高田延彦

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テンプレート:Ambox-mini テンプレート:MMA statsbox3 テンプレート:Infobox プロレスラー 髙田 延彦(たかだ のぶひこ、男性、1962年4月12日 - )は、日本の元プロレスラー総合格闘家。現在はタレント俳優実業家として活躍をしている。本名・旧リングネーム:髙田 伸彦(読みは同じ)。神奈川県横浜市戸塚区(現在では泉区となった地域)出身。血液型はA型。

格闘技ジム高田道場主宰者であり、格闘技イベントPRIDE統括本部長を務めていた。芸能マネジメントはレプロエンタテインメントが受け持っている。妻はタレント向井亜紀

来歴

新日本プロレス

少年時代は長嶋茂雄に憧れる野球少年で、少年野球ではオール橫浜に選出されるが、長嶋の引退と共に野球熱が冷める[1]アントニオ猪木に憧れて、中学生になった頃にはプロレス入りを決意[2]中学校卒業後、アルバイトをしながら独自の方法で体を鍛え[3]1980年新日本プロレスへ入団した[4]。道場では藤原喜明前田日明が兄貴分的な存在となり、スパーリングで鍛えられた[5]。太りにくい体質で、新弟子時代は毎月のように体重のノルマを課せられて、それをクリアできなければ解雇される状態だった[6]

1981年5月9日に保永昇男戦でデビュー[7]。この頃の得意技は跳躍力を活かしたミサイルキック(トップロープからのドロップキック)。

1982年からはアントニオ猪木の付き人を務める[8]1983年に猪木がカナダ遠征をした際に付き人として同行しており、欠場した初代タイガーマスクの代わりにたまたま試合に出場したところ、ジャパニーズレッグロールクラッチで勝ちを収め、高田のテレビ中継デビュー試合でもあり、ポスト・タイガーマスクとして一躍注目を集める存在となった[9]。それまでは前座で勝てなかった先輩達(新倉史祐小杉俊二)から勝利を収め、代打の形でTVマッチにも抜擢されるようになり、「青春のエスペランサ」の異名がつけられた。当時の入場テーマ曲は「疾風のライダー」という曲でUWF移籍前の新日時代にかかっていた。また、ジュニア戦線での闘いを意識してローリングソバットを多用していた。

旧UWF - 新日本プロレス - 新UWF

1984年に師匠藤原喜明の誘いで[10]、新日本プロレスを離脱し、オープニングシリーズでは選手貸出しの形で参戦していたUWF(旧UWF、第1次UWF、ユニバーサル)に移籍して前田日明と合流。後楽園ホールで、同時期にUWFに移籍した山崎一夫らと名勝負を繰り広げたものの、予定されていたアントニオ猪木の不参加などの要因で地方では不入りだったこと等から同団体は崩壊、その後UWF所属レスラーは新日へ合流した。新日に参戦した期間には、越中詩郎を好敵手として「新・名勝負数え唄」と呼ばれる好試合を繰り広げ、IWGPジュニアヘビー級王座のベルトを争った[11]。また、当時『ワールドプロレスリング』の実況を担当していた古舘伊知郎から「わがままな膝小僧」の異名を付けられた(キックを多用するファイトスタイルから。「戦うジェームス・ディーン」とも)。女性ファンからの人気も高くバレンタインデーにはチョコレートが段ボール箱が2、3箱届いていた[12]

1988年、前田日明、山崎一夫らとともに第2次UWFを立ち上げる。第2次UWFでは前田に次ぐナンバー2の序列で[13]、前田、山崎とともに「前高山」と言われた[14]。第2次UWFは一世を風靡したものの、人間関係の不和から、1991年に前田のリングス藤原喜明藤原組、高田のUWFインターナショナルの三団体に分裂した。

UWFインターナショナル

UWFインターナショナルで社長に就任[15]。「最強」を肩書きにした高田[16]は団体の絶対的エースとして[17]ゲーリー・オブライト北尾光司スーパー・ベイダーサルマン・ハシミコフら強豪選手との対戦などで人気を博し、1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に選ばれる。1994年4月からはフジテレビのスポーツニュース番組「スポーツWAVE」のキャスターを務めるまでになる[18][19](試合があった日も生放送に出演していた)。1994年1月にタレントの向井亜紀と挙式した[20]

高田以外に知名度のある選手がおらず、スポンサーやテレビもついていないUWFインターの経営は1994年頃よりいよいよ苦しくなり、社長業が高田を精神的に苦しめるようになる[21]1995年6月に「近い将来、引退します」とマイクで宣言し[22]、さらに同年7月の参議院選挙にはさわやか新党から比例名簿順位2位で出馬するも落選[23]。8月には田村潔司から「僕と真剣勝負してください」と挑戦を受けるが拒否した[24]。数々のトラブルと選手離脱により倒産が現実味を帯びたUWFインターは新日本プロレスとの対抗戦に踏み切り、1995年10月9日「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」における大将戦・武藤敬司IWGPヘビー級王者)戦に敗北したことで、最強を標榜してきた高田とUWFインターは決定的なイメージダウンを受ける[25]1996年1月4日、東京ドームで武藤を破ってリベンジに成功。第18代IWGPヘビー級王者となり、IWGPすべての王座を獲得した。3月1日には、UWFインターナショナルのリングで防衛戦が行われ、越中詩郎を破って初防衛に成功したが、4月29日、橋本真也に敗れ王座陥落となった。その後、WARに参戦して交流試合を行い、天龍源一郎と2度のシングルマッチを行い天龍との試合はプロレス大賞の年間最高試合に選ばれる。しかし、UWFインターの運営は混迷し、山崎に続いて、6月には田村潔司中野龍雄が退団[26]。10月にはインディー団体「東京プロレス」に参戦し、従来の路線からすればありえないマッチメイクであったブッチャーとのシングルマッチを行ってまでなんとか団体の存続を図ったが[27][28]、1996年12月にUWFインターナショナルは解散した。

キングダムのサポート

多くの選手は新たに設立された団体「キングダム」に引き継がれたが、既にヒクソン・グレイシー戦を見据えていた高田は意見の相違のため所属はせず、公開スパーリングと解説者としてかつての仲間をサポートするにとどまった。UWFインターナショナルで興行に経営者として携わることに懲りており[29]、自らは興行会社としてのプロレス団体ではなく所属選手を持つ格闘技の道場として「高田道場」を設立した。

総合格闘家時代

キングダムの初期、高田道場の選手や海外のバーリ・トゥード系選手を招聘しての総合格闘技興行「PRIDE」の開始に深く関わる。

UWFインター時代の同門の安生洋二ヒクソン・グレイシー道場破りを仕掛けるも返り討ちにあった因縁の結果、(詳細はお互いのリンク先を参照)PRIDE創生期に選手として活動、ヒクソン・グレイシーと2度対戦(PRIDE.1PRIDE.4)するが敗退。特に初戦において、エースクラスの日本人レスラーの総合格闘技での敗北はこれが最初でありプロレスファンの深い失望を招くとともに、A級戦犯としてプロレスマスコミからバッシングを受け、さらにアントニオ猪木からは「よりによって一番弱い奴が出て行った」と酷評される[30][31]

2度目のヒクソン敗北直後にヒクソンとの3度目の対戦を望んだ。その後もマーク・ケアーPRIDE.6)、ホイス・グレイシーPRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦)、イゴール・ボブチャンチンPRIDE.11)、ミルコ・クロコップPRIDE.17)、マイク・ベルナルドINOKI BOM-BA-YE 2001)などと次々と戦うが、消極的な戦い方で敗退した。イゴール・ボブチャンチン戦からはメインイベンターの座からも降りた。一方、マーク・コールマンPRIDE.5)には勝利したが、コールマンは後にこの試合がブックであったことを事実上認める発言をしている[32]

2002年11月24日、PRIDE.23の田村潔司相手に引退試合を行い、2Rに右フックで失神KO負け。試合後のマイクで田村に「お前、男だ!」と発言、このフレーズが後の大会で頻繁に使用されることになる[33]

総合格闘技引退後

PRIDE統括本部長に就任し、同時にPRIDE中継の解説も行っていた。大晦日の特別興行「PRIDE男祭り」のオープニングでは、開会宣言で「おまえら男だ!」と叫ぶ選手呼び込みで話題となった。2003年開催時にはさいたまスーパーアリーナの地上60メートルの屋上に立ち、2004年開催時にはふんどし一丁で暴れ大太鼓を叩いて、「男の中の男たち、出てこいやーっ!」と選手を呼び込んだ。(後にこのフレーズは高田を形容するキャッチフレーズとなる。単に「出てこいやー」とも。)そして、2005年開催時にはタップダンスを披露した後、2006年開催時にはピアノ独奏を披露した後に、ふんどし一丁で暴れ大太鼓を叩いた。

一方で、DSE(後にハッスル・エンターテイメント)が主催するプロレスイベント「ハッスル」においては、ハッスル1と『ハッスルGP2008』に電撃参戦する小路晃の記者会見に登場した。なお、悪役レスラー軍団「高田モンスター軍」の「高田総統」とは、高田の古くからの友人という設定になっている。PRIDEに関わっていない現在においても、高田道場が主催する「ダイヤモンドキッス・カレッジ」に小路晃や\(^o^)/チエ野口大輔レフェリーらが参加するなど、ハッスルとは良好な関係にある。

ディズニーアニメーション映画「Mr.インクレディブル」で声優に挑戦。日本テレビのテレビドラマ「戦国自衛隊 関ヶ原の戦い・第二部 愛する者のために」や、ドリームステージピクチャーズ製作の映画「シムソンズ」、NHK大河ドラマ「功名が辻」「風林火山」、連続テレビ小説・「」に出演した。

獲得タイトル

得意技

腕ひしぎ十字固め
高田の代表的なフィニッシュ・ホールド
ハイキック
水車落とし
脇固め
バックドロップ
ヒールホールド
ミサイルキック
若手時代及び新日本プロレスとの対抗戦時代に使用していた。形としては側面跳び式で、飛距離・フォーム・命中度ともに綺麗な形で決めていた。

入場テーマ曲

経歴

  • 1980年3月、新日本プロレスに入門。翌年デビュー。
  • 1984年、第1次UWFに参加。
  • 1986年、新日本プロレスに復帰。
  • 1988年、第2次UWFに参加。
  • 1991年、UWFインターナショナル旗揚げ。
  • 1994年、元新体操選手で女優・タレントの向井亜紀と結婚。同年4月から翌年3月までフジテレビで「スポーツWAVE」のキャスターを務める。
  • 1995年、6月に「近い将来引退します」と発言。7月にさわやか新党代表として第17回参院選比例代表区から出馬するも落選。
  • 1996年1月4日、前年10月9日にタイトルマッチで敗れた武藤敬司に勝利して第18代IWGPヘビー級王者となる(防衛1回)。
  • 1996年9月11日、神宮球場で天龍源一郎とのシングルマッチに勝利。この試合は年間最高試合賞となった。
  • 1997年10月11日、PRIDE.1でヒクソン・グレイシーとの試合に臨むも、敗戦を喫した。
  • 1998年10月11日、PRIDE.4にて再びヒクソン・グレイシーと対戦するも、腕ひしぎ十字固めを極められ敗戦を喫した。
  • 2002年3月、向井亜紀原作『16週 〜あなたといた幸せな時間〜』がフジテレビでドラマ化される。
  • 2002年11月24日、PRIDE.23での田村潔司との試合で引退。その後、高田道場社長を務める。

戦績

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人物

出演

映画

ドラマ

その他

CM

オリジナルビデオ

  • むこうぶち 高レート裏麻雀列伝(2007年6月25日、オールインエンタテインメント) - 安永萬 役
    • むこうぶち2 高レート裏麻雀列伝 鬼の棲む荒野(2007年7月25日、オールインエンタテインメント)
    • むこうぶち3 高レート裏麻雀列伝 裏プロ(2008年4月25日、オールインエンタテインメント)
    • むこうぶち4 高レート裏麻雀列伝 雀荘殺し(2008年6月25日、オールインエンタテインメント)
    • むこうぶち5 高レート裏麻雀列伝 氷の男(2008年12月25日、オールインエンタテインメント)
    • むこうぶち6 高レート裏麻雀列伝 女衒打ち(2009年6月25日、オールインエンタテインメント)
    • むこうぶち7 高レート裏麻雀列伝 筋殺し(2010年3月19日、オールインエンタテインメント)
    • むこうぶち8 高レート裏麻雀列伝 邪眼(2010年12月17日、オールインエンタテインメント)

関連書籍

  • 高田延彦「我、あるが儘に」(ISBN 4062130602)
  • 高田延彦「最強の名のもとに」(ISBN 4195551900)
  • 金子達仁「泣き虫」(ISBN 4344004159)
  • 「高田延彦のカタチ - 高田延彦22年間とは?」(ISBN 4809402959)
  • 鈴木健「最強のプロレス団体UWFインターの真実 夢と1億円」(ISBN 4757712324)
  • 宮戸優光「U.W.F.最強の真実」(ISBN 4757715285)
  • 宮澤正明「ALL FOR WIN」
  • 宮澤正明「WORKS」(ISBN 4894616688)
  • ターザン山本「永久戦犯「泣き虫」に捧げる」(新紀元社、2004年12月19日)ISBN 4-7753-0238-8 - 高田延彦の半生を描いたノンフィクション。

出典

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関連項目

外部リンク

テンプレート:IWGPヘビー級王座 テンプレート:IWGPジュニアヘビー級王座 テンプレート:プロレス大賞MVP歴代受賞者

テンプレート:レプロエンタテインメント
  1. 金子達仁『泣き虫』幻冬舎、2003年、p.35
  2. 『泣き虫』p.39-40
  3. 『泣き虫』p.49
  4. 『泣き虫』p.57
  5. 『泣き虫』p.75
  6. 『泣き虫』p.78
  7. 『泣き虫』p.86
  8. 『泣き虫』p.93
  9. 『泣き虫』p.101
  10. 『泣き虫』p.105
  11. 『別冊宝島179 プロレス名勝負読本 あの日、リングに奇跡が起きた!』宝島社、1993年、p.210-211
  12. 『「高田延彦」のカタチ』東那出版編、東那出版、2002年、p.78。山崎一夫インタビュー。
  13. 板橋雅弘『夢のいる場所 新U.W.F.伝説 高田延彦 エースへの物語』集英社、1990年、p.13
  14. 田村潔司『孤高の選択』東邦出版、2006年、p.104
  15. 『泣き虫』p.168
  16. 宮戸優光『U.W.F.最強の真実』エンターブレイン、2003年、p.145
  17. 『U.W.F.最強の真実』p.112
  18. 『泣き虫』p.202
  19. 鈴木健『最強のプロレス団体 UWFインターの真実 〜夢と1億円〜』エンターブレイン、2002年、p.240
  20. 『泣き虫』p.197
  21. 『泣き虫』p.183, 195, 214
  22. 『泣き虫』p.218
  23. 『泣き虫』p.216-227
  24. 『泣き虫』p.228-229
  25. 『泣き虫』p.230-237
  26. 『泣き虫』p.238
  27. 『クロスゲーム 風雲プロレス=格闘技読本』大谷泰顕監修、メディアワークス、1999年、p.110。高田延彦、天龍源一郎対談
  28. 『UWFインターの真実』p.182-183
  29. 『泣き虫』p246, 249, 278
  30. 金澤克彦『子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争』宝島社、2009年、p.268
  31. 西本贋司『裏プライド読本―超人気格闘技-もう一つの楽しみ方』(同朋舎)には「当初ヒクソン・グレイシーと高田延彦は3回戦い、1回目は高田が負け、2回目は引き分けになり、3回目は高田が勝つ予定であった。こうすることで高田が当時抱えていた莫大な借金を返済することができるという目論見であった。実際に1回目は台本通りであったが、2度目の対戦ではヒクソンが八百長を断り真剣勝負を行った」という趣旨の記述があった。
  32. テンプレート:Citeweb
  33. 『U.W.F.変態新書』『kamipro』編集部編、エンターブレイン、2008年、p.247
  34. 『UWF>>>PRIDE 1984→2003』ベースボール・マガジン社、2003年、p.30.高田インタビュー。
  35. 板橋雅弘『夢のいる場所 新U.W.F.伝説 高田延彦 エースへの物語』集英社、1990年、p.234.