プロレス

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プロレスは、リング上で主に観客へ見せることを目的とした攻防を展開する、格闘技を基本とした興行色の強い試合のことである。もしくは、その試合を複数展開することにより開催される興行のことである。正式名称はプロフェッショナル・レスリングProfessional wrestling)といい、日本では略してプロ・レスリングPro-wrestling)とも呼ばれ、俗にプロレスという略称が定着している。興行レスリング、職業レスリングとも[1][2][3][4]。また、メキシコでは「ルチャ・リブレ」と呼ばれ、アメリカなどの国では単に「レスリング」と呼ばれることも多い。ヨーロッパでは「キャッチ」と呼ばれる。

試合は打撃、投げ技、関節技、時には凶器などを用いて行われ、試合において闘う者をプロレスラー、もしくはレスラーと呼ぶ。

アメリカメキシコ日本等において歴史があり、複数のプロレス団体を有しており全国各地で興業が連日行われている。プロレス興業がない国においてもテレビやインターネットを通じて世界中の人にも楽しまれている。

概要

興行会社が試合その他で構成される興行を開催することで、観戦料などの収入を得るビジネスモデル。プロレス業界において、この興行会社は「団体」と呼ばれる。 WWEを代表とする、台本の存在を公にしているエンターテインメント系団体と、日本の主流である競技性を前面に押し出している団体・興行が存在する。また、女性のプロレスラーの行うプロレスは特に女子プロレスとされ区別される。それ単独での興行は存在しないものの、低身長症のプロレスラーが行うプロレスを「ミゼットプロレス」と呼ぶこともある。

事業収入を得ない、アマチュア組織も存在する。その中でも学生の愛好家達によるものは学生プロレスと呼称される。メキシコを除いては、ライセンス制度も無いため、厳密にアマチュアとプロを分類することは不可能であるが、強いて分類するなら観戦料徴収の有無で分けることが出来る。アマチュアプロレスは地域の催事ないしは祭事でプログラムの一環として行われることが多い。「アマチュアプロレス」という表現が矛盾していることもあり、プロではないがプロと同じ形式という意味で「プロスタイルレスリング」、「ノンプロ」との合成語として「ノンプロレス」と表現することもある。

一つの地域に重点を置く地域密着型(みちのくプロレス大阪プロレスKAIENTAI-DOJO等)と都市圏を中心に全国を回る巡業型がある。

勝敗を競う形式を取るが、アメリカのプロレス団体のWWEはあらかじめ作られた台本に則って行われている「エンターテインメント」であることを明らかにしている。理由としては、筋肉増強剤などの昨今のプロスポーツと薬物の問題が根底にあるが、その他にも、スポーツ委員会よりも興行(娯楽)として登録する方が保険料が低く済みコストダウンに繋がることや、株式上場の際に経営透明化という観点から業務内容を公開する必要があったためである。

歴史的に活動が盛んな地域としては北米圏(アメリカ合衆国カナダ)、日本プエルトリコ、およびメキシコが挙げられる。

アメリカではプロレスでもアマチュアレスリングでも「レスリング(Wrestling)」と呼ぶが、プロレスのみを指す場合、ショービジネスのそれとして「ラスリン(rastling/rastlin)」と南部訛りで呼ぶことがある[5]

運営

事業内容

エンターテインメント産業とほぼ同じ事業形態である。事業収入の柱となるものは以下の様なものである。

観戦料
通常は3,000 - 20,000円程度、興行の規模により推移する。地方興行などではコンサート同様に、スーパーやコンビニで割引優待券が配布されていることもある。また、他のスポーツ興行と同様に、法人顧客にある程度まとまった数を販売し、その法人が自身の顧客に対し、販促の一環として配布したり、余れば福利厚生の一環として従業員に配布することもある。ビッグマッチを除き、地方興行ではプレイガイドでの販売数はそれほど見込めないため、法人営業力の重要性は高い。
グッズ収入
Tシャツタオルなどの衣料品、パンフレット。会場での販売が中心だが、スポーツショップでも販売している。これらは粗利が高く日銭を稼ぐことが出来るため、女子団体を筆頭に零細団体ほど比重が高くなる。グッズが製作出来なくなると、その団体は経営的に破綻寸前であることが多い。また、ゲームソフトなどのロイヤリティーも含まれる。
コンテンツ販売
試合を収めたDVDビデオ販売、インターネット配信を行う団体もあり、アメリカのインディ団体では映像ソフトにパッケージという目的を持って試合を行う場合もある。近年では携帯電話サイトの有料会員向けに待ち受け画像・着声などを配信するケースも増えている。
広告料
リングやパンフレット、チケット裏面などの広告スペース料。冠興行の協賛金など。
テレビ放映料
地上波またはBS専門チャンネル放送事業者からの放映料。かつては地上波テレビ放送が無い団体では経営が成り立たないと言われていたが、UWFがビデオ販売でヒットを飛ばしたことや、ケーブルテレビ・CSで放送される有料専門チャンネルの増加などから、必ずしも地上波での放送がなくとも経営が出来るようになった。日本やアメリカのメジャー団体ではビッグイベントをPPV方式で販売して収入に直結させている。
所属プロレスラーの芸能活動
テレビやラジオ、各種イベントでのトークショー、映画Vシネマなどの出演料。レスラーが主演を務める作品もあり、俳優業を本職としたものもいる。
飲食店経営
喫茶店レストランの事業収入。全日本女子プロレス(崩壊)やDDTプロレスリング大日本プロレスなど、新人を中心とした所属選手や引退した元選手がスタッフとして働く店を経営する例もある。また大阪プロレススポルティーバエンターテイメントのように常設会場にカフェ・バーなどの飲食店を併設しているケースもある。
興行権販売
主に地方巡業であるが、各地方のプロモータと呼ばれる興行会社(いわゆる勧進元)に一定額で興行権を販売する。地域に根ざしたプロモータが営業活動・宣伝活動などの業務を行うため、団体のスタッフの負荷が軽減出来ることや、不入り興行でも安定した収入を得られる点が利点。また、このような興行は「売り興行」あるいは「委託興行」と呼ばれる(大相撲における地方巡業やプロ野球における地方球場での公式戦でも見られる形態)。逆に団体自らが興行を開催し、直接収入を得る興行を「手打ち興行」あるいは「自主興行」と言う。興行形態としては他に団体とプロモータで負担を分担し合う「分興行」(いわゆる「合同興行」で採られることが多い)、団体が一部経費を負担して残りをプロモータが負担する「乗り興行」(プロボクシングで多く見られる形態。プロレスでは「プロレス夢のオールスター戦」「夢の懸け橋」などが該当)がある。
元選手が引退後にプロモータに転身、ないしは入社することもある。現役選手でも、出身地や縁の深い場所で興行を行う場合は興行権を購入して取り仕切ることもある。また、一部プロモータが興行権を団体から購入せず自らの手で興行を打つこともある。
祭事・催事のプログラムの一環として、試合を行うこともある。代表例はフリーマーケット競艇場など。
その他
イレギュラーなものとしては、人望のあった選手などが重い病気や重度の負傷、リング内外の事故により事実上の廃業、あるいは長期欠場を余儀なくされた時、その選手やその家族のために、闘病費用などの一助にしようと、選手有志や縁のあった団体などの協力という形で選手のための興行が行われ、観戦料などの収益がその選手に渡されることもある(ガンで引退した冬木弘道引退試合など)。

社長プロレスラー

日本のプロレス団体における特徴のひとつとして、現役レスラーまたは引退したレスラーが社長業を兼務する、というものがある。日本のプロレス団体運営システムの始祖である力道山から始まった形式。日本プロレスから派生した新日本プロレス(2014年現在は「背広組」の経営)、全日本プロレスもこの形式を踏襲したほか、2014年現在もプロレスリングZERO1WRESTLE-1DDTプロレスリングなど、この形式を取る団体は少なくない。女子でもLLPW-XセンダイガールズプロレスリングOZアカデミー女子プロレスが該当する。引退したレスラーが社長を務める団体としては過去には国際プロレスなど、2014年現在はプロレスリング・ノアダイヤモンド・リングプロレスリングWAVEなどがある(ノア、WAVEについては現役から継続)。主演スターが座長も兼ねる劇団に近い形態といえる。興行の現場を知るものが社長業を行うことで、現場(レスラー)との乖離を避けることが出来たり、スポンサーとの営業活動などに利点がある。

しかし、個人商店化し、ワンマン体制や血縁・同族企業になりがちな点や、プロレスと経営の能力は別物であるため、優秀なブレーンとなる存在が無ければ維持することは難しい。また、(特に主力選手が社長を務めるケースにおいて)選手専任であればトレーニング、休息、リハビリなどに充てられる時間を経営に割かなければならないため、選手としてのコンディションの維持が困難になり、三沢光晴の死亡事故を機に問題視する声も出ている[6]

これに対して選手出身ではない者(「背広組」と呼ばれる」)が社長や経営幹部を務める場合、経営と現場を分離できるものの、両者の間に軋轢が生まれ、それにより分裂・活動を停止するケースも存在する一方、社長レスラーによるワンマン経営に反発して選手が離脱するケース、絶対的な影響力を持つ社長レスラーの退陣によって(レスラー・背広組問わず)後任者が選手やフロントをまとめきれず瓦解するケースも少なくない。

一方で「背広組の社長がレスラーになる」ケースもある。WWEでは、会長であるビンス・マクマホンが(時期によるが)自ら試合に出る。彼は元々「背広組」であったが、演出の必要上レスラーとしての訓練を積んだ例である。またかつてFMWの社長をしていた荒井昌一は、レスラーとしての訓練は積んでいなかったが、演出としてリングでレスラーとの乱闘を演じたことがある。IWAジャパン社長の浅野起州も元々はプロモーター出身の背広組だが、2000年の「レスラーデビュー」以後時折試合に出ている。ハッスルMAN'Sワールド草間政一CEOの場合、アマチュアレスリング経験者ということもあり、2010年に「プロレスラーデビュー」して勝利を収めた。

巡業

日本のプロレス団体でツアー展開をする場合は、相撲の地方興行やサーカスと同様、巡業の形態を取ることがある。メジャーと呼ばれる大規模団体が開催する興行数は年間100試合前後と、格闘技と比べて圧倒的に多い。競技性を売りとするUWF系の団体はコンディション調整に時間を割くため興行数は年間数試合から数十試合程度となっている。リングなどの設営スタッフは別に移動するが、レスラーは集団でバスなどを用いて移動し、同一のホテルなどに宿泊する。競技性を前面に押し出したUWFでは、対戦するレスラー同士が会わないように、別のホテルに宿泊させ、競技性の保持に務めた。集客数は試合会場にもよるが、東京ドームなどの大会場では数万人規模、地方の体育館や屋外グラウンドなどの会場では数千人から少なくとも千人程度までの集客を見込んで興行を打つことが一般的である。

海外の場合は、レスラーは現地集合・解散の方式を取ることが大半で、個別行動が基本。新人や若手レスラーは移動費節約のため、自動車や先輩選手の自家用飛行機で相乗りで移動することもある。

巡業を伴わない興行形態

近年では何らかの形で常設会場を設け、地方巡業を行わない団体も増えてきている。主にローカルインディ草の根インディ或いはどインディというスラングで呼ばれる極めて小規模な団体がこの形態を取ることが多い。

こうした団体はメジャー団体や中規模インディ団体のように、集客数の採算分岐点の大きな大会場を用意する経営体力がないため、仮に巡業を行う場合であっても小規模な公民館や体育館の一室、或いは駐車場の一角で平均百人前後、多くても数百人程度の集客で興行を成立させる運営を行っていることが多い。

リングさえ用意してしまえば何処でも興行会場になるとも言えるため、極端な場合では団体事務所が置かれる敷地内にリングを置いたり、リングが常設されている団体の道場に客を集める形態(いわゆる道場マッチ)を取る場合もあり、数十人から数人程度の観客動員でも興行を成立させたと見なしてしまう零細団体すら存在する。

海外ではレスラー自身が各地のインディ団体を転戦するケースも多く、この形式はインディー・サーキットと呼ばれる。

進行形式

プロレスの興行は、1日で5 - 10程度の試合が行われ、間に一度休憩が挟まれる。トータルの興行時間は平均して3時間前後が基本。試合の構成は以下の通り。

  • 選手入場(テーマ曲が流され、会場によってはライトアップなどの演出が取られる)
  • 選手名、身長や体重などの紹介
  • 試合開始
  • 試合終了
  • 選手退場(勝利者のみのテーマ曲が流される)

WWEなどのように、選手名を告知してから入場し、リング上では告知を行わない団体もある。 選手入場の際に用いられるテーマ曲はアーティストによる既存曲と、選手個人または団体が制作を発注したオリジナル曲がある。試合をパッケージ販売する際の著作権処理の煩雑さと使用料回避のため、オリジナル曲を使う傾向が強くなっている。コスト削減のためパッケージ販売時には入場シーンに別の曲を編集で用いたり、入場シーンそのものをカットしているものもある。

またタッグマッチ(詳細は後述)の入場・退場時に用いられる曲は「格上」のレスラーのものであることが基本である(大物同士のタッグでは同格であることを強調するため両者のテーマ曲を混合した曲を用いることもある)。アングル上の決着戦の場合は通常と異なる前奏を付加したものや、タッグマッチ時に一人ずつテーマ曲に合わせて入場する、といった演出が施される。

ルール

基本ルール

基本的なルールはほぼ以下の通りである。

勝敗は以下の方法で決する。

ピンフォール
対戦相手の両肩をマットに押しつけ(フォールという)、レフェリーが3カウント数える。
ノックアウト(KO)
10カウントの間立ち上がれないでいること(レフェリーによって、またカードによって、カウントのスピードは異なる。)
リングアウト
10カウント、ないし20カウントの間リングの外に出ていること(WWE、TNA、全日本プロレスなどが前者を採用、日本の団体の多くは後者を採用)
ギブアップ
口頭での敗北意志の提示をする
タップアウト
相手の体の一部またはマットを叩くことにより敗北意志の提示をする
レフェリーストップ
関節技を受けている選手がギブアップやタップアウトせず、これ以上技を受け続けていると重傷を負うと判断した場合、レフェリー権限で強制的に試合を終わらせる。スリーパーホールドなど絞め技の場合、レフェリーが絞められている選手の腕を上げてから離して、3回腕が落ちれば負けとなる。
反則勝ち(負け)
レフェリーに暴行、凶器の使用、セコンドや他レスラーの協力的乱入があった場合、行為を行った側が強制的に負けとなる。ただし例外もある(詳しくは下記参照)。
セコンドからのタオル投入(TKO)
オーバーザトップロープ
トップロープの上を越えて場外に落ちたら失格となるルール。主にバトルロイヤル形式の試合で採用される。また、アメリカでは相手選手をトップロープの上を超えて場外に落とした場合反則負けとなるルールが過去に採用されていた。

その他に以下の代表的なルールがある。

  • 基本的な攻撃は投げ技絞め技関節技蹴り技打撃など。
  • 団体により詳細は異なるが、一般的なプロレスルールでは反則は5カウント以内に止めなければ反則負けとなる。しかし、これは逆にいえば5カウント以内であれば反則攻撃が認められるということであり、プロレスの試合における攻撃手段や表現のバリエーションを形成する要素となっている。
    • 禁止されている攻撃として、目(サミング)、のど(チョーク)、急所への攻撃(ローブロー)、噛みつくこと、拳での突き技、つま先での蹴り技、1本のみの指を取ることなどがある。ただし打撃系の反則技は後述の5秒ルールのため、相手の体に断続的に密着しない限りは注意のみで反則を取られないので事実上は反則技でないことが殆ど。(ロー・ブローのみ例外の場合がある)
    • 観客用のイスを始めとした武器(凶器)での攻撃は反則とされるが、団体によっては即時に反則負けとなる場合もあれば、カウント内での使用が認められる場合もある。同じ団体の試合であってもレフェリーによって判断が異なることもある。
  • ロープブレイク:技をかける側、かけられる側、いずれかのレスラーが手足でロープに触れるか、体の部分がロープ外のリングサイドエプロンに完全に出た場合は、技の解除が求められる。フォール中の場合は、カウントはストップされる。
    • 原則的に四肢の場合など、手首・足首がロープに届かないとロープブレイクと見做されないため、指先が触れただけの場合などはレフェリーがロープを叩く・蹴るなどして、一旦離し、再度きちんとしたロープブレイクを求めることもある。従って、手の場合は、ただ出すだけで無く、ロープを握るなどしてレフェリーにアピールすることがある)
  • 試合時の服装規定は無い。そのため、普段着で試合をしたり、ニーブレス(金属製の強固な膝サポーター)などを着用しての試合をする選手もいる。

試合形式

プロレスの試合は多くは何分何本勝負、という形で行われる(ヨーロッパおよび力道山時代の日本ではボクシング同様のラウンド制の試合も行われていた)。1980年代以降の日本では、ほとんどが一本勝負で行われている。かつて日本でもタイトルマッチなどで行われた三本勝負(二本先取で勝利)は、過去現在を通じてメキシコでは主流の試合形式である。試合時間は概ね10分から無制限まで千差万別であるが、タイトルマッチは60分一本勝負<過去には61分3本勝負などのルールもあった>が主流である。アメリカのテレビ放送用の試合では「放送時間内1本勝負」(つまりテレビの放送時間終了までに勝負がつかなければ引き分け)という例もあった。

シングルマッチ
2人のプロレスラーが1対1で行う形式。
タッグマッチ
2対2、3対3など、複数人がチームを組んで対戦する試合の総称。各チームの構成人数が3人以上の場合は6人タッグ、8人タッグの様に合計人数を接頭に付けて呼称される。2対2の場合は人数を明示せず「タッグマッチ」と表記されることがほとんど。2対3などチーム構成人数に差がある場合は変則タッグ、またはハンディキャップマッチと呼ばれる。日本ではコーナーに控えている選手とタッチしないと試合権利が移らない方式を取っている団体が多いが、メキシコではタッチをしなくても試合権利が移る方式を取っている。日本でもメキシコに縁のある団体ではタッチしない方式を取っている団体もある。
トリプルスレットマッチ
6人タッグマッチ、3WAYマッチ、3WAYダンスとも呼ばれる、3人で闘う形式。バトルロイヤルと異なり誰か一名が勝利を挙げた時点で試合が終了する方式と、最後まで残った者(チーム)が勝利、の2通りある。タッグマッチで行われることもある。
ハンディキャップマッチ
前述の変則タッグのなかでも、少人数のチーム方に圧倒的な実力がある選手がいるものを特にこう呼ぶ。巨漢レスラーの怪物性を示すために採用される形式。1対2、1対3などが基本である。
デスマッチ
通常とは異なる要素を加えた試合形式。これに特化したプロレスを英語でハードコア・レスリングという。
バトルロイヤル
主に10人以上で行われる形式。敗北したものから退場し、最後に残った者が勝利する。参加選手が開始時に全員リング上にいる場合や、時間差で入場する形式などがある。

リング

テンプレート:Main 対戦の舞台となるのは3本のロープを四方に張り巡らせたリングで、形状はボクシングなどとほぼ同じ(ただし、ボクシングの場合ロープ数は4本で、コーナーの形状も異なる)。大きさは団体によって異なる。プロレスの特徴として、ロープの反動を積極的に用いたり(ロープワークと呼ばれる)、コーナーに上っての技などがあるため、リングおよびロープは他競技用のものに比べ、頑丈に作られている(ロープの中にはワイヤーが入っている)。デスマッチと呼ばれる試合形式の場合、特殊な加工が施されたリングを用いることがある。詳細はデスマッチを参照。

リング内に敷かれたマットの硬度は大差はないものの、団体によって違うと言われている。柔らかい方が投げ技を受けたときにダメージが軽減される。しかし、あまりに表面が柔らかすぎると踏ん張りが効かなかったり、逆に足をとられて怪我をするおそれもあるため、柔らかさに一定の限度は存在している。

歴史的な経緯は不明だが、現在のほとんどのリングには「スプリング」が入っており、投げ技や跳び技の着地時におけるケガを予防するようになっている。総合格闘技の試合がプロレスのリングで行われた際には、このスプリングを止めて、「固く」していた。

各団体が専用のリングを所有するが、小規模団体は所有していないことが多い。この場合は他団体または「リング屋」と呼ばれる会場設営業者にレンタルする。代表的なリングレンタル会社としてジャッジサポートがある。

日本では闘龍門のプロジェクトT2Pで六角形のリングが使われたことがあり、アメリカではTNA、メキシコではAAAなどの団体で、六角形のリングが使われている。 注)この場合の六角形リングは、単なる目新しさでは無く、メキシコにあるルチャリブレ・クラシカという、関節技とポイント制によるルールを用いた競技形式のために使われたものである。

埼玉プロレスや黎明期のアイスリボンのようにリングを使用せずマットのみの場合もある。

リング外には転落時の衝撃を和らげるためのマットを敷く団体がある。また、観客席とリングの間に鉄柵を設置する団体もある。

階級

多くの団体はレスラーの体重を基準にヘビー級とジュニアヘビー級(クルーザー級、ミッドヘビー級)に区分される。ほとんどの団体の基準は概ね100kg未満であるが、ヤード・ポンド法が用いられ、全日本プロレスでは232lbs(105kg)までがジュニアヘビー級として扱われる。基本的数値の基準としては海外や新日本プロレスの220lbs(99.8kg≒100kg未満)が用いられている。ボクシングと違い公式な計量は存在しないことが殆ど(メキシコを除けば必要に応じて行われるのみ)。階級を超えたマッチメイクもしばしば行われ、軽量級に在籍しながらヘビー級戦線で活躍するレスラーも少なくない、近年ではシャープな肉体の選手が増えた為105kg以下のヘビー級戦士も多く、全日本のようにヘビー級の体重制限を事実上廃止した団体も存在する。旧ZERO-ONEは巨漢レスラーが多く参戦していたためにヘビー級の上に130kg以上のスーパーヘビー級を置いたことがある。力道山時代の日本プロレスではジュニアヘビー級の下に190lbs(86.28kg)未満のライトヘビー級を置いていた。NWAはその下にさらにミドル級ウェルター級を設置してより詳細な階級区分を行っている。ルチャ系の団体では全体的に体重の軽い選手が多いため、ミドル級、ウェルター級などで分類されることもある。DRAGON GATEの軽量級に当たるオープン・ザ・ブレイブゲート王座は180lbs(82kg)以下を対象としており、ウェルター級に該当する。インディー団体では体格に優れたレスラーが少ない傾向にあるため、階級区分が行われていない団体が多い。

なお女子プロレスにおけるジュニアとは軽量級カテゴリーではなく、経験の浅い若手選手を指すカテゴリーである。全日本女子プロレスでは軽量級はスーパーライト級と呼ばれ、132lbs(60kg)以下を対象としていた。GAEA JAPANにおけるクルーザー級もほぼ一致する。アイスリボンICE×60王座も存在していたが体重制限が撤廃され、現存するタイトルは無差別級となる。

服装

試合時の服装は団体によって規定・禁止されているものを除けば特に規定はなく、様々な種類のコスチュームが存在する。男子の場合、一般的には上半身半裸で以下の種類が使用されている。

着衣

ショートタイツ
ビキニ型のパンツ。最も一般的なリングコスチュームで、黎明期から現在に至るまでほとんどの団体の選手で見られる。伝統的に新日本プロレスでは黒、全日本プロレスでは赤、青、黄、緑などカラータイツが好んで着用され、新人選手の多くは無地のこのタイプを着用している。黒色無地のタイツに肘・膝のサポーター類を一切着用しないスタイルはストロングスタイルの象徴とされ、現役では藤波辰爾長州力中西学西村修らが実践している。一定のキャリアを積んだ選手の中には柄付きやロゴ付きのものを着用しオリジナリティを演出する者もいる。他のタイプのコスチュームを着用する時もアンダーウェアとして着用されるほか、三沢光晴などのようにロングタイツの上から着用するパターンもある。
ロングタイツ
腰から膝下・または足首付近までを覆うタイツ。こちらも古くから使用されており、日本では力道山が使用していたコスチュームとしても有名。リングシューズ、膝サポーターをデザインの一部に組み込むことができるのが特徴。膝下までのタイプは俗に「田吾作タイツ」と呼ばれ、上田馬之助ドン荒川や、矢野通などジャパニーズヒールの代名詞となっている。
ショルダータイツ(ハーフショルダータイツ)
アマチュアレスリングで使用されているシングレットと基本的には同一のものだが、脚部がロングタイツになっているものや、肩がワンショルダーになっているものもある。アマチュアレスリング出身の選手が着用するほか、アンドレ・ザ・ジャイアントベイダー吉江豊など上半身の肉が厚い超重量級の選手が体を引き締めて負荷を軽減するために着用する。
ショートスパッツ、ハーフタイツ
上記のコスチュームよりも比較的新しい時期に登場したコスチューム。ショートスパッツは総合格闘技で主流のコスチュームで、格闘技色の強い選手は好んで使用する傾向がある。
全身タイツ
上半身、下半身両方を覆うタイツ。体全体をデザインとするため、獣神サンダー・ライガーマスカラ・サグラダなど覆面レスラーに着用者が多い。MVPは上半身がロングスリーブ、下半身がハーフタイツの自転車競技用のスキンスーツに近いデザインの変型タイツを着用している。
パンタロン
タイツタイプの裾だけが広がってる物と、道着のような全体に絞めつけのない物とがあり、膝サポーターをコスチュームの下に隠してしまえる利点がある。蹴り技を得意とする選手や軽量級の選手に着用者が多い。また、日本の袴を連想し東洋的なイメージを演出するためにザ・グレート・カブキグレート・ムタ越中詩郎(道着[7])、新崎人生=白使(ハクシ)、TAJIRIの他、前者のタイツタイプは橋本真也小林邦昭、初代タイガーマスクなどが着用していた、現在はタイガーマスク (4代目)が着用している。
道着
柔道や空手で使用されているものとほぼ同一で、それらの出身の選手が自身のバックボーンをアピールする目的で着用するが、上衣や帯は首を絞めるための凶器にもなり得るため、ズボンのみ着用する選手も多い。平成維震軍はチームコスチュームとして使用した。
トランクス
ボクシングや総合格闘技の出身者が着用することが多いが、プロレスでは着用者の絶対数は比較的少ない傾向にある。トニー・ホーム杉浦貴などが代表例。
普段着
市販の普段着のほか、普段着に似せて作られたコスチュームも存在する。傷や衰えた体を隠す目的で上半身にシャツなどを着用する選手も多い。FMW大仁田厚が有名。
「荒武者」のニックネームで知られる後藤洋央紀は、2011年から黒い袴を着用してリングに上がっている。

アンドレ・ザ・ジャイアントやビル・ロビンソンが体重の増加でショートタイツからショルダータイツに変えたように、その経歴において複数のタイプを使った例も多い。

その他

マスク
テンプレート:See
ペイント
マスクと共にレスラーのキャラクター形成を行うためのアイテムで、顔面ペイントはザ・グレート・カブキが元祖。ジャイアント・キマラサイバー・コングのようにボディペイントを施すレスラーも存在する。汗や衝撃によって試合時間が経過するごとに剥がれていくのが難点。
サポーター、パッド
肘や膝を保護する目的で多くのレスラーに使用されている。中には金属製など硬質のものまで存在し、団体によって禁止されているものもある。
リングシューズ
脹脛まで覆うボクシングタイプのもの、足首までのアマチュアレスリングタイプのものなどが使用されている。基本的には選手の体型に合わせて製作されており、近年の練習や試合での事故の増加に伴い、新日本プロレスがプロレスの運動に適した専用のリングシューズの開発をメーカーに要望している。佐山聡によれば(1985年頃までの)リングシューズは非常に危険なもので、材質である皮自体が硬く、紐もついており、特に底のゴムは2センチメールほどもある非常に固いものであった。このリングシューズを用いて顔面を蹴れば惨事は免れず、またトーキックなどを放てば当たり所によっては命に関わりかねず、腕でガードしても肘の方が壊れてしまうような凶器であり、競技でこれを着用してキックを放てる様なものではなかったという[8]
レガース
足の甲から脛にかけてを覆い、蹴りによる自身、相手双方の負傷を防ぐ目的で着用される。蹴り技を得意とする選手や格闘技色が強い選手が着用する傾向にある。UWFではスタンダードコスチュームとして着用が義務付けられており、その名残でUWF系団体出身の選手に着用者が多い。

プロレスの歴史

テンプレート:出典の明記

プロレスの起源

その起源は、イギリスのランカシャー地方のランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)にあると言われている。アマチュアレスリングのグレコローマンスタイルを賞金マッチで行ったものがアメリカで行われていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっており、プロモーションレスリング或いは、プロモートレスリングの略称として、プロレスと呼称されるようになった。

19世紀の初め頃に、ボクシングとともにイギリスで興行が開始されている。有名な「プライズ・ファイター」(現在のボクサー)ジェームス・フィグはベアナックル(素手)、蹴り技投げ技絞め技、噛み付き、目つぶし、髪の毛つかみのある当時のボクシングのほか、レスリングも得意であった。

1830年代にはアメリカにレスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられエイブラハム・リンカーンも行っていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンのミックスマッチ(3本勝負で混ぜる)や、更に腰から下へのキックを認めるというような変則的なルールが各地・各試合毎に行われていた。

現在のプロレスに直接つながっているのは、19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる。カーニバル・レスリングは、"athletic show"あるいは短く"at show"と呼ばれた、いわゆるサーカスの出し物の一つとして行われ、その中では、レスラーは観客の挑戦を受けて試合(いわゆる"all comers")をしたり、レスラー同士、あるいはボクサーとの模範試合を披露していた。19世紀末まではレスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか、一人で旅芸人として巡業する必要があった。

大仁田厚は自身が設立したFMWへの批判に対して「プロレスの起源はサーカスの見世物」と反論し、大仁田とは対照的な正統派ルー・テーズも、自伝においてカーニバル・レスリングと旅芸人がプロレスの起源と述べている。カーニバル・レスリングをプロレスの起源とする考えはアメリカでは一般的であり、kayfabe(ケーフェイ)、mark(マーク)、boy(プロレスラー)、bump(受け身)といったプロレスの隠語も、カーニバル・レスリングで用いられた言葉とされる。 一方、日本のプロレス研究家、あるいは、マーク向けライターはカーニバル・レスリングをプロレスの起源とすることに否定的である。例えば、日本において出版されたルー・テーズの自伝では、前述のプロレスの起源に関する記述はない。これは、"at show"の内容が非常に娯楽色が強く、プロレスを真剣勝負として紹介している人たちのビジネスに都合が悪いためと思われる。

1880年代に、人気レスラーであり、警察官でもあったウィリアム・マルドゥーンが警察を退職、専業という意味で最初のプロレスラーとなった。マルドゥーンは劇場などの常設施設で行われるレスリング・ショーの発展に努力し、後に「アメリカン・レスリングの父」とも呼ばれるようになる。

1890年代にはカーニバル・レスリング出身のマーティン・ファーマー・バーンズがイバン・ストラングラー・ルイストム・ジェンキンスらとの試合で人気を集めた。その後、バーンズはフランク・ゴッチを始めとする多くのレスラーを育て、レスリングの通信教育も行った。バーンズもまた「アメリカン・レスリングの父」と呼ばれる。

20世紀前半

20世紀に入ると、ジョージ・ハッケンシュミットスタニスラウス・ズビスコといったヨーロッパの強豪レスラーがアメリカを訪れ、トム・ジェンキンス、フランク・ゴッチ、アドルフ・エルンスト(後のアド・サンテル)らアメリカのプロレスラーと対戦し、レスリング・ショーを盛り上げた。

1910年代よりアメリカの人口は都市に集中し始め、その結果、町から町へ渡り歩く"at show"は下火となった。代わりに、劇場などで行われるレスリング・ショーが増え、レスラーは都市を中心としたテリトリー内を巡業するようになった。このことは、レスラー間のつながりを強め、事前に試合内容を調整することを容易にした。

1920年代になるとエド・ルイストーツ・モントビリー・サンドウ(通称「ゴールドダストトリオ」)が数百名のプロレスラーを配下にし、プロレスラー同士で架空のストーリー(最も分かりやすいのは「善玉」と「悪玉」の闘い)を演じさせた。また、従来の試合では基本的に1回のショーでは1試合だけを行っていた。プロレスラーにほとんど動きがないまま1時間以上経過するようなことも珍しくなかったためである。これを改め、事前に様々な調整することにより、複数の試合からなる興行を行った。これらによりプロレスの人気は高まったが、一方で、報道、賭博など社会的な場において、プロレスが普通の意味でのスポーツとして扱われる機会は激減した。

こうして1920年代にはプロレス・ショーの仕組みは完成し、その後、メキシコ日本カナダなどにも伝わる。なお、メキシコのプロレスはルチャリブレと呼ばれる。

新しい試み

2005年3月に、アメリカ合衆国RPW(Real Pro Wrestling)なる新しいプロリーグが誕生し活動している。これは全米大学体育協会(NCAA)レスリング大会などのアマチュアレスリングで活躍した選手が全米各地区のチームに所属して、純粋な競技スポーツとしてプロ・レスリングの活動を行うというものである[9]

日本におけるプロレスの歴史

戦前

最初の日本人プロレスラーはソラキチ・マツダとされている。戦前にはハワイでキラー・シクマ(志熊俊一)が日本人初の重量級プロレスラーとして活躍したことが、プロレス系の個人サイトに遺族が投稿したのを機に近年、明らかになった(後に週刊ゴングで漫画化されている)。その他、数名の日本人・日系人が主にアメリカでプロレスラーとして活動していたことが確認されている。

マツダとともにレスラーとして活躍した三国山は帰国後の1887年(明治20年)に東京・銀座で「西洋大角力」を開催しており、これが日本初のプロレス興行とされている。しかし、観客は集まらず失敗に終わっている。

1921年(大正10年)。アメリカのプロレスラー、アド・サンテルが弟子のヘンリー・ウェーバーを連れて来日、講道館柔道に対戦を要求。講道館は対戦を拒否したが、系列の弘誠館が受けてたち、永田礼次郎・庄司彦雄・増田宗太郎・清水一の四名の柔道家が対戦した。今で言う異種格闘技戦であり、試合は東京・九段の靖国神社相撲場で同年3月5、6日の両日に行われている。なお、この試合に関しては『プロレス対柔道』のタイトルで週刊少年ジャンプにて漫画化されている。

戦後、力道山の時代

日本の大手プロレス団体は力道山がデビューした1951年を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後、力道山が1953年日本プロレスを旗揚げしてからのことである。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPによる武道の禁止指令により柔道が禁止されていたため柔道家の牛島辰熊が1950年(昭和25年)2月に国際柔道協会(プロ柔道)を設立し木村政彦山口利夫、坂部保幸らが参加したプロ柔道として力道山より早くプロ柔道興行を始めていたが、4か月10回の興行後、木村政彦、山口利夫、坂部保幸が日本プロレスに移籍し最終的には力道山の手によって統一される。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球大相撲と並び国民的な人気を獲得した。

昭和後期、BI砲の時代

その後、日本国内においては力道山の率いる日本プロレスの独占市場であったが、力道山の死去後、東京プロレス国際プロレス(いずれも現在は消滅)が相次いで旗揚げし、さらに力道山死去後の日本のプロレスを支えていた、アントニオ猪木が新日本プロレスを、そして、ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げし、両エースを失った日本プロレスは崩壊する。それ以降しばらくの間、上記の2団体と当時は健在だった国際プロレス、そして女子プロレス団体である全日本女子プロレスの4団体時代が続くことになる。1970年代以降、猪木はプロレス最強を掲げてウィレム・ルスカモハメド・アリらと異種格闘技戦を行い、馬場もNWAとのコネクションから多くの大物外国人レスラーを招聘しそれぞれ人気を獲得した。国際プロレスもヨーロッパ路線・デスマッチ路線を展開し独自のファン層を開拓した。

1980年代に入ると馬場の弟子であるジャンボ鶴田天龍源一郎、猪木の弟子である藤波辰巳長州力らいわゆる鶴藤長天が台頭する。また、新日本では佐山聡タイガーマスクとしてデビューし、それまでヘビー級の過渡期として位置付けられていたジュニアヘビー級をヘビー級から独立した独自のカテゴリーとしてその礎を築く。1984年にはUWFが旗揚げされ、ショー的要素を排除したシュートスタイルのプロレスを確立し、後の総合格闘技の台頭への布石となった。

平成期、プロレス人気の低迷と団体乱立

1988年には大仁田厚FMWを旗揚げ。デスマッチを主体とした興行で成功を収め、インディー団体というカテゴリーを確立。この団体は同時に「ハードコア・レスリング」の世界的なパイオニアという側面を持ってもいた。

1990年代に入るとFMWの成功を受けて多くのインディー団体が相次いで旗揚げされ、団体乱立の時代を迎えた。この頃から馬場、猪木が第一線を退き、プロレス人気に翳りが見えるようになった。それまでゴールデンタイムで中継されていたプロレス中継は深夜帯へと移動し、ジャンルのマニアック化が進む。一方、興行面では東京ドームなどの大会場の使用が進んだこともあって観客動員においては最高潮を迎えた。この頃からアメリカンプロレスがテレビ主導の興行に切り替えを行ったため、外国人レスラーの招聘が困難になり、日本のプロレスは日本人レスラー同士の闘いに重点を置くようになった。

新日本では闘魂三銃士蝶野正洋武藤敬司橋本真也)、全日本ではプロレス四天王三沢光晴川田利明田上明小橋健太)が台頭し、後にまで業界を牽引してゆく。一方、第2次UWFリングスUWFインターナショナル藤原組に分裂(藤原組はその後さらにパンクラス格闘探偵団バトラーツに分裂)し、細分化が進む。1990年代後半に入るとK-1PRIDEなど総合格闘技が台頭し、それまでプロレスが請け負っていた異種格闘技としての側面を奪われる形となった。古くからアントニオ猪木が「プロレス最強」を掲げていた背景から、これを受けて多くのプロレスラーが総合のリングに参戦するが、結果を残したレスラーは少なく人気低迷に拍車をかけた。

1997年、JWP女子プロレスプラム麻里子が試合中の事故により死亡。日本プロレス史上、初めてのリング禍であった。

現在

2000年代に入ると日本のプロレス界の勢力が一変する。全日本では馬場の死後、社長に就いた三沢光晴と馬場の未亡人として経営の権限を持つ馬場元子が団体運営を巡って対立、三沢は殆どの所属選手と共に団体を退団し、プロレスリング・ノアを旗揚げする。新日本でも橋本真也が団体を解雇され、新たにZERO-ONEを旗揚げし、新たな4団体時代を迎える。一方、所属選手の殆どを失った全日本は団体存続をかけて新日本との交流に踏み切る。2002年武藤敬司が新日本を退団し全日本に移籍、同年10月に同団体の社長に就任する。メジャー団体とインディー団体の交流は1990年代から頻繁に行われていたが、2000年代以降はメジャー団体同士の交流が盛んに行われている。また、この頃からWWEが日本でも人気を博し、その流れを受けてファンタジーファイトWRESTLE-1ハッスルなどエンターテインメント志向のプロレス興行が行われるようになる。2006年には国内初のプロレス統一機構の確立を目指しグローバル・レスリング連盟が発足したが、わずか1年で連盟としての活動は途絶えている。2000年代前半は、いわゆる第三世代が台頭するが人気面で上の世代である三銃士、四天王を凌駕することはできず、依然として旧世代が興行の中心を担う形となった。しかし2005年に橋本真也、2009年に三沢光晴が急逝、他の三銃士、四天王も退団や負傷欠場などによって定期参戦がままならない状態となり、さらに2000年代後半からは第三世代の下にあたる第四世代とも言える新世代の台頭が著しくなり、各団体の勢力図が変革されようとしている。2011年には東日本大震災復興支援を目的として、新日本、全日本、ノアによる合同興行ALL TOGETHERが開催され、翌2012年には新日本・全日本が旗揚げ40周年記念興行を合同で開催するなど団体同士の連携を強めている。

女子プロレス

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ミゼットプロレス

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マスコミにおける取り扱い

かつて、各新聞社やテレビ局において、スポーツとして扱うかエンターテインメントとして扱うか議論となったが、新聞では一応はエンターテインメントとしての扱いという形で決着した。

テレビ(中継対象として)
日本の地上波では、日本テレビテレビ朝日、およびその関連局が大手団体の興行を中継(主に録画)している。かつてはゴールデンまたはプライムタイムに60分の番組枠を持っていたが、日本テレビ系列は30分に縮小後2009年3月に撤退し、現在はテレビ朝日系列のみで深夜に30分と縮小されて放送されている。ケーブルテレビやCSといった有料放送でも放送しており、専門チャンネルも存在する。アメリカでは、USA NetworkやSpike TVが放送を行っている。
テレビ(報道対象として)
エンターテインメントであると同時にスポーツでもあるという認識で、スポーツ番組でもまれに取り上げる。NTVやテレビ朝日など、プロレス中継を行う局が取り上げることが大半。芸能人が試合を行う場合は、ワイドショーで扱われることがある。
1979年に行われた「プロレス夢のオールスター戦」は、当日参加したプロレス団体と放送局の結びつきが強いことを考慮して、中継という形での放送はせず、メインイベントのBI砲復活試合(ジャイアント馬場・アントニオ猪木対アブドーラ・ザ・ブッチャー・タイガー・ジェットシン)のみを、中継ではなくスポーツニュース用の報道扱いであれば1局につき3分まで映像を流してもよいとの許可を出し、日テレとテレ朝がそれぞれ中継を担当するレギュラーの実況アナウンサーによる解説でスポーツニュースの枠で放送されている
一般新聞
スポーツ面に掲載されることはほとんどない。著名レスラーの死去[10]、興行会社の倒産、関係者が刑事事件を起こす、といった場合に報道される程度である。珍しい例として、ジャイアント馬場が新聞の聞き書き欄に登場したり、死去した際に追悼コラムが掲載されたりした例はある。しかし2007年8月下旬から10回に渡り朝日新聞夕刊一面でプロレスの特集が組まれ、レスラー(現役、元)、関係者、古舘伊知郎、プロレスファンである内館牧子など、約30名のインタビューが掲載された。一般紙でこれだけ長期に渡り、さらに一面でプロレスの特集が組まれたのは異例中の異例である。
スポーツ新聞
紙面上の扱いに新聞間で差があるものの、格闘技と同様に報道される。試合結果、インタビューなどが掲載される。
かつては、東京スポーツ(とその系列)とデイリースポーツのみが扱った(女子プロレスも掲載するのはデイリースポーツのみ)。1986年、大相撲の元横綱輪島大士のプロレス参戦と同時に、各スポーツ紙が掲載するようになった。
専門誌(紙)
新聞と同様、試合結果(詳細な試合レポート)、選手インタビュー、その他企画記事などを掲載している。新聞よりも、各団体のアングルの展開状況を解説する役割が強い。基本的にマーク層を主要購買層とし、プロレスを純粋な勝負であることとして扱う。
団体が増え、その一方でテレビ・新聞報道が少なかった時期(主に1990年代)は、試合内容を早く・詳しく知るための中心的な存在であり、ビッグマッチの数日後に「速報」という形で増刊号を発行することも多かったが、インターネットの普及により、その優位性はほぼ失われた。そのため、電子メディアとの差別化に苦しんで、発行部数は減少しつつある。それに伴い、掲載広告はプロレス関連企業の比率は低下し、消費者金融や出会い系サイトなどの割合が高くなっている。2007年3月に休刊した週刊ゴングはプロレスとは全く関係ない玩具やアクセサリの誌上通販、出会い系サイトの広告を行っていた。以下は専門誌の代表的なもの。
専門サイト(WEB)
専門誌と同様、試合結果(詳細な試合レポート)、選手インタビュー、その他企画記事などを掲載している。新聞、専門誌より速報性が高く、Youtube・USTREAM・Twitterなどの普及と相まって情報取得・拡散手段として重要な役割を果たしている。また専門誌の減少により、WEBマスコミの詳細か各団体の公式HPでしか情報が取得できない団体も多くなりプロレス文化の下支えとなっている。
  • スポーツナビ[11]
  • バトル・ニュース[12]
  • リングスターズ[13]
  • ファイト!ミルホンネット[14]
報道における特徴
プロレス報道における最大の特徴は「選手経験を持つ、専門の技術解説者がいない」ことである。テレビ放送時はアナウンサーと解説が付くことが通例であるが、その場合の解説者は、現役レスラー、OBレスラー、マスコミ関係者である。
プロ野球サッカーにおいては、解説者は必ずしもその球団のOBではない。異なるリーグで一度も対戦経験の無かった、元選手が解説をすることも珍しくはない。しかし、プロレスの場合、引退後にフリーの技術解説者になって様々な団体の中継で解説を行うことは無い。WRESTLE-1の旗揚げ戦で解説を行った小橋建太は極めて稀なケースと言える。
活字メディアにおいても同様であり、引退した選手がコラムを寄稿することはあっても、その選手が全く関係を持たなかった団体の試合分析を行うことは無い。プロレスラーには厳密な引退は存在せず廃業のみがあり、現役復帰が極めて多いこともある。
プロレスがプロ野球やプロサッカー、プロボクシングと違い、スポーツとして取り扱われない理由は台本の存在にある。逆にオリンピック競技の一つであるアマチュアレスリングは、スポーツとして扱われている。マスコミ関係者による解説は「気合」「殺伐」といった精神論的・抽象的表現に終始してしまうことが多い。
一時期、大仁田厚がフリーの解説者になると表明したことがあったが、結局活動は行われなかった。
ジャーナリズム
プロレスにはスポーツジャーナリズムは存在しないことも特徴のひとつである。芸能産業・興行ビジネスであるため、何らかの形で各地域の暴力団と関係を持ちトラブルが発生したり、レスラーがマルチ商法広告塔としてメディアに露出した場合は、前述の専門誌やスポーツ新聞は黙殺・無視のスタンスを取り、報道を行わない。この様なトラブルを扱うのは主に一般週刊誌などである。近年では暴露本の類のムックが多く発行される様になった。
日本のプロレスにおいては、しばしば団体から報道各社に対し「取材拒否」が行われることがある。これは、団体に対し不利益な記事を書いたために行われることが大半である。取材拒否はそのままその団体のファンが買っていた分の販売部数の減少に繋がるため、広告収入で成り立つマスメディアにとって致命的となるため、プロレス紙誌は各団体の機関誌・広報誌以上の内容にはならないことが大半である。
力道山時代からプロレスは「プロレス村」と表現される程に閉鎖的・排他的傾向を持ち、プロレスマスコミもその閉鎖性を保持・維持する立場を取ることが多い。PRIDEKRSによる主催であった時代「あなた達(KRS)は何者なんですか」という質問がなされたことを代表に、詳細な取材よりも団体から流されるリリースをそのまま掲載することが少なくない。
選手インタビューと銘打たれていても、事実を述べてそれに対しての選手や考え方を訊くような質問の意図が明確な内容よりも、選手の独白に記者が詩的修飾語が多用された解説・脚注を加えたものが掲載されることは少なくない。
この傾向はプロレス雑誌での試合観戦記においても例外ではなく、後述の「台本」の項の通りターザン山本編集長時代の週刊プロレスのように、裏金や誌面優遇などの癒着の見返りに記者自らが台本を決定していた行為が公然と行われていた時代には、他スポーツの観戦記に見られる様な試合経過を淡々と写実的に解説する文面ではなく、試合展開や背後のアングルをベースに詩的修飾語が多用された小説ポエムに近い内容の観戦記も多々見受けられた。

ショー的側面

ブック

テンプレート:Main ブックとはプロレスの試合における段取りや勝敗の付け方についての台本のこと(なお、照明・音響・撮影係等のスタッフ用の興行進行台本はこれとは別の物)。この台本を考案・作成する人間を「ブッカー」または「マッチメイカー」と呼ぶ(ただしbookerのbookは「出演契約を取る」という意味のbookであり、「脚本家」という意味ではない)。ブッカーはリング外での筋書き(アングル)および試合展開や決着方法についての台本を考え、レスラーはそれに合わせた試合を行う。勝敗以外の詳細な試合展開については、試合を行うもの同士の裁量に任されることが多いと言われ、口頭での打ち合わせによる。

基本的に試合展開や決着方法に関するブックは当事者以外には知らされないとされているが、進行や演出の都合上、音響・撮影スタッフに伝達されることがある(後述)。

WWEの内幕を描いたドキュメンタリー映画『BEYOND THE MAT』では、ザ・ロックミック・フォーリーが場外乱闘時の観客席の移動ルートや、パイプ椅子での殴打回数などを打合せするシーンが見られる。またWWEは経営上の理由(スポーツよりショービジネスとして登録する方が税金保険料が低くなり税制上有利、また株式上場にあたり台本の存在を非公表のまま上場することがコンプライアンス上問題がある)から台本の存在を公言した。また、所属レスラーが死亡した際に、物語上で対立していたレスラーが「対立はあくまでもエンターテインメントであり、リング外では家族の様な関係であった」と自身のWebサイトで弔意コメントを出した。

リック・フレアーは自身のDVDの中で当時のNWA王者決定方法について述べている。

日本の場合は団体自らが台本の存在を公言したことは無い。芸能人タレントも試合を行うハッスルのように「エンターテインメント」をキャッチコピーとして用いる団体は存在する。日本のプロレスで台本の存在が公になったのは法廷である。大仁田厚渡辺幸正の試合終了後の乱闘で渡辺が負傷したことについての裁判では、東京地方裁判所が「通常のプロレス興行で、事前の打ち合わせ無しに相手に攻撃を仕掛けることは許容されておらず、観客に見せるプロレス興行としては異質の暴行」との裁判例を示した。また、女子プロレス(アルシオン)でもアジャ・コングロッシー小川(小川宏)社長間の名誉毀損肖像権をめぐる裁判で、台本の存在を認定した上で判決が行われた。

裁判以外でも、個人が日本の団体における台本の存在を明かすことはある。

マット・モーガンが海外でのインタビューで、新日本プロレス永田裕志と試合を行った時、フィニッシュ(決着を付ける技)だけは前もって説明が必要であったが、それ以外は話すことなく試合をさせてくれるので自由で良い団体だ、と語った。近年多く出版されるプロレス内情暴露本では新日本のOBレスラーが、昔は台本はあってもそれ以外の部分は必死に闘っていたのに、今のレスラーは必死さが足りないと嘆く形で、存在が明示された。

台本の存在や取り決め方は新日本プロレスのレフェリーであった、ミスター高橋が自著で詳しく述べている。また、プロレスの台本の存在をトリックに組み込んだミステリー小説『マッチメイク』が江戸川乱歩賞を受賞した。

新日本プロレスで行われた異種格闘技戦も台本が存在したとミスター高橋は著書で述べている。代表的なものとして、柔道メダリストのウィレム・ルスカアントニオ猪木が試合をした場合も、ルスカはプロレス技を数多く受ける台本を打ち合わせの時点で了承していたと述べた。

全日本プロレスの場合には元週刊プロレス編集長であったターザン山本が、近年自著の中で台本の存在を明らかにした。全日本プロレスからのSWSによる選手の引き抜きに伴い、ジャイアント馬場が山本に裏金を渡した上で誌上でのSWSバッシングを行う様依頼したことが契機となり、山本と癒着に近い関係が生まれ、馬場はその後週刊プロレス誌上で全日本プロレスを優遇する見返りに、ビッグマッチにおける台本を山本および一部記者に決定させる権限を与えていたと山本は述べている。代表的なものとして、後の四天王プロレスの原点とも言われ、三沢光晴が大きく飛躍する契機となったジャンボ鶴田対三沢光晴戦の決着を、ピンフォールではなくフェイスロックでのギブアップとする結末を山本達が決定したことなどが挙げられる(ただし、実際には三沢が鶴田からギブアップ勝ちをしたのは、三沢が飛躍する契機となったシングルマッチではなく、鶴田のライバルとしての地位を確立した後のタッグタイトルマッチである。三沢の対鶴田シングル初勝利はピンフォール勝ち)。また、台本の存在が公表されているアメリカで出版された外人レスラーの伝記に「この時の日本遠征では世界王座が移動する予定はなかった」などの記述が登場することがある。ハーリー・レイスリック・フレアーの自伝など。

金子達仁による高田延彦を扱った書籍『泣き虫』において、高田が台本の存在を明示している記述がある。

長野県を中心に活動している信州プロレスや芸人たちによるギャグプロレス団体の西口プロレスでは、キャッチコピーに「台本重視、安全第一」などと掲げている。

ラジオ番組オールナイトニッポンで、ゲスト出演した構成作家が某女子プロレス団体でも仕事を行っていると発言した。

当時全日本プロレスを中継していた日本テレビ系列よみうりテレビが製作したアニメ、シティーハンター2の第12話「場外乱闘流血必至!!恋のコブラツイスト☆」(1988年6月24日放送)では「プロレスはショー」という台詞が取り入れられている。

ただし、個人が台本の存在を明示することはあっても、全ての団体・全ての試合に台本があるという証明がされているわけではないので、その点においては理解が必要である。

台本通りの試合展開にならなくなることをそれを引きちぎる様から「ブック破り」と呼ばれる。ブック破りは一方の選手が意図的に行うことが多いが、何らかのアクシデントのためやむを得ずブック破りになってしまう試合もある。

アングル

テンプレート:Main 試合以外にも、リング外での選手・グループ・団体間の衝突(主に抗争、と表現される)のアングルと呼ばれるストーリー展開も重要な要素であり、いかに観客の注目を集め、継続性の強いアングルを展開出来るかが、観客動員に大きく影響する。

アングルを巡業(シリーズ)を通じて展開・消化し、最終戦において(大会場で開催され、テレビ放送ではペイ・パー・ビューとなる場合が多い)決着を着ける。そして新しいアングルを展開する。プロレスは試合とアングルを楽しむものであり、連続ドラマと類似している。

ギミック

テンプレート:Main 特に20世紀中期以降のアメリカ合衆国のプロレスなどの場合、選手には一定のキャラクターギミックが要求された。それにはレスラーが考えたものもあれば、団体から提示されるものもあった。

特定の人物が悪役(ヒール)として振る舞う。悪役は反則するのが当たり前で、審判の目を盗み、あるいはその制止をも無視して反則技を振るい、客の正義感を沸き立たせる。大半は最後に敗北し、客は溜飲を下げるが、場合によっては反則攻撃などの汚い手段で勝利・反則負けをする。悪役が勝っても反則負けをしても、次回の試合への客の関心を集める役を果たした。これに対して、正義漢・善玉の役割を演じるのをベビーフェイスという。やられ役が負けることをジョブという。

特にアメリカのプロレスではその面が顕著で、日本でも昭和期のプロレスにはその色が強かった[15]。悪役は往々にしてステレオタイプな嫌われ者を体現し、特に外国出身を名乗る選手では、人種的民族的偏見を明確に示す場合があった。場合によっては近くの国の出身者がその国の出身者に仕立てられることもあり、悲喜劇的な例としてソビエトの支配による社会主義体制を嫌ってユーゴスラビアからアメリカに亡命したニコライ・ボルコフが試合前にソ連の国歌を歌うなどのギミックを背負った悪役にされた例がある。

またギミックには世相が反映されることが多い。特にアメリカではその傾向が強く、第二次世界大戦後には真珠湾攻撃を連想させる不意打ちを連発する「卑劣なジャップ」風のレスラーや「ナチスの残党」を名乗るレスラーが多数存在し、米ソ冷戦時代はロシア出身を名乗るレスラーが多数いたり、湾岸戦争時にはアラブ人のギミックでサッダーム・フセインの側近を名乗ることで観客のヒート(興奮)を買う、といったことが繰り返された。

興行の進行用台本

前述の「ブック」とは別物である。ブックはレスラー間の試合内容の打ち合わせを意味するが、これは裏方スタッフの、イベント進行用の台本であり、各種機材の使用のタイミング・順序等を示したものである。

かつてインターネットオークションZERO-ONEの興行「ZERO-ONE USA」のテレビ放送進行用台本が出品されることがあった。また日本では、FEG全日本プロレスが中心になって開催されたイベント、「WRESTLE-1」において、小島聡の叫び声と同じ言葉「いっちゃうぞバカヤロー」が電光掲示板に表示され、レスラーと会場スタッフ間での段取り決めがあることを示した。もっとも、小島の「いっちゃうぞバカヤロー」は殆どの試合で見られる小島の得意の(1)対角線エルボー(2)「いっちゃうぞバカヤロー」(3)ダイビングエルボーの流れの中で出されるものであり、段取り決め等を行っていない観客も一緒に叫ぶことが通例となっている。また、日本の週刊誌(アサヒ芸能)が、「ハッスル2」の会場スタッフ用台本を誌面に掲載したことがあり、それには勝者用のテーマ音楽についてなどの指示が記載されていた。

非ショー的側面

テンプレート:Main プロレスは真剣勝負やスポーツではないが例えば蹴り技では、K1などの格闘技のように相手選手の急所を狙う(膝へのローキックなど)のではなく、鍛えた筋肉で守られ怪我をする恐れが少ない部分をめがけ、力を込めて蹴っている場合もあるのであり、同様の技を常人が受けた場合は危険が生じる(それに対しパンチの場合は、拳骨部を当てると顔が腫れ上がったり、骨折などの怪我を誘発する恐れがあり危険であるため寸止めが普通である)。プロレスラーが受けてもタイミングの狂いなどから危険が生じることは時々ある。スタン・ハンセンブルーノ・サンマルチノの首をボディスラムのかけ損ないで骨折させたことがあり、またハンセン、ミスター珍マリオ・ミラノなど試合中に失神してしまった例も多い。三沢光晴は業界一の受身の達人といわれていたが、バックドロップの受け損ないで死亡している。ただし佐山聡によれば、多くのプロレス技は「暗黙の了解」がなければかかるようなものではなく、かつ格闘技には使えないものであると断じている</ref>『ケーフェイ』新装版 p.131</ref>。

また、本質は真剣勝負ではないとしても、試合中に本気になってしまう場合など、それに近い試合が行われてしまうことはある。以下に例を挙げる。

試合中の細かい点までは決めない団体も多く、気性の荒い者たちによる試合中のトラブルは時々見られる。

演劇的、ショー的な要素はあるものの、プロレスにはそれにとどまらない部分もあると指摘されることもある。町山智浩はその一著においてテンプレート:要出典、試合が「演技」であるプロレスは世間から最も軽蔑されているスポーツである、としたうえで、「演技」であるからこそプロレスは偉大なのだ、と論ずる。すなわち、格闘技ボクシングにおいては、相手の攻撃に対する防御それ自体が「強さ」であるが、プロレスにおいては、相手の攻撃をどれだけ受けられるかが「強さ」なのであるという。そうしたことから町山は、敵の攻撃の全てを受け抜いて「伝説」になったという点で、キリストこそが世界最初のプロレスラーであった、としている。

特殊世界

  • この業界は「一旦退団した団体に復帰する」、「引退した後現役に復帰」といった例を初めとして、離合集散が多い。長州力の2度にわたる新日本マット復帰は、一般企業ではあまり例の見られないケースである。
  • 「絶対」という言葉の信用性が無い世界である。ジャイアント馬場の生存時は、馬場自身嘘が嫌いだったこともあり、その言葉には信用性があった(馬場は全日本を退団した日本人選手を絶対に再び全日本マットに上げることはなかった)。しかし馬場が亡くなってからは、プロレス界におけるその言葉の信用性は完全に崩れさり、これまで絶対にありえないと言われていたことが、数年後には時代の変化とともに現実になったということが多々ある。また、「絶縁」(団体、或いは選手個人に対して)という言葉も多い世界だが、それも過去の歴史を振り返れば、数年後にはどうなっているかわからない。
  • 馬場が最後まで認めなかった天龍源一郎の全日本マット復帰が馬場死去後わずか1年半で実現。
  • 新日本と全日本の対抗戦が実現。川田利明が新日本マットに参戦し、当時の新日本トップ佐々木健介と対戦。
  • 三沢光晴と小川直也の禁断のタッグマッチ。
  • 武藤敬司の全日本プロレス社長就任。
  • NOAHを立ち上げ、絶対に無いとされていた三沢の4年ぶりの古巣全日本参戦(三沢自身も全日本離脱時「もう二度と無い。馬場さんが生きていたら別だけど」とコメントしていた)。
  • 2005年7月18日のプロレスリング・ノア東京ドーム大会で5年ぶりに実現した三沢vs川田の試合後の川田のマイクにノア取締役の仲田龍が大激怒し「もうノアのマットに二度と上げることはない」と断言し川田はノアと絶縁状態になったが、2009年6月13日に三沢が亡くなったことにより状況が変わり、その年の10月3日大阪府立体育会館で行われた三沢の追悼大会に川田は4年ぶりにノアマットに上がった。仲田龍が川田をリングコールした。
  • モントリオール事件によってWWEとの関係が亀裂したブレット・ハート2010年1月4日放送のRAWにゲストホストとして12年ぶりにWWEに登場。事件のもう一人の当事者であるショーン・マイケルズと和解。
  • ボクシングや相撲、あるいはサッカーや野球のようにプロ・アマを統括する組織が存在しないのでリングに上がるのに資格の必要がない(メキシコを除く)。つまり、練習していない素人であってもリングに上がって戦えたり、団体を作って興行を行うことが可能。ハードルが低くて、自由に行える反面、指導者としての適性に問題がある人間が素人を指導するという危険なことも起こりえる。

用語の特殊性

テンプレート:Main 日本のプロレスにおいては、企業経営で用いられる言葉を、他の表現に言い換えることが多い。以下はその代表例。また、日本のプロレスのビジネスモデルの基盤を成立させた力道山が相撲取り出身だったため、隠語は相撲と共通するものが多い。

団体
プロレスラーあるいは他のスタッフと契約し、興行を行う一般では興行会社と呼ばれるものをプロレスではこう称する。規模によってメジャーとインディペンデントに分類される(詳細は後述)。
レスラーが所属せず興行ごとに要員を契約する会社を、「プロモーション」と呼ぶ場合がある[16]。道場(練習施設)を自社保有していれば団体と呼べる、と指摘されることもあるが、厳密に団体・プロモーションを分ける基準は無い。そのため、数人程度の所属選手とフロントのみで、練習は他団体の道場やジムで行っている興行会社であっても「団体」を自称する興行会社も多い。
また、プロレス興行を行わない、もしくは年間興行数が非常に少なく、自社の保有する練習施設を利用しての所属選手育成および他団体派遣を中心行う会社[17]フリーランスレスラーの所属事務所[18]もこれに含まれる)は「事務所」「オフィス」「道場」などと称する場合もあり、これらも「団体」を自称していることもある。逆にこれらに所属する選手は「フリーランス」として扱われる場合も多い。
しかし、団体=組織を表すのでは無いため、所属レスラーが一人でも団体を名乗ることが出来る[19]
メジャー団体/インディペンデント団体
プロレス団体は、メジャーないしはインディペンデント(略称・インディー)団体と表現される場合がある。規模の大きさに依存する概念である。海外の場合WWEは株式上場しているが、現在のところ日本では上場している団体は無い(2006年9月に大阪プロレスが株式を公開し、将来的に上場するという予定を発表している)。
基本的に独立系興行会社であり、いわゆる「メジャー団体」であっても、日本の場合は社員数が50名弱ほどの規模であり一般的な基準から言えば、一般的な大手芸能プロダクションや興行事務所と同じように中小企業にしか過ぎない。そのため、日本においては中小企業をメジャー、それ以下の零細企業や個人営業をインディーと区別していることになる。
インディー団体は運営規模から、総じて地域密着型の団体が多く、所属レスラーもメジャー団体に比べて小柄なレスラーが多い。
規模や旗揚げの経緯からメジャーにもインディーにも括りきれない団体(パンクラスZERO1など)は「準メジャー」「ボーダー」と表現されることもある。
メジャー/インディーの区分の基準には団体規模以外にも以下のものを提唱する人間が一部いる。
  • 地上波テレビ中継の有無
  • 全国規模の巡業
  • 団体または関連会社が管理する道場(寮とリング他練習用具が一体となった施設)の有無
かつては小規模団体は自前でリングを持たないため、練習は他団体の施設を空き時間に借り、興行ではリング屋から賃貸することが多かったが、近年は小規模団体でも練習設備が充実している団体が多いことから現在この条件を用いることはほとんどない。
一部マスコミでは新日本プロレス全日本プロレスを「2大メジャー団体」、これにプロレスリング・ノアを加えて「3大メジャー団体」と呼称しており、旧・プロレスリングZERO-ONE(現・ZERO1)が活動していた時期にはこれを加えて「4大メジャー団体」などと呼称していたが団体がZERO1-MAXに改称して以降は活動規模を大幅に縮小したために上述の準メジャー団体、ないし長州力など一部のレスラーからはインディー団体として扱われている。また、DRAGON GATE(旧・闘龍門JAPAN)はインディー発ながら興行規模においてメジャー団体に匹敵、あるいは凌駕しておりメジャー団体の一角に数える向きもある[20]他、大日本プロレスDDTプロレスリングも今日ではインディーのカテゴリーではないという意見もある[21]。一方で全日本・ノアが地上波放送を失い選手層が薄くなったことなどもあり、2013年現在では新日本を唯一のメジャー団体とする見方もある[22]
女子プロレスにおいては全日本女子プロレスが絶対的なメジャー団体として存在していたが、解散後は女子プロ界の縮小及び団体の細分化が進み、女子団体すべて足しても男子インディー1団体のシェアにも勝てないと言われる[21]

プロレスを題材としたフィクション作品

小説

漫画、アニメ

実写作品

ゲーム

脚注

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参考文献

関連項目

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外部リンク

  1. 松村明『大辞林』三省堂
  2. 松村明『大辞泉』小学館
  3. 新村出『広辞苑 第三版』岩波書店(1987年)
  4. イミダス編集部『imidas現代人のカタカナ語』集英社(2006年)
  5. なお、プロレス評論家の流智美によると「『ラスリン』は侮蔑的用語」「知ったような顔で得意げに『ラスリン』と口にしてレスラーに殴られた人間が何人もいる」という。
  6. http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/fight090701_1_1.html
  7. 現在でも平成維震軍で一緒だった空手家でもある齋藤彰俊から受注しているとのこと(著書『やってやるって!!』より)。
  8. 『ケーフェイ』新装版 pp.161-162
  9. Real Pro Wrestling
  10. ただし「著名」というのはプロレス界的な意味での著名ではなく、橋本真也ブルーザー・ブロディの死亡記事が掲載されなかったという事実がある。
  11. スポーツナビ
  12. バトルニュース
  13. リングスターズ
  14. ファイト!ミルホンネット
  15. なお、ギミックはプロレスに限った話ではなく、例えばボクシングの「亀田三兄弟」など、格闘技においてもギミックと理解出来るユニットが登場している。また、叶姉妹のような「兄弟や姉妹を名乗って活動している他人」はプロレスでも「他人同士による兄弟タッグ」として多数の例がある
  16. 代表的なものとして、「ハッスル」を開催するハッスル・エンターテイメントがある。
  17. 代表的なものとして、団体化前の健介officeがある。
  18. 高山善廣オフィス高山堂藤田和之藤田事務所など。
  19. 一例としてセッド・ジニアスUNW
  20. 「闘龍門大百科 -ULTIMO DRAGON GYM公認」東邦出版刊
  21. 21.0 21.1 週刊プロレスEXTRAvol.5 女子プロレスエロカワ主義III p.60
  22. ロウキー&ジム・ロス解雇 新日社長交代 Bバックランド列伝 (め)組どインディ詳細 WNC広島 松本都WAVE ミャンマーラウェイ 曙ラーメン 蝶野正洋~マット界舞台裏10月3日号 ファイト!ミルホンネット マット界舞台裏10月3日号