三宅正治
テンプレート:複数の問題 テンプレート:基礎情報 アナウンサー 三宅 正治(みやけ まさはる、1962年11月15日 - )はフジテレビアナウンサーである。広島県広島市出身。 既婚。
来歴・人物
広島市立二葉中学校、広島市立基町高等学校、早稲田大学商学部卒業後、1985年、フジテレビにアナウンサーとして入社。同期に軽部真一、長野智子、松田朋恵、永麻理、小田多恵子。元日本テレビアナウンサーの船越雅史は大学の1年後輩。現在は、アナウンス室専任部長を務める。
フジテレビを志望した理由は「ダービーの実況がしたいから」であった。入社12年目にして達成し(1996年、優勝馬フサイチコンコルド)、以降2004年までは2002年を除いて毎年ダービーの実況を担当した。また、有馬記念の実況を2005年から2011年まで担当した[1]。
もう1つ、アナウンサーとしての希望は、大ファンである「プロ野球・広島東洋カープの日本一の瞬間を実況すること」。こちらは叶えられていない(広島は三宅の入社前年の1984年を最後に日本シリーズを制していない)。
スポーツアナウンサーとしてプロ野球、F1、格闘技、競馬、バレーボール、女子プロレスなど幅広く実況を担当した。
F1においては1990年ベルギーグランプリから実況に参加。それまで、モナコや日本といったフジテレビにとって重要と位置づけられたグランプリレースは古舘伊知郎が実況を務めていたが、1992年モナコグランプリにおいて、出演の都合がつかなかった古舘に代わり、アイルトン・セナとナイジェル・マンセルが死闘を繰り広げた、F1の歴史に残る名勝負と言われる決勝の実況を務めた。1994年サンマリノグランプリでは、ローランド・ラッツェンバーガーとセナが相次いで事故死した瞬間を実況することとなり、決勝レースの最後まで実況を務めたものの、日本への決勝レース中継は中断を余儀なくされ、現場のイモラ・サーキットからの生中継に切り替わり、解説の今宮純、ピットリポーターの川井一仁と3人でセナの事故死を伝えた。1994年日本グランプリを最後に降板した古舘に代わり、翌年(1995年)から5年間日本グランプリの実況を務めた。1999年日本グランプリを最後にF1の実況から降板した。
2004年アテネオリンピックにおいて、フジテレビを代表してジャパンコンソーシアムの一員としてテレビ中継の実況に参加、開会式(民放での録画放送)、柔道、女子バレーボールの実況を務めた。柔道に関しては、NHKアナウンサー・道谷眞平とともに実況を務め、三宅が実況を務めた男女7階級のうち6階級で日本代表選手が決勝へ進出、野村忠宏(オリンピック柔道史上初の3連覇達成)や阿武教子(3度目のオリンピック出場にて初の金メダル獲得)、塚田真希(日本人女子選手として初めて最重量級を制覇)をはじめ、金メダル4個・銀メダル2個の獲得の瞬間を実況した。また、柔道女子52kg以下級準決勝において、横澤由貴が残り1秒で袖釣込腰の一本により劇的な逆転勝利・決勝進出を決めた瞬間を実況した。
2000年4月から『プロ野球ニュース』の司会を務め、2001年4月からの後番組『すぽると!』でも引き続き司会を務めた。
『すぽると!』については、2006年10月から平井理央とのコンビ固定で月曜から金曜を担当していた。その後、2007年10月からは土曜を担当していた佐野瑞樹がニューヨーク支局へ勤務のため番組を降板、土曜を本田朋子とともに担当することになり、金曜の担当からは降りることになった。しかし、2008年4月から週末に渡辺和洋が復帰したため、半年で土曜の担当から金曜に復帰した。
2011年3月24日放送分を最後に、番組開始満10周年を一つの節目として番組から勇退を決定。『プロ野球ニュース』から加えて11年に渡るスポーツキャスターから引退し、中継・アナウンス部長活動に専念することとなった。
バラエティ番組に関しては、入社1年目(1985年)に放送を開始した『夕やけニャンニャン』金曜日にレギュラー出演、新人ながらも「アイドルを探せ!」等のコーナー司会を務めた経験があったが、2000年代に入るとバラエティ番組への出演も多くなり、『クイズ!ヘキサゴン』(深夜番組時代)の司会を務めたほか、『熱血!平成教育学院』、『ネプリーグ』にも出演した。2009年には、アニメ『空中ブランコ』第4話で本人役として声のみの出演も行っている(エンディングでは「野球実況」とクレジット)。
スポーツ実況降板・情報番組MCへ
入社以来、スポーツ中継一筋で活躍し、フジテレビのスポーツ中継の顔として長年親しまれてきたが、2012年4月2日から、病気療養のため番組を卒業することになった大塚範一の後任として『めざましテレビ』の2代目男性司会者として登板。三宅にとって、情報番組への登板は入社以来これが初めてとなる[2]。今後もスポーツ実況も続けるかどうか動向が注目されていたが、2012年3月12日にフジテレビアナウンス室公式サイト(アナマガ)内のスポーツアナウンサー共同ブログにおいて、スポーツ実況の第一線から卒業し、『めざましテレビ』に専念すると発表した[3]。そのため、実況アナウンサーとしては2011年12月25日放送の『みんなのKEIBA』(第56回有馬記念)の実況が最後となり、2012年3月18日放送の『みんなのKEIBA』にてフジテレビ賞スプリングステークス優勝騎手(ミルコ・デムーロ)インタビューを担当したのがスポーツアナウンサーとしての公式での最後の活動となった。スポーツ実況降板に合わせ、長年務めてきたJRA賞の選考委員・民放記者競馬クラブの会員も辞任した。これにより、共演が少なかった同期の軽部とはレギュラーで共演することとなった。
『めざましテレビ』登板後は、『FNN報道特別番組』や選挙特別番組のメインキャスターを担うこともある。
競馬GI実況歴
1988年、25歳のときに安田記念でGI初実況を果たし、翌1989年にクラシック競走の1つである優駿牝馬(オークス)を実況。以降2011年まで、2002年を除き毎年GIの実況をこなし、上述の通り1996年には入社志望理由の一つだった東京優駿(日本ダービー)の実況を果たした。
以下はGI実況歴の詳細だが、ダートGI(フェブラリーステークス及び2000年から2007年までのジャパンカップダート(現・チャンピオンズカップ))については実況経験がない。
- 皐月賞 1994年 - 1997年・1999年
- NHKマイルカップ 1996年・1999年
- 優駿牝馬 1989年 - 1995年
- 東京優駿 1996年 - 2001年・2003年・2004年
- 安田記念 1988年・1991年・1993年・1998年
- スプリンターズステークス 1991年・1993年 - 1996年
- 天皇賞(秋) 1991年 - 1994年・1996年・1997年
- ジャパンカップ 1998年 - 2001年・2004年・2005年
- 朝日杯3歳ステークス 1990年・1992年・1994年・1997年
- 有馬記念 2005年 - 2011年
現在の出演番組
- めざましテレビ(2012年4月 - )
AKB48関連
- AKB48じゃんけん大会~今夜新センター決定SP~(2013年9月18日、実況)
過去の出演番組
- 夕やけニャンニャン(金曜日)
- オレたちひょうきん族
- FNNスーパータイム(スポーツコーナー:週末)
- プロ野球ニュース(2000年4月 - 2001年3月)
- 酔いどれない競馬(CSフジテレビ739)
- クイズ!ヘキサゴン(深夜時代の司会および島田紳助の代理司会)
- スーパー競馬→みんなのケイバ→みんなのKEIBA(末期は有馬記念のみ)
- アナ☆ログ(2008年2月3日放送「アナウンサーが出されたくないクイズ」の回に出演)
- 新春かくし芸大会(ナレーション・2007年から2009年まで)
- ジャンクSPORTS
- すぽると!(月曜日 - 金曜日)
- 森田一義アワー 笑っていいとも!(金曜日、「クイズ!お久しぶりゲストマラソン」実況)
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜
- 産経テレニュースFNN
- 鍵のかかった部屋(2012年6月4日)
- VS嵐(2012年7月26日、クリフクライムでは中村光宏の代役・2013年8月8日)
- FNS27時間テレビ(1995年 - 1998年、2005年 - 2007年、2009年 - ) 2001年は番組に内包されたオールスターゲームの実況/2009年と2010年には三輪車レースの実況を担当
- FNN総選挙2012 ニッポンの決意 JAPAN'S DECISION(総合司会・2012年12月16日)
- FNN参院選 真夏の決断2013(総合司会・2013年7月21日)
- 医龍 -Team Medical Dragon- 4(2014年2月20日) - 山岡教授 役
著書
- 『言葉に魂(おもい)をこめて』(2009年8月、ワニブックス刊)
- この本はスポーツアナ仲間で同郷(広島県出身)の川﨑聡が勤める系列のテレビ西日本において、アナウンサーたちの勉強会でテキストとして用いられた。やはりスポーツアナ仲間であり、現在はテレ西アナウンス部長を務める田久保尚英のブログを参照。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Navboxes- ↑ フジテレビは有馬記念を競馬中継の中で最高のレースに位置付けており、それに相応しいアナウンサーが実況するという観点から部長級の管理職のアナウンサーが代々実況を務めており、現在の青嶋で8代目となる。また有馬記念を実況するアナウンサーはその他のGIレースは実況しないという慣例があり三宅も初めて担当した2005年こそジャパンカップの実況を担当したが、翌2006年からは慣例にならいその他のGIレースの実況からは退いている(GII・GIIIレースは年に数回担当したことはあった)。
- ↑ 闘病中の大塚キャスター「めざまし」卒業 日刊スポーツ 2012年2月28日閲覧
- ↑ 「皆様へ」」我ら、CXスポーツアナウンサー 2012年3月12日付参照