ハルク・ホーガン
ハルク・ホーガン(Hulk Hogan、本名:Terrence Gene Bollea、1953年8月11日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州オーガスタ生まれ、フロリダ州タンパ出身。
「アメリカン・プロレス界の顔」的な存在であり、スポーツ・エンターテイメントを体現したプロレスラーとして業界全体に多大な影響を与えた。2m・140kg級の巨体から繰り出すパワーと、観客の心を掴む卓越したパフォーマンスのスキルを活かし、ベビーフェイスとしてもヒールとしても頂点を極めた。
歌手のブルック・ホーガンは彼の長女。甥のホーレス・ホーガン(マイク・ボレア)も元プロレスラーである。
目次
来歴
自著によると少年時代は圧倒的な体格を生かし、野球のリトルリーグでは強打者として活躍していたが、太りすぎており足が遅く、他のスポーツは苦手であったという[1]。高校時代にボディビルディングで体を鍛える一方、南フロリダ大学時代から「ラッカス(Ruckus)」というロックバンドのベーシストで活動した。
もともとプロレスファンだった彼はスーパースター・ビリー・グラハムに憧れ、自身の巨体とロックバンド時代に培った観客とのやり取りの才覚を活かすべく、プロレスラーになることを決意。ビリー・グラハムには弟子入りを断られるも、NWAフロリダ地区のプロモーターだったエディ・グラハムの息子マイク・グラハムを介してヒロ・マツダのトレーニングを受ける[2]。レスラーになるのをあきらめさせるためマツダから厳しいシゴキを受けて足を折られたこともあったが[3]、1977年8月に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー(The Super Destroyer)として、ブライアン・ブレアーを相手にプロデビューを果たした[4]。
以後、テリー・ボールダー(Terry Boulder)、スターリング・ゴールデン(Sterling Golden)などのリングネームを用い、ビリー・グラハムの影響下にある筋肉派の新鋭選手として、アラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング、テネシーのコンチネンタル・レスリング・アソシエーション、ジョージアのジョージア・チャンピオンシップ・レスリングなど、南部の各プロモーションをベビーフェイスのポジションで転戦[5]。アラバマでは1979年6月にオックス・ベーカーから南部版のNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取[6]、12月にはディック・スレーターを破り同王座の北部版も獲得している[7]。テネシーでは同年5月21日、メンフィスのミッドサウス・コロシアムで同地区の英雄的存在だったジェリー・ローラーとタッグを組み[8]、ジョージアでは10月19日にアトランタのオムニ・コロシアムでスタン・ハンセンと対戦した[9]。
同時期、テレビドラマ『超人ハルク』主演のルー・フェリグノと同じカメラに収まる機会があり、トップ・ボディビルダーのフェリグノより巨大な肉体が評判となる[10]。これを機に、超人ハルクにあやかりザ・ハルク(The Hulk)をニックネームに用いるようになった[10]。一時はプロレス界を離れ港湾労働者に転じていたこともあったが[11]、テリー・ファンクやジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコらの勧めで復帰を果たし、WWF入りのきっかけをつかむ[12]。
WWF時代
1979年12月、WWF(現・WWE)に初登場。ビンス・マクマホン・シニアの提案でハルク・ホーガン(Hulk Hogan)とリングネームを改め[13]、ニューヨークのMSGにおけるデビュー戦でテッド・デビアスに勝利[14]。以後、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に対抗できる超大型のヒールとしてトップ戦線で活躍。ゴリラ・モンスーン、ティト・サンタナ、ドミニク・デヌーチ、レネ・グレイ、イワン・プトスキー、パット・パターソンらを相手にデビュー戦から20数連勝という戦績を残したことから「マディソン・スクエア・ガーデンの奇跡」と評され、彼の名を知らしめた。
1980年はボブ・バックランドのWWFヘビー級王座にもフィラデルフィアやアレンタウンなどで再三挑戦[15]。8月9日にシェイ・スタジアムで開催されたビッグイベント『ショーダウン・アット・シェイ』ではアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチが組まれた[15]。
新日本プロレス時代
1980年から1983年にかけて、日本では当時WWFと提携していた新日本プロレスを主戦場とする。初来日は1980年5月の『第3回MSGシリーズ』。アメリカでのスケジュールの都合のためリーグ戦には参加せず、シリーズ後半戦への特別参加という扱いで、初来日ながらアントニオ猪木とのシングルマッチもテレビ中継で組まれた。当時は1955年生まれと称しており、金色のマントをまとい胸には黒い剛毛を生やしていた。
2度目の来日となる1980年10月には、猪木の保持していたNWFヘビー級王座に挑戦。スタン・ハンセンのタッグパートナーとしても活躍し、同年11月開幕の『第1回MSGタッグリーグ戦』では猪木&ボブ・バックランドのチームと決勝を争った。1981年9月には全日本プロレスへの移籍が発表されたことがあり、実際に同年5月にボビー・ダンカン経由テリー・ファンクの仲介で契約書を交わす段階にまで至った。しかしホーガンはそれを新日本に見せ、ギャラ吊り上げの交渉に使ったためご破算となったといわれている。その行動に怒ったテリーは京王プラザホテルでホーガンを殴り倒したとされているが、テリーは自著で否定している。
スタン・ハンセンが全日本プロレスに移籍した後の1982年には、ウエスタン・ラリアットを模したアックスボンバー(右腕をL字型に曲げ、ラリアットのように肘を相手に叩きつける技)をフィニッシャーに使用。出演映画『ロッキー3』の公開もあって本国同様に日本でも大ブレイクし、ハンセンに代わる新日本の看板外国人選手となる。外国人ベビーフェイスとして日本人陣営にも加わり、アントニオ猪木とのタッグやアブドーラ・ザ・ブッチャーとの対戦も実現した。
1983年に開催された『IWGP決勝リーグ戦』にはアメリカ代表として参加し、6月2日に蔵前国技館で行われた決勝戦ではアントニオ猪木をアックスボンバーでKOして優勝を果たした。また、右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズも話題になり、漢字で「一番」と書かれたタンクトップやTシャツ、ハッピも発売された。以降 "ICHIBAN" はNo.1を意味する語としてアメリカでも有名な日本語の1つとなった。
AWA時代
1981年からはアメリカでの主戦場をAWAに移し、本国でもベビーフェイスとして大ブレイクを果たす。しかし、AWA世界王者ニック・ボックウィンクルを相手に何度となく「幻の勝利」を挙げたにもかかわらず、AWAの主宰者だったバーン・ガニアは他のスポーツの実績もなく、単純なパワーファイターのホーガンの商品価値を過小評価しAWA世界ヘビー級王座を与えなかった。
世界王座戴冠は果たせなかったものの、同じくスーパースター・ビリー・グラハムに憧れたジェシー・ベンチュラとの抗争でも人気を博す。また、WWFや新日本プロレスでの旧敵アンドレ・ザ・ジャイアントともタッグを組み、悪党マネージャーのボビー・ヒーナン率いるファミリー(ニック・ボックウィンクル、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、アドリアン・アドニスなど)と軍団抗争を展開した。
同時期、彼の知名度を更に向上させたのが、1982年公開のアメリカ映画『ロッキー3』への出演である[16]。ホーガンはプロボクサーのロッキー(シルヴェスター・スタローン)と戦う敵役のプロレスラー「サンダーリップス(Thunderlips)」としてプロレス界以外でもネームバリューを高めた(本人によれば、1980年のWWF離脱の理由はビンス・マクマホン・シニアがこの出演を認めなかったからだという)[17]。
WWF時代
1983年12月、シニアの後継者となるビンス・マクマホン・ジュニアにWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わす(AWA社長のバーン・ガニアはこの突然の引き抜き事件に激怒したという)。翌1984年1月23日、アイアン・シークを下しWWF世界ヘビー級王座を初戴冠。シンディー・ローパーらと共にMTVに出演するようになると、その圧倒的なカリスマ性と単純だが分かり易い試合でプロレスファン以外の層にまで人気が爆発。1985年にレッスルマニアが開始されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得した。このレッスルマニアという名称自体「レッスル」とハルクファンの「ハルカマニア(Hulkamania)」を足したホーガンのための大会だった。人気絶頂期に行われたアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決(1987年3月29日、WrestleMania III)では実に93,173人という観客動員数を記録している。以降、長期に渡りトップ・レスラーとして活躍してアメリカン・プロレスの象徴的な存在となると共に、プロレス自体の世界的な人気獲得に多大な貢献を果たした。その後さまざまな低予算映画に主演し俳優としても成功した。
1990年には日米レスリングサミットのため久々に来日し、ハンセンと大勝負を行う。1991年には当時WWFと提携関係にあったSWSにも来日し天龍源一郎と一騎打ちやタッグも組んだ。この頃からは全盛期を過ぎたこととステロイド裁判もあり、ビンス・マクマホンとの間に亀裂が生じ始める。また引退して俳優への本格的な転向を計画し、撮影のため長期欠場が増え1993年には遂にWWFを退団。
新日本プロレス時代
1993年5月3日、8年ぶりに新日本マットに登場。福岡ドームでグレート・ムタと対戦した。この時、新日本プロレスはWCWと提携を結んでおり、現役WWFヘビー級王者であったホーガンが出るということは、考えられないことであった。またムタもIWGPヘビー級王者であったため、日米のトップ対決としても注目された。同年9月23日には、横浜アリーナでムタと組み、ヘルレイザーズと対戦している。 1994年1月には藤波辰爾と対戦した。
WCW時代
連続テレビドラマを制作・主演していた1994年には、同じディズニー・ワールド内で収録していたWCWと契約した。WWF時代と同じく一貫してベビーフェイスとして活躍。しかし40歳を越えてもなお以前のような「無敵の超人」といったイメージを続けるのは難しくなり、本人も新たなキャラクターを求めた。1996年7月、ヒールに電撃転向してnWoを結成、ハリウッド・ハルク・ホーガン( "Hollywood" Hulk Hogan)を名乗る。これによってホーガンは選手としてのキャリアのリセットにも成功し、またnWoの大ヒットでWCWはWWFの人気を上回るようになっていく。ヒールサイドの主役として活躍し、WCW王座も何度となく獲得。1998年にはビル・ゴールドバーグとの歴史的超人対決が実現した。nWo解散後は他のベテラン選手たちとともにミリオネアーズ・クラブなるユニットを結成したりもしたが、家族と過ごす時間が欲しいとの理由から2001年のWCW崩壊を前に離脱した。
嘗てのイエロー&レッドのコスチュームでジミー・ハートの旗揚げしたXWFという新団体にも上がったが、同団体もほどなく活動を停止した。
WWE復帰、リビング・レジェンド
2002年2月、ビンス・マクマホンの刺客nWoの一員としてヒールに戻りWWF(=WWE)に復帰する。WrestleMania X8で8年ぶりのレッスルマニア再登場を果たし当時の主役ザ・ロックとの頂上決戦が実現。WWE側は「悪の枢軸」nWo軍総帥ホーガンを絶対的ベビーフェース・ロックが迎え撃つというアングルを構成したものの、入場シーンからホーガンへの爆発的声援一色となり、ロックの方がブーイングを浴びる結果となった。この試合は「ICONvsICON」という試合タイトルに相応しい重厚な名勝負となり、ホーガンのハルクアップ・3パンチ・ビッグブーツ・レッグドロップというフィニッシュ・ムーヴをロックがキックアウトしたシーンは大歓声を浴びた。最後はロックがロック・ボトム2連発からピープルズ・エルボーでフォール勝ちを収めた。
ホーガンは試合後ロックに握手を求め、翌日からベビーフェイスに戻った。
同年7月4日の独立記念日には、エッジとのタッグで自身初のWWE世界タッグ王座を獲得。ブロック・レスナーとの対戦の後、一時団体を離脱するが、復帰した冬頃からSmackDown!にてビンスとの対決アングルが組まれ、WrestleMania XIXで対決し勝利する[18]。
2003年5月には覆面レスラーのミスター・アメリカ(Mr. America)に扮するも、その後ストーリーに不満を抱き同年6月にWWEを離脱する。
2003年10月13日、新日本プロレス『ULTIMATE CRUSH』にワンマッチのみ参戦、蝶野正洋とシングルマッチを行った。
2005年4月、WWE殿堂入り(プレゼンターはシルヴェスター・スタローン)。またWrestleMania 21にてWWE再登場を果たした。7月にはRAWに正式に復帰して選手登録もされ、ショーン・マイケルズと抗争を繰り広げた。両者の戦いはサマースラムで決着。
2006年のサマースラムではランディ・オートンと対戦し勝利。次回の試合は2007年のWrestleMania 23でのストーン・コールド・スティーブ・オースチンとの夢の対決、あるいはアンドレ・ザ・ジャイアント戦20周年を記念したビッグ・ショーとの対戦が噂されていたが、実現しなかった。
TNAへの参戦
2007年4月、PMG Clash of Legendsに単発出場。その後は2009年10月27日、TNAと契約した。その直前にはエリック・ビショフらとともに新団体「ハルカマニア」立ち上げを発表、同年11月にオーストラリアで旗揚げ興行を開催した。
WWE再復帰
2014年2月24日、次のレッスルマニアのホストとして復帰。公式サイトにも所属レスラーとして掲載された。
ミスター・アメリカ
ハルク・ホーガンは2002年5月にWWEに復帰するが、その翌年にビンス・マクマホンによって出場停止にされてしまう。しかし、そのときにスマックダウンを救うためにひとりのマスクマンがさっそうと登場した。彼こそがミスター・アメリカである。星条旗風のロングタイツ、そして中央に星をあしらったブルーのマスクが特徴的であった。
当初、ひげの生え方やビルドアップされた筋肉、白いリストバンドをしていることなどから、その正体はハルク・ホーガンではないかと騒がれた。しかし、ビンス・マクマホンの手によって嘘発見器にかけられた際、「あなたはハルク・ホーガンですか?」との質問にネガティブの結果が出ていることからも、この噂は否定されている。なお、この際ビンス自ら嘘発見器にかかり、嘘発見器が故障していないことを証明している。
本人は「ハルク・ホーガンに憧れ、トレーニングをして十分なビタミンを摂取してこの身体を手に入れた」と語っている。なお、ハルク・ホーガンがWWEから離脱すると同時にミスター・アメリカも姿をくらませている。そしてビンス・マクマホンが「ミスター・アメリカはハルク・ホーガンだったので解雇した」と番組で述べ、実際に素顔を見せている映像(テレビ放送終了後に来場したファンへのサービスとしてマスクを外していた。また、ギミックと関係なく実際にトラブルで解雇された)を流したことで、ミスター・アメリカが登場するストーリーは終了している。
家族
久々に来日した2003年10月12日に東京ドームホテルで記者会見が開かれ、その中で新日本とIWGPに対する熱い思いを語ったが、最近は新日本とWWEの関係が断絶されたことから、IWGPヘビー級王座への挑戦はおろか来日すらほとんどしなくなったが、2007年5月9日、娘のブルック・ホーガン(インディーズレーベルから歌手デビューしている)の日本デビューのプロモートのために久々に来日。フジテレビの「魁!音楽番付」で試合以外では久し振りに日本のテレビ番組に登場した。さらには2007年5月10日親子でGyaOのお昼の生放送番組に緊急生出演。5月11日には笑っていいとも!にも生出演した。
2005年から2007年にかけて、人気リアリティ番組『Hogan Knows Best』に出演しており、ハルク本人はもちろん、妻のリンダ、娘のブルック、そして長男ニックを含めたホーガン一家の素顔が垣間見られる。左手薬指に結婚指輪のタトゥーを彫り、愛妻家として知られるホーガンだったが、2008年、娘ブルックの友人であるクリスティアーヌ・プランテがホーガンとの長年の不倫関係を告白。妻リンダとは離婚し、ブルックとクリスティアーヌの友情も崩壊した。離婚裁判により、リンダ夫人にほとんどの財産を奪われることとなる。
得意技
- アックスボンバー(日本での必殺技)
- ホーガンの初期のパートナーであったスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを参考にして編み出した「腕をL字型に立てたまま相手の顔面に叩き込むエルボー」。古舘伊知郎は海神ネプチューンの武器である「三つ又の槍」に擬えた。WWEではつなぎ技としてのみ使用されており、実況・解説では単に「エルボー」とされてしまう場合がある。開発段階はホーガン・ハンマーと呼ばれており、そのまま継続して称するマスコミもあった。
- 日米レスリングサミットでスタン・ハンセンと対戦が決まった際のTVコメントでは「アックスボンバー一番、ウエスタン・ラリアット二番」とアピールしている。
- この技で猪木を、有名な「舌出し失神状態」に追い込み、日本人では他にも、長州、藤波、天龍、ムタ、蝶野らを沈めた。
- ランニング・レッグ・ドロップ(アメリカでの必殺技)
- 日本でいうところのギロチン・ドロップ。ビッグ・ブーツで仕留めた後、御馴染みのポーズをファンに披露してから、ロープのリバウンドを利用して走り、仰向けになった相手の喉にレッグドロップを決行する。「ハルクスター・レッグドロップ」とも。
- ビッグ・ブーツ
- 正対する相手の顔面を足の裏で蹴り、ダウンさせる技。大抵、ロープの反動を使って、自身・相手が走っている状態で使用する。ランニング・レッグ・ドロップへの繋ぎ技。
- ハルク・アップ
- ピンチに陥った際、ファンの声援を受けて全身を小刻みに震わせつつ自身の戦意を高揚させるムーブ。この状態はほぼ無敵ということになっており、相手にパンチで殴られるとさらに興奮し、一方の相手は殴っても効かないことから萎縮することになる。
- ハルク・アップコンビネーション
- これはアメリカにおけるホーガンのフィニッシュ・ムーヴである。
- 劣勢から、ハルクアップで敵の攻撃を耐えしのぐ
- 相手のパンチを受け止める
- すかさず「You!!」と腕を伸ばし相手を指差してから、一本指を左右に振り「効いてないぞ」とアピールする
- 再び殴りかかってくる相手のパンチを受け止め、カウンターで相手の頭に2、3発パンチを浴びせる
- 相手をロープに振ってからビッグ・ブートでリング中央で仰向きに倒す
- ファンの声援を浴びてランニング・レッグ・ドロップ
- カリフォルニア・クラッシュ
- いわゆるオクラホマ・スタンピード。アックスボンバーを開発する以前のフィニッシュ・ホールド。
- タイガースピン
- ヘッドロックから体を反転させてカニ挟みへ移行する技で序盤から中盤で使用。ホーガンが新日本の外国人エースだった頃と同時期にジュニアヘビー級で活躍していた初代タイガーマスクの技をアメリカへ持ち帰ったもので、ヘビー級のホーガンは回転速度がなだらかで回転数が少ないのが特徴。
獲得タイトル
- NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(北部版):1回
- NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(南部版):2回
- WWF世界ヘビー級王座 / WWF統一王座:6回
- WWE世界タッグ王座:1回(w / エッジ)
- ロイヤルランブル戦優勝:2回
- WWE殿堂:2005年
- WCW世界ヘビー級王座:5回
その他
- 20代前半から髪が薄く、当初バンダナは「ハゲ隠し」だったが、次第にそれがファッションとなっていった。
- 日本とアメリカでファイトスタイルを巧みに使い分けている。特に日本で試合をする際は意識的にグラウンドや密着技を多用し、腕ひしぎ逆十字固めなども使用し独特の入り方をみせる。これはホーガンが新日本の常連外国人だったころの名残であると思われる。この器用さが彼をトップスターにした要因の1つだと言われている。
- 行動を共にしていたレスラーのブルータス・ビーフケーキはホーガンの弟とされていたが実際は血縁関係はなく、少年時代からの幼馴染である(ルーキー時代に兄弟タッグとして活動していたため、この誤解が生じたと考えられる。また、ビーフケーキが「エド・レスリー」の名で新日本プロレスに初来日した際には、会場売りのパンフレットに掲載されたプロフィールにも「ハルク・ホーガンの弟」という記載があった)。
- 現役のプロレスラーの多くがホーガンのファンであるらしいが、レスリングの技術をセールスポイントにするプロレスラーの中には、ジレンマを感じる者も少なくないらしい。特に全盛期のライバル、ランディ・サベージとポール・オーンドーフのホーガン嫌いは有名である。
- 1986年、WWFで日本からの輸入の形で活躍していたマシーン軍団(ジャイアント・マシーン=アンドレ・ザ・ジャイアント、スーパー・マシーン=マスクド・スーパースター、ビッグ・マシーン=ブラックジャック・マリガン、パイパー・マシーン=ロディ・パイパー、クラッシャー・マシーン=クラッシャー・リソワスキー)に加入し、ハルク・マシーンとしてMSG定期戦に出場したことがある。なお、名前段階から正体はバレバレだが、入場の際、被ってきたマスクの上に「ハルカマニア」の赤いバンダナを巻いてきたり、ハルクアップを披露するなど、バカバカしさを追求しており、後のミスター・アメリカ・ギミックの際、「あの時と一緒」と見たマニアも存在した。
- 1990年末〜1992年にかけては日立のエアコン「ビッグフロー」「白くまくん」のCMに登場し、一週間の歌を歌ったり「ホソナガおじさん」として登場、雲龍型の土俵入りを真似たパフォーマンスを行ったり「ホーソーナガー!」と絶叫するなどした。ホソナガおじさんについては、CMソングも作られている。
- エレクトリックベースのテクニックもなかなかの物だという。
- アラン・ファンクがハルクの容姿・ファイトスタイルを真似たオマージュレスラーだが、ハルクと比べかなり小柄である。
- ステロイド剤の使用を認めている[19]。
- 2012年、プライベートでのセックスシーンがインターネット上に流出するというスキャンダルに見舞われる。性交相手の女性とその元夫でホーガンとも交友関係にあった男が共謀し盗撮、ゴシップサイトに売り渡し、ゴシップサイトが流出させたとされる。ホーガンは2人とゴシップサイトに対して1億ドル(約79億円)の損害賠償を求める訴訟を起こした。
ホーガンをモデルとした架空の人物・キャラクター
- 「キン肉マン」の登場人物ネプチューンマンのモデルの一人である。いずれもホーガンがモデルとなった読者投稿キャラ「イチバンマスク」と「ハルクマシーン」が合成され、ネプチューンマンとなった。
- 1980年代の『コミックボンボン』(講談社)にてホーガンをモデルにしたギャグ漫画、『やっぱ!アホーガンよ』(作・画:柴山みのる)が連載されていた。
- ひすゎし原作マンガ『CAN☆キャンえぶりでい』の主人公キャンの居候先の父でプロレスラーの伏魔春句(ハルク・トーサン)のモデルである。
- 『カンニンGOOD』にて彼をモデルにした悪徳教師の丸九砲丸先生が登場している。
- ADKの対戦型格闘ゲーム『ワールドヒーローズ』に登場するプロレスラー、マッスルパワー(クリス・ハンガー)は彼をモチーフにして作られた。
入場曲
- Real American / Rick Derringer(WWF/WWE)
- Voodoo Child (slight return) / Jimi Hendrix(WCW-NWO/WWE)
- エアギターをしながら入場する
- AMERICAN MADE / HULK HOGAN and The Wrestling Boot Band(WCW)
- Eye of The Tiger / Surviver(新日本プロレス)
- Ravishing / Bonnie Tyler(新日本プロレス)
- Theme From "Battlestar Galactica" / Maynard Ferguson(新日本プロレス)
歌
- 一番 (ミニ・アルバム(12インチLP))(1983年)
CharのバンドPINK CLOUDによる演奏と自身の歌とBass演奏(共演)
テレビドラマ
- 特攻野郎Aチーム 必殺! 最後の大血戦(1985年、アメリカ) - 本人役で出演。このエピソードの中ではミーン・ジーン・オーカランドがインタビュアーとして出演していたり、WWF(当時)のロゴが出てくるなど完全な本人役である。ただしベトナム戦争に参加した過去があるという設定はフィクションであると思われる。
映画
- ロッキー3(1982年、アメリカ) - サンダー・リップス役
- ゴールデンボンバー(1989年、アメリカ)
- グレムリン2 新・種・誕・生(1990年、アメリカ)
- マイホーム・コマンドー(1991年、アメリカ)
- Mr.ベビーシッター(1993年、アメリカ)
- スパイ・ハード(1996年、アメリカ)
- クロオビ・キッズ メガ・マウンテン奪回作戦(1998年、アメリカ)
- デストロイヤー(1998年、アメリカ)
- トレジャー・ミッション 破壊島(1998年、アメリカ)
- ゴンゾ宇宙に帰る(1999年、アメリカ)
ゲーム
- Saints Row: The Third(2011年) - エンジェル役
参考文献
脚注
外部リンク
- Official Website
- WWE Hall of Fame(日本語)
- TNA Profile
- Online World of Wrestling Profile
- ミスターアメリカとホーガンの5つの相違点
- プロレス最強王者列伝 第11回 ハルク・ホーガン
- ↑ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P13。
- ↑ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P28。
- ↑ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P30。
- ↑ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P38。
- ↑ 引用エラー: 無効な
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- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 10.0 10.1 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P51。
- ↑ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P54。
- ↑ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P57-59。
- ↑ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P66。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 15.0 15.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P99。
- ↑ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P88-89。
- ↑ このアングルは単なる虚構ではなく、実際に二人の間には多くの確執があった。WWFを一時期倒産寸前にまで追い込んだのは他ならぬホーガン率いるnWo人気であったし、ステロイド流通疑惑を巡る裁判の際ホーガンは法廷でビンスに対して不利な証言を行っている。
- ↑ 『USAスポーツ狂騒曲 アメリカは今日もステロイドを打つ』 序章 町山智浩 ISBN 9784087805161