ジャイアント馬場

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Mboxテンプレート:Infobox プロレスラー テンプレート:Infobox baseball player ジャイアント馬場(ジャイアントばば、男性、1938年1月23日 - 1999年1月31日)は、日本プロレスラープロ野球選手タレント。本名・旧リングネーム馬場 正平(ばば しょうへい)。血液型O型。全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。

身長209cm[1]、体重135kg[2]リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアが「ババ・ザ・ジャイアントBaba the Giant)」と命名したことに由来する。

日本プロレス界史上最大の巨体を持ち、力道山アントニオ猪木と並ぶビッグネームでもあり、コマーシャルやテレビ番組などでも人気を博し[3]、現役時代はNWA世界ヘビー級王座に3度就いた。

生涯

生い立ち

1938年、新潟県三条市四日町に八百屋の父・馬場一雄、母・ミツの間に次男として生まれる。三条市立四日町小学校(入学時は四日町国民学校)に入学後、野球を始める。小学校に入学するまでは体格は小さいほうで、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたが、3年生頃から急速に大きくなりはじめ、小学4・5年生の頃には既に身長が175cmほどあり[4]、地元の少年野球団「若鮎クラブ」ではエースを務めた。三条市立第一中学校時代には中越地区大会で優勝している。

1953年、三条実業高校工業科入学後、身長はさらに伸び、190cmにもなっていた[5]。この頃は足も尋常でない大きさになり、自分に合うスパイクがないという理由で、当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。その後、特注のスパイクを与えられることとなり、念願の硬式野球部に入部。エースとしての活躍はめざましく練習試合ながらも18奪三振を記録するなどし、1954年、高校2年の時には新潟日報で「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」と報じられ優勝候補の一角と目される存在になっていたが、予選で敢え無く敗退し甲子園出場は叶わなかった。

この頃、バッテリーを組んでいた捕手の誘いでトンボユニオンズのプロテストを受ける話が進んでいたが、同年10月に読売ジャイアンツのスカウト源川英治に誘われ、高校を中退し、翌1955年1月にジャイアンツに投手として入団する。背番号は59。

プロ野球選手時代

高校2年で中退し入団という変則的な入団だったが、宮崎キャンプからのチーム参加ということもあり、チーム内での確執は起きなかった。同期は森祇晶国松彰など。

馬場自身は新潟県第1号のプロ野球選手と考えていたため[6][7]、監督水原茂の「若手は二軍でスタートし、基礎作り」という方針のため、長い間二軍暮らしを余儀なくされるが、2年目となる1956年から活躍し始める。同年12勝1敗、翌1957年に13勝2敗で、2年連続二軍の最優秀投手賞を受賞[8]

1957年10月23日、中日戦でようやく一軍で初先発の舞台を踏むが、エース杉下茂との投げ合いとなり、5回まで無失点で抑えるものの敗戦[8]。同試合は杉下の200勝達成試合になった[8]

この試合の直後、視力の急激な低下に見舞われる。診察の結果、「脳腫瘍」(下垂体腺腫により視神経圧迫)と判断され[8]、同年12月23日に東京大学医学部附属病院で開頭手術を受けた。当時の技術では成功率が非常に低く、医者から「失明する可能性が高いので、見えているうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められた程だったが、手術は無事成功。1週間で退院し、翌月には頭に包帯を巻いたままキャンプに復帰した。

1958年には目立った活躍は見せなかったが、翌1959年には3度目となる二軍の最優秀投手賞を受賞した[8]。しかし、馬場を評価し後ろ盾となっていた藤本英雄投手コーチが退団したこともあり、同年オフにジャイアンツから解雇された[8]

1960年1月、ジャイアンツから大洋ホエールズに移籍したコーチ、谷口五郎の誘いで大洋ホエールズの明石キャンプにテスト生として参加し、採用内定を受けていた(そのため、川崎に転居していた)ものの、宿舎の風呂場で転倒、身体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針を縫う外傷を受傷し、一時期、左手の第Ⅲ指および第Ⅳ指の関節が伸展出来ない状態が持続したため、プロ野球を断念した(尚、この症状は、自然治癒した)。

年度別投手成績

テンプレート:By2 巨人 3 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 26 7.0 5 0 0 0 0 3 0 0 1 1 1.29 0.71
通算:1年 3 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 26 7.0 5 0 0 0 0 3 0 0 1 1 1.29 0.71

背番号

  • 59(1955年 - 1959年)

プロレスへの転進

不慮の事故で野球は出来なくなってしまったものの、スポーツを続けたいという一心で、自宅アパートの近くにあったボクシングジム不二拳闘ジムでトレーニングを欠かさなかった。

1960年3月、ジャイアンツ時代に面識があった力道山に会いに日本プロレスセンターを訪ねるが、力道山はブラジル遠征中のために不在であり、この際に馬場と同じく元野球選手という経歴を持つレスラー竹下民夫からプロレス入りを薦められる。

翌4月11日、ブラジル遠征(同遠征中、力道山は猪木寛至をスカウトしている)から帰国した力道山に日本プロレスへの入門を直訴。力道山からヒンズースクワット100回を命じられるが難なくこなし、その場で入門が決まる。この時、月給もジャイアンツ時代にもらっていたのと同額の5万円と即決されたが、翌月から「試合をしていないのに多すぎる」と3万円に減額された。 修行時代に、入門が一年先輩の大木金太郎や同期の猪木と三人でヒンズースクワットを行った時は、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている。

日本プロレス時代(新人時代~全盛期)

1960年9月30日、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。なお、同日に猪木もデビュー戦を行っているが、猪木は大木金太郎に頭突きの連打をくらいフォール負けしている。デビュー直後は芳の里が苦手であり、同年は18勝7敗を記録しているが、そのうち5敗は芳の里からである。

1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX(ビル・ミラー)ら、強豪外人レスラー連との試合が組まれ、いずれも勝利することは出来なかったものの、試合内容を評価した力道山により初渡米武者修行を命ぜられ、同年7月、芳の里、マンモス鈴木らとアメリカに遠征する。短期間でメジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長し、数々のタイトルに挑戦した。アメリカ時代のリングネームは、ロサンゼルスではショーヘイ・ビッグ・ババ、ニューヨークではババ・ザ・ジャイアント

とある試合で戦ったアート・トーマスのマネージャー、フレッド・アトキンスグレート東郷が馬場の元に引き抜き、アメリカでの師匠とした。馬場はフレッドの元で多くを学ぶことになった。

1962年6月、シカゴにおいて、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに勝利し、一旦、NWA世界ヘビー級王者のベルトを腰に巻き、その後の連戦(5連戦が組まれていた)で防衛を果たすも、第4戦目で観客がリングに乱入する騒ぎが起こり、その日の試合全てがコミッショナー預かりになり、また、第5戦目の試合前の控室で、ビル・ミラーとカール・ゴッチが、バディ・ロジャースを急襲して外傷を負わせたため、第5戦目は行われず、結局、この時は正式にNWA世界ヘビー級王者として記録されなかった[9]

1963年2月にはロサンゼルスで、WWA世界ヘビー級王者ザ・デストロイヤーに勝利したものの、反則勝ちであり、規定によりタイトルが動かなかった。

この遠征時代、馬場は飲み屋へ出かけるとジュークボックスの中に唯一入っていた日本の楽曲、坂本九の『SUKIYAKI(上を向いて歩こう)』を流していたという。後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。

第五回ワールドリーグ戦出場の外人レスラー招聘の交渉を主目的に渡米していた力道山とともに、1963年3月に凱旋帰国。この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームババ・ザ・ジャイアントを基にジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。馬場は、これまでの日本人レスラーにはみられなかったスケールの大きいアメリカンプロレスのスタイルで、キラー・コワルスキーパット・オコーナーなど当時の超一流外人レスラーと名勝負を演じ、また、師匠力道山との師弟タッグ等で活躍、初めて正式出場したワールドリーグ戦でも好成績を残すなど、初渡米武者修行の成果をファン、マスコミに強烈にアピールし、人気を博した。

同年10月に再びアメリカに遠征。同年12月力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。その際、マネージャーだったグレート東郷から、「力道山死後の日本プロレスは先行きが怪しい、高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。それ以外にも、アメリカでの生活で売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦へ陥る姿も見ているので、いくら高額の年俸を稼いでも同じようになった時のことを考えて断ったという理由もあった。

翌1964年には、アメリカで、NWAルー・テーズ)、WWWFブルーノ・サンマルチノ)、WWAフレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦したが、世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、当時の馬場のレスラーとしての実力がいかに卓越していたかを示す証明である。これは、その後、アメリカマット界の伝説となり、馬場の世界的名声の基盤を形成した。

同年4月に凱旋帰国し、翌月には豊登とのタッグで第11代アジアタッグ王座を獲得、力道山亡き後の日本プロレスを馬場・豊登道春|豊登の二枚看板で支えることになった。

1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザーに反則勝ちし、力道山以来、日本プロレスのエースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した(初代ルー・テーズ、二代目力道山、三代目馬場)。尚、この時、ベルトそのものは新調され、力道山が所有していたベルトは、後の「全日本プロ・レスリング株式会社(全日本プロレス)」旗揚げ時に馬場に寄贈されるまで、力道山家により保管された。ブルーザー相手に、1-1のドローながら初防衛も果たし、名実ともに日本プロレスのエースとなる。翌月に、代表取締役を務めていた豊登が放漫経営の責任を取り辞任し、日本プロレスから去る。

1966年2月、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターナショナル・ヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。以後、馬場は、当時の世界の超一流強豪レスラーを相手に次々に防衛を果たし、力道山のインターナショナル・ヘビー級王座連続防衛記録も更新、日本プロレスのエースとして君臨し続け、馬場のレスラーとしての全盛期の栄光とこのインターナショナル・ヘビー級王座は不可分のものとして認識されることとなる。また、ワールドリーグ戦においても、通算6回の優勝を果たして力道山の記録を更新している。馬場とともに日本プロレス黄金期を支えた猪木は、両者の実力の比較がファン、マスコミの間で取り沙汰されることが顕著となった1971年、ワールドリーグ戦の決勝戦中(馬場とアブドーラ・ザ・ブッチャーで争われ、馬場が勝利して通算5回目の優勝を果たし、力道山の記録に並んだ)、インターナショナル・ヘビー級王座への挑戦を表明したが、結果的に、時期尚早として却下された。

1966年、ハワイで、豊登による猪木略奪事件(馬場がいる限り日本プロレスのエースにはなれないと口説いた)が起こり、猪木は東京プロレスに引き抜かれるものの、短期で東京プロレスが内部分裂を起こしたため、猪木は翌1967年5月に日本プロレスに復帰。復帰の際には「猪木は豊登に騙された」からと寛大な措置が取られた。同月からアントニオ猪木と本格的にタッグを組むようになり、1967年10月にインターナショナル・タッグ王座を獲得した際にBI砲という呼称が定着した。BI砲は、当時、プロレス史上最強タッグの一つと称えられ、圧倒的な強さ、勝率を誇り、インターナショナル・タッグ王者チームとして日本プロレス黄金期の看板タッグとなった(インタータッグ王座のタイトルマッチで、BI砲が敗れたのは、ウイルバー・スナイダー&ダニー・ホッジディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキードリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの3チームのみ)。BI砲は、ザ・ファンクスとのインタータッグ戦を最後に、後述する「プロレス夢のオールスター戦」を除いては、二度と復活することはなかったが、マット界の伝説タッグチームとして、その後も、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディロード・ウォリアーズとの実力の比較が言及される等、しばしば話題に上り、BI砲復活を望むファンの思いは根強かった。その他のタッグとしては吉村道明や大木金太郎との名コンビ、坂口征二と組んだ東京タワーズなど。

日本プロレス時代、日本テレビ実況アナウンサーの清水一郎は、1970年頃までは馬場を巨人軍に在籍していたためか、「ジャイアンツ馬場選手」と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった。

猪木のクーデターと放送問題

1971年、日本プロレスの経営方針やレスラーの扱いなどに不満を覚えていた猪木と当時の後援会長が独自に改革案を製作し、馬場も含め多くの選手が賛同し、これを幹部に突きつけ、経営陣の刷新を図ろうとしていた。同年11月30日、流れに疑問を感じていた馬場が上田馬之助を捕まえて問いただしたところ、経営陣の刷新後は馬場も追い出す計画もある事を知り、馬場が経営陣にその旨を伝えた。猪木の行動は経営乗っ取りを狙ったクーデターとみなされ、12月13日に猪木は日本プロレスを除名されることになった。

このクーデター未遂は長年上田馬之助による密告事件とも言われており、きっかけは上田という証言も数多く存在するが、1996年に馬場自身が全日本プロレス監修の「馬場伝説」内できっかけは自分だということを証言している。しかし、その後も上田説は根強く、上田は晩年にもスポーツ新聞の連載で釈明を行っている。

また、日本プロレスは長年、日本テレビでのみの放送を行っていたが、グレート東郷とルー・テーズの会社がアメリカのプロレスを放送させようとNETに企画を持ち込んでいたのを脅威に感じ、1969年5月からNETでも放送を始める。

当初は日本テレビは馬場・坂口征二、NETは猪木という棲み分けが出来ていたが、猪木のクーデター以降、そのバランスが崩れることになった。日本プロレスはNETに馬場を出すという判断をし、日本テレビ及び当時のスポンサーに恩義を感じていた馬場は、1972年7月29日に辞表を提出し、日本プロレスを去ることになった。その後も長年NET及びテレビ朝日には出演せず、出演したのは最晩年の徹子の部屋ニュースステーション(「最後の晩餐」)の数本のみである。

全日本プロレス時代

1972年10月に日本テレビの後押しで全日本プロレス|全日本プロ・レスリング株式会社(全日本プロレス)(以下、全日本)を旗揚げした。馬場は、全日本旗揚げに際して、日本プロレス時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラー連と、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座)争奪戦を開始、合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。尚、このシングル王座のベルトとして当初使われたのは、力道山が所有していたインターナショナル・ヘビー級王座のベルトであり、前述した通り、全日本旗揚げ時に力道山家より馬場に寄贈されたものである(後に新調され、オリジナルは、ヒューストンのプロレス博物館に寄贈された)。馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞とも言うべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナルヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。

創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や成長著しいジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤーとの組み合わせが展開された。同年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得、名実ともに世界のジャイアント馬場となった。PWFヘビー級王座と二冠を賭けたダブルタイトルマッチで勝利し初防衛を果たすも、再々戦で敗れた。1979年1980年にもハーリー・レイスを破って、結局、通算3回、NWA世界ヘビー級王座を獲得したが、この時は、いずれも翌週の再戦では防衛を果たせなかった。全日本プロレス入門第一号で、馬場の後継者、一番弟子であるジャンボ鶴田は、馬場の期待を大きく上回る程の急成長を遂げ、馬場・鶴田の最強師弟コンビは、長年に亘ってインターナショナルタッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝を果たした。

1979年8月26日、日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦にて、アントニオ猪木と一夜限りのBI砲復活を果たし、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦し勝利した。

1980年4月、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手を選んでいた」とコメント。9ヶ月後の、1981年1月には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、バーン・ガニアとの間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。

1981年12月、世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦において、ブルーザー・ブロディ・ジミー・スヌーカチームのセコンドとして登場したスタン・ハンセンが、試合後、ザ・ファンクスのテリー・ファンクとの乱闘を繰り広げたことから、急遽馬場らが乱入しハンセンとの遺恨勃発。1982年2月に行われたPWFヘビー級選手権試合で初対決、死闘を繰り広げたが、両者反則による引き分けとなった。

1979年夢のオールスター戦での猪木と組んでのブッチャー、シン戦、1980年鶴田と組んでザ・ファンクスとの世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦、1981年のガニアとのダブルタイトル戦、そして1982年のハンセンとのPWF防衛戦で4年連続でプロレス大賞のベストバウト(年間最高試合)を受賞している。

1984年4月、ハンセン・ブロディ組のツープラトン・パイルドライバーで首を痛めて次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップ。

1985年7月、スタン・ハンセンに敗北し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村百田光雄ファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で明るく楽しいプロレスを展開し、最後の試合が行われた1998年12月5日までリングに上がり続けた。全日本を旗揚げした当初から年8回のシリーズと全国巡業をモットーとし最後の最後まで常設会場は持たなかった。アントニオ猪木率いる新日本が異種格闘技戦など斬新な企画を次々と打ち出しても、馬場は年8回のシリーズと全国巡業という型を続けていた。

生涯で通算5769試合を行った。

1995年1月、元子夫人の明石の実家が阪神大震災の被害に遭い、和田・仲田らと家の片付けに向かった。関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、ガスコンロや生活用品を買い集めた後関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」会員の名簿を取り寄せ、一軒一軒へ馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて回ったという。1995年3月にタワーレコード渋谷店が移転しメガストア化した際の宣伝ポスターに、上を見上げる馬場がモデルとして起用された。

晩年巨人のOB会へ出席した際、先輩の千葉茂に「おーい、馬場!」と手招きされた際、大喜びで後ろから抱きついた。この為馬場がおんぶされるような格好で甘えているように写るという珍しい構図になった。目上から呼び捨てにされる機会がほとんど無くなり、久しぶりのことだったのでとても嬉しかったという。亡くなる前年には巨人阪神のOB戦に巨人OBとして出場。一塁にランナーとして出るも牽制でアウトになり王貞治から「馬場さん頼むよ〜」と和やかな雰囲気で試合を楽しんだという。

プロレス興行では大会場での試合、地方での売り興行関係なく入場口近くの売店の椅子に座り、グッズを購入したファンにサインを書いたり、記念撮影に応じてフレームに収まったりしていた。馬場死後の全日本プロレスでは、愛用だった椅子を置いている。

闘病生活と、その死

1999年1月31日、東京医科大学病院にて、大腸癌上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全により死去。テンプレート:没年齢。戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。

妻の馬場元子の意向により外部には馬場の病状やその生命が危ないことを一切漏らしておらず、当時全日本プロレス役員だったジャンボ鶴田やエースでマッチメイカーの三沢光晴、全日本の重鎮だったジョー樋口にさえもそのことを知らせていなかった。馬場の最期を看取ったのも元子、姪の馬場幸子(全日本プロレス取締役)、実姉のほか、レフェリーで運転手の和田京平と秘書の仲田龍の5人だけであった。

死後

1999年4月17日に日本武道館でファン葬が催され、2万8000人が参列した。

同年5月2日東京ドーム興行にて「引退記念試合」を行う。スタン・ハンセンを先導にかつてのライバルや盟友が登場。「マッチメイク」はジャイアント馬場、ザ・デストロイヤー組対ブルーノ・サンマルチノジン・キニスキー組の時間無制限一本勝負で、当時PWF会長のロード・ブレアースが立会人、ジョー樋口が特別レフェリーをそれぞれ務めた。

リングアナウンサー仲田龍が涙声で馬場に対する最後のコールを行うなど、セレモニーはあくまでも「試合」として扱われた。ゲストからのメッセージで、キニスキーは「偉大なスポーツマン、アスリート、本物のプロフェッショナル・レスラーだった。あなたと日米で闘えて誇りに思う」と、またサンマルチノは「あなたは体だけでなく心もジャイアントだった」と称えた。さらにパートナーのデストロイヤーは日本語で「社長、ほんとうにお疲れさまでした」と深々と頭を下げ、会場中の涙を誘った。追悼の10カウントゴングが鳴らされた後、リング中央に置かれた愛用のシューズをデストロイヤーがつかんだ瞬間に、実況を担当した日本テレビ放送網の平川健太郎は、「デストロイヤーが、いま馬場とがっちりと握手を交わしました。共にリングを去ります馬場とデストロイヤーです」、「プロ野球巨人軍エースを夢見たかつての少年が、レスラーとして選んだ最後のリングは東京ドームでした」とコメントした。

2006年12月に阪神競馬場がリニューアルオープンし、馬場(走路)が大型化された。このリニューアル記念ポスターの1つでは「大きな馬場」が完成したことをもじり、「12・2 ジャイアント馬場、登場。」というコピーと、競馬場全体を踏みつけるような巨大レスラーブーツの画像が用いられた。

得意技

恵まれた体躯を生かし、主に、相手のロープの反動を利用したカウンターキックである「16文キック」をはじめ、「空手チョップ」「河津落とし」「ココナッツクラッシュ」など、長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した技を得意技とした。

16文キック
ジャイアント馬場の代名詞的な技。ロープに振った相手が反動で返ってくるところにカウンターで蹴りを叩き込む。1962年、アメリカ遠征時代にスカル・マーフィーと組んだタッグ戦で、カルロス・ミラノに偶然左足が出たのがきっかけになっている。馬場自身は当初技とは考えていなかったが、日本で人気が出てしまったために頻繁に使うようになった。1964年の海外遠征の際にジョージ土門に本格に蹴りを学び、自分から踏み込んで蹴りに行くパターンも生まれた。東京タワーズで組んだ坂口征二(31文キックと呼ばれた)や師弟コンビで組んだジャンボ鶴田とは肩を組んでダブルのカウンターキックをよく出していた。ウルトラマン(初代)のキック力は16文キックの○倍」という設定が存在し、ウルトラマン80には、その名も400文キックという技がある。
32文人間ロケット砲
32文ロケット砲」とも。前述の1964年のジョージ土門との修行で蹴りのコツを得たことから、ドロップキックにも挑戦することにし、ドロップキックの名手であるペドロ・モラレスが練習相手になってくれたことで知られる打点の高いドロップキック。1965年1月から使用。全盛期は大一番で使用していた。フォームとしては、やや下方から上方へ突き上げるような形で繰り出す。『32文ロケット砲』の名称は、日本テレビの清水一郎アナウンサーの実況から生まれた。清水アナは他にも「大型弾道弾ドロップキック」や「アポロキック」、「宇宙衛星船ロケットキック」という形容で実況した。
脳天唐竹割り
馬場の師匠でもあった力道山が得意としていた空手チョップ(力道山時代のテレビ中継では、空手チョップではなく「空手打ち」と実況されていた。)の応用技。相手の脳天に垂直にチョップを振り下ろす。特徴としては手刀の指の部分ではなく、手の付け根の骨で叩く。1963年、馬場が遠征中に泊まった旅館で、鴨居に頭をぶつけた時の激しい痛みから技を閃き、力道山に「敵の脳天に手刀を放とうと思うんですが」と相談したところ、「危険な技だ。相手が死んでしまうぞ」と制止されていたが、1965年のディック・ザ・ブルーザー戦で、初対戦でブルーザーのタフガイぶりにあきれた馬場が「ブルーザーならまあ死なんだろう」と解禁したという。清水アナウンサーは、この技を「ジャイアントチョップ脳天割り」、また相手をロープの反動から放つ逆水平チョップには「ジャイアントチョップ カウンター打ち」とよく実況していた。後にキラー・カール・コックス戦で失敗したところ、耳に直撃し流血させたことから派生技として「耳そぎチョップ」が生まれた。子供たちの遊びで往年耳にすることがあった、俗に言う「馬場チョップ」とはこの技のことである。ちなみに全盛期では大きくジャンピングしながら放つ場面もあった。
河津落とし(ジャイアント・バスター)
河津掛け落としとも。相撲の技「河津掛け」をさらに攻撃型に改良した技。力道山がルー・テーズバックドロップ対策として河津掛けを披露していたが、馬場は自分の片足を相手の片足に掛け、跳ね上げながら相手の首を抱えて後方に反って倒し後頭部を打ちつける技に昇華させた。尚この技は後年弟子である小橋健太も全日時代に多用したが「かけるのは自分より背の低い相手じゃないと、相手の頭部を抱えている自分の腕がクッションになって効果が半減する」とTV中継の中で解説していた。
股割き(レッグスプリット)
主に若手の頃に多用されていた関節技。相手の両足を掴み、股を強引に開かせることによって痛みを与える、単純明快な技。デビュー戦もこの技で勝利した(相手は田中米太郎)。
ランニング・ネックブリーカー・ドロップ(首折り落とし)
ロープに振った相手が反動で返ってくるところに、自ら走りこんで首に左腕を掛け倒れこみ、相手の後頭部をマットへ叩きつける。1969年にドリー・ファンク・ジュニア戦で16文キックのタイミングを間違えた際に偶然生まれた技である。ジャック・ブリスコやハーリー・レイスを相手にこの技でNWA世界ヘビー級王座を獲得したことで知られる。この技もまた大一番でしか見られない技で、主にレイスとの試合では必ずといっていいほど使用していた。
ココナッツクラッシュ(ヤシの実割り)
ヘッドロックのような体勢で相手の頭を抱え込み、自らの膝に押しつけ、相手が反発する力を利用し、膝を上げて、相手の首をねじりながら前方に倒す技。「この技が出ると調子がいいんです」というテレビ解説が見られた。
アトミック・ドロップ(尾骶骨砕き)
いわゆる尾てい骨砕き。全盛時によく使っていた技で、日本人で最初に公開したのは馬場である。
シュミット式バックブリーカー(シュミット式背骨折り)
この技も全盛期にはよく使っていた。この技からジャイアント・バックブリーカー(後述)に移行する事が多かった。
アームブリーカードロップ(腕折落とし)
相手の手首を掴みながら腕にまたがり、そのまま全体重をかけてマットに相手ごと落とす技。かつて上田馬之助とのシングルマッチにてこの技を連発し(6発打っている)、レフェリーストップに追い込んだことがある。
サーフボード・ストレッチ(波乗り固め)
相手の背後から仕掛ける。相手の両腕を掴み、背中の方で引っ張り上げて痛めつける。
ジャイアントコブラ(グレープバイン・ホールド)
いわゆるコブラツイスト。2mを超す長身の為威力は抜群で、アメリカ遠征中によく使っていた。猪木も得意技だったが、馬場のコブラツイストに対抗するために猪木は卍固めを使い始めたという。1985年のPWF戦でタイガー・ジェット・シンからギブアップを取るなど晩年まで使い続けた。
ドリル・ア・ホール・パイルドライバー(脳天杭打ち)
相手の頭を自分の股にはさみ、逆さまに持ち上げてそのまま脳天をリングにたたきつける技。
ジャイアント・ニー・ドロップ
倒れている相手にトップロープから膝を落とす。全盛期のフィニッシュ技として好んで用いられた。
ジャイアント・ギロチンドロップ(レッグドロップ
同じく全盛期のフィニッシュ技。倒れている相手めがけて膝裏を落とす。
ジャイアント・バックブリーカー(巨人式背骨折り)
馬場のオリジナル複合ストレッチ技。スタンディングで後方からコブラクラッチを決め、そのまま相手体を反らせながら自らの片膝をマットに付け、相手の背中を自らの片膝頭に押し付ける。アメリカ修行時代に、当時スーパースターだったアントニオ・ロッカと対戦した際、スタンディングでこの技を決めてロッカを落としてしまった。

上記の他、脇固めなど寝技やスロートクロー(タイガー・ジェット・シンのコブラクローに酷似)などの「拷問技」も得意とした。足4の字固めサイドスープレックススモールパッケージホールドなどの技も使っているほか、大柄な体格に見合わずトップロープからのフライングボディアタックなどの空中技も使用していた。晩年は流行技やライバル・弟子の得意技をまねて用いることも多く、およそ馬場の技は外見上なんら変わりがなくとも冠に「ジャイアント」と付いて独自の必殺技としてファン・マスコミに認識された。「ジャイアントラリアット」「ジャイアントDDT」などはその典型例である。

また、スタン・ハンセンとのタッグ時のみ限定で、16文キックとウエスタン・ラリアットを組み合わせた「ジャイアント・コンビネーション(後述)」も披露した。アンドレ・ザ・ジャイアントと組んだ時は16文からアンドレのエルボー・ドロップ、ラッシャー木村と組んだ場合は16文と木村のラッシングラリアットというコンビネーション(通称・16文ラリアット)になった。

ジャイアント・コンビネーション・A
ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が16文キックを叩き込む。その後、馬場が弱った相手を再度ハンマースルーし、そこにハンセンがウエスタン・ラリアットを叩き込む。
ジャイアント・コンビネーション・B
ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が16文キックを叩き込む。その後、弱った相手が振り返った瞬間に、ハンセンがウエスタン・ラリアットを叩き込む。Aよりも、技の回避が難しい。

また、対スタン・ハンセン用に開発した技に『16文チョップ』があり、テレビ中継での解説でその事は何度も取り上げられていたが、実際に使われる事はなく、幻の技となっている。

漫画『プロレス・スターウォーズ』では、トップロープに上った馬場が空中で一回転し、遠心力を利用した踵落としを相手の脳天に叩き込むといった破天荒な技だったが、実際にはどのような技であったのかは不明。

記録

主な戦績

  • 1960年9月30日 - 田中米太郎とのシングル戦でデビュー、股さきで勝利。
  • 1961年5月25日 - 猪木寛至(後のアントニオ猪木)と初対決、フルネルソンで勝利。
  • 1961年7月1日 - 芳の里マンモス鈴木とともに海外修行に出発。
  • 1962年3月9日 - シカゴ、インターナショナル・アンフィ・シアターでバディ・ロジャースの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦するが、2対0のストレート負けで王座奪取ならず。
  • 1963年2月4日 - ロサンゼルス、オリンピック・オーデトリアムでザ・デストロイヤーの持つWWA世界ヘビー級王座に挑戦。反則勝ちを収め試合には勝利するも、規定により王座獲得ならず。
  • 1963年3月17日 - 力道山とともに海外修行から帰国。直後の第5回ワールドリーグ戦に出場。
  • 1963年10月7日 - 2度目の海外修行に出発。
  • 1964年2月5日 - デトロイト、オリンピック・スタジアムでルー・テーズの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦。2対1で敗れて王座獲得ならず。
  • 1964年2月17日 - ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノの持つWWWF世界ヘビー級王座に挑戦するが、時間切れ引き分けで王座奪取ならず。
  • 1964年2月28日 - ロサンゼルス、オリンピック・オーデトリアムでフレッド・ブラッシーの持つWWA世界ヘビー級王座に挑戦。時間切れ引き分けで王座奪取ならず。
  • 1964年4月3日 - 2度目の海外修行から帰国、第6回ワールドリーグ戦に参加する。
  • 1964年5月29日 - 豊登道春|豊登とタッグを組み、ジン・キニスキーカリプス・ハリケーンと対戦し勝利。アジアタッグ選手権王者に就く(初のタイトル奪取)。
  • 1965年11月24日 - ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザーと対戦し勝利。インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。
  • 1966年11月5日 - 吉村道明と組んでフリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシス組を破りインターナショナル・タッグ王座を奪取。
  • 1967年10月31日 - アントニオ猪木と組み、ターザン・タイラービル・ワット組と対戦し勝利。インターナショナル・タッグ選手権を奪回(BI砲初タイトル)。
  • 1968年6月27日 - ボボ・ブラジルを三十二文ドロップキック三連発で破り、2日前に奪われたインターナショナル王座を奪還。
  • 1971年12月7日 - アントニオ猪木とタッグを組んでの最後のタイトル戦。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組に敗れる。
  • 1973年10月9日 - ジャンボ鶴田との初タッグ。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組の持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦したが、引き分けて奪取ならず。
  • 1974年12月2日 - ジャック・ブリスコと対戦。60分3本勝負、2-1でブリスコを下し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。日本人選手初。
  • 1979年2月11日 - ミネアポリスニック・ボックウィンクルの持つAWA世界ヘビー級王座に挑戦。これによりNWAWWAWWWFAWAの世界王座全てに挑戦したこととなる。反則勝ちを収め試合には勝利するも、規定により王座獲得ならず。
  • 1979年10月31日 - ハーリー・レイスと対戦。60分1本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に再度就く。
  • 1980年9月4日 - ハーリー・レイスと対戦。60分1本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に三度就く。
  • 1981年1月18日 -「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、バーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座とPWF王座のダブルタイトルマッチで対戦。60分3本勝負、1-1の引き分けで両者王座防衛。
  • 1982年2月4日 - 初めてスタン・ハンセンとPWF王座をかけて闘う。両者反則に終わるが健在ぶりを示した。
  • 1984年7月31日 - 蔵前国技館。前年ハンセンに奪還されたPWF王座をスモールパッケージホールドの技能技でハンセンから奪還。
  • 1985年7月30日 - 福岡スポーツセンター。スタン・ハンセンと対戦。60分1本勝負、0-1でハンセンに敗れPWFヘビー級王座から陥落。これを最後にタイトル争いの第一線から撤退。
  • 1990年4月13日 - アンドレ・ザ・ジャイアントとの大巨人コンビが実現。東京ドームでの日米レスリングサミットデモリッションを破る。
  • 1994年3月5日 - 「夢のカード」と題して、長年のライバルスタン・ハンセンとタッグを組み、三沢光晴小橋健太組と対戦。10年ぶりに日本武道館でのメインイベントに登場。三沢にフォールを喫するも、大きな感動をファンに与えた。
  • 1998年1月23日 - 後楽園ホールメインイベント。同日60歳の誕生日を迎えたことを記念しての「還暦宣言特別試合」。三沢光晴マウナケア・モスマンと組み、小橋健太川田利明渕正信組と対戦。得意技のランニング・ネックブリーカー・ドロップで渕からフォールを奪い、現役レスラーとしての健在ぶりをアピールした。試合後のインタビューにて徳光和夫が差し出すマイクを前に「子どもの頃は60歳といったらずいぶん年寄りだなとも思ったが、自分がなってみたら『何だまだやれるじゃないか』」と答える。
  • 1998年12月5日 - 日本武道館ラッシャー木村百田光雄と組んで渕正信永源遙菊地毅組と対戦。これが生涯最後の試合となった。

獲得タイトル

  • 第49代・第55代・第57代NWA世界ヘビー級王座 - (防衛回数は1回→1回→0回)
  • 第3代・第5代・第7代インターナショナル・ヘビー級王座 - (防衛回数は21回→18回→10回)
  • 初代・第5代・第7代・第9代PWFヘビー級王座 - (防衛回数は38回→15回→3回→3回)
  • 第6代アジアヘビー級王座 - 大木金太郎から奪取したが、1度も防衛戦を行わずに返上。
  • 第7代・第9代・第10代・第12代・第14代・第16代・第23代・第25代・第27代・第29代・第31代・第33代インターナショナル・タッグ王座 - 12度獲得。
(パートナーは吉村道明→アントニオ猪木4回→坂口征二→ジャンボ鶴田6回)
  • 第11代・第13代・第17代アジアタッグ王座 - 3度獲得。(パートナーは豊登道春|豊登2回→吉村道明)
第17代王者時に4度の防衛後、馬場がインター二冠王になったため王座を返上した。
  • NWA世界タッグ(デトロイト版) - 1度獲得。(パートナーはジャンボ鶴田)
歴代は不明(防衛0回)。1度も防衛を行わずにタイトルを返上した。

入場テーマ曲

馬場の代名詞とも言える楽曲であり、プロレスそのものをイメージさせる楽曲としても各局のテレビ番組などで多く使われている。1980年代中盤からは、大相撲からプロレスに転向し全日本に入団した輪島大士に譲り、王者の魂に変更した。
  • 王者の魂(作曲:実川俊・TEmPA)
使い出したのが1982年に世界最強タッグの開会式として使われ、自身の入場曲として使い出したのが1984年(当初はビッグマッチ限定)から、その数年後には中継が深夜に移動したため、アントニオ猪木の『炎のファイター』(イノキ・ボンバイエ)に比べるとプロレスファン以外の知名度は低い。たとえ使われたとしてもジャイアント白田のBGM程度。そのため、「ジャイアント馬場=日本テレビスポーツのテーマ」というイメージが現在でも持たれている。2014年よりKBS京都などで放送開始した「全日本プロレス 〜AJPワールド〜」のテーマ曲として再利用されている。

人物

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レスラーとしての評価

試合運びはいわゆるアメリカン・スタイルにのっとったもので、常に基本に忠実なものであった。余程のことがない限り奇を衒ったことはしない。ただし不測の事態(対戦相手が掟破りの攻撃を仕掛けた場合など)においてはいわゆるシュートと言われる技術で対応する。アメリカ武者修行時代にフレッド・アトキンス[10]から関節技のノウハウを教わっていた。

高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)は馬場について、試合の組み立て、運動能力、スタミナ、スピードなど全てを兼ね備えた万能のプロレスラーであり、「プロレスラーとしては最高」、「猪木さんと馬場さんでは差があったよ。モノが違った」と語っており[11]、またシュート(真剣勝負)でも強かったと回想している[11]。しかしビル・ロビンソンは「十回やれば九回は私が勝つだろう」と語っているなど賛否両論である[12]

性格

基本的におおらかな性格。小さいころは非常に親孝行で、人との間に角を立てるのが本当に嫌だったという。旧知の間柄の人達には面倒見が良かった反面、見知らぬ人には慎重で警戒心が強かった。記者他との雑談においても、一人でも初顔の者がいると気付いた途端、一切話すのを中断したという。そのおおらかさ故、馬場の試合では馬場に対する野次がいつの間にか敬語になる(「馬場さーん、やっつけちゃって下さーい!」など)といった現象まで起こったという。

契約、信義に関して

契約には厳しく、ジャパンプロレスとして参戦していた長州力が契約途中で離脱した際には断固たる措置を取ったという。

  • しかし、天龍源一郎メガネスーパー社から新団体旗揚げの話を持ち掛けられ全日本の契約終了後にSWSへ移籍した際(当時、団体の移籍は非常識とされていた)、憤慨していたジャンボ鶴田に対して、「なぁ、人は裏切るより裏切られた方がまだいいだろう」と諭した。これは天龍と馬場の間に十分な話し合いが持たれていた結果であるが、他の契約期間が終了していない全日勢が何人もSWSへ流れていった際には「話が違う」と激怒した。
  • また辞めていった日本人選手は二度と全日本マットに上げなかったが、弟子はリングに上げた(冬木弘道の弟子である邪道外道や、大仁田厚の弟子に当たるハヤブサなど)。師匠のことで弟子が巻き添えになることはマット界ではよくあるが、馬場は師匠のこととは別だと割り切っていた。長州の弟子にあたる馳浩は全日本の所属レスラーにまでなっている。

作法に関して

食事作法礼儀作法、服装などに厳しく、後輩や弟子たちにも徹底的に叩き込んでいる。なお、試合会場で馬場本人がファンにサインをする際は[13]、足を組んで座り、時に煙草を吸いながら応じていた。しかしこの行為は、各会場でのサイン会を始めた頃、既に馬場が50歳を越えプロレスの第1線から退いた時期であり、体力が衰え、自力で椅子から立ち上がる行為そのものが困難になっていた背景もある。

  • 1990年代、全日本の選手たちが決してシャツをズボンから出さなかったことは、馬場の教えが徹底されていたからであり、現在でもお付きだった和田京平仲田龍泉田純至らは「エリ付きのシャツでないといけない」という馬場の教えを守り、夏場でもTシャツではなくポロシャツを着ている。選手の茶髪も長い間許されなかったと言う。ジーンズも嫌いで、持ってはいたが「あれは作業着だ」と言っていた。
  • 稀にではあるが、後輩や弟子の言うことを聞き、厳しく躾けなかった例もある。秋山準がシャツの裾を出しているのを注意したところ、一度裾をズボンに入れるが、すぐに「馬場さん、やっぱりこっちの方が良いです」と言ってまた裾を外へ出した。全日本において絶対的存在であった馬場へ口答えした秋山を見て他の選手は慌てふためいたものの、「コイツは大物になる」と感じた馬場は「最近の若者はよく判らん」と言いながら笑って許した。

プロレスに関して

シュート(真剣勝負・ガチンコ)を超えたものがプロレス」という発言を残した。他団体が格闘技路線を進めていた頃の全日本プロレスのキャッチコピー「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」や「プロレスとは『プロレス』である」といった発言は、馬場本人のコメントではなく馬場夫妻と数十年に渡ってプライベート含めて親交があった元『週刊プロレス』編集長のターザン山本が考え出したものであるが、馬場自身もこのコピーを気に入っていた。

プロレスラーが技を一般人にかけることを非常に嫌っていた。TBSラジオの番組にゲスト出演していたとき、パーソナリティの松下賢次に何かプロレス技をかけて欲しい、というリスナーからのFAXがあった。馬場は「素人さんにプロレスの技をかけることは、絶対してはいけないこと」と語っている。ただし、かつて『笑っていいとも!』にゲスト出演した際、タモリヘッドロックをかけたことはある。また、試合中エキサイトして我を忘れてしまうこともあったらしく、「場外乱闘で興奮状態になった馬場さんに技をかけられた」というプロレスファンの投稿が、雑誌に載ったこともある(投稿者は幸い馬場の大ファンであったため「痛かったけど、嬉しかった」と言っている)。なお、2007年アサヒ飲料WONDA』のCMにおいて、桑田佳祐に対し技を繰り出すプロレスラーとして生前の馬場の映像が合成で使われた。

自らのプロレス観とかけ離れたレスラーとの対戦には消極的ではあったが、そのレスラーが人気者だった場合、プロモーターの立場として観客動員等、興行価値を優先し、積極的に起用し続けた(後述のミル・マスカラス、ビル・ロビンソン、長州力等)。アントニオ猪木からシングル対戦の要求はたびたびあったが、馬場は最後まで応じなかった。表向きの理由は、それぞれの団体が専属契約していたTV局(日本テレビ、テレビ朝日)同士のどちらが放映するのか話がまとまらないとのことであった。

嗜好

歴史小説が好きな読書家で、年間200冊以上の本を読み、柴田錬三郎司馬遼太郎のファンだった。巨人で同期入団だった森祇晶は、「物静かで、いつも文学全集のような本を抱えていた」と述懐している[14]。他にも絵画などを趣味に持つ。「引退したら(当時別荘を持っていた)ハワイで絵を描く生活がしたい」と語っていたが、それが現実になることはなかった。『水戸黄門』の大ファンで、欠かさず見ていたという。アイドルとして人気絶頂だった松田聖子に初めて会った時、「テレビは『水戸黄門』しか見ないから知らない」と言ったという話や、初代水戸黄門役の東野英治郎と初めて面会した時は、直立不動の姿勢となり、思わず頭を下げてしまったと回想している。また、初代風車の弥七役の中谷一郎と会った時には「おう、弥七」と声をかけ(年齢は馬場が中谷の8歳年下であった)、うっかり八兵衛役の高橋元太郎と会った際にも「八兵衛」と声をかけたと言う。『水戸黄門』に忍者などのキャラクターが出るようになると「突飛なことはやらない方がいい」と苦言を呈していた。東野時代のような典型的な勧善懲悪ものを好んだ。また、逆に高倉健に会った際はファンの人かと思い「はい、どうも」と座ったまま握手をした。

音楽では民謡を好み、尺八を演奏することも出来た。

ハワイを非常に気に入っていて、オフはよくハワイの別荘で過ごしていた。ハワイマット界にも関わりが深く、全日本プロレスのタイトル認定機関であるPWFの初代会長ロード・ブレアースはハワイのプロモーターであった。日本プロレス時代の人生設計では、「38歳で日本のプロレス界からは引退し、その後はハワイに引っ越して気楽な隠居暮らしに入る」というつもりだったという。

キャピトル東急ホテルを東京ヒルトン時代から定宿としていたことはよく知られており、馬場〜三沢時代の全日本プロレスの記者会見は殆どキャピトル東急で行われた。また馬場は、関東での大会の後はキャピトル東急のコーヒーハウスである「オリガミ」で食事をしていた。お付きの和田や仲田、番記者の小佐野景浩らはこの「オリガミ」で馬場から食事作法を学んだという。週刊ゴングの増刊号にて、キャピトル東急ホテルの閉館により閉店となる直前のオリガミにて、鈴木みのるが「馬場さんの味を食す」という特集を組んだほど、ジャイアント馬場=キャピトル東急というイメージがプロレス界では定着している。特に、この「オリガミ」に勤務するウェーターウェートレスは「馬場さんにおもてなしすることが登竜門だった」という[15]

大変健康に気を遣うと言われているが、後楽園ホールロビーでも常に葉巻きたばこを吹かしていた。また1990年の骨折入院までは健啖家で、酒に強く(曰く「いくら飲んでも酔わないので酒は面白くない」)、甘党でもあったが(あずきの缶詰を常に携帯しており、食事の締めとして餅に付けて食べるのが好きだった)、このことが糖尿病の遠因になった。骨折後は足腰の鍛錬により専心するようになり、毎日恵比寿の自宅から(マンションエレベーターも使わなかった)六本木にあった全日本プロレスの本社までウォーキングするのが日課だった。若手時代は汗っかきだったが、糖尿病を患って以降は汗をかかない体質になってしまい、以来サウナ好きでもあった。

葉巻きたばこを愛好していたが、テレビ番組の出演で親しくなった逸見政孝スキルス胃癌で入院したため、願掛けの意味から禁煙を決意。だが結局願いはかなわず、逸見は死去。以降、馬場が葉巻を口にすることは二度となかった。

前述の通り、甘いもの、特にあんこが好きと述べていた。「王道十六文」では子供のころに家で正月三ヶ日の朝だけはあんころ餅が食べ放題だったため、待ち遠しかったと述懐している。また、テレビ番組「ニュースステーション」の1コーナーだった「最後の晩餐」に出演した際も、久米宏から「明日地球が無くなるとしたら人生最後に何が食べたいか?」について聞かれ「豆の入った大福を10個か20個か・・・食べたいだけ食べたい」と答えている[16]

愛車はアメリカ武者修行時代に苦楽を共にしたブルーノ・サンマルチノからプレゼントされたキャデラックで、買い替えの際にもずっと同じタイプのキャデラックを選んでいたという。

愛唱歌は『砂山』であったという。少年時代から辛いことがあると、気分を紛らわせるためにこの歌を良く歌っていたことをテレビ番組に出演した際にも語っていたことがある[17]

金銭感覚

負傷のためプロ野球選手の道を断念せざるをえなかったが、プロレスチャンピオンになって年収が3億円を超えたと話す(給料袋が縦に立ったという)。当時のプロ野球界の最高峰であった巨人の「ON長嶋茂雄王貞治)が『年俸3千万円、4千万円』などといっていたのを見て、おかしくて笑いが出てしまった」という逸話を晩年に語っていた。ただし、経営者として節税出来たことから、新聞で発表される長者番付の馬場の順位は下位であった。しかし、偶然節税になっただけであるらしく、税務署から表彰されたこともある。本人のコメントによるとアメリカ時代には1試合で2万ドル(当時で約7百万)稼いでいた。

1本数万円(途中からは1本10ドルのカナダ産)の葉巻を愛用し、キャピトル東急ホテル内「オリガミ」で出される1個2500円のチーズバーガーを食べ、三沢に1個1万円のメロンを絞って作ったメロンジュースを振舞ったり、ハル薗田の新婚旅行の費用をポケットマネーで出すなど豪快なところもあった。

所属選手のギャラそのものは新日本プロレス所属の選手より高かったが[18]、馬場が選手にタニマチとの個人的な付き合い、選手が勝手にTV番組やCMに出演したり、雑誌のインタビューを受ける事を禁止していたのと、またグッズのロイヤリティーは一切選手に還元されず全て元子夫人が社長をしていたジャイアント・サービスの利益になるようにしていたため「実際の年収」は新日所属選手の方が多かった。選手に対する契約に保険や負傷欠場時の給与補填などは正式な制度として行わなかったため(内臓疾患で長期欠場していたロッキー羽田は『馬場さんがポケットマネーから生活費をくれていた』と証言している)、負傷欠場による収入保証制度は馬場の死後新社長となった三沢光晴の新体制では導入する方向だったが、オーナーである元子夫人が『馬場さんの時代にはなかった』と全て拒否したため、のちの三沢ら選手の大量離脱の要因となった。これがいわゆる馬場アンチからはネット掲示板などで「ケチ」「守銭奴」と散々批判される一因となっていたが、のちに負傷欠場したからといって即座にギャラが支払われなくなるという訳でもなく、所属選手ならそのシリーズの試合給は全額保障、その後も一定期間は一定の割合が出た、という事が明らかになっている[18]

なお、その遺産は渋谷税務署に8億7千万円と公示された。死後、永源遙週刊プロレスのインタビューで「猪木さんは金を使うことが好きな人、馬場さんは金を使うことを忘れた人だった」と話している。

プロレスラーとの人間関係

力道山からは特別可愛がられた。これは馬場に「元巨人軍投手」という肩書きがあったことと、2mを超える身長に力道山が惚れ込んでおり「これはワシをも凌ぐスターになるかもしれん」と思ったからである。アントニオ猪木はいわば叩き上げであり、また従順でなかった猪木を力道山はあまり好んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴られたり蹴られたりが当たり前だった中、馬場は一度も殴られたことが無いというエピソードがある。また、馬場は入門当初から付き人を経験しておらず、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたなど完全な特別扱いであった。

馬場自身が「私は力道山に一度も殴られたことが無い」と発言していたが、それは理不尽な暴力を受けたことは無いという意味で、シゴキ自体は過酷なものであった。自伝によると力道山から空手チョップの手ほどきを受けた際、皮膚を鍛えるために農具を変形させたもので手を何度も思い切り叩かれたという。叩かれている間力道山に「どうだ痛いか」と聞かれたが、「痛くないと言えば余計に力を加えるし、痛いと言えばそのうち痛くなくなると言って叩くのをやめないので、黙って耐えるしかなかった」と述懐している。

力道山には弟子に一気飲みを強要する癖もあり、馬場も何度も大量に飲まされたという(馬場自身は酒嫌いだった)。実際、師匠である力道山はスポンサーの前で「プロレスラーの頑強さ」を見せることをしていた。デビュー前の馬場は、スポンサーの前で力道山に「ジョニ黒」を一気飲みさせられ、目の前に「火花が散った」という。一息ついた馬場が水を飲もうとしたところ、チェイサーに差し出されたのは「ビール」だったという。

後に馬場自身は力道山のことを「人間として、何一つ良いところのない人でした」と語っており、特別扱いを受けながらも辟易していた心中を吐露している。

野球上がりで腕が細かったため(当時のピッチャーは腕を痛めるといけないという理由で腕立て伏せもしなかった)、巡業で津軽海峡を渡る際、青函連絡船で力道山の指示でいつも到着するまでバーベルを持たされていた。馬場は北海道へ行くたびにあの時のことを思い出すと語っていた。

新日本プロレスを旗揚げしてからの猪木の挑発には「何度もはらわたが煮えくり返る思いがした」と自伝に書いているが、猪木には基本的に「同じ釜の飯を食った男」という気持ちがあり、憎しみの感情はみられなかった(馬場が後期の猪木に一貫して持っていた感情は不信感だった)。猪木も同様で、表向きの発言と実際に馬場に会う時の態度は全くと言っていいほど違っていた。なお、猪木とは全く疎遠だったというわけでは無く、年に数回会っては話をしていたという。猪木の引退試合の際、馬場はねぎらいの電報を送った。しかしそれは結局読み上げられることはなかった。

新日本プロレス陣営の中で坂口征二については馬場も非常に信頼しており個人的に交流もあった。特に1990年2月新日本のドーム大会では、馬場は坂口の依頼に応え団体の壁を超え全日本の選手を貸し出した。また馬場が死去した時、坂口は真っ先に駆けつけた。

本当に馬場を憎んでいたのは上田馬之助で、日本プロレスを退団した馬場と、力道山の作り上げた日本プロレスに最後までこだわっていた上田の感情的なしこりは、日本プロレス崩壊後大木金太郎らと全日本プロレスに移籍する際、上田が仲介者の対等合併の言葉を本気にした(実際は吸収合併だった)ことと、馬場が大木・上田ら移籍組を冷遇した(馬場曰く「全日本創立に奔走した仲間と、新日本とうちを両天秤に掛けたような元同僚を同格に扱うことは出来ない」という理由)ことで決定的になったという。「猪木追放事件」も、一般には「猪木・馬場らによるクーデター計画の存在を上田が上層部に密告した」ことが原因とされているが、上田は近年になって「実は最初に密告したのは馬場である」と語っており(詳しくは上田馬之助の項を参照のこと)、このことも上田と馬場の関係悪化に大きく影響していたと思われる。ただ、竹内宏介によると「上田が『猪木が会社乗っ取りと馬場の追い落としを企んでいる』と馬場に話して、それを馬場が上層部に話した」という。ユセフ・トルコも自書での猪木の弟、猪木啓介との対談で「いや、あれを上層部に密告したのは間違いなく上田」と語っており、元日本プロレスの経理部長である三澤正和も「実際の会議で猪木さんが『馬之助、テメェ、よくもばらしやがったな』と言っていた」と証言しており[19]真相は依然謎のままである。

プロレスのプロモーター(興行主)としても、NWAに加盟し第一副会長までのし上がったことで世界的に有名であった。アメリカ武者修行時代にプロモーターの指示に絶対に逆らわなかったことや、馬場自身の人柄を買われたことで、全日本プロレス旗揚げ時にNWAのプロモーターだったドリー・ファンク・シニアや、当時ニューヨークの看板選手だったブルーノ・サンマルチノが協力を買って出た。ギャラの約束を必ず守り、大物選手はファーストクラスで来日させるなど丁重に扱ったことで外国人レスラー間の評判が高かった。当時は「名外国人を本場アメリカから呼ぶことに団体の意義・名誉のあった時代」であり、日本人レスラーへの給与形態などはやや違ったのである。その代わり、ズル休みなどは大物外国人でも絶対できなかったという。また力が衰えてきてもそれなりのポジションで来日させ続けた。アブドーラ・ザ・ブッチャーやドリー・ファンク・ジュニアなどは1990年代中盤まで回数は減ったものの来日し続けている。

NWA副会長であり、WWWF(現WWE)発足の頃すでに大スターだったことから、ビンス・マクマホン・ジュニアも、馬場に対しては頭が上がらなかった。マクマホンがWWFとして日本マット界を傘下に治めようと奮闘していたとき、馬場はNWA第一副会長として一喝したことがある。後に馬場は「マディソン・スクエア・ガーデンで世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と述懐している。

付き人だった大仁田厚を特別可愛がり、一時は本気で養子縁組を考えたこともある。大仁田が馬場の付き人をしていた頃、興行に馬場の赤いパンツを持って行くのを忘れたことがあった。困った大仁田は、同じ会場に赤いパンツを履く身長2mの外国人選手がいたため、この選手の控室に忍び込んでパンツを盗んだ。馬場はそのパンツで試合に勝ったものの何かおかしいと気づき、「このパンツ俺の?」と大仁田に聞いた。大仁田は「外国人選手から借りてきました」とウソをついたが、馬場はこの嘘を即座に見破り「馬鹿野郎、貸すわけないだろ!」と怒鳴って張り手タイプの空手チョップを食らわせた。そして洗濯して返すようにと命じ、3日間口をきかなかったという。その後、別の興行で大仁田はまたしても馬場のスーツのズボンを忘れたが、素直に謝ったところ、馬場は何も言わず興業中の約1か月間、スーツの上着に赤ジャージのズボン姿で通した。大仁田はこの一件を通じ「馬場さんから人間として一番大切なことを学んだ」と語っている。

1987年11月、南アフリカ共和国のプロレス興行でブックメーカーを務めていたタイガー・ジェット・シンから選手派遣要請を受け、馬場はそれに応えて全日本プロレスから所属選手のハル薗田(マジック・ドラゴン)を派遣することにした。この際、折しも結婚したばかりのハル薗田にポケットマネーを提供して、興業後に新妻と新婚旅行できる様にと取り計らった。ところが、パリ経由で南アフリカに向かう予定の筈が向こうのプロモーターの勘違いで台北経由になり、その台北から南アフリカに向かう飛行機がインド洋上で南アフリカ航空295便墜落事故を起こし、薗田夫妻は事故死することとなった。馬場は生涯、園田の派遣と新婚旅行を奨めたことを悔やんでいたという。リング上の追悼イベントでも弔辞を読んでいる時に号泣した。

世界中のプロレス界を股にかけた大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントが最後に選んだリングは、天龍一派の大量離脱で黄昏時を迎えていた馬場の全日本だった。二人がコンビを組んでいた頃「馬場とアンドレが天の川で流しソーメンを食べていた」などという伝説が流れたこともある。実際二人は大変仲がよく、話し相手に困らないようにと、アンドレの若手時代からの親友であるマイティ井上を話し相手として帯同させ、アンドレ参戦時の外国人用移動バスの冷蔵庫には、アンドレ好みのワインが常に置かれていたという。

芸能人との関係

お笑い芸人

彼の体の大きさはよく芸能人のネタにされた。 ビートたけしには「巨人時代、ボールを投げようとしたら捕手の頭を叩いてしまった」、「投げた後、指がバックネットにひっかかりそのままバックネットを引きずり倒した」、「投げた瞬間にキャッチャーをまたいでしまうため、野球をやめた」、「タクシーに乗ろうとしたら、左のドアから右のドアに出てしまい、乗れなかった」、「車のサンルーフから頭を出して運転していた」、「飛行機に乗る時は、両手を翼の中に入れて、腹這いになる」、「ゴルフもショートコースはパターしか使わない。カップインしたボールを取り出そうとしたら、グリーンも一緒に持ち上がった」、「一緒に飛行機のファーストクラスに乗った時、前の席に座っていた馬場さんがシートを180度倒したらオレの腹の部分に頭がのった」など。これらのネタは、学生時代に「ビートたけしのオールナイトニッポン」の熱心なリスナーであり投稿者でもあった、消しゴム版画家でエッセイストでもあったナンシー関が考えたとも言われる。本人も著書の中で、ジャイアント馬場の大きさについてのネタを考え出すといくらでも浮かぶと語っている。 ダウンタウン松本人志カーナビで馬場の居場所が写るとネタにしたり、「ダウンタウンのごっつええ感じ」でも馬場をネタにしたコントがあった。 島田紳助もトークで時々馬場のネタを使うことがよくある。それで「クイズ!紳助くん」では馬場を崇拝している円広志が怒るというパターンが何度もあった。円広志は、かつて日本テレビのオシャレ30・30に出演した時には、馬場への想いを熱弁したこともあり、1994年に、当時中京テレビでレギュラー出演していたヴィヴィアンの企画で馬場と対面したさいには、本人から愛用の革靴をプレゼントされた。 爆笑問題田中裕二は座っていた馬場に身長で「負けた」という(笑っていいとも!での証言)。

歌手・女優

ジャイアントコーンのCMで酒井法子と共演したが、CM撮影時に一口かじったアイスを、スタッフが「処分しますので」と引き取ろうとしたが、馬場は「勿体ないよ」と言って最後まで食べたというエピソードがあり、酒井法子は「身長だけでなく、心も大きい人でした」と語っている。 女優の水野久美は同郷で上京前からの友人。馬場にとって水野はマドンナで、上京後互いに下積み時代だった頃も馬場は水野の引っ越しを手伝ったりした。 シンガーソングライター松山千春とも親交があった。自ら出していた月刊誌にジャイアント馬場との対談を発表したこともある。松山は馬場の死去後、1999年8月に「Champ never die」という曲を発表、馬場に捧げている。 B'zのシングル曲『ギリギリchop』は、プロレスファンである稲葉浩志が馬場の死に哀悼の意を込めてタイトルを付けたとライブのMCで語っている。

アナウンサー、ラジオパーソナリティー

クイズ番組でも馬場の体の大きさに関するネタが使用されたことがある。前述の酒井法子がデビュー当時使っていた「のりピー語」で「馬場ピー」は「大きい」を意味していた。酒井のデビュー後間もない1988年に放送された第12回アメリカ横断ウルトラクイズの第4チェックポイント・アラスカ鉄道[20]で司会者の福留功男が「馬場ピー」の意味に関する問題を出題、この回の準優勝者となる解答者が「汚い」と珍解答をしてしまうという珍事が発生した。福留は「ジャイアント馬場怒るぞ」と笑い、この語は当該解答者のニックネームになった。

伊集院光が三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭圓楽)の弟子として落語家の修行していた時代、プロレスの大ファンで業界人とも交流が深い楽太郎と話をしていた時に同行していた伊集院の身体と足の大きさを見て、馬場は行きつけの靴屋にオーダーメイドで靴を作らせるよう注文をして伊集院にプレゼントしたことがある。馬場も身体の大きさからなかなか自分のサイズにあった靴を見つけられなかった経験があるが故に伊集院に同情したためであるという。しかしその靴屋はハワイにあり、当時楽太郎の弟子でお金が無かった伊集院には行けず、その靴は楽太郎がハワイ旅行に出かけた折に受け取ってもらった。

馬場は死去する約2か月前「徹子の部屋」へ2週にわたり出演したが、これが一般視聴者へプロレスについての最後のメッセージの場となった。馬場は受けの説明等を行い、この時初めてテレビで歌も歌った[21]。また弟子のハル薗田の飛行機事故死がきっかけで飛行機が怖いとコメントしていた。また黒柳徹子へはスクワットのやり方を教えた。黒柳はこれがきっかけで今でも毎日スクワットをしている(黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と語っている)。

その他

2006年8月NHK教育テレビ知るを楽しむ私のこだわり人物伝で、4週にわたり香山リカがジャイアント馬場について語った。香山は少女時代、馬場に抱き上げてもらったことがある。

SHOW by ショーバイ!!でのキャラクター

馬場のキャラクター・人柄はCMやプロレス中継以外のテレビ番組を通じて、幅広い人気を集めた。中でも1988年から1996年まで放送された日本テレビ系クイズ番組『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』に出演した際には、様々な珍解答で視聴者の笑いを誘った。「何を作っているのでしょうか?クイズ」で、終了5秒前にボタンを押した(実際には清水ミチコが押したもの)が、正解の「ボクシンググローブ」がほぼ完成の形で画面に映っているにもかかわらず堂々と「赤べこ」と答え、司会者の逸見政孝を始めとする出演者全員を悶絶させたこともある。逸見はこの馬場の発言で笑い転げ、しばらく起き上がれなかったほどであった。しかし、一方で自身のなじみのある問題ではVTRが始まって数秒のうちにボタンを押し正解する等冴えた一面を披露した。(正解は馬場が大好きな葉巻)

特番では代表者になるもののボタンを押さず、業を煮やして高田純次がボタンを押したこともあった。さらに、その時の正解は「トゥーシューズ」だったために高田がバレリーナを真似て正解を伝えたが、本人は「オッパイにあてるやつ」と答え、周りを悶絶させたこともあった。

早押しボタンを押さないことは週刊少年ジャンプ読者ネタにもされるほどであった。ごくまれに逸見・福澤などに「馬場さん、押す気ありますか?」と聞かれることがある。逸見の場合はさらに「わかったら押すんですよね?」と念押しする。それに対して馬場は「そうですよ!」と返す。早押しボタンのすぐそばにコーヒーを置いていたため、隣に座っていた川合俊一に「馬場さん、早押しボタンの上にコーヒーを置いたら押せないでしょ」と突っ込まれていた。サブ司会の渡辺正行に「押す意志無いじゃないですか」と突っ込まれた。放送143回目のモグラたたき早押しクイズで初めて早押しボタンを押した際にはスタジオ内が大騒ぎとなり、馬場自身も照れてしまいセットの裏に隠れてしまった程だった。(その時押していたのは実は早押しボタンではなくミリオンスロットのボタン。その回のEDではその場面が使われることになった)

同番組の特番では、パネラー席の早押しボタンが付くかのテストが行われたが、馬場は思いっ切りデスクを叩き、パネラー席を破壊してしまったことがある。山城新伍は、「(演出として)スタッフと相談して、馬場さんに内緒でデスクボードに細工をして落ちやすくしていたが、馬場さんはそれを察していて、知らんふりしてボードを叩き落してくれた」と語っている。

番組初期の頃は右から三番目の解答者席に座っていたこともあったが、基本的には一番左端の席が定着しており番組内では「馬場さんの席」の通称まで付いた程であった。番組中期以降は蛭子能収と交互に準レギュラーで左端の席で解答した。

しかし、クイズ自体の解答率は悪くなく何度も売り上げNo.1を取っており、回数も山城新伍(56回)、高田純次(37回)、山瀬まみ(23回)に次いで4位(17回)である[22]。1回目のトップ賞を取ったのも馬場であった。

1993年12月15日放送時は1、2問目のみ逸見の代理司会を務めたことがある。この日の本来の代理司会は島田紳助

山城は逸見の追悼スペシャルにて、逸見が胃癌の闘病生活に入ることを告白してから、逸見の早期回復を祈って願を懸けるために、馬場は大好きな葉巻を断ったエピソードも紹介し、馬場の人柄を讃えた。逸見が亡くなってから、自らのトレードマークだった葉巻を口にすることは生涯無かった。

野沢直子からはこの番組限定で「ジャイヤント」と呼ばれていた。

最終回スペシャルも自身の試合が終わってから、その足でスタジオへ駆け付け、馬場の名場面特集も組まれた。

ものまね

もごもごしたしゃべり方や、こもった低音の声質がものまねのネタになりやすく、当初は、タレントなどにものまねされることに対し不快感を示していたが、徐々にそういったおふざけを容認するようになり、そのキャラクターや風貌から、多くのバラエティ番組CMに起用されることとなる。また、全日本プロレスでの自らを主役とした、ギャグタッチのアニメビデオをリリースされるまでに至った。 口癖の「アポ」「ポー」もかなりの頻度でネタにされた。クイズ100人に聞きましたでは「ジャイアント馬場の空中殺法」という解答に「ポー!」と叫びながらコーナーポストから跳躍する馬場のイラストがつけられていた。 早くから馬場をものまねのレパートリーにしていた関根勤には、初対面の際「ぼくはアッポーなんて言ってないよ」と文句を言ったが、「指で汗をぬぐい大きく息をつく動作なんです」と実演して見せたところ「それは似てる」と、それ以来関根に本人公認のお墨付きを与えたというエピソードもある。また、「笑っていいとも!」に出演したとき、突然関根にババチョップを打ち込むと、関根は機転を利かせて馬場のものまねで膝をついた。

身体について

ジャイアント馬場の代名詞「16文」(約38.4cm)は、日本に合う靴がほとんどなかったため、アメリカ遠征の際入手した靴にアメリカ規格の「16」(約34cm)とあるのを見たプロレスマスコミが16文と誤認したことに由来する。1964年7月にNETが「16文の青春」というドキュメンタリー番組を放送したことから定着した。一部では「16文ではなく16インチ(約40.6cm)」という更に誤った説もあった。東京・台東区の靴下博物館には馬場の靴下を作るため特別に作られた足型が保存されており、実際に測ってみたところ33.8cm(14.08文)だった[23]

209cmの長身で、日本人レスラーはもとより、外人レスラーでも自分を超える身長の対戦相手がほぼ皆無であった馬場ではあるが、1990年の世界最強タッグ公式戦でアンドレと組んでランド・オブ・ジャイアンツ(スカイウォーカー・ナイトロン&ブレード・ブッチ・マスターズ組)と戦った時だけは、アンドレが身長223cm、ランド・オブ・ジャイアンツがそれぞれ身長213cmだったため、馬場が最も身長が低いという珍現象が起きている。

馬場は、1975年から1978年頃の一時期、髪を伸ばしていたこともある。この時、「パーマをかけている」と言われたが、実際は癖毛なのでそう見えるだけだったという。また、日本プロレス時代に、ボボ・ブラジル戦での頭突きの衝撃を和らげるために髪を伸ばしていたことがあった。

死後、馬場の身体のサイズに見合うがなく、葬儀には特注サイズの棺を発注することも検討されたが、時間的な問題から間に合わず、最終的に遺体は布で包んだだけの状態のまま火葬場へ運ばれ、荼毘に付された。

家族

実家は八百屋であり、プロ野球引退時には実家を継げと言われていたが拒否した。父・一雄は1968年11月に、母・ミツは1971年7月に死去。兄弟は兄1人と姉2人だが、兄は太平洋戦争の激戦地ガダルカナル島で戦死した。

ジャイアンツ入団初年の明石キャンプで知り合った後援者の娘・元子と知り合い、文通などを繰り返した後、1971年9月にハワイで結婚式を挙げる。初めて会ったとき、馬場の足に入る特大のスリッパを用意していたという話が残っている。長らく結婚したことは公表されず、記者会見を行ったのは1982年7月、翌1983年1月に披露宴が行われた。

子供はいない。馬場は巨人症成長ホルモン産生下垂体腺腫)であるため、それが遺伝することを恐れて、敢えて子供を儲けなかったともいわれているが、実際のところ、巨人症が遺伝することはほとんどない。

なお、元付き人でもあった大仁田厚を非常に可愛がっており、本気で養子にしようかと悩んでいた時期もあった。

姪・幸子は全日本プロレスで取締役を務めた。もうひとりの姪・トシ子は馬場の死後に全日本を離脱した大半の選手・社員により旗揚げされたプロレスリング・ノアに経理部長として2011年入社。

プロレスマスコミとの関係

死後直後に噂の真相で週刊プロレスのSWSバッシングキャンペーンを依頼していたことが暴露されていたが、2010年6月に元週刊プロレス編集長のターザン山本が、1990年代初頭に馬場から多額の裏金の見返りに週刊プロレスの編集部や誌面、更には読者全体を巻き込む形でのSWSバッシングキャンペーンを行う様に依頼を受けたことを暴露本で追認している。

その後山本は実際に天龍源一郎を始めとするレスラーを引き抜いたSWSを「金権プロレス」とレッテルを貼った上で、文字通り誌面を挙げた一大バッシングを行った。旗揚げ時からネガティブな印象を持たれたSWSは、天龍派と反天龍派の派閥争いなどの内部抗争、北尾光司の八百長試合発言(いわゆる北尾事件、詳しくは北尾の項を参照)といったスキャンダルも重なり、馬場の狙い通り2年後にSWSは崩壊した[24][25]

山本はこのバッシングキャンペーン以外にも、当時の誌面作りの方向性で全日本プロレスを優遇する見返りに、全日本プロレス興行のビッグマッチにおけるブックアングルを考案する権利を馬場から与えられていたことも暴露本で告白している。それらのブックの中にはジャンボ鶴田三沢光晴戦の決着をピンフォールではなくフェイスロックでのギブアップとする結末なども含まれていたという。

主な出演

CM

テレビドラマ

  • 関西テレビ開局30周年記念番組「シェイクハンド」(関西テレビ、1988年11月21日)

書籍

著書・関連著書

  • 『プロレス入門』 小学館、1971年
  • 『プロレス大全科』 秋田書店、1980年
  • 『たまにはオレもエンターテイナー』 かんき出版、1983年
  • 『ジャイアント馬場の16文が行く』 ダイナミックセラーズ、1983年
  • 『個性豊かなリングガイたち』 ベースボール・マガジン社、1987年、ISBN 4-583-02566-1
  • 『王道十六文』 ジャイアントサービス、1987年
  • 『16文の熱闘人生』 東京新聞出版局、1994年、ISBN 4-8083-0485-6
  • 『馬場伝説』 筑摩書房、1996年
  • 『オレの人生・プロレス・旅』 ジャイアントサービス、1998年
  • 『16文が行く』 ダイナミックセラーズ出版、1999年、ISBN 4-88493-279-X
  • 『王道十六文 完全版』 ジャイアントサービス、2000年
  • 『ねぇねぇ馬場さん』馬場元子 講談社、2000年
  • 『ジャイアント馬場 - 王道十六文』 日本図書センター、2002年、ISBN 4-8205-9566-0

参考文献

  • 『人生は3つ数えてちょうどいい』和田京平 ISBN 484011188X
  • 『NOAHを創った男-三沢光晴の参謀-』仲田龍・本多誠共著 ISBN 458310040X
  • 『馬場伝説』全日本プロレス編 筑摩書房、1996年

馬場に関する文献

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 読売ジャイアンツ時代の発表は203cm
  2. 全盛期は145kg
  3. 柳田理科雄の『空想科学読本2』では、怪獣やヒーローの能力を比較して最強を決めるための統一基準として、「行動形態が怪獣やヒーローに近い」ことを理由にジャイアント馬場を採用、怪獣やヒーローの能力を表す単位として「ジャバ(ジャイアント馬場の略)」という新単位を考案している。この他にも、柳田は新刊本を出すごとに1冊に1度は必ずと言っていいほど、体の大きな人間の代表として馬場を引き合いに出しており(ちなみに足の速い人間の代表はカール・ルイス)、自らもこのワンパターンをどうにかできないものかと自嘲気味に語っている。
  4. ジャイアント馬場年譜
  5. ジャイアント馬場年譜
  6. 晩年に出版した「馬場伝説」でも新潟県ではじめてのプロ野球選手という記述がある。
  7. 「文芸春秋」2012年3月号の二宮清純「プロ野球 伝説の検証10」によると、新潟県第1号のプロ野球選手は高田市出身の渡辺一衛大映)とされ、巨人にも杉本定介鈴木実など新潟県出身の先輩がいるため、馬場のいう新潟県第1号のプロ野球選手は本人の記憶違いとしている。
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 二宮清純『プロ野球「衝撃の昭和史」』、文藝春秋、2012年、ISBN 9784166608812
  9. 『馬場伝説』 筑摩書房、1996年発行
  10. 米マット界で「関節技の鬼」と同時代のレスラーから恐れられていた選手。タイガー・ジェット・シンもアトキンスから関節技のノウハウを教わっている。
  11. 11.0 11.1 『Gスピリッツ』No.9、辰巳出版、2008年、13ページ
  12. 『人間風車ビル・ロビンソン自伝 高円寺のレスリング・マスター』エンターブレイン
  13. 会場でのサインは約1000円相当のグッズ購入が条件であった。
  14. 読売新聞1999年2月2日
  15. BS日テレ2009年1月1日放送・2010年1月30日再放映の「俺たちは忘れない…10年目の再会 ジャイアント馬場よみがえる16文キック」での取材より
  16. テンプレート:Cite web
  17. 朝市と「砂山」と笹ダンゴと野球少年 1960年代通信〜ジャイアント馬場追悼企画〜 1960年代通信
  18. 18.0 18.1 『プロレス真実一路』 No.1678号 「G・馬場『ケチ説』を覆す全日本系レスラーの『真実のギャラ』一覧」 (2009年宝島社
  19. 『プロレスへの遺言状』ユセフ・トルコ著(河出書房新社
  20. アメリカ横断ウルトラクイズ⑫ p106にも第448問として収録。
  21. 鶴ちゃんのプッツン5」出演の際、MCの片岡鶴太郎にジャイアントコーンのCMソングを歌って欲しいとせがまれ、仕方なく鼻歌程度には歌ったことは有った。
  22. 「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」最終回より。
  23. 2002年10月7日放送『トリビアの泉
  24. 『金権編集長 ザンゲ録』(宝島社)
  25. 元プロレス雑誌編集長が告白「馬場から裏金をもらっていた」 Sports Watch 2010年6月18日