ブルーノ・サンマルチノ
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テンプレート:Infobox プロレスラー ブルーノ・サンマルチノ(Bruno Sammartino、本名:Bruno Laopardo Francesco Sammartino、1935年10月6日 - )は、1960年代から1970年代を全盛期に、アメリカ合衆国で活躍したプロレスラー。イタリア・アブルッツォ州キエーティ県ピッツォフェッラート出身。
無類の怪力とタフネスを誇り、「人間発電所」の異名を持つ。長期に渡ってWWWF世界ヘビー級王者に君臨し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに出場し続けたことから「MSGの帝王」とも呼ばれた。
来歴
- 1935年10月6日 - イタリアの大工の家に生まれる[1]。
- 1951年 - 一家揃ってアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグに移住[1]。
- 1953年から1955年まで兵役に就く[1]。除隊後は建設労働者として働いていた[2]。
- 1959年 - 東部地区でプロレスラーとしてデビュー[2]。
- 1962年11月22日 - カナダ・トロントでジョニー・バレンタインを破り、NWA・USヘビー級王座を獲得[3]。
- 1963年5月17日 - ニューヨークのMSGでバディ・ロジャースを48秒で破り、第2代WWWF世界ヘビー級王者となる[4][5]。
- 1964年2月17日 - MSGでWWWF王座の防衛戦を行う。2度目の武者修行で全米をサーキット中であったジャイアント馬場(ババ・ザ・ジャイアント)の挑戦を受け、バックブリーカーで勝利を収めた[6][7]。
- 1967年3月 - 初来日し、日本プロレスに参戦。馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に連続挑戦する。結果は2回とも馬場の防衛。
- 1968年8月7日 - 日本プロレスに再来日し、馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に再度挑戦。結果は馬場の防衛。
- 1968年8月9日 - レイ・スティーブンスと組んでBI砲(馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に挑戦するが敗退。これがサンマルチノにとってはシングルとタッグを含めて唯一の猪木とのタイトル戦。
- 1971年1月18日 - イワン・コロフに敗れてWWWF王座から転落する[8]。在位期間は7年8ヶ月。
- 1971年6月18日 - ドミニク・デヌーチと組んでザ・モンゴルズ(ジート&ベポ)からWWWFインターナショナル・タッグ王座を奪取[9]。
- 1971年11月25日 - 馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に最後の挑戦。結果は馬場の防衛。
- 1972年1月14日、ロサンゼルスで毎年1月に行われていた新春恒例のアニュアル・バトルロイヤルにて優勝(参加選手はサンマルチノ以下、ミル・マスカラス、リッパー・コリンズ、ダッチ・サベージ、ジョン・トロス、ヘイスタック・カルホーン、ロッキー・ジョンソン、ドリー・ディクソン、キンジ渋谷、マサ斎藤など22選手)[10]。
- 1972年9月30日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで開催された "Showdown at Shea" にて、ペドロ・モラレスのWWWF王座に挑戦[11]。23時までに興行を終了しなければならないニューヨーク市の条例(カーフュー)により引き分け[12]。
- 1972年10月 - 全日本プロレスの旗揚げシリーズに参戦。世界選手権争覇戦(後に「PWFヘビー級王座争覇戦第一戦」となる)で馬場と対戦。
- 1973年10月 - 凱旋帰国した鶴田友美(ジャンボ鶴田)の国内デビュー戦でタッグパートナーを務める。
- 1973年7月21日 - インディアナポリスのWWAにてディック・ザ・ブルーザーと組み、アーニー・ラッド&バロン・フォン・ラシクからWWA世界タッグ王座を奪取(翌1974年1月5日、バリアント・ブラザーズに敗れるまで保持)[13]。
- 1973年12月10日 - スタン・ステイジャックを破り第6代WWWFヘビー級王者に返り咲く[4][14]。
- 1975年5月 - 自らのWWWF王座もかけて、馬場の持つPWFヘビー級王座に挑戦。
- 1976年4月26日 - スタン・ハンセンとのWWWF王座防衛戦で、ハンセンの放ったボディスラムで脳天からリング上に落下、ケイ椎を損傷する重傷を負う(試合はストップされず、その後もサンマルチノは戦い続けたものの、額から流血しているのをレフェリーが確認して試合を止めた)[15]。
- 1976年6月25日 - "Showdown at Shea" の第2回大会に出場、負傷した首が完治しないままスタン・ハンセンとのリマッチに臨み、場外カウントアウトで勝利[15][16]。同日はアントニオ猪木vsモハメド・アリの異種格闘技戦がクローズドサーキット方式で衛星生中継されたが、チケットの売れ行きが芳しくなかったためにビンス・マクマホン・シニアがサンマルチノに出場を依頼した。
- 1977年4月30日 - スーパースター・ビリー・グラハムに敗れてWWWF王座陥落[17]。
- 1978年5月5日 - プエルトリコのWWCにてゴリラ・モンスーンを破りWWC北米ヘビー級王座を獲得、同年7月22日にモンスーンに奪回されるまで保持[18]。
- 1980年8月9日 - "Showdown at Shea" の第3回大会にて、かつての愛弟子ラリー・ズビスコとスチール・ケージ・マッチで対戦[19][20]。
- 1981年10月 - 引退を表明、全日本プロレスの創立10周年記念興行に来日し、10月9日に馬場とのコンビでタイガー・ジェット・シン&上田馬之助と対戦。これが事実上の引退試合となる。
- 1984年9月 - TVショー "Superstars of Wrestling" のカラー・コメンテーターとしてWWFに復帰。
- 1985年5月20日 - リングに一時復帰。息子のデビッド・サンマルチノと組み、MSGでブルータス・ビーフケーキ&ジョニー・バリアントと対戦[21]。その後WWFではロディ・パイパーやホンキー・トンク・マンとの抗争も行われた。
- 1986年4月7日 - レッスルマニア2(シカゴ大会)でのバトルロイヤルに出場[22]。サンマルチノの選手としてのレッスルマニア出場は、この第2回大会のみである(前年の第1回大会にはブルータス・ビーフケーキと対戦したデビッド・サンマルチノのセコンドとして登場)[22]。
- 1988年3月 - WWFを離脱。WWFでの最後の試合は1987年8月29日、ハルク・ホーガンとタッグを組んでのキングコング・バンディ&ワンマン・ギャング戦[23]。
- 1989年10月28日 - WCWのPPV "Halloween Havoc" にて、サンダードーム・ケージ・マッチ(リック・フレアー&スティングvsテリー・ファンク&グレート・ムタ)のスペシャル・ゲスト・レフェリーを務めた[24]。
- 1999年5月2日 - 全日本プロレスの東京ドーム大会に来日。ジャイアント馬場「引退試合」に友人(兼対戦相手)として参列。
- 2001年 - 故郷に銅像が建立され、自らの名前がついた記念体育館が建設される。
- 2013年2月、WWE殿堂入りが発表。4月6日にマディソン・スクエア・ガーデンにて行われた顕彰セレモニーでは、アーノルド・シュワルツェネッガーがインダクターを務めた。
ジャイアント馬場との関係
- ジャイアント馬場とはレスラーとしてのキャリアは1年しか違わず、若手時代からの友人であり出世を誓い合った最大のライバルの一人であった。その後両者ともに出世し、時期は違えど世界王座奪取を成し遂げて、お互いに世界王者の立場で対戦したことが何度かある。しかし、ダブルタイトルマッチは1975年5月(PWFとWWWF)の1回きりで、それ以外はお互いに相手の保持するタイトルに挑戦していた(もっぱらサンマルチノが馬場の持つ王座に挑戦する形であった)。
- 馬場は自身の著書で、外国人で日本人と同様の友情関係が保てるのはサンマルチノだけと述べている。その証拠に馬場が全日本プロレスを旗揚げするときに、アメリカで真っ先に相談に行ったのはどの地区のプロモーターでもなくサンマルチノであった。また、WWWFが全日本プロレスと友好関係を打ち切り、1974年に新日本プロレスと提携した際も、サンマルチノは馬場との友情関係を理由に新日本への参戦を拒否し全日本プロレスに出場し続けた。これが最終的にWWWFとPWFのダブルタイトルマッチの実現に至った経緯ともなった。なお新日本との提携の際、サンマルチノとアントニオ猪木の試合が計画されていたが、参戦拒否を受けて実現しなかった。
- サンマルチノが引退後に新団体IWFを旗揚げした際、馬場はIWFの若手レスラーを日本へ呼ぶなど積極的に協力している。しかし、馬場の協力はあったもののIWFはWWFとの興行戦争に破れ崩壊している。
- キャデラックを愛車としていた。来日した際に、馬場が巨体を窮屈に押し込めて車に乗り込む姿を目撃したサンマルチノは、自分が当時乗っていた67年式キャデラックを馬場に船便でプレゼントした[25]。その心意気に感動した馬場は、生涯、車を買い換える際は常に同じ色・型のキャデラックを選び続けた。
- 1999年5月2日に行われた全日本プロレス東京ドーム大会において組まれた「ジャイアント馬場引退試合」に、最後の対戦相手としてジン・キニスキーと共に指名されている。そしてリング上で「ババ、君に挨拶するために来た。君は体だけじゃなく、心もジャイアントだった。君はすべての人に愛され、大切にされた素晴らしい人物だった。今日この場にいられることを嬉しく思う」とスピーチした。
人物
- スタン・ハンセンによると、ニューヨークでキャリアを築いていくにあたり、色々と親身に相談に乗ってくれたのがサンマルチノであり、それはハンセンがボディスラムのかけ損ないでサンマルチノに大怪我をさせてからも変わらなかったという。
- 初来日時、一緒に来日していた怪力黒人レスラーのセーラー・アート・トーマスに対し「黒人とタッグを組むのは嫌だ」と差別的な発言を行い、怒ったトーマスの要求で2人のシングル戦が組まれたという(サンマルチノとトーマスは当時のWWWFで何度となくタッグを組んでおり、真偽は不明)。結果はサンマルチノの勝利(原康史『激録 馬場と猪木』による)。
- 1970年代以降はカツラを着用しており、試合中に相手レスラーから頭部を掴まれることを極端に嫌っていた。その当時、既にトップレスラーとして不動の地位を確立していたサンマルチノに対しては、暗黙の了解として御法度の技が存在した(カツラが外れる怖れのあるヘッドロックなど)。もっとも、この頃全日本に登場したサンマルチノに対し、馬場は遠慮無く脳天チョップを放っているが、これによって2人の友情が壊れるようなことはなかった(当時はインターネットなどなく、日本でカツラが脱げたとしてもそれがニューヨークに報じられる可能性はまったくなかった)。
- サンマルチノはニューヨークマットの第一人者として東海岸テリトリーだけでなく、NWA世界王者のルー・テーズやAWA世界王者のバーン・ガニアと並ぶアメリカンプロレスの英雄としてもその名を高く知られた。
その功績から、早い段階でWWE殿堂に迎えられて然るべき人物だったにもかかわらず、ビンス・マクマホンとの絶縁状態が続いていたため、WWE側からの再三に渡る要請にも一切応じようとせず殿堂入りは実現していなかった。しかし2013年、ビンスの娘婿トリプルHのオファーにより殿堂入りを承諾。
得意技
- 顔面のみならず、ボディへの攻撃も多用した。
- マシンガンキック(ストンピング)
- サンマルチノの代名詞ともいえる技。
- キャリアを通じてのサンマルチノの必殺技。
- 初めてWWWF王者になったときのフィニッシュ・ホールドである。全盛時にはジャイアント馬場をもギブアップさせたことがある。腰を負傷して以降はベアハッグをフィニッシュ・ホールドにし、カナディアン・バックブリーカーは使用しなくなる。
獲得タイトル
- NWA USヘビー級王座(トロント版):1回
- NWAインターナショナル・タッグ王座(トロント版):1回(w / ホイッパー・ビリー・ワトソン)
- WWWF世界ヘビー級王座:2回
- WWWFインターナショナル・タッグ王座:2回(w / ドミニク・デヌーチ、トニー・マリノ)
- WWWF USタッグ王座:1回(w / スパイロス・アリオン)
- WWE殿堂:2013年度
- その他
- GPWタッグ王座:1回(w / エドワード・カーペンティア)
- WWA世界タッグ王座:1回(w / ディック・ザ・ブルーザー)
- WWC北米ヘビー級王座:1回
脚注
関連項目
- デビッド・サンマルチノ - 長男
- ラリー・ズビスコ - 弟子
- ビンス・マクマホン・シニア
- ビンス・マクマホン
外部リンク
テンプレート:WWE殿堂- ↑ 1.0 1.1 1.2 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P6(2002年、日本スポーツ出版社)
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
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- ↑ 4.0 4.1 テンプレート:Cite web
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- ↑ 15.0 15.1 テンプレート:Cite web
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- ↑ 22.0 22.1 テンプレート:Cite web
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- ↑ 1990年9月放送の馬場デビュー30周年記念特番にて「窮屈そうに国産車に乗っていた俺の姿を見たサンマルチノがキャデラックをプレゼントしてくれたんだ」と馬場自ら語っている