ミルコ・クロコップ
ミルコ・クロコップ(Mirko Cro Cop、男性、1974年9月10日 - )は、クロアチアのキックボクサー、総合格闘家。ヴィンコヴツィ出身。チーム・クロコップ所属。PRIDE無差別級グランプリ2006王者。K-1 WORLD GP 2012王者。元クロアチア国会議員(2003年 - 2007年)。元警察官であり、リングネームの「クロコップ」は、英語で「クロアチア人のコップ(警官)」の意。
総合格闘技の試合では立ち技主体で勝負するストライカーであり、左ハイキックを武器に多くのKO勝利を挙げた。総合格闘技に適応した最初の本格ストライカーといわれており、ストライカーの弱点であるテイクダウンディフェンスと寝技を身に付けた。ミルコの活躍は総合格闘技界の技術体系を打撃偏重へシフトチェンジしたとも言える。2000年代初頭から2000年代半ば、特に全盛期であったPRIDE時代はヘビー級の打撃系総合格闘家として世界トップクラスの実力を誇り、総合格闘技界の最強ストライカーとして名を轟かせた。PRIDE参戦当初はK-1からの外敵といった悪役、ヒール的な存在であったが、PRIDEでの闘いを重ねていくにつれ、PRIDEのエース桜庭和志と肩を並べるほどの人気選手となり、PRIDEの主役ともいえる存在であった。 エメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと並んでPRIDEヘビー級三強と称された。
目次
来歴
ユーゴスラビア・ヴィンコヴツィに生まれ、格闘技は15歳の頃より空手を始めたが一度はユーゴスラビア紛争の激化により断念した。その後19歳でキックボクシングに転向している。
K-1
1996年3月10日、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」でK-1初代王者であるブランコ・シカティックの一番弟子として、ミルコ・タイガー[1]のリングネームで日本に登場し、前年GP準優勝者のジェロム・レ・バンナからダウンを奪い3-0の判定勝ちを収めた。5月6日の「K-1 GRAND PRIX '96 決勝戦」では準々決勝でアーネスト・ホーストのテクニックとローキックに翻弄され、3RにTKO負けを喫した。この試合以降ミルコは師シカティックと決別し、3年間日本のリングから姿を消すこととなる。その間はアマチュアボクシングでも多く戦っていた。
1999年4月25日、「K-1 REVENGE '99」に出場し、約3年ぶりのK-1復帰を果たした。ミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチとリングネームも変え、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに左ストレートで4RKO勝ちを収めた。6月20日には「K-1 BRAVES '99」に出場し、準々決勝でリッキー・ニケルソンにK-1のリングでは初となる右ハイキックで1RKO勝ち。準決勝ではジャビット・バイラミに延長1R判定負けを喫し、GP開幕戦の出場権を逃したものの、怪我人の発生で推薦枠で10月3日の「K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦」に出場を果たした。マイク・ベルナルドからハイキックでいきなりダウンを奪うと、一気にラッシュを叩き込んで2つ目のダウンを奪って1RKO勝ちし、K-1四天王の1人を倒したことで一躍脚光を浴びるようになる。12月5日の「K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦」では、緒戦の準々決勝では武蔵に2RKO勝ち、準決勝でサム・グレコに2RKO勝ちして決勝まで駒を進めたが、武蔵戦で痛めた脇腹を、続くグレコ戦でも痛めて肋骨を骨折してしまったこともあり、決勝ではアーネスト・ホーストにその部分を徹底的に攻められボディ打ちで3RKO負けを喫し、グランプリ準優勝に終わった。その後リングネームを現在のミルコ・クロコップに変更している(ターミネーターの愛称もこの頃から付けられる)。この頃より次世代を担う選手として注目されるようになる。
2000年3月19日、「K-1 BURNING 2000」で天田ヒロミと対戦。元暴走族と現役警察官の対決だったため、天田は暴走族を、ミルコは警官隊を引き連れて入場するというパフォーマンスを披露した。なお試合は4RでミルコのKO勝ちであった。6月3日にはアンディ・フグのスイスでの引退試合の相手を務める。お互い決定打に欠けたが、手数で勝ったフグに判定負けとなった。少年の頃からフグに憧れていたというミルコは、母国引退となるフグを笑顔で讃えた。 10月9日の「K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA」では、準々決勝でグラウベ・フェイトーザに判定勝ち、準決勝で天田ヒロミに判定勝ちを収めた。このトーナメントのファイナリスト2人が12月の決勝戦へと出場できるため、すでに出場権を手に入れていたミルコは、準決勝で怪我をしたこともあり決勝では無理をせず1R終了後に自らタオル投入によるTKO負けを選択し、決勝の相手マイク・ベルナルドにリベンジを許した。 12月の「K-1 WORLD GP 2000 決勝戦」では準々決勝でアーネスト・ホースト相手に延長まで持ち込むものの、終始試合をリードされ0-3で判定負けに終わった。これ以降両者の対戦は実現せず、ミルコは1勝も挙げることはできなかった。
2001年1月30日、「K-1 RISING 2001」で富平辰文に2RKO勝ち。3月17日、「K-1 GLADIATORS 2001」のピーター・アーツ戦では、序盤にハイキックとパンチのラッシュでめ込むも、後半は膝蹴りを受けスタミナ切れを起こし失速。最後はクリンチ合戦となった末、ミルコが辛くも競り勝ち2-0で判定勝利を収めた。6月16日、「K-1 WORLD GP in MELBOURNE」ではトーナメント初戦でマイケル・マクドナルドと対戦。相手を格下と見て、試合中に腕を回すなどの挑発行為や余裕な態度をとったが、クリンチをして密着した状態でマクドナルドが放ったパンチを顎に受けてグラついてしまいそのままラッシュを受けて1RKO負けし、まさかの初戦敗退となった。
K-1・総合ルール両立時代
2001年8月19日、「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」にて、K-1と猪木軍との対抗戦に身を投じることとなり、3分5Rの総合格闘技 (MMA)ルールで猪木軍のエース藤田和之と対戦する。試合は下馬評を覆して、藤田のタックルに膝蹴りを合わせ大流血に追い込み、ドクターストップによるTKO勝ちを収めた。後にミルコはこの勝利が大きな転機となったとコメントしている。10月8日、「K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKA」の敗者復活トーナメントに出場予定だったが、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件発生の影響で、当時警察官だったミルコは国内待機となり、GP出場は断念したものの、11月3日、PRIDE.17でPRIDE初参戦を果たした。藤田戦と同じルールでの高田延彦との対戦は、高田が試合序盤で右足踵骨を骨折したためリングに腰を降ろしてグラウンドに誘う作戦に出たが、ミルコはこれを拒否し続け、猪木アリ状態のまま試合は終了しドローとなった。ミルコは試合後、激怒し「気分が悪い。高田はチキンだ。」「藤田は本物のファイター。高田は偽者のファイター。」と罵倒している。しかし、後のPRIDEの大会等で記者達から高田が足を骨折していたことを知ると謝罪に近い言葉を述べているようにお互いのわだかまりはなくなっている。そして12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2001」にてプロレスラー永田裕志と総合格闘技ルールで対戦し、試合開始から21秒後には左ハイキック一撃で永田をリングに沈め、「プロレスハンター」と呼ばれるようになった。
2002年1月27日、「K-1 RISING 2002」に出場。K-1ルールで柳澤龍志に1RTKO勝ち。3月3日の「K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYA」では前年GP王者マーク・ハントと対戦。試合序盤はハントを翻弄し、3Rに左ハイキックでダウンを奪う。後半はハントのプレッシャーや打撃により逆襲を受ける展開となってしまうが、その反撃をかわし切り判定で勝利した。試合後には笑顔一つも見せずにハントの祝福にも首を振っていたが、この勝利を以って改めて「K-1王者になりたい」とミルコは語った。その一方で総合格闘技への本格的な挑戦も語った。そして、4月28日のPRIDE.20ではMMA4戦目でPRIDEミドル級王者ヴァンダレイ・シウバと対戦。ルールは3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタートという、MMA経験の浅いミルコに配慮した特別ルールとなった。また両者の体重差に配慮して98kg契約だったが、計量時はミルコよりもシウバの方が体重を上回っていた。この試合は「K-1vsPRIDE 頂上決戦」と評された。ミルコの左ミドルキックがシウバの脇腹を抉り、紫色に腫れ上がらせた一方、シウバもミルコから数度のテイクダウンを奪い、スタンドでも手数で上回っていた。試合は規定によりドローに終わる。
再びK-1ルールに舞い戻り、7月14日の「K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKA」では、のちのGP王者レミー・ボンヤスキーにパンチの連打で2RTKO勝ちし、GP本戦の切符を手に入れた。8月28日、「Dynamite!」で桜庭和志と対戦。ルールはミルコにとっては初めての5分3R制のPRIDE特別ルールとなった。なお、体重は20kg近くミルコが重かった。2Rには桜庭にテイクダウンを奪われたものの、脱出の際の顔面への蹴り上げで桜庭の右目が腫れ上がり、眼窩底骨折の疑いでドクターストップがかかりTKO勝利となった。その後椎間板ヘルニアを理由に「K-1 WORLD GP 2002」を欠場、長期休暇を取ったこの間に長年交際してきた女性と結婚している。大晦日には「INOKI BOM-BA-YE 2002」にて藤田和之とMMAルールで再戦し、危なげない試合運びで返り討ちを果たした。
2003年3月30日の「K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMA」で当時人気絶頂にあったボブ・サップと対戦し、左ストレート一発でミルコのKO勝利。勝利直後、ミルコにしては珍しくリングサイドに駆け上がり、雄たけびを上げた。なお、クロアチアでのこの試合の視聴率は約50%であった。
PRIDE
2003年6月8日、PRIDE.26からPRIDEシリーズに本格参戦。当時のPRIDEヘビー級3強の1人と言われたヒース・ヒーリングと通常PRIDEルール(1R10分、2・3R各5分)で対戦、強烈な左ミドルキックからのパウンドでTKO勝利。試合後、ミルコはエメリヤーエンコ・ヒョードルが保持するPRIDEのヘビー級タイトルへの挑戦を宣言。なおこの試合は母国クロアチアでも当日ディレイ放送され70%超の視聴率を叩き出した。8月10日、「PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦」でイゴール・ボブチャンチンに強烈な左ハイキックで1R1分29秒KO勝利。ヘビー級タイトルマッチへの挑戦を決定的なものとした。10月5日には「PRIDE武士道」に参戦。自らこの試合をタイトルマッチのためのクールダウンと称し、ドス・カラス・ジュニアに左ハイキックで1R46秒でKO勝利。11月9日、「PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦」ではアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの対戦を迎えた。本来ならこの大会でヒョードルとのタイトルマッチが行われるはずだったもののヒョードルの怪我により暫定王座決定戦となっていた。1Rはミルコが打撃で圧倒し、終了間際に左ハイキックを放ち、完全な形ではないがヒットさせてノゲイラからダウンを奪った。2R開始直後、初めてテイクダウンを奪われるとパウンドを浴びて、グラウンドの展開から脱出しようとした際にノゲイラに腕ひしぎ十字固めを極められてしまいタップアウト負け。これにより総合格闘技での無敗記録がストップした。 試合後のセレモニーで、暫定王者のベルトを与えられるノゲイラの姿を見つめながら、ミルコはリングの片隅で涙を浮かべていた。
大晦日には「INOKI BOM-BA-YE 2003」に出場し高山善廣と対戦予定だったが、直前になって出場をキャンセルした。
2004年2月1日、PRIDE.27でロン・ウォーターマンと対戦。序盤からいきなりテイクダウンを奪われるも、スタンドに復帰後すぐさま左ハイキックでダウンを奪い、サッカーボールキックを浴びせてKO勝利。2週間後、2月15日の「PRIDE 武士道 -其の弐-」では山本宜久にKO勝利する。4月25日、「PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦」のPRIDEヘビー級GP1回戦でケビン・ランデルマンと対戦。1R1分57秒、左フックからのパウンドでまさかの失神KO負けを喫した。トーナメントから早々に脱落したミルコはワンマッチでの出場を続け、5月23日の「PRIDE 武士道 -其の参-」では金原弘光に粘られるも判定勝利。
7月19日の「PRIDE 武士道 -其の四-」では大山峻護と対戦。左アッパーでKO勝利。
8月15日の「PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦」ではPRIDEヘビー級王者ヒョードルの弟のエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦、20キロ以上の体重差を問題にせず左ハイキックでKO勝利。観衆はミルコの鮮烈な復活劇を歓喜で迎えた。この勝利により、ミルコはようやくPRIDEトップ戦線への返り咲きを果たした。
10月31日、PRIDE.28での第10代パンクラス無差別級王者・元UFCヘビー級王者ジョシュ・バーネットと対戦。「最後の大物」とも呼ばれたバーネットとの対決は、ファンの期待を大いに高めたが、1R46秒、バーネットの左肩の脱臼によるタップアウトにより、勝利するも消化不良のまま終わった。12月31日の「PRIDE 男祭り 2004」ではケビン・ランデルマンと再戦、フロントチョークで一本勝ちを収め、リベンジを果たした。
2005年2月20日、PRIDE.29でマーク・コールマンと対戦。コールマンのタックルを完封し、1R3分42秒右アッパーでKO勝ちし、PRIDEヘビー級王座への挑戦権を獲得。6月26日には「PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND」でヒョードルと同門のイブラヒム・マゴメドフと対戦し、左ミドルキックでKO勝利。見事に前哨戦を制した。8月28日、「PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦」でついにエメリヤーエンコ・ヒョードルの持つヘビー級王座に挑戦。「21世紀最初の世紀の一戦」と評されたこの試合でヒョードルはオランダのルシアン・カルビンの元で特訓した打撃で攻め込み、ミルコはバックステップで下がりながらも打撃をヒットさせるが、1R中盤にテイクダウンを奪われるとそこから一気にヒョードルペースとなる。2、3Rはスタンドでもヒョードルにリードされた。ミルコはヒョードルの攻撃にガードポジションで耐えたものの、ヒョードルの優位は動かず判定0-3で敗れ、王座挑戦に失敗。
10月23日、PRIDE.30でジョシュ・バーネットと再戦。「ミルコには間合いを空けずプレッシャーをかけ続ければ良い」という持論をバーネットが実践、打撃が思うように出せず劣勢に立たされる。終盤にスタンドでパンチを集めることに成功し、3-0で判定勝利を収めた。大晦日は「PRIDE 男祭り 2005」において、2004年からPRIDEへ参戦したマーク・ハントとのストライカー頂上対決が組まれるも足首の負傷と体調不良による高熱により序盤から調子が上がらず、ハントに主導権を握られる。左ハイキックを完璧にヒットさせる場面もあったが、結果1-2で判定負けを喫し、K-1時代のリベンジを許してしまった。判定ではジャッジの1人がミルコに票を入れるが、会場からはブーイングが沸き起こった。足首の負傷のためかこの試合ではミルコにしては珍しくレスリングシューズを履いて試合を行った(シューズは須藤元気曰く蹴りの威力が上がるため、キックボクシングなどでは禁止されているが、PRIDEルールでは自由選択)。
2006年5月5日、「PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦」に出場し、1回戦で美濃輪育久に1R1分10秒、グラウンド状態からのパウンドでKO勝利。2回戦となる7月1日の「PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND」では、日本重量級のエース吉田秀彦と対戦し、ローキックによるTKO勝利。9月10日の準決勝でヴァンダレイ・シウバと再戦し、PRIDE.20以来、4年ぶりとなる因縁の再戦が実現。序盤にシウバの右眼付近に左ストレートをヒットさせ、視界を失ったシウバに左ハイキックでKO勝利。因縁の再戦を完全勝利で収めた。この試合は、「ファンが選ぶ2006年ベストバウト&MVP」のベストバウトにて1位となった。続く決勝ではアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラを準決勝で破ったジョシュ・バーネットと3度目の対戦。序盤から攻め立てダウンを奪うとインサイドガードから鉄槌・パウンドを連打。この時の攻防でミルコの手がバーネットの眼に当たり、一時的に視力を失ったバーネットがタップアウト。アクシデントも手伝ったが、内容は一方的なものであり、バーネットは「今日はミルコのための夜だった」と讃えた。32歳の誕生日に初めてのメジャータイトルを戴冠し、リング上で涙を流した。ターミネーターと言われたミルコの男泣きする姿を見て、会場からは暖かい拍手が送られた。前述の「ファンが選ぶ2006年ベストバウト&MVP」のMVPにて、ミルコは2位に選ばれた。
UFC・DREAM
2006年12月30日、米国の総合格闘技団体UFCへの参戦を表明し、5年間出場し続けたPRIDEから離脱した。
2007年2月3日、UFC 67でエディ・サンチェスと対戦。ミルコの打撃を警戒するサンチェスを追い込み、1RマウントパンチによるTKOで勝利し、アメリカ進出は白星デビューとなった。
2007年4月21日、勝てばタイトルマッチといわれたUFC 70のガブリエル・ゴンザーガとの対戦ではテイクダウンを許した後グラウンドで頭部へ何度も肘打ちを受け続け、最後は右ハイキックを被弾し失神KO負けを喫した。試合後には、スタンドに戻った際にすでにグラウンドでの肘打ちにより大きなダメージを受けていたことや、UFCのルールへの対策が甘く、肘打ちに対する防御の練習を怠っていたことを語った。
2007年9月8日のUFC 75でシーク・コンゴと対戦。序盤は優勢に試合を進めるも、中盤からはローブローも重なって急激に失速。最終的にコンゴに巻き返される形となり、0-3の判定負けを喫した。この時期からたび重なる怪我と手術の影響により、PRIDEの時のようなキレのある動きができなくなってしまう。
2008年は一端UFCを離れ、日本の新団体DREAMに参戦した。3月15日の旗揚げ戦DREAM.1で水野竜也と対戦し、開始55秒TKO勝ち。
次いで6月15日、DREAM.4でハレック・グレイシーと「グラップリング・チャレンジマッチ」で対戦予定であったが、ミルコが遺恨のある練習パートナーのギルバート・アイブルと実戦練習した際に両者がヒートアップして事実上の喧嘩に発展し、両者ともに大怪我をするという自体が発生。アイブルはアキレス腱を断裂し、ミルコは右肘靱帯を亜脱臼してしまった。ミルコはその状態のまま練習を続けたため、さらに右肘の状態を悪化させてしまい、結果ハレックとの試合前にドクターストップ。急遽欠場となる[2]。その後、DREAM.5にも出場予定となるが、怪我の回復が間に合わず欠場となった。この怪我により、のちにUFCで対戦するフランク・ミアが対戦前にミルコを研究していた時に、「ミルコは右のパンチがある時期を境におかしくなっている。何か大きな怪我でもしたんじゃないか。」と語るように、ミルコはその後パンチの能力が落ちていくこととなる。
2008年9月23日、DREAM.6でアリスター・オーフレイムと対戦するが1R6分9秒、アリスターの膝蹴りが何度も下腹部に入り、ミルコが悶絶。数分間の回復時間が与えられ試合は再開されるが、再度アリスターの膝蹴りがミルコの下腹部に入り試合続行不可能となりドクターストップ。審議の結果、アリスターの下腹部への攻撃は故意ではなかったという判断によりノーコンテストとなった[3]。
2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜でチェ・ホンマンとDREAMルールで対戦。両者にイエローカードが提示されるほど両者とも手が出ない試合となったが、試合序盤からミルコが何度も放っていたローキックが徐々にホンマンの足にダメージを与えており、1R開始6分を過ぎた頃にミルコの左ローキックでホンマンが崩れ落ちてKO勝ちを収めた。この試合の序盤にミルコは左ハイキックを挨拶代わりに繰り出したが、ガードはされたもののミルコの左ハイはホンマンの顔面にも届くことを見せ付けた。
2009年6月13日、ドイツのケルンで開催されたUFC 99でムスタファ・アルタークと1年9か月ぶりのUFC復帰戦を行い、スタンドパンチでTKO勝ち[4]。ミルコが相手との距離をとるために手を伸ばした瞬間、その指が偶然アルタークの目に入り、それがのちのKOに繋がってしまったため、リプレイを見た観客からはブーイングも起こったが、試合自体はミルコが最初から最後まで優勢に進めていた。アルタークの対戦相手は当初トッド・ダフィーであったが、ヨーロッパで人気が高いミルコに急遽差し替えられた。
2009年9月19日、UFC 103でのちにUFC王者となるジュニオール・ドス・サントスと対戦するも打撃で圧され、3Rに膝蹴りと目へのアッパーで一時的に失明状態に陥り、戦意を喪失しTKO負け[5]。試合後、引退を示唆する発言をした[6]。
サントス戦から半年~1年後、バリー戦前にミルコはGONG格闘技の特集やMMA Weeklyなどの海外格闘技系のサイトのインタビューで、この頃の自身のコンディションを振り返る機会があった。その際には、「俺の膝は2008年頃から完全に壊れていた。膝の手術だけで(PRIDE後期から2009年頃までに)3度受けたが、アルターク戦でも蹴りをまったく出さなかったように、あの時期は術後で膝がまだ治っていなかった。ドス・サントス戦でも膝の状態が完全に治っておらず、医者に試合を行うことを止められたし、蹴りを打つことも禁止されていた。(このような状態で)サントス戦を受けたのは良い判断ではなかったかもしれないが…、でも俺はファイターだから良いコンディションじゃなくても競い合いたいし、戦いたかったんだ。」と明かしている。サントス戦では医者に禁止されていた蹴りを放ったが、その際に激痛を感じてその後は何度も蹴るのはやめたという。それほどミルコの膝の怪我は深刻になってきており、足だけではなく腕や脳へのダメージも含めて、長年の戦いにより体中がボロボロになっていたと述懐している。
2010年2月20日、オーストラリア・シドニーで開催されたUFC 110で高い試合決定率を誇る強豪のベン・ロズウェルと対戦予定だったが、ロズウェルが現地に到着後、ウイルス性胃腸炎にかかってしまい急遽欠場。代わりに急遽呼ばれた代打のアンソニー・ペロシュと対戦。2Rにグラウンドでの肘打ちでペロシュの額をカットさせ、2R終了時にドクターストップによるTKO勝ちとなった[7]。
2010年6月12日、UFC 115でパトリック・バリーと対戦。1Rにバリーのパンチで2度ダウンを奪われるも、3Rにパンチでバリーをぐらつかせてダウンを奪うとそのまま背後からバリーにチョークを仕掛け、チョークスリーパーで一本勝ち[8]。試合後のマイクでは「(UFC代表の)ダナ・ホワイトよ、私に『サブミッション・オブ・ザ・ナイト』をくれ。」とアピールし、その結果サブミッション・オブ・ザ・ナイトを獲得した。
2010年9月25日、UFC 119で怪我をしたノゲイラの代わりにフランク・ミアと対戦し、3Rに右膝蹴りでKO負け[9]。同大会でKO決着はこの試合だけだったが、両者動きの少ない試合であったためかミアはノックアウト・オブ・ザ・ナイトに選ばれなかった。
2011年3月19日、UFC 128でブレンダン・シャウブと対戦し、互角の展開となっていたが、3Rにミルコのローキックにシャウブのカウンターのパンチが入り、ミルコがダウン。3RKO負けを喫した[10]。
2011年10月29日、UFC 137でロイ・ネルソンと対戦した。UFCとの契約満了を迎える試合だったが、3RTKO負けを喫し、試合後に引退の意思を表明した[11]。
K-1・キックボクシング復帰
UFC 137から約1ヵ月後の12月、キックボクシング復帰を表明し、「俺が最初に始めたスポーツはK-1だった。俺にとっては初恋の相手だし、K-1の方が魅力的でクロアチアのファンに合ってると思う。俺の闘いの炎は永遠だ」と言って自身の引退も否定した[12]。
2012年3月10日、母国クロアチアのアリーナ・ザグレブで開催されたCro Cop Final Fightにてキックボクシング復帰初戦を行い、レイ・セフォーに3R判定3-0で勝利。なお、大会名が「Cro Cop Final Fight」となっているものの、この試合は引退試合ではないことをミルコ本人も大会前の記者会見で明言しており、さらに「今年K-1 GPが開催されるなら出場したい」と意欲を見せていた[13]。
2012年5月27日、K-1 RISING 2012~K-1 WORLD MAX FINAL16 2012~でローレン・ハヴィエ・ホルヘと対戦しKO勝ち。
2012年10月14日、K-1 RISING 2012 WORLD GP FINAL 16で24戦全勝の新鋭ランディ・ブレイクとグランプリ1回戦を行い2-0の判定勝ち。2012年12月26日にニューヨークで行われる決勝トーナメントに駒を進めた。その後、決勝トーナメントは翌年の3月15日に延期されることになり、開催地はミルコの母国であるクロアチアのザグレブに変更された。
2013年3月15日、K-1の決勝トーナメントであるK-1 WORLD GP FINAL in ZAGREBでは、1回戦でジャレル・ミラーに判定勝ちで降し、準決勝ではパヴェル・ズラリオフに判定勝ち。決勝ではイスマエル・ロントと対戦し2Rに得意の左ハイキックでダウンを奪い判定勝ちを収め、かつてのK-1ではなく運営が変わり規模が縮小された新生K-1ではあるが、ミルコの夢であった悲願のK-1初優勝を母国クロアチアで成し遂げ、ミルコはリング上で涙を流した。
11月9日にロシアで行われたLEGEND.2で総合ルールでエメリヤーエンコ・アレキサンダーと再戦予定だったが、アレキサンダーが欠場し、代役のアレクセイ・オレイニクと対戦。袈裟固めで一本負け。
2014年8月23日のINOKI GENOME FIGHT2で総合格闘技に復帰。石井慧と対戦し、2Rドクターストップ勝ち。IGF新王者となった[14]。
戦績
総合格闘技
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キックボクシング
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人物
- 警察官時代はテロ対策特殊部隊に所属していてその傍ら格闘技で活躍していた(クロアチア警察の格闘技教官も担当)。
- クロアチアでは国民的な人気があり、テレビゲームや映画の主役になっている[15]。
- 愛国者としても知られ、2003年11月23日に投開票されたクロアチアの総選挙にクロアチア社会民主党から出馬し初当選。国会議員として4年間活動した。また、2004年2月13日に、当時の日本の内閣総理大臣小泉純一郎と面会している[16]。
- 2004年、クロアチアのサッカークラブ「チバリア・ヴィンコヴツィ」へ入団。FWとして公式デビュー[17]している。チバリア・ヴィンコヴツィはミルコの好きなチームであり、「このチームでプレーできて嬉しい。」と語っている。また、自分の息子に対してはサッカー選手になってほしい、格闘家にはあまりなってほしくないと語ったこともある。
- 夫人は、サッカーのFIFAワールドカップフランス大会で得点王となったクロアチア代表ダヴォール・シューケルの妹である[18]。
- 日本、K-1、キックボクシングへの愛着は深い。K-1に対しては2003年のPRIDE移籍時にちょうど谷川モンスター路線(詳細は谷川貞治の項を参照)が始まった時期ということもあり、「一日で3試合も戦うトーナメントなんてトーナメントの組み合わせの運で優勝が決まるから誰が本当に強いのかが決まらないし、身体を壊すためにやるようなものだ」「身体がでかいだけだったり、話題性があるだけでキック経験の浅い奴ばかりが参戦するようになった今のK-1は俺の命を懸けて戦いたいと思える場所じゃない」などと苦言を呈していたが、UFC参戦中の2009年にクロアチアのメディアに対して「俺の引退試合はK-1の大会でK-1ルールでしたいし、俺は日本から選手として始まったから最後の試合も日本でやりたい」と語っている[19]。また、2012年のキックボクシング復帰の際にも「俺が最初に始めたスポーツはK-1だ。俺にとっては初恋の相手だし、K-1の方が魅力的でクロアチアのファンに合ってると思う」と語っている。
- 食事に関しては独特の哲学を持っており、生野菜は食べない。これをテレビ番組(生放送)で発言したところ、国会議員という立場からか、猛抗議を受けた。ただし、野菜スープを食べている姿がDVDに収録されており、野菜嫌いという訳ではない。また、ステーキは脂身を全て落としたエクストラウェルダン、スパゲティはミートソースでなければ食べないというこだわりぶりである。
- トランプが好き。PRIDE時代は「ベラ」というクロアチアのゲームへ試合前に興じるのが慣例となっていたと、代理人である今井賢一が紙のプロレスのインタビューで明かしている。
- 少年期に民族紛争を体験し、友人たちを亡くしている経験を持つ。ボブ・サップ戦の前日記者会見で当時開戦したばかりのイラク戦争に言及が及ぶと、涙ながらに反対を表明している[20]。
- アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに敗戦した直後、クロアチアのテレビ番組に出演した際、ノゲイラを侮辱的に扱うジャーナリストを厳しく批判した[21]。
- プライドが高く、負けず嫌いな性格であり、トレーニングの為に日本に滞在していた時は、トレーニングを兼ねて自転車でジムメイトと軽く競争した時は、ムキになってしまったと語っている。
- 戦いぶりなどから、冷徹な印象を持つファンも少なくないが、実はかなりの冗談好きで、取材に訪れた記者たちに手の込んだドッキリをしかけることもある。
ファイトスタイルと評価・批判
K-1初登場当時の1996年は、身体能力の高さは窺えたものの、その他にはさして光るものを持たなかったミルコだが、3年のブランクを経て復帰した1999年には攻撃に多彩さが増し、ミルコの代名詞といえる左ハイキックも積極的に使うようになった。しかしこの頃もっとも冴えていたものはクリンチワークであり、KOを奪えない相手にはクリンチで相手の攻撃をしのぎ、その合間に打撃を打ち込んでポイントを稼ぐというのが、ファイトスタイルの基本となっていた。 総合格闘技への参戦が始まると、ミルコは急速な体のビルドアップに成功し、徐々に一撃必殺に傾倒していくようになる。ミルコのファイトスタイルはボクシングを元にテコンドーやキックボクシングをオリジナルアレンジした物であり、試合中に放つ打撃の数は極端に少なく、ジャブは殆ど打たずに、利き手利き足(ただし右利きのサウスポーであるため本来の利き手とは逆である)での打撃に終始する。右腕はラッシュをかける時以外は、ディフェンスや距離を稼ぐ時に伸ばす程度しか使用しない。絶対の自信を持つ左ハイキックや、ミドルキックを放つまでに、その他を布石として使用する彼独自の戦法である。主な例はミドルキックやローキックで相手の注意を下にさげさせ、ガードが下がった所に左ハイキックを打ち込む方法と、相手に自分のストレートの軌道を覚えさせ、ウェービングで相手の頭が傾いたところに合わせて左ハイキックを打ち込む方法がある。特に後者は、まるで相手が自らミルコの足に当たりに行っているように見える。ミルコの左ハイキックは高速で相手の視界の死角から足が急に現れる軌道のためかわされにくく、まさに一撃必殺の破壊力を持つ。ただし、ミルコの打撃はある程度の間合いがないとその効果は発揮できず、プレッシャーを掛けて前へ前へと進んでくる相手を苦手としている。
また、打撃技に対してはガードをほとんど使わず、スウェーとステップワークでかわす。組み技に対するディフェンスにも定評があり、特にタックルを切る技術の会得の早さには目を見張るものがある。
一方でK-1時代から通して指摘されているのがスタミナ不足であり、本人もそのことを認めている。1Rでは高いKO率を誇るが、2R以降は口を開けて呼吸する姿が目立つ。これは、K-1時代の怪我により、鼻での呼吸がうまくできなかったことが原因である。そのため鼻へ塗り薬を処方し、スムーズに呼吸できるようになった。
獲得タイトル
- IKBF 世界ヘビー級フルコンタクト王座
- K-1 GRAND PRIX '99 準優勝
- K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA 準優勝
- PRIDE無差別級グランプリ2006 優勝
- K-1 WORLD GP 2012 優勝
出演映画
- アルティメット・フォース 孤高のアサシン
脚注
関連項目
外部リンク
- CROCOP
- mma id - 本人のブログあり
- UFC 選手データ
- DREAM 選手データ
- PRIDE 選手データ - Internet Archive
- BoutReview 選手データ
- SHERDOG 選手データ
- ↑ 「タイガー」はシカティックの持つ道場名「チャクリキ・タイガージム」に因んでいる。
- ↑ ミルコ・クロコップが右肘靱帯亜脱臼のため『DREAM.4』を欠場!! DREAM公式サイト 2008年6月9日
- ↑ DREAM 秋山・青木・ヒョードル… 大晦日へアピール合戦 BoutReview 2008年9月24日
- ↑ 【UFC99】ミルコ、1年9ヶ月振りのオクタゴンで快勝 MMAPLANET 2009年6月14日
- ↑ 【UFC103】ミルコ、ドスサントスに言い訳のきかない完敗 MMAPLANET 2009年9月20日
- ↑ Cro Cop Down On Himself After UFC 103 Loss, Talks Retiring MMANEWS 2009年9月21日
- ↑ 【UFC110】ミルコ、代役ペロッシュ破りUFC3勝3敗に MMAPLANET 2010年2月22日
- ↑ 【UFC115】ミルコが一本勝ち、お茶目にアピールも MMAPLANET 2010年6月13日
- ↑ 【UFC119】ミア×ミルコ、静かな展開もラストは衝撃的に MMAPLANET 2010年9月26日
- ↑ 【UFC128】シャウブがKO勝利、ミルコに右フック一閃 MMAPLANET 2011年3月20日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ Despite Close to UFC Career, Mirko Cro Cop Plans Return to Kickboxing MMAFighting 2011年12月9日
- ↑ CroCop not retiring, wants to win K-1 GP this year Fighters Only 2012年1月25日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ ミルコ、GP優勝は当然 “第2のミルコ”育成も スポーツナビ 2004年4月11日
- ↑ [PRIDE武士道2]2.15 横浜:ミルコ、小泉首相と会談。ラジオにも出演 BoutReview 2004年2月12日
- ↑ ミルコ、プロサッカーでデビュー ランデルマンと運命の再戦も スポーツナビ 2004年11月18日
- ↑ ミルコ母国凱旋! ノゲイラと4万人ザグレブ決戦だ スポーツナビ 2004年2月5日
- ↑ dnevnikでのインタビュー 2009年2月24日
- ↑ ミルコ反戦、K−1平和訴える サップは異例の会見欠席 スポーツナビ 2003年3月29日
- ↑ YouTube