藤原喜明

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藤原 喜明(ふじわら よしあき、男性、1949年4月27日 - )は、日本プロレスラー。学校法人日本医科学総合学院理事長。同学校法人は文部科学省認可の専修学校朋友柔道整復専門学校を運営している。

プロレスラー以外に俳優声優タレントイラストレーター陶芸家エッセイストとして活躍している。関節技の鬼という異名をとり「藤原組長」の愛称で親しまれている。

来歴

岩手県立黒沢尻工業高等学校卒業後、サラリーマンや板前を経て、1972年に23歳で新日本プロレスに入門。デビュー戦は10日後の同年11月12日、和歌山県白浜町坂田会館の藤波辰巳戦。新人時代からカール・ゴッチに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。テクニックは優れていたが、華がなく、前座試合を続ける。しかしアントニオ猪木のスパーリング・パートナーに抜擢され、海外遠征にも帯同した。1975年、第二回カール・ゴッチ杯木村たかし(現・健悟)を破り優勝。道場での若手選手のコーチ役を担い、関節技に磨きをかける。

それまでは猪木の用心棒というだけで単なる前座の一レスラーに過ぎなかったが、1984年2月3日の札幌大会で、長州力を試合直前の花道で襲撃し“テロリスト”として一躍脚光を浴びる。その日以来長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(実際その頃からワールドプロレスリングテレビ朝日)では、関節技を主体とした独特のファイトスタイルや、独特の人相も相俟って毎回中継に登場するレスラーとなり一躍知名度が上がった)。その後は愛弟子の移籍に伴い、同年6月に第1次UWFに参加。ここで漸く持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが、2度に及ぶレスラーの大量離脱(1993年パンクラス1995年格闘探偵団バトラーツが分裂)を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。

1993年1994年と2年連続で古巣・新日本の真夏の祭典「G1 CLIMAX」に出場。1995年には「イノキファイナルカウントダウン」第4弾で師・猪木とシングル対決した。1996年ドン荒川とともに全日本プロレスに初参戦、6人タッグながらジャイアント馬場との対戦が実現。1997年にはWARに出場し、天龍源一郎アブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチが行われた。その後もメジャー、インディー問わず、数多くの団体に参戦している。

その技術を見込まれ、男女問わず(特に神取忍は弟子といっても良い関係で各種の関節技および一本足頭突きを伝授されている)指導を請う後輩レスラーも多い。ZERO-ONE(現ZERO1)時代はフリーとしての参戦ながら橋本真也のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献する(ただし、指導はしても弟子は取らないと発言していて、弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている)。

2007年噴門部(入り口)に近いほうに4センチ大の胃がんが見つかった。本当は全部摘出したほうがよかったが痩せてしまうため胃の2分の1を切除した。手術は3時間で終了したが、痛み止めの存在を知らず地獄の痛みに苦しむ。その後の病理検査リンパ節転移が見つかったことを知らされ、病期は3a期と確定した。3期の5年生存率は41.8パーセントであった。術後18日目に、抗がん剤治療が始まった。TS-1(一般名テガフール・ギメラシル・オテラシルカリウム)の単剤で4週間服用、2週間休薬を1クールとし、それを6クール行うというものだった。TS-1は胃がんの場合、奏効率は46パーセントと高く、副作用も抗がん剤の中では比較的強くないとされるが、87パーセントの患者に何らかの副作用が出るとのことだが、TS-1を予定通り、6クール続けたあと、薬が同じ5-FU系の経口抗がん剤UFT(一般名テガフール・ウラシル)の少量投与に変わり、副作用もほとんど無くなり、筋力トレーニングができるようになった。手術の後遺症としては、ダンピング(食物が胃にとどまらずに、急速に腸まで落ちてしまうこと。胃の中で撹拌され、少しずつ腸に送り出されていた食物が、胃切除後は、未消化のままいちどに腸に流れ込むため、血糖値の変動や各種ホルモン分泌などによって、不快な諸症状が起こる)が出たがプロレスの試合に出られるまで回復した[1]。現在も不定期ながらリアルジャパンプロレスドラディション全日本プロレスなどのリングに上がっている。IGFにも参加し猪木に協力している。

リング外での活動

芸能活動も行っており、出演したテレビ番組、映画Vシネマは多数。その風貌から暴力団関連の役が多い。また、イラスト執筆、盆栽浪曲鑑賞、陶芸などの多趣味でも知られる。Vシネマにおいては「SAEKO」という作品で、当時まだデビュー間もない無名時代の常盤貴子主演の作品で共演しており、常盤演じるSAEKOの用心棒役で、その役名も藤原で常盤に「ふじわらーっ」と呼ばれていた。

オールスター感謝祭」(TBSで毎年春・秋の特番)に於いてはよくスポーツ物のアトラクションがあり、相撲もよく催されるが、藤原とチャック・ウィルソンの一騎打ちというのが恒例となっていた。テリー伊藤企画のテレビ番組で、と戦ったこともある(爪をカットした熊である)。熊は力が強すぎて、観あうだけで何も出来ず終わってしまった。ただ、後にこの対戦に関して格闘技に関する本に「何もしないのが最大の防御(下手に踏ん張るとダメージが大きくなる)だった」と記述されている。

藤原自身は「好きなことだけをやって生活してこられたのは、本当に幸せなことだと思っている」とし、「漠然としたイメージではあるけれど、アーティストと呼ばれるのが一番うれしいかもしれない。どれが本業でどれが副業ということはなく、全て私の職業である」と述べている[2]

エピソード

  • 23歳での新日本プロレス入門であったため、16歳で入門した小林邦昭よりも1週間ほど後輩である。
  • 前座時代は「イラストが得意」「無口」で有名だった。なお、イラストについては、“テロリスト”として脚光を浴びる前から、東京スポーツ刊行の隔週タブロイド誌「ザ・プロレス」で読者投稿の批評コーナーを持っていた。また、1982年頃の新日本プロレスのパンフレットの選手紹介が写真ではなく藤原のイラストとなっており、各選手の特徴をとらえた秀作で評判だった。
  • 1978年パラマウント映画がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』に、アントニオ猪木の付き人役で出演するが、セリフは一言もなかった。
  • 頭が固く、場外からエプロンに上がってきたところで相手に頭をコーナーの金具にブチ当てられ「カチン!!」という乾いた音が蔵前国技館の二階席最上部にまで届くが平然とし、自ら金具の防護布を取って金具に頭をカチン、カチンとぶつけてリングインして相手に一本足頭突きを見舞うというパフォーマンスを得意としていた。また、パイプ椅子で脳天をブチ抜かれても平然とし、リングインして一本足頭突きを見舞うという常人にはできないことをやっていた。
  • 「長州襲撃」以前に1回だけTVでその試合が放送された(木村健悟&藤原喜明vsディック・マードック&バッドニュース・アレン)。さらにそれ以前、1982年1月1日に後楽園ホールでの「元旦決戦」にて行われた、カール・ゴッチとのエキシビションマッチが、TVの生中継(「新春プロレススペシャル」)で流れたこともある。
  • 新日本に出戻っていた時期(1986年)に、東芝EMIより「湯の町ひとり」というシングルを出している(ただし、UWF事務所での通信販売のみ)。
  • 1987年の"ナウリーダーズ"(旧世代軍: 猪木、マサ斎藤坂口征二星野勘太郎武藤敬司ら)vs.ニューリーダー(新世代軍 :藤波、長州力前田日明木村健吾スーパー・ストロング・マシンら)の軍団戦ではナウリーダーに入れられるも、ニューリーダーズの藤波、木村よりも後輩であった。
    • 2009年9月に放送された「アメトーーク 俺たちのプロレスオールスター戦」において、この軍団戦で、藤原から膝十字固めを決められた木村が「いたーい!ダメダメダメ。助けてー!!」と叫びながらギブアップ負けした映像が紹介された。
  • 入場時に花束贈呈が行われていた時代、藤原は花束を受け取るとすぐさま観客席に放り投げていた。
  • 「スポーツドリンク」と称して酒を飲むパフォーマンスがある。酒が入っている状態では饒舌なためトークイベントなどでは酒を用意していることも多い。ただし酒はかなり強く大量に飲んでも泥酔はおろか意識がはっきりしていて会話も普段通り行える。
  • 巡業先の旅館で連日、ドン荒川佐山聡らと女風呂を覗きに行った。
  • プロレスマスコミのインタビューに対し、おふざけが多いことでも知られる。毎年作成された雑誌企画のレスラー名鑑の「抱負」の欄にダジャレをコメントする。またUWF所属の頃に抱負を聞かれて、「PWFのチャンピオンになる」と答えた。当時、全日本プロレスとUWFの間に接点がなかったことや藤原自身が説明をしなかったことから、謎として残ったが、後に自ら興した団体を「新生UWF・藤原組」から「プロフェッショナルレスリング藤原組」に改称した際に、その略称がPWFとなると気付いたプロレスマスコミが納得して、改めて当時の抱負を紹介した、というエピソードがある。
  • 漫画家大橋ツヨシの作品に、彼を主人公とした4コマ漫画『藤原でございます』がある。
  • 作家増田俊也の自伝的小説「七帝柔道記」には、増田が柔道で得意技にした脇固めは藤原の技術をビデオで繰り返し見て研究し、身に着けたものだと記述されている。

得意技

「使う技すべてが得意技」という藤原だが、代表的な技をあげると以下のようになる。

脇固め
藤原喜明に由来した技名フジワラ・アームバーの名前で、世界中のレスラーに用いられている技。
第1次UWF最後の試合でジャーマン・スープレックスを狙った佐山聡の顔面をバックエルボーで打ち、ひるんだところをエルボーを入れた逆側の腕を取り瞬時に極めてギブアップを奪ったこともある。
ヘッドバット
藤原の場合は大木金太郎のように一本足スタイルで放つ。とにかく頭が固く、コーナーポストのカバーを外された金具が剥き出しになっている状態で相手に頭を打ち付けられても平然とした表情ですまし、相手が辟易とするシーンはよく見られる。また、相手が対抗してヘッドバットをしかけても全く効かず、相手の方が逆にダメージを受ける場合もある。また、あるバラエティ番組の企画で100人連続ヘッドバットをおこなったことがある。
アキレス腱固め
元は道場でのスパーリングなどで使われていた裏の技なのだが、第1次UWF時代に頻繁に披露されたことで脚光を浴びるようになった。第2次UWF時にはスタンディング式で極めてみせたこともある。
1986年2月の猪木対藤原戦において、藤原のアキレス腱固めをかけられた猪木が上半身を起こしながら「そっちじゃねえ、コッチだ」と極める方向を指差しながら挑発した。
腹固め
自分の両腕で相手の片腕を極め、さらに両足でもう片方の腕を極める技。
クルック・ヘッドシザース
相手の頭を両足で挟み、首をねじ切る。主にUWFで使用。
ドリル・ア・ホールパイルドライバー
現在はあまり使わないが、新日の前座時代の得意技である。

最近では海外からの関節技講師の依頼も多く、2006年には米国に2回、2008には米国・サンフランシスコで関節技を主とするレスリングセミナーを行った。

海外で人気の出たキラー・カーンが帰国後に突如、藤原との対戦が組まれ、彼が持つ本来の実力を知るカーンがリングから逃亡したことがあった(記録はリングアウト)。

獲得タイトル

入場テーマ曲

新日本プロレスの前座時代は別の曲の時代もあった。当初はクラシックオペラ)の曲は藤原の柄にも合わないと批判の声すら上がったが、藤原の注目度と共に妙にマッチするようになり、現在ではイントロだけで拍手喝采である。

出演作品

テレビドラマ

バラエティ

映画

オリジナルビデオ

ゲーム

CM

著書

  • 藤原喜明のスーパー・テクニック―最強の関節技全公開(1986年5月 講談社 ISBN 4061015117)
  • 藤原喜明の必殺十番勝負―スーパー・テクニック2(1987年11月 講談社 ISBN 406101515X)
  • 男の真剣勝負―I Fight In Dead Earnest.(1994年6月 ベストブック ISBN 4831492124)
  • 復刻 幻の藤原ノート――「ゴッチ教室」の神髄(2009年12月 講談社 ISBN 4062158752)
  • 覚悟ー人生60年、覚悟が生死をわけた!ー(2010年3月 ビジネス社 ISBN 4828415688)

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 闘病記|がんサポート ラッキーという細い糸がつながったからこそ、俺は生きている
  2. 著書『覚悟ー人生60年、覚悟が生死をわけた!ー』
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