レイ・セフォー
レイ・セフォー(Ray Sefo、男性、1971年2月15日 - )は、ニュージーランドの元キックボクサー、元総合格闘家、元ボクサー、現在は格闘技プロモーター、格闘技トレーナー、プロレスラー。オークランド出身。レイ・セフォー・ファイトアカデミー、エクストリーム・クートゥア所属。
「南海の黒豹」の異名を持つ。また、シュガー・レイ・レナードに憧れていた影響で海外では「Sugar(シュガー)」との異名も持つ。
入場時には曲のリズムに乗って観客を煽りながら入場し、試合では笑顔を見せながら得意技のブーメランフックを武器にノーガードで打ち合うなど、観客を沸かせる戦い方を重視したファイター。特にマーク・ハント戦で両者ともにノーガードで殴り合った死闘は伝説となっている。
K-1の試合の時のセコンドには、実弟のロニー・セフォーやアーロン・セフォー、極真会館専属トレーナーであり従兄弟のファイ・ファラモエ(レイは日本では極真会館勢とトレーニングを積んでいる)などが就いている。昔から総合格闘技への挑戦にも意欲的であり、キックボクシングと並行してエクストリーム・クートゥアで総合格闘技のトレーニングも行っていた。
2009年以降は現役選手としての活動は第一線から退き、チームメイトの打撃トレーナーとしてセコンドに就くことが多くなる。2012年にはプロモーターとして自らが社長を務める総合格闘技団体World Series of Fightingを旗揚げし、プロモーターとしても成功を収めている。2013年にキックボクサー、総合格闘家としての現役を引退した。
来歴
サモア系移民の家庭のもとでニュージーランドに生まれ、小さいころはカンフーを習っていた。その後、伝説のボクサーシュガー・レイ・レナードに憧れ、ボクシングを始める。18歳の頃には既にプロボクサーとしてリングに上がっていた。
1996年12月8日、K-1 HERCULES '96にてK-1デビュー、アーネスト・ホーストにローキックで4RTKO負け。キックボクシング初の敗戦となった。
1997年4月29日、K-1 BRAVES '97でジェロム・レ・バンナと対戦、先制のダウンを奪われるも、直後にブーメランフックで失神させKO勝ち。
1998年4月9日、K-1 KINGS '98でフランシスコ・フィリォと対戦、ノーガード戦法を初披露するなどトリッキーな動きを見せたが、5R判定1-1で引き分け。
1998年5月24日、K-1 BRAVES '98でマット・スケルトンと対戦。右脛負傷により2RTKO負け。
1998年9月27日、K-1 GRAND PRIX '98 開幕戦でステファン・レコと対戦、3-0の判定勝ち。12月13日、準々決勝でアンディ・フグに2RKO負け。
1999年4月25日、K-1 REVENGE '99にてアンディ・フグにリベンジマッチを挑むが4Rタオル投入TKO負け。
12月5日、K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦の準々決勝でサム・グレコに判定負け。
2000年12月10日、K-1 WORLD GP 2000 決勝戦にて、準々決勝で武蔵に1RKO勝利、準決勝でシリル・アビディに勝利、決勝でアーネスト・ホーストに判定負け(骨折)し、準優勝。
2001年になると、K-1と並行してプロボクシングの試合にも出場するようになる。4月29日、K-1 WORLD GP 2001 大阪予選トーナメント1回戦で、プロボクシングOPBF東洋太平洋クルーザー級王者にして前年にはWBO世界クルーザー級王座に挑戦していたアダム・ワットにパンチで1RKO勝ち。しかし、腰部筋挫傷を起こしたため準決勝をドクターストップによって棄権した。
6月24日、K-1 SURVIVAL 2001 〜K-1 JAPAN GP 開幕戦〜にてレミー・ボンヤスキーのK-1デビュー戦の相手を務め、苦戦を強いられた末に腕と左脛の負傷によって4R終了時にタオル投入TKO負け[1]。
9月2日、前戦の腕と左脛の負傷が完治しないままプロボクシング6戦目(5戦5勝4KO)で、チェスター・ヒューズ(11勝1敗)との6回戦マッチを行うも、ワンツーからの左フックをまともにもらい腰を落とし、そのまま連打をまとめられてダウン、1R49秒TKO負け。自身のK-1での人気が上昇中ということも手伝い、以後K-1に専念する。
2001年10月8日、K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKAの敗者復活トーナメントBブロック1回戦でミルコ・クロコップと対戦予定だったが、ミルコ欠場により代打出場のマーク・ハントと対戦。両者ともにノーガードで笑顔でパンチをくらいながら殴り合うK-1史上に残る壮絶な死闘の末に3-0の判定勝ち。しかし、試合でのダメージによってセフォーが右目の視力の低下を訴え、ドクターチェックの結果、眼下底骨折の疑いがあり、決勝を棄権した。
2002年3月3日、K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYAにてマイク・ベルナルドと対戦し、またしても両者共にノーガードで殴り合う壮絶な死闘を繰り広げ、ダウンを奪われるも2度のダウンを奪い返して5R戦い抜き3-0の判定勝ち。7月14日、K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKAにてメインイベントでK-1 vs. PRIDEの対抗戦としてギルバート・アイブルとK-1ルールで対戦し、右ローキックで2RKO勝ち。
2002年10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦で、勢いに乗るマーティン・ホルムと対戦し、2-0の僅差判定勝ち。12月7日、K-1 WORLD GP 2002 決勝大会にて準々決勝でピーター・アーツと対戦し、2-1の判定勝ちを収める。僅差であったためこの試合はアーツが優勢だったという声もある。準決勝でアーネスト・ホーストと対戦し、自らが蹴ったローキックをブロックされて脛を骨折し、TKO負けとなった。大会後の会見で「2週間ぐらい前に右足を怪我して、その間まったくキックの練習をしてなくて、今回の試合でもキックを蹴らないように、と考えていたが、自然の流れでパンチとキックのコンビネーションを使わざるをえず、痛めてしまった」とコメントした[2]。
2003年12月6日、K-1 WORLD GP 2003 決勝大会の準々決勝で武蔵と対戦。セフォーは試合前の記者会見でも「3週間前に引いた病気が治らず、悪寒がして、体の節々が痛い」と語るほど体調不良を隠しきれないなかで臨み、判定負け[3]。試合後の会見では「前回対戦した3年前よりも武蔵は成長していた。自分の体調が悪かったから武蔵が勝ったわけではなく、武蔵が上達し、可能性のあるいい選手だと理解してほしい。武蔵だけでなく、日本の選手は皆素晴らしい選手で、経験を積んでファイティングスピリットを持っている。自分も負けないようにサムライスピリットを持っていきたい。1週間前に欠場を考えたが、ファンをガッカリさせたくないのと、1年間頑張った自分のためにも強行出場した」とコメントした[4]。
2004年8月7日、K-1 WORLD GP 2004 in LAS VEGASにてマーヴィン・イーストマンに1RKO勝ち。ドクターチェックの後、手を合わせようとしたイーストマンにセフォーがラッシュをしかけ、レフェリーが間に入り試合を止めてセフォーの1RKO勝ちとなった。会場はブーイングし、イーストマンは「レフェリーストップが早過ぎる!俺は負けてない」と抗議。その後、不満の溜まったお互いが「まだやり合おう」と挑発し合い、近付いたイーストマンをセフォーが殴ったためリング上でセコンドを巻き込む乱闘となった。
12月4日、K-1 WORLD GP 2004 決勝戦の準々決勝で武蔵に判定負け。判定結果についてレイやそのセコンド陣、会場で試合を見ていたアーネスト・ホーストなども納得していなかった。判定に納得の行かないセフォーは控え室に戻る際のインタビューで、「(判定結果は)バカにしてるぜ。」「あいつは俺から逃げてばかりだった。やってられねぇよ!」「インタビューなんてやってられるか。」と声を上げ、さらに「判定に不満?」と聞く日本人インタビュアーに対して、「お前は試合を見てなかったのか?見たんだろ?お前はどう思った?誰が勝者だ?」「(インタビュアーが口ごもると)聞こえないな!本当に勝ってたのはどっちなのかお前の口から言ってみろ!」「あいつは逃げてた。ホントやってられねえよ!」と、大声で激怒し続けた。なお、大会後には武蔵vsセフォー戦を含めた同大会における武蔵の試合の判定結果に対して、ファンから抗議の声が殺到し、再審が行われたが判定は覆らなかった。
2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!でゲーリー・グッドリッジと対戦し、1R0分24秒レフェリーストップでTKO勝ちを収めた。試合後、「東京ドーム(で行われた前回の武蔵戦)と全く同じジャッジ3人だったんで嫌な感じだったけど、今度はちゃんと倒したので大丈夫。」と語った。
2005年6月14日、K-1 WORLD GP 2005 in HIROSHIMAでルスラン・カラエフと対戦し、開始37秒でフックで2度ダウンを奪い、タオル投入によるTKO勝ち。
2005年7月6日、HERO'Sにて総合格闘技ルールに初参戦し、キム・ミンスにハイキックでKO勝利。
9月23日、K-1 WORLD GP 2005 開幕戦でガオグライ・ゲーンノラシンと対戦し、ダウンを奪って3-0の判定勝ち。
11月19日、K-1 WORLD GP 2005 決勝大会の準々決勝でセーム・シュルトと対戦。髪をバッサリ切り落として決意の坊主頭で試合に臨んだが、3Rにダウンを奪われるなど一方的に攻められ判定負け。試合後、控え室に戻る途中で人目もはばからず悔し涙を流して号泣した。試合後の会見では「秘密にしていて、誰にも言っていなかったが、来日して2日目に体調を悪くして38度8分の高熱が出ていた。ただ、これを言い訳にするつもりはないし、シュルトは非常に良かった。でも、これでレイ・セフォーが終わったわけじゃないし、また必ず帰ってくるよ。1週間半ほど前は非常に調子が良くて、気合を入れる意味で頭を丸めた。トーナメントはいつも不運だ。本当に調子が良かっただけに、泣いてしまいそうになった時もあった。もう、今年を最後にしようという気持ちにもなったけど、今この場所で思うのは、このまま逃げ出すようなことをするのはK-1ファイターではない。また、必ず帰ってきたい」と再起を誓った[5]。
2006年6月3日、K-1 WORLD GP 2006 in SEOULでルスラン・カラエフとリマッチを行い、カラエフの膝の打ち終わりにカウンターのブーメランフックを喰らわせ、失神KO勝ち。
2006年9月30日、K-1 WORLD GP 2006 開幕戦でステファン"ブリッツ"レコと対戦、延長判定で敗北し、5年連続東京ドーム(決勝大会)進出はならなかった。試合後の会見で判定への不満を述べ、「まるでジャッジと戦っていたようだった。逃げる方が攻める方よりポイントになるのか。いつの間にK-1はルールが変わったのかな(笑)」とコメントし、さらに「他団体移籍を本気で検討する」と語った[6]。
12月2日、K-1 WORLD GP 2006 決勝大会のリザーブマッチでメルヴィン・マヌーフに1RKO勝ち。しかしマヌーフから、KOしたパンチは後頭部への反則攻撃ではないかと抗議された。
2007年3月4日、K-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMAでセーム・シュルトとK-1スーパーヘビー級初代王者決定戦を行う。シュルトへのリベンジに燃えると共に、前年のK-1 WGPでシュルトがK-1の象徴であるバンナ、ホースト、アーツに勝って優勝したこともあって、「俺と共にK-1を支えてきた盟友であるバンナ、ホースト、アーツらのために戦う!」と決意して万全の体調で臨み、1R終了間際にシュルトからダウンを奪ったものの、2R開始直後に踏み込んだ際にカウンターパンチを受けて、失神KO負け。
2007年8月11日、K-1 WORLD GP 2007 IN LAS VEGASでビヨン・ブレギーと対戦。1-2で判定負け。スプリットでの判定負けとなったため、「勝てる試合だった。どうしてこうなったのか。相手はジャブを出しては100メートル走のように逃げ回ったんだ。それをジャッジがどうスコアを付けるかってことさ。観客もジャッジしているんだからブーイングが起こった事が何を意味するか。この試合が日本だったら彼が勝つことは絶対にないと思うよ。逃げ回る相手にどうやって勝てと言うんだ。ドローだったらまだ許せたが、彼の勝ちというのはあまりにバカらしいよ。」と語った。
2007年9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16でGP1回戦をピーター・アーツと対戦。右ローキックでダウンを奪われ1Rが終了、インターバル終了後セフォーは立ち上がることができず、セコンドからタオルが投入されTKO負け。来日後セフォーには高熱があった。
2008年2月、DREAMからMMAルールミルコ・クロコップ戦のオファーを受けるも十分な練習時間がないことを理由に断った。しかし、この対戦が同年夏に実現することを視野に入れ、総合格闘技のトレーニングをランディ・クートゥアのジムで再開した[7]。
2008年4月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAでバダ・ハリと対戦。1Rに3度のダウンを奪われKO負け。
2008年7月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN TAIPEIのスーパーファイトでザビット・サメドフと対戦し、2R延長の末、僅差の判定負け。
2008年9月27日、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16でグーカン・サキに僅差の延長の末、判定負け。これで6連敗となった。
2008年12月6日、K-1 WORLD GP 2008 FINALのリザーブファイトでチェ・ホンマンに3-0で判定勝ち。セフォーは終始、ホンマンを圧倒しK-1での連敗を止めた。
2009年になると、選手として現役は続けているものの第一線からは退き、エクストリーム・クートゥア所属のチームメイトや極真会館の選手達、友人であるビクトー・ベウフォートやラシャード・エヴァンスらの打撃トレーナーとしてセコンドに就くことの方が目立つようになる。
9月25日、アメリカ・オクラホマ州で行われたStrikeforceの下部イベントShoMMA: Strikeforce Challengers 3にて、ケビン・ジョーダンと対戦し北米MMAデビュー。2005年7月のHERO'S以来の総合ルールとなった。1Rはテイクダウンを許すとグラウンドで攻め続けられた。しかし2R早々にジョーダンがタックルをした際に自ら右膝を負傷して自爆。口頭でギブアップをしたため、思わぬ形でセフォーのTKO勝利となった。
2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜にて西島洋介と対戦し、ダウンを奪い判定勝ち。
2010年10月2日、K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16に欠場となったルスラン・カラエフの代役[8]として、準備期間の短い急なオファーでタイロン・スポーンと戦い、0-3の判定負けを喫した[9]。
2011年になると、それまでK-1を主催していたFEGが経営不振によって多くのファイターへのファイトマネー未払い問題が表面化し、K-1の大会、特にヘビー級のWORLD GPの開催予定の目処が全く立たなくなった。セフォーはK-1の未払い問題について、「K-1はまだ俺に70万ドルの未払いがある。俺は最後の試合の後に彼らに『よく聞け。この金が支払われるまでは2度とK-1で試合をしないぞ』と言ったよ。」「訴えたいが、法的手段に出て彼らが破産したら、俺たちには弁護士費用しか残らなくなるから一番困る。」と海外メディアで語り[10]、日本のメディアでも「俺のファイトマネーは(谷川体制のK-1になってから)9年のうち7年間は理由も無く減額されるなどして全額払われることはなく、特にここ4年は未払いが酷く、総額では70万ドル以上になる」と主張している。ただし、谷川はトークイベント「Live Wire」にて格闘技ライターに言及され、多くのファイターに対して未払いがある事を認めたものの、セフォーの主張に対しては、「あれはむかつく。コイツには全部払ってますよ!(原文ママ)」「(これがセフォーと)ピーター・アーツとの大きな差だよね。何も被害がないのに言う人と、被害があるのにじっと耐える方と。訴えればいいじゃん!」と語っている。それを伝え聞いたセフォーは「俺の目の前で言ってみろ!」「もし俺の手元にマグナム45があったら全弾を谷川に撃ち込んでやる!」と激怒した[11][12]。
2011年2月12日、Strikeforce: Fedor vs. SilvaのStrikeforce World Grand Prix リザーブマッチでヴァレンタイン・オーフレイムと対戦し、ネッククランクによる一本負けを喫した[13]。
7月10日、アントニオ猪木が主催するプロレス団体IGFに初参戦し、初代IGF王座決定トーナメント1回戦でエリック・ハマーと対戦し、敗れた。
8月27日、INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜にて、プロレス2戦目を行い、モンターニャ・シウバに反則勝ち。
2012年3月10日、クロアチアで開催されたCro Cop Final Fightにてキックボクシングルールでミルコ・クロコップと対戦。お互い大きな決定打はなかったが3R判定で敗れた。
2012年11月3日、レイ・セフォー自ら社長を務める総合格闘技団体World Series of Fighting(略称WSOF)の旗揚げ大会を開催。開催発表会見でセフォーが「NBCスポーツと年間で放送契約した。1年で8から10大会の開催を目指す」と発言すると、NBCスポーツ側から、「1大会の中継しか決定していない」と反論が発表され[14]、2013年1月に予定していた第2回大会が2月に延期されるなど、やや不安を感じさせたが、旗揚げ戦には元UFC世界ヘビー級王者アンドレイ・アルロフスキーをはじめとする元UFCファイター達やHERO'S世界王者ジェシアス・カバウカンチ、セフォーのK-1時代からの盟友であるジェロム・レ・バンナやタイロン・スポーンらとも参戦契約を結ぶことに成功した。また、2013年2月に改めてNBC Sports Networkと3年間の放送契約を結んだことが正式発表された[15]。
2013年8月11日、World Series of Fighting 4: Spong vs. DeAndaにて引退試合を行い、デイブ・ハッカバと総合ルールで対戦。2Rにハッカバに金網に押し込まれるとその体勢からエルボーを何度も受けてやや劣勢となるが、セフォーのローキックによってハッカバも左足が流れるようになる。その後ハイキックを打って体勢を立て直そうとするセフォーにハッカバが左フックと右アッパーをヒットさせ、その攻撃でぐらついたセフォーは金網際で攻撃を受け続けたためレフェリーが試合を止めてTKO負けとなった。この試合で引退となるセフォーは試合後に最後のマイクで、「長い間サポートしてくれたファンとメディアに感謝している。」と述べ、リングをあとにした[16]。
戦績
キックボクシング
テンプレート:Fight-start テンプレート:Fight-header テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-end
総合格闘技
テンプレート:Fight-start テンプレート:Fight-header テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-cont テンプレート:Fight-end
プロボクシング
テンプレート:Fightstatstop テンプレート:Fightstatscont テンプレート:Fightstatscont テンプレート:Fightstatscont テンプレート:Fightstatscont テンプレート:Fightstatscont テンプレート:Fightstatscont テンプレート:Fightstatsbottom
獲得タイトル
- WMTF世界ライトヘビー級王座(1995年)
- ISKA世界クルーザー級王座(1995年)
- ISKA世界スーパークルーザー級王座(1996年)
- WMTF世界ヘビー級王座(1996年)
- WKBF世界スーパーヘビー級王座(1997年)
- WKBA世界スーパーヘビー級王座(1997年)
- K-1 WORLD GP 2000 準優勝(2000年)
ファイトスタイル
ブーメランフックと呼ばれる死角から飛んでくるフックをフィニッシュブローとする。決まるのは特にカウンターが多い。ちなみに「ブーメランフック」という異名は、セフォーの強烈なフックを見た格闘技通信の記者が、漫画リングにかけろの主人公・高嶺竜児の必殺技であるブーメランフックを重ね合わせて記事を書いて以来、セフォーの必殺技として定着した。
対戦相手が連打もしくはキレのある攻撃をすると、「フッー!!」と声を上げ、とにかく嬉しそうに笑顔を作ると「もっと打って来い」といわんばかりに挑発する。余裕のあるとき、もしくは追いつめられた時、このいずれかの場合にノーガード戦法に入ることが多い(このノーガードは1998年の対フランシスコ・フィリォ戦で初披露された)。
人物
- 長年K-1で戦ってきたライバル達への尊敬心は高く、セフォーの自宅の自室にはジェロム・レ・バンナ、ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、レミー・ボンヤスキー、アンディ・フグらの写真が飾られている。
- スティーヴン・セガールやジャッキー・チェンなどのアクションスターのファンでもあり、将来はムービースターになるのが彼の夢である。2004年12月に公開された日本映画「ゴジラ FINAL WARS」でスクリーンデビューした。
- 2009年からはHDNetで放送されるK-1海外中継のテレビ解説者を務めることも多かった。
- 子供の頃は喧嘩に明け暮れており、プロのファイターとなった現在でも血の気の多い一面を見せることがある。マーヴィン・イーストマン戦では1RKO勝利を収めたが、レフェリーストップの速さに不満を抱いたイーストマンが、試合後のリング上で握手を求めてきたセフォーを挑発すると、キレたセフォーがその場で殴りかかる大乱闘に発展した。
- 日本では長年に渡って「南海の黒豹」という異名で呼ばれていたが、セフォー本人はそのことを2011年になるまで知らなかった。
出演作品
- 「ゴジラ FINAL WARS」(グレン)