのF1 Racing誌(2007年2月号)は、史上最速のF1ドライバーとしてアイルトン・セナを選出した。同誌は、FIAのマックス・モズレー会長、当時のフェラーリチーム代表のジャン・トッド、元チャンピオンのケケ・ロズベルグ、元チームオーナーのエディ・ジョーダンなどのF1界を代表する有識者(28人)に投票を依頼し、最速ドライバー歴代50傑を決定した。セナはミハエル・シューマッハを抑えてランキング1位になった。3位はジム・クラーク。
- イギリスのF1 Racing誌(2008年6月号)において「史上最高のドライバートップ100ランキング」が掲載され、1位にアイルトン・セナを選出した。これは同誌のリーダーパネル会員の数千におよぶ投票で決定されたもので、2位はミハエル・シューマッハ、3位にファン・マヌエル・ファンジオ。
- 英誌オートスポートは、F1ドライバー経験者217人の投票により「F1で最も偉大なドライバー」にセナを選出した。2位はミハエル・シューマッハ。3位はファン・マヌエル・ファンジオ。現役ではフェラーリのフェルナンド・アロンソの9位が最高だった。(2009年12月)[21]
- 日本のメディア関連
- フジテレビによるF1中継では、セナの名レースや節目として話題に挙がることの多いGPは、1991年ブラジルGP・1992年モナコGP・1993年ヨーロッパGPなど、三宅正治が実況を担当していたケースが非常に多く、最期となった1994年サンマリノGPもまた三宅の実況であった。
- 一方で、セナと相性の悪いアナウンサーとしてよく話題に挙がるのは馬場鉄志であり、鈴鹿までチャンピオンの決定を遅らせたいフジテレビ陣営が直前のスペインGPに、1990年はコメンタリーブースに馬場の顔写真を国際FAXで送り貼り付け、1991年にはスペインGPの実況にあえて馬場を選んだという逸話もある。結果的に、1990年は前走車のパーツをラジエターにぶつけリタイア、1991年も5位止まりでどちらもチャンピオンに届かず、鈴鹿までチャンピオン決定がもつれこんでいる。ホンダ陣営も馬場との相性に関するエピソードを知っており、1990年にはFAXを見たホンダスタッフが「悪ふざけが過ぎる!」と本気で怒ったこともあった。[22]
- 1991年には週刊少年ジャンプ(集英社)がマクラーレンのスポンサーとなっていたことから、35号から51号にかけてセナを主人公として同年のシリーズを描く『Fの閃光-アイルトン・セナの挑戦!!-』(原作: 西村幸祐 画: 長沢克泰・鬼窪浩久)が連載された。
- 1992年、日本GP直前にフジテレビのバラエティ番組やニュース番組に生出演。「笑っていいとも」の収録後、セナの出待ちをする人込みで新宿アルタ前が一時騒然となった。
- 1993年、日本GPの来日時に「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」内の「生ダラCART GP」にゲスト出演し、石橋貴明(アイルトン・タカ)・定岡正二とカート対決を行った。撮影ではコースを逆走したり、石橋を真似て「シェー」のポーズをとるなど終始リラックスしていた。レース後、石橋から「鈴鹿で優勝した際のヘルメット」のプレゼントを頼まれ快諾したが、約束通りヘルメットが届けられたのはセナが事故死した直後となった。
- 2013年に発売されたPlayStation 3用ゲーム『グランツーリスモ6』で、アイルトン・セナ財団がグランツーリスモ6と長期的なパートナーシップを締結。5月に追加コンテンツ「アイルトン・セナ・トリビュート」が登場し、セナが運転したマシンを運転、セナの人生をたどることができる。また、オープニングムービーにセナ財団がサポートしている学校も実写で登場する。
- 伝記映画
- 死後16年以上が経過した2010年日本GPに合わせ、ドキュメンタリー映画『アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ』が公開された。この映画は全世界での公開になるが、世界に先駆けて日本は先行上映された。映像や声の出演は生前のセナ本人だけでなく、善きライバルであったプロスト、所属チームのオーナーだったフランク・ウィリアムズやロン・デニス、親族では実姉のヴィヴィアーニ・セナから実父、実母などセナの生涯に携わった人物が多数登場する[23]。
- この映画のプロデューサーのジェイムズ・ゲイ・リースによると、セナが死の1か月ほど前にイモラサーキットでテストを行った際に、タンブレロに立ち、イモラサーキットの関係者に路面に凹凸があり危険だと指摘し、「ここで今年誰かが死ぬ。」と話している映像があるが、映画にはうまく組み込ませることができなかったという[24]。
- また、その現場を個人カメラマンが別角度から撮影した映像もあり、セナの死から数日後のフジテレビのニュース番組で放送された。
F1以前の戦績
年 | カテゴリー | 所属チーム | シャシー | エンジン | 優勝数 / 参戦数 |
PP | FL | 年間ランキング |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | フォーミュラ・フォード1600 | - | バン・ディーメン RF80 バン・ディーメン RF81 |
フォード | 12 / 20 | 6 | 9 | 1位 |
1982年 | ヨーロッパ・フォーミュラ・フォード2000 | RushenGreen Racing | バン・ディーメン RF82 | フォード | 6 / 9 | 8 | 5 | 1位 |
イギリス・フォーミュラ・フォード2000 | RushenGreen Racing | バン・ディーメン RF82 | フォード | 16 / 19 | 8 | 16 | 1位 | |
イギリスF3 (スポット参戦) | - | ラルト RT3 | トヨタ | 1 / 1 | 1 | 1 | - | |
1983年 | イギリスF3 | ウェスト サリー レーシング | ラルト RT3 | トヨタ | 12 / 20 | 15 | 12 | 1位 |
F3 マカオグランプリ | ウェスト サリー レーシング | ラルト RT3 | トヨタ | - | PP | FL | 総合優勝 |
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント[注釈 13] |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984年 | トールマン | TG183B | ハート 415T 直4 ターボ | BRA Ret |
RSA 6 |
BEL 6 |
SMR DNQ |
9位 | 13 | ||||||||||||
TG184 | FRA Ret |
MON 2 |
CAN 7 |
DET Ret |
DAL Ret |
GBR 3 |
GER Ret |
AUT Ret |
NED Ret |
EUR Ret |
POR 3 | ||||||||||
1985年 | ロータス | 97T | ルノー EF4B/EF15 V6 ターボ | BRA Ret |
POR 1 |
SMR 7 |
MON Ret |
CAN 16 |
DET Ret |
FRA Ret |
GBR 10 |
GER Ret |
AUT 2 |
NED 3 |
ITA 3 |
BEL 1 |
EUR 2 |
RSA Ret |
AUS Ret |
4位 | 38 |
1986年 | 98T | ルノー EF15B/C V6 ターボ | BRA 2 |
ESP 1 |
SMR Ret |
MON 3 |
BEL 2 |
CAN 5 |
USA 1 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 2 |
HUN 2 |
AUT Ret |
ITA Ret |
POR 4 |
MEX 3 |
AUS Ret |
4位 | 55 | |
1987年 | 99T | ホンダ RA167E V6 ターボ | BRA Ret |
SMR 2 |
BEL Ret |
MON 1 |
USA 1 |
FRA 4 |
GBR 3 |
GER 3 |
HUN 2 |
AUT 5 |
ITA 2 |
POR 7 |
ESP 5 |
MEX Ret |
JPN 2 |
AUS DSQ |
3位 | 57 | |
1988年 | マクラーレン | MP4/4 | ホンダ RA168E V6 ターボ | BRA DSQ |
SMR 1 |
MON Ret |
MEX 2 |
CAN 1 |
USA 1 |
FRA 2 |
GBR 1 |
GER 1 |
HUN 1 |
BEL 1 |
ITA 10 |
POR 6 |
ESP 4 |
JPN 1 |
AUS 2 |
1位 | 90 (94) |
1989年 | MP4/5 | ホンダ RA109E 3.5 V10 | BRA 11 |
SMR 1 |
MON 1 |
MEX 1 |
USA Ret |
CAN 7 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 1 |
HUN 2 |
BEL 1 |
ITA Ret |
POR Ret |
ESP 1 |
JPN DSQ |
AUS Ret |
2位 | 60 | |
1990年 | MP4/5B | ホンダ RA100E 3.5 V10 | USA 1 |
BRA 3 |
SMR Ret |
MON 1 |
CAN 1 |
MEX 20 |
FRA 3 |
GBR 3 |
GER 1 |
HUN 2 |
BEL 1 |
ITA 1 |
POR 2 |
ESP Ret |
JPN Ret |
AUS Ret |
1位 | 78 | |
1991年 | MP4/6 | ホンダ RA121E 3.5 V12 | USA 1 |
BRA 1 |
SMR 1 |
MON 1 |
CAN Ret |
MEX 3 |
FRA 3 |
GBR 4 |
GER 7 |
HUN 1 |
BEL 1 |
ITA 2 |
POR 2 |
ESP 5 |
JPN 2 |
AUS 1 |
1位 | 96 | |
1992年 | MP4/6B | ホンダ RA122E/B 3.5 V12 | RSA 3 |
MEX Ret |
4位 | 50 | |||||||||||||||
MP4/7A | ホンダ RA122E/B 3.5 V12 | BRA Ret |
ESP 9 |
SMR 3 |
MON 1 |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 2 |
HUN 1 |
BEL 5 |
ITA 1 |
POR 3 |
JPN Ret |
AUS Ret | ||||||
1993年 | MP4/8 | フォード HB5/7/8 3.5 V8 | RSA 2 |
BRA 1 |
EUR 1 |
SMR Ret |
ESP 2 |
MON 1 |
CAN 18 |
FRA 4 |
GBR 5 |
GER 4 |
HUN Ret |
BEL 4 |
ITA Ret |
POR Ret |
JPN 1 |
AUS 1 |
2位 | 73 | |
1994年 | ウィリアムズ | FW16 | ルノー RS6 3.5 V10 | BRA Ret |
PAC Ret |
SMR Ret |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
NC | 0 |
脚注
注釈
出典
関連項目
関連人物
- ブルーノ・セナ
- 桜井淑敏
- アドリアーナ・ガリステウ - 最後の恋人。
CM出演
- ホンダ・プレリュード
- ホンダVT250スパーダ
- 昭和シェル石油
- SEGA メガドライブ用ソフト アイルトン・セナ スーパーモナコGP II(監修も担当)
外部リンク
テンプレート:Sister 公式サイト
非公式サイト
テンプレート:S-sports
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ネルソン・ピケ
|style="width:40%; text-align:center"|F1ドライバーズチャンピオン
1988年
|style="width:30%"|次代:
アラン・プロスト
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
アラン・プロスト
|style="width:40%; text-align:center"|F1ドライバーズチャンピオン
1990年-1991年
|style="width:30%"|次代:
ナイジェル・マンセル
- 転送 Template:End
テンプレート:マカオグランプリ優勝者一覧 テンプレート:F1ドライバーズチャンピオン テンプレート:トールマン テンプレート:ロータス テンプレート:マクラーレン テンプレート:ウィリアムズ テンプレート:Normdaten
テンプレート:Link GA
- ↑ 「セナを殺した男たち」(ジョー・ホンダ、ベストセラーズ、1994年)pp.117 - 119
- ↑ 独占インタビュー! ジャコビが語るセナ パート1
- ↑ 独占インタビュー! ベルガーが語るセナ
- ↑ 『1994年 GPXモナコGP号』、山海堂、P.13
- ↑ 5.0 5.1 The Official Formula 1 Website
- ↑ [1]
- ↑ フジテレビF1グランプリ 1991年総集編のナレーションより
- ↑ オグたん式「F1の読み方」2010年7月30日の記事。当時小倉茂徳はマクラーレンチームの日本語広報担当だった。
- ↑ F1解剖講座-データで見るF1グランプリ(二玄社)
- ↑ 『F1パーフェクトブック アイルトン・セナの時代』(別冊宝島)、『実録F1ドライバー列伝 Hondaを疾らせた男達』(竹書房)参照。
- ↑ 柴田久仁夫「究極のドライバー比較論-元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る」『AUTO SPORT-アイルトンセナ没後10年特別企画』三栄書房、50頁-55頁、2004年。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 13.0 13.1 独占インタビュー! ワトキンス博士が語るセナ
- ↑ 『F1速報 1994 総集編』 ニューズ出版、1995年、74頁。
- ↑ 『産経新聞』「from Editor」〈F1をめぐる「男の涙」〉2009年(平成21年)11月16日 月曜日 12版 6面。
- ↑ "アイルトン・セナの鈴鹿最速ラップをCGで再現した体験型Webコンテンツ「3D-View」を公開". 本田技研工業.(2013年9月27日)2014年3月3日閲覧。
- ↑ "Ayrton Senna 1989". dots by internavi.
- ↑ planetf1.com
- ↑ "今日の名言". Number Web.(2009年11月19日)2014年3月3日閲覧。
- ↑ 独占インタビュー! ジャコビが語るセナ パート2
- ↑ 偉大なF1ドライバー1位はセナ 日刊スポーツ2009年12月12日付。
- ↑ 別冊宝島 F1マクラーレン・ホンダ 栄光の1988年 16戦15勝の舞台裏 ISBN 4800214815 内インタビュー
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ The Making of Senna part 5: The lost scenes
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