ザ・ファンクス
ザ・ファンクス(The Funks)は、プロレスのタッグチームである。
兄ドリー・ファンク・ジュニアと弟テリー・ファンクによる兄弟チームで、日本では1970年代から1980年代にかけて日本プロレスおよび全日本プロレスで活躍した。
概要
日本のプロレス界では、外人レスラーはヒール(悪役)というのが定番の図式だが、ファンクスは全日本プロレスに参戦していた1970年代中盤からベビーフェイス(善玉)的な役回りとなり、日本人レスラー側に立つことも多くなった。ザ・ファンクスと対抗するヒール役はザ・シークとアブドーラ・ザ・ブッチャーで、両者の対決は全日本プロレスの目玉カードになっていった。この対決が一躍大人気を得たのは1977年の世界オープンタッグ選手権の最終戦。ブッチャー組がフォークを持ち出してファンクスを血まみれにする猛攻、ブッチャーとシークが二人がかりでドリーを痛めつけているところにテリーが救出に入るシーンはファンの感動を呼び、日本プロレス史に残る名場面となった。
日本では若い女性を中心に大変な人気を得ており、二人を応援しようと女性ファンを中心とした親衛隊も結成され、全日本プロレスのリングサイドにはチアガールまで登場した。
1980年前後には「全日本のエースは馬場・鶴田でなくファンクス。新日本と全日本の差は猪木とファンクスの差」といわれるほどの人気を博し、1981年に復活したインターナショナル・ヘビー級王座の新王者は馬場でも鶴田でもなくドリーであり、初防衛戦の相手は弟テリーであった。しかしこの頃からブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンの新世代に押されるようになり、1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦では、最終戦でハンセン&ブロディのミラクルパワーコンビに叩きのめされて反則勝ち(ハンセン・ブロディが合体攻撃によりレフェリーのルー・テーズに反則を取られる、乱闘を止めに入ったセコンドに対してもウエスタン・ラリアットの洗礼を浴びせるなど大暴れして悠然と引き上げたミラクルパワーコンビに対し、ファンクスは2人ともグロッキー状態)を拾って優勝という屈辱的なシーンも見られた。この衰退の一因にテリーの膝の故障があり、それを理由にテリーは1983年の引退を宣言。1983年8月31日に行われたテリー引退試合はファンクス人気の集大成となった感動的な興行となった。1984年にハンセン、ブロディとの遺恨や膝の回復からテリーは現役復帰するが、テリー引退以前のような熱狂的なファンクス人気は戻ってこなかった。
アメリカでは地元のテキサス州アマリロにて、1973年の父ドリー・ファンク・シニアの死去後に同地区のプロモート権を引き継ぎ、1978年までNWAウエスタン・ステーツ・スポーツを主宰していた。同地区では日本同様にベビーフェイスだったが、他地区では主にヒールのポジションで活躍し、1970年代末にはフロリダ地区(エディ・グラハムのチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)やジョージア地区(ジム・バーネットのジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)でジャック&ジェリーのブリスコ・ブラザーズと兄弟タッグ抗争を展開した。1980年2月にはミズーリ州カンザスシティにてダスティ・ローデス&ディック・マードックのテキサス・アウトローズと対戦、反則負けを喫している[1]。
また、1986年にはWWFでも兄弟タッグを結成。先にWWF入りしていたテリーに合流する形でドリーがホス・ファンクのリングネームで参戦し、ハルク・ホーガン&ジャンクヤード・ドッグやブリティッシュ・ブルドッグスと抗争した[2]。テリーが膝を負傷してWWFを離脱した際は、ドリーがジミー・ジャック・ファンクというレスラーを引き連れて新生ファンクスを組んだこともある。ジミーの正体は、当時ドリーが目をかけていたジェシー・バーである。なお、WWFではカウボーイ・ギミックのヒール・ユニットとして「ダブルクロス・ランチ(裏切り牧場)出身」と紹介されていた。
その後、1990年代はECWやスモーキー・マウンテン・レスリングなどに単発参戦し、1999年11月にはFMWの10周年記念興行に来日。2001年10月には新日本プロレスに初参戦し、東京ドームにて藤波辰爾&ボブ・バックランドと対戦した。2009年には揃ってWWE殿堂に迎えられている。
2013年10月、全日本プロレスへの久々の来日が実現、両国国技館にて渕正信&西村修と対戦した。
略歴
- 1970年8月、ファンクスとしては日本初登場(日本プロレス)。ジャイアント馬場・アントニオ猪木組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦するも敗退。
- 1971年12月、馬場・猪木組を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。
- 1973年より全日本プロレスに参加。
- 1977年12月、世界オープンタッグ選手権で優勝。
- 1979年と1982年の2度、世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝。
- 1983年、テリーの引退で一旦チーム解散。
- 1984年、テリー現役復帰、チーム再結成。
- 1990年、ファンクスとして最後の最強タッグ参加。
- 2001年、新日本プロレス無我興行、東京ドーム興行でエキシビジョン参戦。
- 2009年、WWE殿堂入り(インダクターはダスティ・ローデス)。
- 2013年、22年ぶりにファンクスとして全日本プロレスに来日。両国国技館で、渕正信、西村修組と20分1勝負で戦う。結果は時間切れ引き分け[3]。
獲得タイトル
- NWA世界タッグ王座(テキサス版) : 2回
- NWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版) : 1回
- NWA北米タッグ王座(フロリダ版) : 1回
- NWAフロリダ・タッグ王座 : 1回
- NWAジョージア・タッグ王座 : 1回
- SCW世界タッグ王座 : 1回
- インターナショナル・タッグ王座 : 3回
- 世界オープンタッグ選手権優勝: 1回
- 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝 : 2回
- WWE Hall of Fame 2009
備考
- 日本プロレス参戦時はジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲と好勝負を展開。馬場&坂口征二の東京タワーズともインターナショナル・タッグ王座を争った。全日本プロレスでは、1977年から1979年にかけてアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク、1982年からはスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディと抗争を繰り広げたほか、馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビやマスカラス・ブラザーズ(ミル・マスカラス&ドス・カラス)などと名勝負を残した。
- 入場テーマ曲は、日本のロックバンド "クリエイション" 演奏の『スピニング・トーホールド』。
- 父のドリー・ファンク・シニア、門下生のディック・スレーターやスタン・ハンセン、テッド・デビアスらも含めてファンク一家と呼ぶこともある。
- 合体攻撃として、ロープに振ってからのダブル・エルボーバットがあった。
- 入場時に『テキサス・ラッキーコイン』というオリジナルのコインを会場に投げ入れていた時期もある。
- フジテレビで放送されていた『笑う犬』シリーズではザ・ファンクスをモデルにした『テリー&ドリー』というコントがあり、テリーを堀内健、ドリーを原田泰造が演じた。
関連項目
- ドリー・ファンク・シニア
- ドリー・ファンク・ジュニア
- テリー・ファンク
- アマリロ
- 倉持隆夫
- NWA - ファンクスのドリーとテリーは史上唯一の「兄弟揃ってのNWA世界ヘビー級王者」である。
脚注
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- ↑ 日刊スポーツ2013.10.28