ブルーノ・サンマルチノ

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テンプレート:Infobox プロレスラー ブルーノ・サンマルチノBruno Sammartino、本名:Bruno Laopardo Francesco Sammartino1935年10月6日 - )は、1960年代から1970年代を全盛期に、アメリカ合衆国で活躍したプロレスラーイタリアアブルッツォ州キエーティ県ピッツォフェッラート出身。

無類の怪力とタフネスを誇り、「人間発電所」の異名を持つ。長期に渡ってWWWF世界ヘビー級王者に君臨し、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンに出場し続けたことから「MSGの帝王」とも呼ばれた。

来歴

ジャイアント馬場との関係

  • ジャイアント馬場とはレスラーとしてのキャリアは1年しか違わず、若手時代からの友人であり出世を誓い合った最大のライバルの一人であった。その後両者ともに出世し、時期は違えど世界王座奪取を成し遂げて、お互いに世界王者の立場で対戦したことが何度かある。しかし、ダブルタイトルマッチは1975年5月(PWFとWWWF)の1回きりで、それ以外はお互いに相手の保持するタイトルに挑戦していた(もっぱらサンマルチノが馬場の持つ王座に挑戦する形であった)。
  • 馬場は自身の著書で、外国人で日本人と同様の友情関係が保てるのはサンマルチノだけと述べている。その証拠に馬場が全日本プロレスを旗揚げするときに、アメリカで真っ先に相談に行ったのはどの地区のプロモーターでもなくサンマルチノであった。また、WWWFが全日本プロレスと友好関係を打ち切り、1974年に新日本プロレスと提携した際も、サンマルチノは馬場との友情関係を理由に新日本への参戦を拒否し全日本プロレスに出場し続けた。これが最終的にWWWFとPWFのダブルタイトルマッチの実現に至った経緯ともなった。なお新日本との提携の際、サンマルチノとアントニオ猪木の試合が計画されていたが、参戦拒否を受けて実現しなかった。
  • サンマルチノが引退後に新団体IWFを旗揚げした際、馬場はIWFの若手レスラーを日本へ呼ぶなど積極的に協力している。しかし、馬場の協力はあったもののIWFはWWFとの興行戦争に破れ崩壊している。
  • キャデラックを愛車としていた。来日した際に、馬場が巨体を窮屈に押し込めて車に乗り込む姿を目撃したサンマルチノは、自分が当時乗っていた67年式キャデラックを馬場に船便でプレゼントした[25]。その心意気に感動した馬場は、生涯、車を買い換える際は常に同じ色・型のキャデラックを選び続けた。
  • 1999年5月2日に行われた全日本プロレス東京ドーム大会において組まれた「ジャイアント馬場引退試合」に、最後の対戦相手としてジン・キニスキーと共に指名されている。そしてリング上で「ババ、君に挨拶するために来た。君は体だけじゃなく、心もジャイアントだった。君はすべての人に愛され、大切にされた素晴らしい人物だった。今日この場にいられることを嬉しく思う」とスピーチした。

人物

  • スタン・ハンセンによると、ニューヨークでキャリアを築いていくにあたり、色々と親身に相談に乗ってくれたのがサンマルチノであり、それはハンセンがボディスラムのかけ損ないでサンマルチノに大怪我をさせてからも変わらなかったという。
  • 初来日時、一緒に来日していた怪力黒人レスラーのセーラー・アート・トーマスに対し「黒人とタッグを組むのは嫌だ」と差別的な発言を行い、怒ったトーマスの要求で2人のシングル戦が組まれたという(サンマルチノとトーマスは当時のWWWFで何度となくタッグを組んでおり、真偽は不明)。結果はサンマルチノの勝利(原康史『激録 馬場と猪木』による)。
  • 1970年代以降はカツラを着用しており、試合中に相手レスラーから頭部を掴まれることを極端に嫌っていた。その当時、既にトップレスラーとして不動の地位を確立していたサンマルチノに対しては、暗黙の了解として御法度の技が存在した(カツラが外れる怖れのあるヘッドロックなど)。もっとも、この頃全日本に登場したサンマルチノに対し、馬場は遠慮無く脳天チョップを放っているが、これによって2人の友情が壊れるようなことはなかった(当時はインターネットなどなく、日本でカツラが脱げたとしてもそれがニューヨークに報じられる可能性はまったくなかった)。
  • サンマルチノはニューヨークマットの第一人者として東海岸テリトリーだけでなく、NWA世界王者のルー・テーズAWA世界王者のバーン・ガニアと並ぶアメリカンプロレスの英雄としてもその名を高く知られた。
    その功績から、早い段階でWWE殿堂に迎えられて然るべき人物だったにもかかわらず、ビンス・マクマホンとの絶縁状態が続いていたため、WWE側からの再三に渡る要請にも一切応じようとせず殿堂入りは実現していなかった。しかし2013年、ビンスの娘婿トリプルHのオファーにより殿堂入りを承諾。

得意技

顔面のみならず、ボディへの攻撃も多用した。
サンマルチノの代名詞ともいえる技。
キャリアを通じてのサンマルチノの必殺技。
初めてWWWF王者になったときのフィニッシュ・ホールドである。全盛時にはジャイアント馬場をもギブアップさせたことがある。腰を負傷して以降はベアハッグをフィニッシュ・ホールドにし、カナディアン・バックブリーカーは使用しなくなる。

獲得タイトル

NWA
WWWF / WWE
その他

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:WWE王座

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  1. 1.0 1.1 1.2 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P6(2002年、日本スポーツ出版社
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite web
  4. 4.0 4.1 テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite web
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  11. テンプレート:Cite web
  12. テンプレート:Cite web
  13. テンプレート:Cite web
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  15. 15.0 15.1 テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite web
  17. テンプレート:Cite web
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  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web
  22. 22.0 22.1 テンプレート:Cite web
  23. テンプレート:Cite web
  24. テンプレート:Cite web
  25. 1990年9月放送の馬場デビュー30周年記念特番にて「窮屈そうに国産車に乗っていた俺の姿を見たサンマルチノがキャデラックをプレゼントしてくれたんだ」と馬場自ら語っている