吉江豊

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吉江 豊(よしえ ゆたか、男性、1974年1月5日 - )は、日本プロレスラー群馬県前橋市出身。

体重160kgを誇り、その体型を生かした技も使用する。

実兄はフリー(かつてはWAHAHA本舗に所属)・ラジークイーンよしえつねお(貧乏生活で『銭金』に「ビンボーさん」として出演)。

来歴

前橋市立第三中学校および樹徳高等学校時代は柔道をしており、プロレスラーを目指すために、アニマル浜口ジムに通いトレーニングを積む。

1994年2月に新日本プロレスに入門、同年12月9日に小島聡戦でデビューする。しかしまもなく大怪我を負ってしまい、1年近くリングから遠ざかるという苦労を味わう。さらに他の第3世代よりも入門が遅くライバルに恵まれなかったことから伸び悩む時期が続いた。

1998年長州力の引退試合(その後現役復帰し現在に至る)は長州が5人を相手にする(5試合のシングルマッチを続けざまに行う)スタイルで行われ、その2番手として登場した。

2000年永田裕志中西学福田雅一らと「G-EGGS」を結成する。

2002年4月にワイルドII森嶋猛力皇猛(共にプロレスリング・ノア所属))の持つGHCタッグ王座に挑戦するも、敗れた。しかし、翌月のノアの大会で森嶋相手にシングル戦で勝利する。

棚橋弘至タッグチームを組んで、2003年6月13日にIWGPタッグ王座を獲得。

2005年1月に棚橋弘至と組み、新日代表として全日本プロレス世界タッグ王座王者決定戦に出場するも太陽ケアジャマール組に敗れた。しかし、吉江はジャマールの魅力にとりつかれ、機会があればシングルで戦ってみたいと試合後に話すも、その後、ジャマールはWWEへ復帰し、2009年12月4日に死去したため対戦は叶わなかった。2006年1月4日にジャイアント・バーナードが新日本へ参戦したり、とタッグを結成するなどの展開も見られた。

2006年1月19日に吉江は新日本プロレスを退団し[1]、同時に美奈夫人も勤めていた会社を辞め吉江のマネージャーとして活動を開始。フリーになって早々にZERO1-MAXの中村社長からおコメ(業界用語でお金のこと)ではなく米一俵と沖縄和牛の物品オファーを受けるが友人であるとの設定のマスクマンY2P-160kgを送り、吉江として最初に出場するのは全日本プロレスとなった。その後、ZERO1-MAXではY2Pと5月19日から不定期で吉江、全日本、DRAGON GATEでは吉江として参戦した。ビッグマウス・ラウドではザ・グレート・カブキの新たなる家族というギミックとして「ザ・グレート・ユタ」という第二の化身も登場した。

2006年8月2日に「無我ワールド・プロレスリング」のプレ旗揚げ戦に参戦、当初は継続参戦への態度は保留していたが、8月28日に同団体への入団を表明した。ただし、オファーがあれば日程がバッティングしない範囲で他団体への参戦もあると明言していた(2007年ZERO1-MAX・火祭りなど)。

2006年12月3日には、初となる吉江プロデュースの興行「吉江豊ふるさと祭り」を群馬県前橋市で開催した。ふるさと祭り興行は、2007年2008年にも開催された。2008年以降は、ふるさと祭り以外にも「吉江豊イッパチプロレス」等と銘打った小規模な興業もプロデュースを行っている。

2007年12月13日には無我ワールド最終興行にて「DRAGON CUPトーナメント」優勝を果たし、新団体「ドラディション」ではエースとして活躍した。また、平行して古巣・新日本での中西学との規格外タッグや、ハッスルでの「ボノちゃん部屋のおかみさん・よしえちゃん」としての活動も行っていた。

2008年5月5日に行われたPREMIUMに出場し、久しぶりに新日本プロレス所属の中西とシングルマッチを行った。

2009年7月23日付でドラディションを退団し、再びフリーランスとなった。以降はプロレスリング・ノア、全日本などを中心に参戦するが、2012年4月22日の全日本上尾大会の試合にて左足首骨折および靭帯損傷の怪我を負った。2013年1月20日の全日本前橋大会にて復帰した。

ファイトスタイル

160kgという巨体を活かしたスプラッシュ、プレスなどの圧殺系パワー攻撃を中心に試合を組み立てる、いわゆる「動けるアンコ型」のレスラーである。現在WRESTLE-1所属の浜亮太は、全日本プロレスへの入団当時に目標として吉江の名を挙げていた。

自分の体重に誇りを持ち、「デブは誉め言葉」「痩せたと言われたらショック」とまで言い切っている。新日本時代は、なかなか上昇のチャンスを掴めなかったせいか、自虐的コメントで注目を浴びたが、現在はもっぱらポジティブな発言が目立つ。全日本参戦時は、同じアンコ型レスラーでありながら精神的な弱さを見せるブルート一生(2007年に引退)のよき兄貴分となり、タッグを組んで「デブの戦い方」を伝授していた。

リング外での言動や体型、ピンクのコスチュームなどからコミカル系レスラーと誤解されそうだが、プロレスそのものに対する態度や、リング上でのファイトはかなり真摯なものである。川田利明との蹴りと肉弾の迫力ある試合を見せたことや、大麻取締法違反発覚により廃業状態になっていたが無我ワールドで復帰しようとした際に強く異を唱えたことはその表れと言える。

得意技

ボディ・プレス
近年の吉江のフィニッシュ・ホールド。その場で跳躍するものから、ダイビング式も使用。特にダイビング・ボディ・プレスはフィニッシュとして多く用いられ、Y2P時には煌彩(ハムサンド)と名称が変わる。
ボディ・スプラッシュ
コーナーに串刺し状態になっている相手に突進して体当たりする技。タッグマッチなどでは数人をまとめてこの技を仕掛ける場面も見受けられる。
ランニング・ヒップ・ブレス
コーナーで尻餅を付いている相手に対し、対角線上に走り自分の尻で相手を押しつぶすように圧殺する技。
フライング・ボディシザース・ドロップ
裏拳と共に、吉江が試合を組み立てる上で重要な役目を担う技である。
雷電ドロップ
仰向けで倒れている相手へのジャンプしてのヒップドロップ。元祖はサンダー杉山
スチームローラー
仰向けで倒れている相手へのでんぐり返し。ジャンプしないサンセット・フリップ
裏拳
吉江の裏拳はどちらかと言うと前腕部をぶち当てる。走りこんでの裏拳、回転しての裏拳も使用。
※汗っかき体質のため、夏場は「濡れダイビング・ボディ・プレス」「濡れ裏拳」などにパワーアップ?し、相手に精神的にもダメージを与える。
カナディアンハンマー
海外遠征から帰国後使用し始めた技。カナディアン・バックブリーカーの体勢から走りながら、前にフェイスバスターの形で落とす技。すぐに封印されたが新日退団後に封印を解いた。
スリーパースープレックス
ハーフネルソンスープレックス
海外遠征から帰国後使用し始めた技。スリーパースープレックスは危険なためかすぐに封印され、ハーフネルソンスープレックスを使うようになったが、こちらもすぐに使わなくなった。
裏足4の字固め
凱旋帰国後にフィニッシュとして使用していた、現在は使っていない(体重増加で足関節を取り辛くなったため)。
左ミドルキック
2005年のG1の際に「封印」を解いたミドルキック。

入場曲

  • Wild night(現在使用中)

その他

  • G-EGGS加入当時は渦巻状の奇抜なヘアースタイルで話題を呼んだ。それ以外にも奇抜な髪形をしており、「何か無いですかね」と田中リングアナに相談したこともある。
  • 新日本プロレスの新人時代は、自他共に認める宴会部長であった(辻よしなりが実況で暴露し、G-EGGS同志の永田裕志に「試合と関係ねえことをベラベラ喋るんじゃねえ!」と罵倒され、中西学にはアイアンクロー攻撃を受ける。その吊るし上げを食らったシーンは中継された)。
  • ちょっとクセのある言動とそのルックスやピンク色のレスリングタイツ姿から新日本の癒し系とも称された。
  • そのピンクのコスチュームと女性の名前のような苗字からハッスルボノちゃんが女性と思い込んでいたメル友よしえちゃんとして登場した。
  • 技をかける際の掛け声は独特の、「オッケーイ」に近いものである。
  • 愛称は「よっしぃ」。ただし、週刊プロレス以外で使われることは少ない。
  • 体重のためか走るのが遅い。金澤克彦曰く、「彼のジョギング姿はせいぜい速歩き程度の速度」とのこと。
  • 2003年8月に結婚。夫人も酒豪であるなどクセのある人物のようで、プロレス雑誌やブログなどで個性を発揮している。妻として、またマネージャーとして、(たまにツッコミを入れたり入れられたりしつつも)吉江が非常に頼れる人物といえる。
  • 2007年6月25日の仰天!噂のくいしん坊家族(テレビ東京)に美奈夫人と共に出演。吉江本人の大食漢なのは勿論だが、結婚後15キロも太ったという美奈夫人もかなりの健啖家。1回の食事に2リットルのミネラルウォーターを何本も摂取しながら3時間ぐらいは毎日かけて食事を摂るらしい。サミットストアでレジ袋4袋の買物をし、レポーターの山崎まさやが「それ一週間分の買物?」と聞くと「いや2日分」と平然と言い、1月の食事代は20万円という。それでも多く食べる中でも自炊の中ではダイエットを考えているようで、炊飯の時に粉寒天を入れたり肉をあらかじめ湯通しし油分を落としたり、キャベツを多く摂るように(1週間で14個)心掛けてはいる様である。

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 契約更改に関するお知らせ 新日本プロレス公式サイト 2006年1月31日