マーク・ハント
マーク・ハント(Mark Hunt、男性、1974年3月23日 - )は、サモア系ニュージーランド人のキックボクサー、総合格闘家。オークランド出身。アメリカン・トップチーム所属。K-1 WORLD GP 2001王者。
2000年に無名ファイターとしてK-1に初登場と同時にK-1オセアニアトーナメントを圧倒的な強さで2000年、2001年と2連覇。本戦のトーナメントでも優勝を果たしWORLD GPシリーズに出場。世界中の強豪を次々と撃破し、K-1オセアニア地区予選でのK-1デビュー戦からわずか1年9ヶ月で、そしてたった一度の挑戦で全盛期のK-1 WORLD GPを制覇し、K-1王者となった人物。ヘビー級において現在もヨーロッパ圏以外で唯一のK-1王者であり、さらには全階級を通して地区予選から勝ち上がった唯一のGP優勝者。
パンチ力測定マシーンにてどのK-1ファイターよりも断トツの数値を叩きだしたように[1]、K-1史上トップクラスのパンチ力を持つハードパンチャー。これまでの格闘技の常識をくつがえす存在から、「サモアの怪人」という異名を持つ。また、試合の勝敗に関わらず見る者を熱くさせるファイトが非常に多いため、名勝負製造機としても名高い。
2004年に総合格闘家に転身し、総合格闘技の舞台でもK-1同様ハードパンチでKOを量産するストライカー。30歳まで総合格闘技の未経験者であったため、しばらくはグラップリングが弱点となっていたが、UFCに移籍した2010年以降は度々出稽古を行い、北米の総合格闘技ジムで特訓を積むことによりグラップリングが格段に向上した。
目次
来歴
K-1
2000年2月27日、K-1 WORLD GP 2000 オセアニア地区予選大会のトーナメントに無名ながらエントリーされ、K-1初登場。
1回戦ではクレイ・アウミタギと対戦。2Rに膝蹴りでダウンを奪うと、直後に右ストレート1発でKO勝ち。続く2回戦ではロニー・セフォーと対戦して判定勝ち。決勝戦ではフィル・ファーガンに右フック2連打からのアッパーで2RKO勝ち。K-1に初参戦でありながら初出場・初優勝を果たした。この時点で、のちにK-1プロデューサーとなる解説の谷川貞治は実況席で「この選手は本当に強い。非常に打たれ強くてナチュラルです。本当に良い選手ですよ。」とすでに評価していた。
2000年7月30日、K-1 WGP決勝トーナメントへの出場権をかけたK-1 WORLD GP 2000 in NAGOYAのトーナメントに出場。
準々決勝でジェロム・レ・バンナと対戦し、判定負け。「これまでこんな大きな舞台で戦ったことがないから、巨大な会場と数万人の観客の声援にビビって緊張で頭が真っ白になった。試合中に何をしていたかすら覚えていない。」と語るハントは、外から内への出入りを繰り返しながらバンナと一進一退の殴り合いを繰り広げた。当時(1997年~2005年頃までハント戦・レコ戦を除き)32勝32KOというKO率100%を誇るバンナを相手にしても特に大きなダメージを受けることもなく試合を終えるが、1Rにポイントを取られていたため判定負けとなった。
2001年2月24日、K-1 WORLD GP 2001 世界地区予選 メルボルン大会のトーナメントに出場。
準々決勝でネイサン・ブリッグスと対戦。パンチラッシュから膝蹴りでダウンを奪うと左右のフックの連打によりわずか57秒でKO勝ち。準決勝はアンドリュー・ペックと対戦し、右クロスカウンター1発で48秒KO勝ち。決勝戦ではピーター・グラハムと対戦して、2Rにボディへ強烈な右ストレートを打ち込みグラハムを悶絶ダウンさせると、3Rに右アッパーカットでKO勝ち。3試合すべてKO勝利で、2年連続オセアニアトーナメントを制覇した。
2001年6月16日、K-1 WORLD GP 2001 in MELBOURNEにて、K-1 WORLD GP 2001の出場権をかけたトーナメントに出場。
準々決勝ではアマチュアボクシングの全日本王者でもある天田ヒロミと対戦し、1RKO勝ち。前年114㎏であったハントは脂肪をまとい120kgを超えていた。試合ではプレッシャーをかけながら左右のパンチとローキック・飛び膝蹴りを放って天田を追い詰めると、1R終盤に右ストレート1発で天田をコーナーまで吹き飛ばして1RKO勝利を収めた。敗れた天田は腰骨を骨折。天田はのちに『K-1でパンチの強かった選手』について聞かれた際に、「ハントのパンチは1発で飛んだので気持ちよく死ねました。」と語っている。
同日の準決勝では、アーネスト・ホーストと対戦し、判定負け。プレッシャーをかけながらパンチで前に出るハントと、距離を取りながらローキックを当てていくホースト、という図式になり、2Rにハントがホーストのローキックのモーションにパンチを合わせてホーストからスリップ気味のダウンを奪った。しかし(試合中にリング外でダウンの取り消しが内密に行われるというK-1史上、前代未聞の事態が起こり)そのダウンポイントは採点から除外されたため、ローキックで効果的に戦ったホーストが優勢となり1ポイント差の判定負けとなった。
2001年10月8日、K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKAの敗者復活トーナメントにて、出場予定だったミルコ・クロコップの代替として急オファーで出場。
1回戦でレイ・セフォーと対戦し、判定負け。1R開始早々にハントがラッシュを仕掛けセフォーをぐらつかせると、攻撃を返してきたセフォーに対してカウンターの右ストレートを打ち込み再度ダメージを与える。しかしセフォーも引かずにハントにパンチを当て始めると試合は壮絶な殴り合いとなり、K-1史上に残る名勝負となる。2Rにはハントがセフォーの強烈なパンチをノーガードのまますべて顔面で受け切るという離れ業を見せて観客を沸かせた。試合は最後まで白熱した打ち合いとなり、与えたダメージ面ではハント優勢だったが、ジャッジはヒット数で上回るセフォーを支持し判定負けとなった。だが、セフォーがこの試合で控え室が分からなくなるほどのダメージを受けたためトーナメント続行不可能。(症状:眼窩低骨折、視力低下、他)。急遽セフォーの代わりにハントが勝ち上がりとなり、同日の決勝進出の権利を手にする事となった。
同日、決勝戦にてマイク・ベルナルドを1RKOして勝ち上がってきたアダム・ワットと対戦し、3RTKO勝ち。肉体改造で体重を10kg以上増加させたボクシングの世界ランカーのワットは2Rに強烈なカウンターの左フックを直撃させるが、ハントは何事もなかったかのように右フックを打ち返しワットからダウンを奪う。直後にもワットのジャブ連打をヘッドスリップでかわしながら右フックを当てて2度目のダウンを奪った。しかしワットも打ち返し、ハントの頭を掴んで頭突きをしたり、後頭部を打つラビットパンチなど重度の反則攻撃を繰り出す。これらの攻撃は解説席でも指摘されたがハントがあまりに平然としているため審判がなぜか反則を取らない。試合は続き、2R後半にはハントのラッシュでワットが目尻をカットして流血。3Rには「この大会(セフォー戦・ワット戦)は急オファーで体力作りをしていなかったのでバテた」と後に振り返るやや疲れ気味のハントをワットが渾身の力で攻めてパンチや膝蹴りを何度もヒットさせるが、打ち合いの中でハントがカウンターの右フックをヒットさせてワットが膝から崩れて3度目のダウン。その際にワットの目尻からの出血によりドクターチェックが行われワットは試合続行不可能。ハントのTKO勝利となり、福岡トーナメントで優勝。K-1 WORLD GP 2001決勝大会への切符を手に入れた。
2001年10月9日、ハントが優勝した福岡トーナメント開催の翌日、8人の勝ち残ったファイター達が一斉に集まり、12月に開催されるK-1 WORLD GP 2001 FINALでの決勝トーナメントの組み合わせ抽選会が行われた。そこでは誰もがホーストとバンナの入ったAブロックを避ける中、ハントが比較的楽とされるもう片方のBブロックを選ばないだけではなくバンナの隣を選び、その勇気に会場のマスコミ関係者達からは大きな声援と拍手が起きた。この結果、GPファイナルは準々決勝からハントvsバンナという旬の好カードが生まれた。
2001年12月8日、K-1 WORLD GP 2001 FINAL in 東京ドームの決勝トーナメントに出場。
準々決勝では、トーナメント抽選会で自ら対戦相手に指名した優勝候補のジェロム・レ・バンナと対戦し、2RKO勝ち。1Rは比較的静かな立ち上がりとなるが2R開始直後に激しい打ち合いが始まる。バンナが膝蹴りとパンチでハントをコーナーに追い込むがハントはバンナの強烈な左ストレートをおでこで受け止め、直後に「もっと打って来い」というポーズと共に自らの顎を前に突き出し会場を沸かせた。そして至近距離でハントが強烈な右フックを当てると、動きの止まったバンナに左右のフックを連打。最後はロープ際で棒立ちになったバンナに右フックを打ち込み失神KOで破り、東京ドームの5万人以上の観客を熱狂の渦に巻き込んだ。試合直前のインタビューで「今回はワンマッチではなくトーナメントだから初戦から全力は出さない。力をセーブしてて戦うよ」と語っていたバンナに対して痛烈なリベンジを果たした。なお、この試合の実況を担当したフジテレビの三宅正治アナウンサーは興奮のあまり、「大本命、ジェロム・レ・バンナ撃沈!!新しい星の誕生です!ビッグウェーブがジェロム・レ・バンナを飲み込んだ!!新しい波!新しい星!新しい力!!マーク・ハント!ジェロム・レ・バンナを粉砕!!!」と絶叫し、のちに三宅アナはスポーツ番組ジャンクスポーツにて『自身の生涯ベスト実況はどれか?』という質問に対して、すべてのスポーツの実況の中からこの試合の実況を挙げている。なお、この試合の決着場面においてハントが反則の肘打ちを放っている写真がSRS DXに掲載されたが、バンナ側から特に抗議は無かった。
同日の準決勝にて、アーネスト・ホーストと対戦予定だったが、ホーストの負傷棄権によって敗者復活してきたステファン・レコと対戦し、3R判定勝ち。1R早々にハントが素早い踏み込みからの右ストレートでバックステップするレコを捉えてダウンを奪う。レコもハントに攻撃をヒットさせるがそれを物ともせずに前に出てくるハントのプレッシャーに圧されてなかなかペースを掴めない。2Rにはレコが放った左ハイキックにハントがカウンターの右フックを合わせて2度目のダウンを奪い、大差の判定勝ちを収めた。なお、この試合でレコの攻撃の衝撃をすべて吸収してしまうかのような打たれ強さを見せるハントに対して、実況席の藤原紀香はハントを『魔人ブウ』と称した。
同日の決勝戦にて、ピーター・アーツとアレクセイ・イグナショフを破り勝ち上がったフランシスコ・フィリォと対戦し、延長1R判定勝ち。試合はガードを固めて蹴り中心に攻めるフィリオと、膝蹴りやボディブローでボディにダメージを与えていくハント、という図式となる。拳が交錯するシーンは少ないもののフィリオがバックスピンキックを放つとハントもバックスピンキックを返すなどして会場を盛り上げる。ただ試合は全体を通してフィリオの手数が少なく後ろに下がるシーンが目立つため、3R中盤にレフェリーが痺れを切らしてフィリオに警告を与えた。3R終了時点の判定ではドローとなり延長戦となる。延長Rではフィリオはボディにダメージが蓄積しているため前に出ることができずレフェリーから2度目の警告を受けてしまう。対するハントはボディブローや飛び膝蹴りをフィリオの腹部に当てていき終始フィリオを攻め続けて明確な差を付けた。この結果、延長ラウンドの判定ではジャッジ三者全員がハントを支持し、3-0の判定でフィリオを破り、K-1 WORLD GP 2001を制覇。2001年のK-1王者となった。
2002年1月27日、K-1 RISING 2002 in SHIZUOKAで中迫剛と対戦し、2RKO勝ち。解説席の関根勤に「ハント、また太ったんじゃないですか?」と言われる通り、K-1で優勝してからまともに練習をしておらず[2]、前回の試合より体重が脂肪で6.5kgも増えていた。試合は1R中盤にハントの膝蹴りとボディブローを受けた中迫が後退。ハントはそのまま打撃で中迫をコーナーに追い込むと狙いすました膝蹴りでダウンを奪ったが、2Rには中迫のハイキックが頭を下げたハントの後頭部に直撃してハントは生涯初めてのダウンを奪われた。だがすぐに立ち上がったハントは火が付いたようにラッシュを仕掛け、フック気味の左アッパーで中迫を跳ね飛ばして2度目のダウンを奪うと、今度はジャンプしながらの右フックで3度目のダウンを奪った。立ち上がった中迫もミドルキックを連打して応戦するが、最後はハントがその右ミドルを掴みながら右フックを当てて4度目のダウンを取ったところでレフェリーが試合を止め、2RKO勝利した。勝ち名乗りを受けたハントは、ロープ際でうなだれる中迫を後ろから抱えて持ち上げて、観客と共に祝福した。
2002年3月3日、K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYAでミルコ・クロコップと対戦し、5R判定負け。前回の試合から約1ヶ月という短期間での参戦。体重は数百グラム減ったが去年末より6kgオーバーウェイト(1年半前と比べると14㎏オーバー)。1R開始早々にハントの右ボディストレートがミルコのボディに入る。1Rは互角の展開。2Rはハイキックとクリンチ・パンチを巧みに使うミルコが優勢に攻めた。3Rにはハントがミルコをコーナーに追い詰み1R同様のボディストレートをミルコの腹部に打ち込む。その攻防後にミルコは苦悶の表情。しかし直後にミルコが左ハイキックを放ち、その直撃を受けたハントは生涯2度目のダウンを奪われた。カウント3で笑いながら立ち上がったハントは首相撲を仕掛けミルコのボディに膝蹴りを打ち込んだところで3R終了。ここまではポイントでミルコ優勢。4R・5Rになるとスタミナ面とボディへのダメージでミルコが時折苦しそうな表情を見せ、打ち合いを避けながらクリンチを繰り返すようになる。4・5Rはアグレッシブに攻めたハントが巻き返すが中盤までのポイント差が響き判定負けとなった。試合後、ハントは「ミルコは素早くて捕まえるのが大変だった。全部は勝てないよ。」と語り、リング上で勝ち名乗りを受けたミルコはハントからの祝福には首を横に振り、控え室に戻る際のインタビューでも「苦しい戦いだった。今まで戦ったすべての選手の中でハントは一番体力があった…。」と語った[3]。
この頃、ハントは格闘技雑誌『ゴング格闘技』などにて不調について質問された際に自身の問題を告白。昨年K-1で優勝してK-1王者になったことにより、知らない親戚が大量に増えて群がりお金を持って行ったり、成功したハントにあやかろうと寄ってくる人間が引っ切り無しに現れ、周りの知り合い達も態度が豹変して別人のように優しくなったりするなど、今までに感じたことのない恐怖に襲われたと語っている。ハントはそうした環境の変化や人間関係に悩み続けて最後には自暴自棄・人間不信に陥ってしまったという。練習にも集中しきれず、ミルコ戦前~パリでのバンナ戦の間の数ヶ月は病院の精神科に通っていたこともインタビュー内で明かしている。実際この時期のハントはTBS系列のテレビ番組『筋肉番付』の「K-1 メンコ GP」に出演にしてベルナルドに敗れた際、メンコでの対決であるにも関わらずなぜか泣いてしまうなど、底なしに明るい性格であるはずのハントがかなり精神的に参っていた事が確認できる。この後に行われるバンナ戦後のインタビューでも涙ぐむなど、精神面が不安定な状態はこの後もしばらく続いていた。さらにミルコ戦・バンナ戦と2連敗すると、その寄ってきた人間達からは一切連絡がなくなり、ハントは本気で引退を考えたという。
2002年5月25日、K-1 WORLD GP 2002 in PARISでジェロム・レ・バンナと対戦。K-1パリ大会ではフランスの格闘技連盟の意向によって膝蹴りが全面禁止されていた大会であったため、バンナがハント対策として練習してきた接近戦の膝蹴りを使うことが出来ず、至近距離の打ち合いに応じたたね、壮絶な死闘となった。1Rはお互いに譲らぬ互角の展開。2Rはまずバンナがカウンターの右フックでダウンを先取。ハントは大笑いしながらカウント2ですぐに立つが、直後の攻防でバンナのパンチが目に入ったことにより片目を負傷して後退。そこに攻め込んだバンナの左ハイキックがさらにハントの右目に直撃する。だが今度はハントが左右のフックとアッパーを顎に打ち込んでバンナを前のめりにダウンさせダウンを奪い返す。そのまま両者一歩も引かない打ち合いとなり、ラウンド終了直前にはバンナがクリンチの離れ際にハイキックを当てダウンを奪った。結果、ダウンの応酬となりK-1史上に残る壮絶なラウンドとなった。この2Rは途中からハントが負傷と出血により両目がほとんど見えていない状態で戦っていたため、2R終了後のインターバル中にドクターがハントの目をチェックし「右目周辺を骨折している可能性が高い」と診断。それを受けてセコンドがハントを説得してタオルを投入。ハントは事実上のドクターストップによる人生初のTKO負けを喫した。その際に実況の三宅正治アナは「ハントはもう戦うことができません!」と実況したが、ハントは格闘技雑誌などで「ダメージは確かにあったけどインターバル中に回復したし、3Rも試合を続ける気だったんだけど…、セコンドとドクターの判断だからしょうがないね。残念だよ。」と語っている。なお、ハントは試合後にパリ市内の病院で検査を受けたが、セコンドがタオルを投入するきっかけとなった試合中のドクターによる「目の周りの骨折」という診断は間違っており、ハントの目や目の周りは特に何も異常はなかった[4]。
2002年8月12日、K-1・PRIDE合同イベントとして8月28日に開催されるDynamite!の会見が行われ、『マーク・ハント vs ドン・フライ』のK-1ルールでの対戦が発表された。しかし27日の大会前日会見にてK-1の石井和義館長が、「ハントはミルコ戦の時期に右手首を負傷(右手首背面部負傷)していて、パリでのバンナ戦前や試合後にも痛めていましたが、その怪我を悪化させました。これによりDynamite!でのハントvsフライは中止になります。(フライはバンナと対戦)」と発表。28日の[Dynamite!]でのドン・フライとの対戦が中止になると同時に、ハントがパリでのバンナ戦は右手首の負傷を隠したまま試合していた事が石井館長の口から明らかとなった[5]。(※実際にパリでのバンナ戦の映像には、1R終了時にコーナーに戻るハントが顔を歪めて右手首を痛がるシーンが映っている。)この怪我については、のちにK-1公式サイトのインタビューにて記者がハントに質問をしたが、言い訳を嫌うハントが、「なにそれ?そんな怪我知らないよ?」と隠す場面も見られた。この右手首の怪我は10月になると回復の方向に向かい、K-1 WGP 2002 開幕戦(ハントvsベルナルド)の当日、インタビュアーが控え室にいるハントに再び怪我の回復状況を聞いた際には、「今でもまだ少し痛むけど、試合を出来るまでには回復したよ。」と語っている[6]。
2002年10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦でマイク・ベルナルドと対戦し、判定勝ち。K-1トップのハードパンチャー同士の真っ向からの殴り合いが期待されたこの試合だったが、僅か13日前に行われたWGP開幕戦出場者決定戦でトム・エリクソンから2度ダウンを奪われたダメージが色濃く残るベルナルドがハントのパンチを警戒して3R後半まで打ち合いを避けて慎重な試合運びをしたため、3Rでは決着が付かず判定になる。判定を聞くまでの間に解説陣の石井和義館長や谷川貞治はベルナルドの消極性にやや不満の声を上げた。判定ではジャッジの一人がハントの勝利に付けたが、残り二人が延長を支持したため試合は延長Rへと進む。延長Rでもハントのプレッシャーでベルナルドが前に出られない展開が続き、ハントが何度も放つローキックでベルナルドがバランスを崩したり転倒するなどハント優位なシーンが目立ったため、延長1Rにてハントが3-0の判定勝ちを収めた。
2002年10月6日、開幕戦の翌日でもあるこの日に、開幕戦で勝利した8人のファイターが集まり、K-1 WORLD GP 2002 FINALの決勝トーナメント抽選会が行われた。くじ引きの結果、ハントの選択権は8番目(最後)となった。6人目まで選び終えた時点で、それまでの全ファイターに避けられたボブ・サップとステファン・レコの2選手の対戦相手が決まっていなかったが、7番目に選ぶ権利を得たセーム・シュルトがレコを選んでハントvsサップが決定かと思われる中、シュルトは同門のレコとの対戦を避けざるを得なかったためにサップを選択。ハントは自動的にレコとの再戦が決まり、「自分には選択の余地はなかったけど、良いリマッチになるように頑張ります」と答えた。[7]
2002年12月7日、K-1 WORLD GP 2002 FINAL in 東京ドームの決勝トーナメントに出場。
準々決勝でステファン・レコと2度目の対戦をして、3RKO勝ち。開幕戦からこの日までの特訓で4kg痩せて減量に成功したハントはK-1トップのスピードを誇るレコと遜色ないスピードを見せる。対するレコもハントを徹底研究したという成果を見せて決定打を許さない。1・2Rは両者パンチとローキックを織り交ぜながらフットワークを使うスピーディーな互角の展開が続く。試合は3Rで決着し、レコが右ストレートを放った瞬間、ハントがそれを顔面で受けながら踏み込んでカウンターの左フックを直撃させ、それを受けたレコが膝から崩れてダウン。レコは何とか立ち上がりコーナーにもたれかかるが脳が揺れており足に力が入らず、ダウンカウント中にコーナーで再び崩れ落ちたため、レフェリーが試合を止めハントが左フック1発でKO勝利を収めた。なお、レコは試合後インタビューで「1Rの攻防の際にハントのパンチで鼻骨を骨折した。相手のパンチが強すぎるので折れたのは仕方ない部分もあるがそれで集中力を乱してしまった。」と語った。また勝利したハントも「昨年の対戦よりレコは手強かった」と語るように自ら放った蹴りやレコのローキックで膝の靭帯を痛めてしまい、トランクス下の膝や太もも周辺が紫色に変色。同日の準決勝のバンナ戦でその影響が出ることになる。
同日の準決勝で、ジェロム・レ・バンナとの4度目の対戦。準々決勝で武蔵をKOして大きなダメージ無く勝ち上がったバンナに対して、ハントは準々決勝のレコ戦で膝の十字靭帯を損傷している状態。試合開始と同時に激しい打ち合いが展開されてお互い一歩も引かない。1R終了間際にバンナのローキックを受けたハントはステップが乱れ、同日レコ戦でのダメージを隠せない。2Rにはクリンチ際にバンナがハントを投げようとするがハントはビクともせず、それを受けて今度はハントがバンナをコーナーまで投げ飛ばした。直後の攻防ではバンナの右ローキックでダウンを奪われた。その後は足の負傷によりあまり動けないハントに対してバンナが次々とパンチやローキックを打ち込み、ハイキックも計4発当てて優勢に試合を勧める。だがどれだけ打たれてもハントは倒れる気配が無く、あまりの打たれ強さに会場がどよめく。ハントの痛めた足を狙い過ぎて得意の左ミドルキックなどをほとんど打たず、攻撃が右ローキックに固執しがちなバンナに対してハントがカウンターを狙う場面もあった。試合は3Rになり、このままバンナ優勢で終わると思われた矢先、試合終了の10秒前にバンナの右フックにハントがカウンターの右フックをヒットさせてバンナがダウン。その瞬間、東京ドームの7万4500人の観客は総立ちとなった。カウント2でバンナが立ち上がったため試合は判定となり、ハントは判定負けを喫した。この結果、ハントはGP FINALの準決勝で敗れ、2年連続のK-1王者という栄冠は逃す形となったがK-1のベスト3ファイターとして表彰された。
2003年5月3日、K-1 WORLD GP 2003 in LAS VEGASでゲーリー・グッドリッジと対戦し、判定勝ち。ハントはGP優勝の副賞の世界一周旅行中にオファーを受け、その帰りにそのままラスベガスに降り立ち参戦。さらに昨年のレコ戦・バンナ戦で負った膝の十字靭帯損傷がまだ完治していないため、分厚いテーピングで膝を固めたままの試合となった。TV放送でも「KO必死!豪腕対決」とテロップが貼られる試合だったが、膝を痛めているハントは2Rからステップを使わなくなり、腰の入ってない手打ちパンチが増えて精彩を欠く。対するグッドリッジもいつになくガードを固め、途中からはダメージも合わさりあまり手を出さない。ハントの手打ち気味のパンチでグッドリッジがグラつくシーンは何度も見られるがグッドリッジも決定的なダメージは回避し続ける。この大会は膝蹴り禁止ルールであるため、ハントが至近距離の決定的なシーンで膝蹴りを打とうとしてはやめるシーンも目立つ。3R終盤には至近距離からハントがカウンターの右フックでグッドリッジの脳を揺らしフラつかせて後退させると、手打ちパンチの連打でKO寸前まで追い込むがグッドリッジはゴングに救われる。4R終盤にはグッドリッジが反撃して数多くのパンチを打ち込むがハントは途中から意図的に打撃を顔で受ける。5Rにはハントがジャンピングハイキックを繰り出すが僅かに外れ転倒。そのまま両者共に相手を倒しきれず試合終了。ハントが判定勝利を収めた。[8]
2003年5月、グッドリッジ戦で膝の状態をさらに悪化させたハントは、試合から少し経った日に膝の靭帯を断裂(膝裏十字靭帯断裂)してしまうという重傷を負う。結果、緊急手術となり、手術は無事に成功したが、6月29日に開催される『K-1 BEAST II 2003』内の「ビースト軍団vsジャパン軍団 5対5マッチ」にて、ビースト軍団側として子安慎悟、藤本祐介、中西学のいずれかと対戦予定だった件も白紙となる[9]。さらに選手生命を脅かしかねないこの大怪我と手術により完治に時間がかかり、ハントはこのあと1年1ヶ月ほど試合から遠ざかることとなる。
2004年3月、膝の療養中にK-1と契約が満期となりフリーとなったため、ハントは2002年頃から興味を持っていた総合格闘技に再び興味を示す。その矢先に当時世界一の総合格闘技団体であったPRIDEから高条件のオファーが来たことによりそれを受諾。PRIDEと複数試合契約を結び、これを期にハントはキックボクサーから総合格闘家へと転向した。
2008年4月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAで2003年以来、5年ぶりにK-1に1試合のみ復帰。ハントはすでに総合格闘技の世界に身を投じており、立ち技ではなく総合格闘技一本で戦うことを希望していたが、DREAM・K-1を主催するFEGとの契約条件により、世界ランク1位のスーパーヘビー級王者・セーム・シュルトとK-1スーパーヘビー級タイトルマッチで対戦。シュルトに対してボディストレートやジャンピングフックを繰り出していくが、1Rの終了間際にシュルトの右後ろ回し蹴りを腹部に受けてダウン。膝立ちの状態まで起き上がるが、そのまま10カウントを迎えて人生初のKO負けを喫した。試合後、SNS系列のサイトにてオーストラリアの新聞記者が、「試合前にハントのジムを取材した際、ハントがこの試合に向けた練習でアダム・ワットとのスパーリング中、ワットの蹴りでアバラを負傷して骨にヒビが入ったことがあり、それが治っていなかった。試合でも丁度そこを蹴られてしまっている。」と語っている。
総合格闘技
2004年になると、闘いの場をキックボクシングから総合格闘技に移す。
2004年4月25日に行われたPRIDE GP 2004 開幕戦にて、6試合目終了時に場内アナウンスが鳴り響き、『K-1王者マーク・ハント、PRIDE参戦!』というニュースが大型スクリーンに映し出されて大歓声が沸き起こるとハントが入場花道から登場。リングに上がるとマイクで、「私はK-1で王者になったので、次はMMAの王者を目指します。男なら頂点を目指さなければならない。だから私はPRIDEで戦いたい。」と語った。そこから数ヶ月間、オーストラリアで総合格闘技のトレーニングを積み、吉田秀彦との総合デビュー戦を迎えた。
2004年6月20日、PRIDE GP 2004 2nd ROUNDにて吉田秀彦と対戦。MMAへの高い適応力を見せるも腕ひしぎ十字固めにて一本負けとなった。なお、勝利した吉田はハントの打撃と力により左肩を亜脱臼。引退後に「勝負の瞬間(とき)」というドキュメンタリー番組にて、自身のその後の低迷は「マーク・ハントに肩を壊されたことがきっかけだった」と語っている。
2004年10月31日、PRIDE.28でKOTCスーパーヘビー級王者のダン・ボビッシュと対戦し、1RKO勝利。試合後ボビッシュが、「アイツの頭はどんな構造してるんだよ!?あの石頭野郎…」とコメントした。また、ボビッシュはグラウンド状態でハントの頭部を何度も膝蹴りした事によって膝を壊してしまい、病院で手術を受けた事がのちにPRIDE公式サイトの記事で紹介された。
2004年12月31日、『PRIDE 男祭り 2004 -SADAME-』にて桜庭和志の代役としてPRIDEミドル級王者のヴァンダレイ・シウバと対戦し、激闘を制し2-1の判定勝ちを収めた。
2005年12月31日、『PRIDE 男祭り 2005 頂 -ITADAKI-』では、ミルコ・クロコップとのK-1出身選手同士というストライカー対決が実現。2-1の判定勝ちを収め、K-1時代のリベンジを果たした。ハント優勢の試合内容であったにもかかわらず、判定の際にジャッジの一人がミルコを支持したため、場内の観客からはブーイングが起こった。
2006年2月26日、PRIDE.31で西島洋介と対戦し、KO勝ち。
2006年5月5日、『PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦』では高阪剛と対戦し、引退をかけた高阪に対し壮絶な殴り合いの末、KO勝利。GPベスト8に進出した。
2006年7月1日、『PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND』ではジョシュ・バーネットと対戦し、1ラウンド2分2秒、チキンウィングアームロックで一本負け。
2006年12月31日、『PRIDE 男祭り 2006』でエメリヤーエンコ・ヒョードルとPRIDEヘビー級タイトルマッチで対戦。ヒョードルから上のポジションを取りアームロックをしかけるなどグラウンドでヒョードルを支配し続けたが、最後はチキンウィングアームロックで一本負け。
2007年11月25日、プロレス興行ハッスルのハッスルマニア2007に登場。モンスター軍の2人をサモアンフックで倒し、すかさずキンターマンが3カウントを奪い取った。
2008年7月21日、DREAM.5のスーパーファイトでアリスター・オーフレイムと対戦。V1アームロックで一本負け。
2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜でメルヴィン・マヌーフと対戦。開始18秒での秒殺KO負けとなった。
2009年5月26日、DREAM.9のスーパーハルクトーナメント1回戦でゲガール・ムサシと対戦。開始早々にグラウンドに持ち込まれアームバーで一本負けを喫した。
2010年9月25日、UFC初参戦となったUFC 119でショーン・マッコークルと対戦。キムラロックを極められ、一本負けとなった[10]。当時5連敗中で4年間勝ち星がなかったハントのUFC参戦に対して疑問を呈する声も一部で上がったが、UFC代表のダナ・ホワイトはPRIDE買収時にPRIDEとハントの契約も引き継いだこと、当初は「試合に出なくても契約分の金額は支払う」と告げていたが、ハント本人が「それならば試合をしたい」と返答したことでUFC参戦が決まったことを後に明かした。[11]
2011年2月27日、UFC 127でクリス・トゥクシャラーと対戦し、2Rに右アッパーを打ち込みKO勝ち。UFC初勝利とともにノックアウト・オブ・ザ・ナイトを獲得した[12]。2006年の高阪剛戦以来の5年ぶりの勝利となった。
2011年9月24日、UFC 135でベン・ロズウェルと対戦し、3-0の判定勝ち[13]。試合では向上したグラウンド技術を見せ、2R終了間際には腕ひしぎ十字固めを極めかけるなどした。試合では終始ロズウェルを圧倒し、判定勝ち。総合格闘家としての格段の進化を見せた。
2012年2月26日、UFC 144でシーク・コンゴと対戦。1RKO勝ちを収めた。[14]。UFC3連勝となった。
2013年3月3日、UFC on Fuel TV 8で身長213cmのステファン・シュトルーブと対戦。シュトルーブの巨体をふき飛ばして3R逆転KO勝利を収めた。敗れたシュトルーブはハントの打撃で頬骨と顎を骨折するほどのダメージを受けた[15]。この試合でハントは2度目のノックアウト・オブ・ザ・ナイトを受賞し、UFC4連勝となった。
2013年3月、UFC 160にて、ジュニオール・ドス・サントスと対戦予定だったアリスター・オーフレイムが負傷により欠場となった際、ハントが自ら代役出場を申し出た事から、Twitter等を介してファンからの強い後押しを受け、急遽ドス・サントスと対戦する事が決定した。この試合は、UFC代表のダナ・ホワイトにより、試合の数週間前の取材と前日会見にて、勝利した方がUFCのタイトルに挑戦するUFCヘビー級次期王座挑戦者決定戦になることが明言された。
2013年5月25日、UFC 160でUFCヘビー級次期王座挑戦者決定戦にて前UFCヘビー級王者のジュニオール・ドス・サントスと対戦。試合中に足の指を負傷し[16]、3Rに後ろ回し蹴りを受け、KO負けを喫した。これによりハントのUFCでの連勝は4でストップしたものの、この試合はファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。
試合後、黄色ブドウ球菌感染症にかかっていたことが発覚。左足のふくらはぎが菌に侵食されて化膿していたため、ふくらはぎの肉大きく削り取りながら傷口の洗浄を繰り返す手術を4度受けることとなった[17]。さらに、骨折した右足の親指の手術や、ふくらはぎに大きく空いた穴を埋めるために皮膚の移植手術を受けるなどあらゆる手術を行うこととなり、回復に時間を要することとなった。
2013年12月7日、UFC Fight Night 33にてアントニオ・シウバと対戦。両者流血の壮絶な殴り合いとなり、最後までどちらも一歩も引かない接戦となった。両者は5分5Rを戦い抜き、判定の結果引き分けとなった。ダナ・ホワイトもTwitterにて「ドロー裁定にこんなに満足したことなんてこれまで無かったよ!この試合の勝者は我々ファンだ!」と語った。この試合はファイト・オブ・ザ・ナイトに選ばれた。[18]
しかし試合後の薬物検査でシウバの体内から規定値を超えた高濃度のテストステロンが検出され、シウバは検査をパス出来ず失格となった。これにより試合結果がハントの戦績はドローのまま、シウバの戦績はノーコンテスト(無効試合)へと変更された。シウバのファイト・オブ・ザ・ナイトの賞金5万ドルはハントに譲渡された。
その後、ハントの左手の骨折が発覚。ハントはFacebookにて動画と自身のレントゲン写真を公開して、額の骨にヒビが入ったことと左拳の手術を受けたことを発表した。そのレントゲン写真では、左手の親指と人差し指の中手骨2本が真っ二つになる骨折をしており[19]、術後のレントゲン写真には骨の固定手術により合計14本のビスが左手内部に埋め込まれていた[20]。ハントは「医者からは6ヶ月間、何も殴ってはいけないと言われている。」と語った。
2014年9月20日にさいたまスーパーアリーナで開催予定のUFC Fight Night: Hunt vs. Nelsonにおいて、ロイ・ネルソンとの対戦が決定した。前回のアントニオ・シウバ戦に続き、メインイベントでの対戦となる。
人物
- 大学生時代は、ラグビー選手だった。
- 頭部のCTスキャン受けたところ、頭蓋骨の厚みがピーター・アーツの約2倍近くあった[21]。
- ナイトクラブのセキュリティーのバイトをしていた時にキックボクシングを始めた。プロデビュー戦は2ラウンドKO勝ち。
- 闘う理由はファイトマネーと公言している。2001年にK-1 WORLD GPで優勝した際、そのファイトマネーと優勝賞金で両親のために家を購入。その後は高級車を買ったり、ゲームセンターを家の中に作るなどしてすぐに使い果たしてしまった。
- 「サモアの怪人」という異名に反し、本来はジョークが好きな明るくひょうきんなキャラクターであると知られている。格闘家であれば、闘争心を鼓舞する意味で対戦相手を挑発したり貶めるコメントをすることはよくあるが、試合前でも相手選手を尊敬する発言をし、自分が勝っても自身の強さをアピールするのではなく、「運がよかった」と話すなど驕らない謙虚な人柄である。そんな気取らない性格もあり、アントニオ・シウバやジョシュ・バーネット、ジェロム・レ・バンナなどとも仲が良い。また、ファンが彼の頭を撫でたりお腹を触っても笑顔で応える気さくさを持っている。
- 漫画・アニメ・ドラゴンボールの熱烈なファン。髪を金髪に染めたハントに記者が理由を聞いたところ、ハントは「スーパーサイヤ人さ」と述べていた。そんなことからドラゴンボールのサイヤ人をもじり、「スーパーサモア人」と呼ばれることもある。作者の鳥山明とも面識があり、その際には感動して大喜びした。UFCでのニックネームは「スーパーサモアン」である。
- 既婚者で、7児の父でもある(最初の子は、ハントが16歳の時に産まれた。2006年に現在の妻と再婚、4児を授かる)。
- スポーツ界に一般的に禁止されているドラッグ・ドーピングが蔓延していることを問題視しており、「熾烈なビジネスだからあんな最低なものを手に入れて使うヤツがいる。俺はそんなものは使わないが、他のヤツらが使ったところで自分で自分の首を絞めることになる。判断するのは自分自身だ。俺は使わないし、他のヤツらも使うべきじゃない。使うなら自己責任だ」と語り、自身の対戦相手が禁止薬物を使っている場合に対しては「俺はそういうバカげたことはしない。俺のパンチにはステロイドでは太刀打ちできないぜ。俺は気にしないから好きなだけ使えばいい」と言い放っている。[22]。
戦績
総合格闘技
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キックボクシング
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プロボクシング
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獲得タイトル
総合格闘技
- UFC
- ノックアウト・オブ・ザ・ナイト(2度受賞)
- ファイト・オブ・ザ・ナイト(2度受賞)
K-1
- K-1 WORLD GP 2000 オセアニア地区予選 優勝
- K-1 WORLD GP 2001 世界地区予選 メルボルン大会 優勝
- K-1 WORLD GP 2001 in FUKUOKA 優勝
- K-1 WORLD GP 2001 優勝
- K-1 WORLD GP 2002 BEST3ファイター
脚注
関連項目
外部リンク
- テンプレート:Twitter
- UFC 選手データ
- DREAM 選手データ
- PRIDE 選手データ - Internet Archive
- K-1 選手データ
- テンプレート:Boxrec
- SHERDOG 選手データ
- ↑ 日本テレビ 『THE独占サンデー』内「パワーの楽園 超人王国」など数番組で測定。(1位のハントと2位のバンナとは2倍近い数値の差)
- ↑ 2002.01.24 K-1 Official HP マーク・ハント来日インタビュー K-1 Official HP 2002年1月24日(※K-1 Official HPは消滅済み。Web保管サイトで復旧)
- ↑ VHS・DVD商品 『K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYA』内、ハント&ミルコ 試合後インタビューより
- ↑ K-1公式サイト(現在はサイトが消滅済) K-1 WORLD GP 2002 in PARIS 試合後レポートより
- ↑ 2002.08.28 「Dynamite!」前日会見 スポーツナビ 2002年8月27日
- ↑ VHS・DVD商品 『K-1 WORLD GP 2002 開幕戦』内、ハントインタビューより
- ↑ K-1 WORLD GP 2002 FINAL 決勝トーナメント組合せ抽選会 2002年10月6日
- ↑ K-1 WORLD GP 2003 in Las Vegas レポート バウトレビュー 2003年5月3日
- ↑ 「K-1 BEAST II」カード発表会見 谷川貞治EP「ハントは長期離脱の可能性がある」 スポナビ 2003年6月4日
- ↑ 【UFC119】ハントのUFCデビュー戦、僅か63秒で一本負け MMAPLANET 2010年9月26日
- ↑ DFW explains Hunt signing
- ↑ 【UFC127】ハントの右アッパー炸裂、UFC初勝利 MMAPLANET 2011年2月27日
- ↑ 【UFC135】ハント、MMAファイター転向に光明見えた MMAPLANET 2011年9月25日
- ↑ 【UFC144】ハントが右フック5連打、カンゴを沈める MMAPLANET 2012年2月26日
- ↑ 【UFC JAPAN 2013】ハントの剛腕炸裂、逆転TKOでシュトルーフを下す MMAPLANET 2013年3月3日
- ↑ UFC 160 results: Mark Hunt says he broke his toe in the first round against Junior dos Santos MMA Mania 2013年5月26日(※記事に出血した足先のアップ写真あり・観覧注意)
- ↑ Mark Hunt staph infection YouTube 黄色ブドウ球菌感染症の手術後、病院からの映像(※ふくらはぎに大きな穴と傷口のアップあり・観覧注意)
- ↑ 【UFC Fight Night 33】ハント対ペイザォンは、2人の勝者生む激闘に MMAPLANET 2013年12月7日
- ↑ Mark Hunt Facebook 骨折した左手のレントゲン写真 2013年12月8日
- ↑ Mark Hunt Facebook 骨折した左手の手術後のレントゲン写真 2013年12月8日
- ↑ フジテレビ格闘技情報番組『SRS』。日本テレビ『THE独占サンデー』。2番組にてレントゲン写真付きで紹介。(通常のK-1ヘビー級ファイターの1.8倍とも紹介)
- ↑ Mark Hunt: UFC 146's Alistair Overeem got caught cheating, everything he has done is now 'meaningless' MMAMania 2012年4月9日