キラー・カーン

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キラー・カーンKiller Khan1947年3月6日 - )は、春日野部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー新潟県西蒲原郡吉田町(現:燕市)出身。本名は小澤 正志(おざわ まさし)。キラー・カンとも表記される。大相撲時代の四股名越錦(えつにしき)で、最高位は幕下40枚目。

日本人離れした巨体の持ち主であり、プロレス転向後の全盛時はモンゴリアンギミックの大型ヒールとして国内外で活躍。1970年代末から1980年代にかけて、WWF(現:WWE)をはじめアメリカカナダの主要テリトリーで実績を築くなど、国際的な成功を収めた数少ない日本人レスラーの一人である。

来歴

吉田中学校を卒業後、恵まれた体格を活かすべく春日野部屋に入門し、1963年3月場所にて小沢将志の名で初土俵を踏む。1967年7月場所より越錦四股名を与えられたものの、伸び悩んで三段目上位から幕下下位を行き来し、1970年5月場所を最後に廃業した。また、大相撲時代は先代栃東玉ノ井親方)の付き人を務めていた。

大相撲廃業後、1971年1月に日本プロレスに入門。吉村道明の付き人を務め、同年11月20日の桜田一男戦で小沢正志のリングネームでデビューを果たす。その後、1973年4月に坂口征二木村聖裔大城大五郎らと共に新日本プロレスに移籍。1974年12月のカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦では藤波辰巳と決勝を争った。

その巨体から、海外で通用する選手として期待をかけられ、1976年8月にヨーロッパへ遠征。12月にはアントニオ猪木パキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)にも同行した。その後、1978年より本格的な海外武者修行としてメキシコに出発する。メキシコではテムヒン・エル・モンゴルTemjin El Mongol)を名乗り、蒙古人レスラーに変身。1979年3月からはアメリカ本土に進出し、NWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)でキラー・カーンKiller Khan)に改名。辮髪をたくわえ、毛皮のベストとモンゴル帽子をコスチュームとしたモンゴリアン・スタイルを確立した(ただし、辮髪は本来は蒙古人ではなく満州族の髪型である)。このモンゴル人ギミックは、カール・ゴッチのアイデアによるものだという[1][2]。フロリダではパク・ソンキング・カーティス・イヤウケアと組み、主力ヒールとしてダスティ・ローデスジャック・ブリスコら大物選手と抗争[3]1980年にはジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)に登場し、アブドーラ・ザ・ブッチャーイワン・コロフプロフェッサー・タナカともタッグを組んだ[4]

1980年末よりニューヨークWWFに参戦。12月29日のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦のメインイベントにおいて、ボブ・バックランドWWFヘビー級王座に挑戦した[5] 。その後もWWFではフレッド・ブラッシーマネージャーに、ペドロ・モラレスインターコンチネンタル王座にも挑戦するなどトップ・ヒールとして活躍[6]アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級抗争も開始し、1981年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターにおいてアンドレの右足をニー・ドロップで骨折させて、ヒール人気は急上昇。瞬く間に世界的なメインイベンターへ昇格させることになった。

凱旋帰国は上述のアンドレ足折り事件直前の1981年3月のビッグファイトシリーズ第一弾。この時は後半戦にタイガー・ジェット・シン上田馬之助も参戦することが決まっており、ヒールで鳴らしたカーンは「シン軍団に入って外人組から出場する」と凄みのある発言を行ったとの報道がなされた。結局は日本組に収まったが前座時代とは打って変わったスキンヘッドに弁髪、髭を蓄えた日本人離れした風貌で日本のファンを驚愕させ、開幕戦ではメインエベントで猪木とタッグを組み、ハルク・ホーガンドン・ムラコと対戦。ムラコに反則負けを喫したが日本においても藤波辰巳長州力等とはまた違ったタイプの異質のトップグループの地位に着いた。そして足折り事件直後の6月24日のスーパーファイトでは後にMSGタッグ・リーグ戦でタッグを組むタイガー戸口と対戦、流血戦の末反則負け。 翌年、「アンドレの足を折った男」の触れ込みで1982年4月1日に蔵前国技館で行われたMSGシリーズの優勝戦では、右膝負傷(実際には糖尿病の悪化とされる)で棄権したアントニオ猪木の代打としてアンドレと一騎打ちを行い、敗れはしたもののファンの「オザワ・コール」に支えられ生涯屈指の名勝負を演じた。年末のMSGタッグ・リーグ戦ではタイガー戸口と組んで準優勝を果たした。その後、1983年より戸口と共に長州力の維新軍団に加入し、新日本プロレスの反体制勢力にまわる。この間、1982年から1984年にかけては海外にも精力的に遠征しており、アンドレとの遺恨試合はミッドサウス地区(ビル・ワット主宰のMSWA)でも実現[7]ノースカロライナ地区(ジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング)やカナダカルガリースチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)なども転戦し、日本と北米を股にかけて活躍した。

1985年、長州らが設立したジャパンプロレスに参画し、全日本プロレスのリングに登場。同年9月には谷津嘉章と組んでジャンボ鶴田&天龍源一郎インターナショナル・タッグ王座に挑戦したが、1986年5月にジャパンプロレス勢に造反。このときに日本テレビの若林健治が発した「恩知らずのキラー・カーン」の台詞が強いインパクトを残した。並行してアメリカにも遠征し、テキサス州ダラスではテリー・ゴディ&マイケル・ヘイズファビュラス・フリーバーズの用心棒となり、ケビン・フォン・エリックケリー・フォン・エリックと抗争。11月の世界最強タッグ決定リーグ戦にはゴディとのコンビで出場している。

1987年4月に全日本プロレスを去り、WWFと再契約。ミスター・フジをマネージャーにWWF世界王者ハルク・ホーガンと短期抗争を展開した他、ランディ・サベージバンバン・ビガロらと対戦した[8]。また、この2回目のWWF参戦時にはザ・グレート・カブキのような毒霧(アジアン・ミスト)を使用することがあった。同年11月末、ニュージャージーで行われたジョージ・スティール戦を最後に引退した[9]

プロレスラー引退後もキラー・カンを名乗り、東京都新宿区中井に「スナック カンちゃん」を開店。その後西新宿六丁目に店を移し、ちゃんこ料理を主とした「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」を経営、足立区綾瀬にも店を構えたが2012年に閉店し、現在は西新宿八丁目に店舗がある。巨躯にもかかわらず店内ではホールスタッフとして店主自ら接客している。2005年には『ふるさと真っ赤か』でCDデビュー。居酒屋経営のかたわらバラエティ番組など各種メディアで活躍し、『ロイ白川 心の演歌』(とちぎテレビ)にセミレギュラー出演していた。

2013年8月、故郷の燕市から燕市PR大使に任命された。

得意技

主なフィニッシュホールド。ランニング式とトップロープからのダイビング式の両方を得意とした。奇声をあげながら跳び下りる様からアルバトロス殺法と呼ばれた。
同じく奇声を上げながら両手により首元を狙うチョップ攻撃。近年では天山広吉などに継承されている。

獲得タイトル

CWFフロリダ)
MSWAルイジアナミシシッピ
スタンピード・レスリングカルガリー
WCCWダラス
  • WCCW TV王座:1回 [14]
    • 1984年5月7日、負傷した前王者ケリー・キニスキーの後任として王座を継承。

主な戦歴

大相撲時代
  • 生涯成績:146勝148敗7休(44場所)
  • 優勝:各段いずれもなし
プロレス時代
  • 第5回MSGシリーズ準優勝(1982年)
  • 第3回MSGタッグ・リーグ戦準優勝(1982年)

マネージャー

逸話

  • 吉田中学校では長身を活かしバスケットボールで活躍[9]
  • 新日本プロレス初期の若手選手の登竜門『カール・ゴッチ杯』の第1回大会で決勝を争った藤波辰爾とは当時から仲がよく、近年でも親交が深い。
  • 日本のプロレス界で1・2を争う喉自慢であり、ジャイアント馬場も彼の歌声を愛した。その美声を認められ親交のある立川談志の仲介で三橋美智也門下となる。現在も月に2,3回老人ホームを訪問して師匠である三橋の唄などを披露している[2]
  • そのジャイアント馬場とは同じ新潟県出身者。団体は違えど、馬場はカーンのことをよく気にかけていたという。馬場との巨人タッグを結成する計画もあった。
  • ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のプロレスクイズにも出演し、ダチョウ倶楽部と絡んだことがある(DVDの特典映像である歴代優勝者座談会の中でビートたけしからMVPの称号を与えられた)。
  • スタン・ハンセン全日本プロレスに電撃移籍した報復として、新日本プロレステッド・デビアスの引き抜きを画策。その際交渉にあたったのがキラー・カーンだった。交渉は成功し内諾を得ていたが、契約直前に両団体間で紳士協定が結ばれたため白紙撤回となる。
  • 中井にあった「スナックカンちゃん」は、シンガーソングライターの尾崎豊が常連客だったことで知られる。尾崎はカレーライスが絶品でよく注文していたとのこと。このエピソードは近年でも『あの人は今!?』(NTV)や尾崎豊の特集企画などで語られる。現在の歌舞伎町の店舗にも尾崎の色紙が飾られており、生前の尾崎が好んだ特製カレーライスが看板メニューとなっている。
  • WWF参戦時の収入は、当時のレート換算で週給にして600万円。全米マット界でも正真正銘のトップヒールだった。

出演

プロレスラー引退後、俳優・歌手としてデビュー。

脚注

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外部リンク

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  • フレッド・ブラッシー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『フレッド・ブラッシー自伝』P358(2003年、エンターブレイン)ISBN 4757716923
  • 2.0 2.1 必殺技にっこり 歌と握手を添え(毎日新聞2009年1月17日夕刊3面)
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  • 9.0 9.1 『THE WRESTLER BEST 1000』P141(1996年、日本スポーツ出版社
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