田上明
田上 明(たうえ あきら、男性、1961年5月8日 - )は、日本の実業家、元プロレスラー、元大相撲力士である。埼玉県秩父市出身。身長192cm、体重120kg。血液型A型。プロレスリング・ノア代表取締役社長。
目次
来歴
プロレスデビュー以前
中学時代は走高跳や柔道など様々な種類のスポーツを行う。埼玉県立秩父農工科学高等学校進学後、相撲部に入部。知人の紹介で3年次の3学期に押尾川部屋へ入門。1980年1月場所に本名の「田上」の四股名で初土俵を踏んだ。後に本名の田上から玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)と改名。なお、下の名である安正は高校時代の恩師の名に因む。
右四つの型に填れば抜群の力を発揮し、1986年5月場所には十両に昇進した(最高位は西十両6枚目、十両在位7場所)。十両では44勝46敗と安定した成績を残し幕内昇進も期待されたが、師匠・押尾川親方(元大関・大麒麟)との確執もあり、三場所連続で負け越したあとの(ちょうど同部屋・同年力士の益荒雄による、いわゆる「益荒雄旋風」の最中であった)1987年7月場所前に廃業した。
その後、知り合いだった落語家・三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭圓楽)の勧めもあり、プロレスラーに転身した。三遊亭楽太郎は天龍源一郎の中学時代の同級生で、その伝手で全日本プロレス入団が決まったという。なお田上は1989年に結婚したが、その時の結婚式の司会を務めたのが、その当時、楽太郎の弟子だった伊集院光だった(「伊集院光のOh!デカナイト」放送当時に伊集院自身が発言している)。
ジャパンプロレス入団〜全日本プロレス移籍
1987年8月にジャパンプロレスに入団。翌1988年1月に全日本プロレスへ正式に移籍し、1月2日にジャイアント馬場とのタッグでデビュー戦を行う。以降、数年間は伸び悩む時期が続いた。
ジャンボ鶴田のパートナーへの抜擢
1990年、谷津嘉章らの離脱でパートナー難に悩んでいたジャンボ鶴田の要望で当時所属していた超世代軍を離脱、鶴田とタッグを組んで超世代軍との抗争を展開する。大勝負の経験を積むうちにレスラーとして成長し、1992年3月4日には鶴田とのコンビで世界タッグ王座を獲得。トップレスラーの一人となった。
聖鬼軍結成
鶴田が肝炎で第一線を退いた後は超世代軍を離脱した川田利明とコンビを結成。このコンビは「聖鬼軍」を名乗り、2000年に大量離脱・ノア発足で田上が全日本を退団するまでトップ戦線で活躍。世界タッグ王座史上最多となる6度の載冠を果たしている。
また、1996年にはチャンピオン・カーニバル、三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座、世界最強タッグ決定リーグ戦を全て制する活躍を見せる(グランドスラム)。
1996年5月24日の三冠ヘビー級選手権試合においてシングルマッチで三沢から初勝利。四天王の中では初の快挙となった。
その後も川田とのタッグを中心に、プロレス四天王の一員として三沢光晴や小橋健太、スタン・ハンセンらと激闘を繰り広げる。ジャイアント馬場が亡くなった1999年には、馬場没後初の三冠戦でベイダーとの王座決定戦を戦うが敗北。世界最強タッグ決定リーグ戦では川田の欠場もあり、ハンセンとのタッグで準優勝。
プロレスリング・ノア移籍
2000年、三沢らと全日本から離脱しプロレスリング・ノアに移籍した。
ノア移籍後は3度のGHCヘビー級王座挑戦のチャンスがありながらベルトを巻くチャンスが無かったが、2005年9月18日の日本武道館大会での小橋とのタッグで、秋山、天龍組と戦った一戦が大きな契機となり、2005年11月5日・日本武道館で行われた大会で王者・力皇猛に挑戦。何発ものラリアットや必殺技「無双」を受けながらも必殺技「オレが田上」で初戴冠。
2008年1月にデビュー20周年を迎え、後楽園ホールで行われた記念試合では、後援関係者のほか、亀山つとむ、ザ・グレート・カブキ、そして愛娘がリング上で田上に花束を贈呈した。
プロレスリング・ノア社長就任
2009年7月6日、初代社長の三沢光晴が試合中の事故により急逝したことに伴い、第2代プロレスリング・ノア代表取締役社長に就任した。9月27日に日本武道館で行われた三沢の追悼興行で、全日本の武藤敬司と社長タッグを結成したが、小橋&高山善廣組に敗れた。10月には、大阪府立体育会館での三沢光晴追悼興行で川田利明との聖鬼軍タッグを9年4ヶ月ぶりに復活させ、秋山準&KENTA組と対戦し勝利をおさめた。
2010年7月19日の秋田市セリオンプラザ大会では、川田に加え小川良成との聖鬼軍トリオでモハメド・ヨネ&金丸義信&平柳玄藩組から勝利をした。
2011年までは殆どの大会に出場していたが、2012年からはスポット参戦の形になっている。
2013年5月12日の会見で、12月にラストマッチを行い、引退すると表明[1]、12月7日に引退試合が行われ、歴代の付き人である平柳玄藩、森嶋猛、杉浦貴と組み、天龍源一郎、藤波辰爾、井上雅央、志賀賢太郎組と対戦し、「オレが田上」で井上からフォールを奪い有終の美を飾った。試合後には四天王の小橋建太、川田利明もリングに上がり引退セレモニーとなった。
引退後はノアの社長に専念。
人物
- 試合前ならびに試合後のインタビューでは非常に朴訥としたコメントを繰り出し、記者ならびにファンの笑いを誘った(全日在籍時の1996年4月20日、チャンピオン・カーニバル初優勝を飾った際の勝利者インタビューでは「もう途中からワケ分かんなくなったけどぉ〜」と語り、最後のコメントも「頑張ります」の一言で終了。三沢光晴を破って三冠ヘビー級王座を奪取した1996年5月24日の試合後の勝利者インタビューの締めの言葉でも「これからも全日本プロレスをよろしくお願いします!」と殊勝に語っていた)。
- タイトルマッチや他団体レスラーとの試合になると突然活躍することから「田上火山」などと呼ばれる。
- 愛称はタマさん(相撲時代の四股名「玉麒麟」から)。「ダイナミックT」とも呼ばれる。小橋建太は「A・T」と呼ぶ。
- 髪型は長年スポーツ刈りにしている。1997年に出演したテレビ番組で小橋建太の整髪料でキッチリ固めた髪を「棒で叩いたら棒の方が割れるぐらい硬い」とからかったところ、「田上さんだって美川憲一みたいな髪型してるじゃないですか」とやり返されてしまう。[2]
- 1999年世界最強タッグ決定リーグ決勝戦で、馬場の筆による油絵が前面に描かれたガウンで登場した。その後はお蔵入りになっていたが、2005年12月4日に行われたGHCヘビー級王座初防衛戦で6年ぶりに着用した。ちなみにこのガウンは、そのタッグリーグ決勝戦と、GHC初防衛の試合の2回しか着ていない。
- 大変な釣り好きで有名。ノアには本田多聞を始め釣り好きが多く、田上は「ノア・サーフクラブ」を結成。
- ハーレーダビッドソンに乗っている(2000年11月にアミューズブックスより発売された「This Is NOAH!」においてハーレーに跨る田上の写真が掲載されている)。
- 大相撲時代から大の稽古嫌いであり、大相撲時代の師匠である押尾川との確執も稽古嫌いに起因していたという。和田京平の著書によれば、馬場が田上にバーベルをプレゼントしてからしばらくして田上の家を訪れたところ、バーベルを上げている田上を見ていた田上の息子が「お父さんがバーベル上げたところを初めてみた」と口を滑らせてしまったという。[3]
主な得意技
- 秩父セメント
- ブレーンバスターの要領で真上に持ち上げた後、自分の右手を相手の喉元に当ててマットに叩き付ける技。
- 小橋の持つGHCヘビー級王座に照準を合わせ開発された技。長身を生かした強力な技で、のどを押さえられているため受身が非常に取り辛い。なお、この技名は「オレが田上」の技名が未定であったときに三沢が名づけた名前であり、それをこの技に利用した形になっている。由来は田上の出身地から。
- オレが田上
- アトミック・ドロップの要領で相手を高々と持ち上げた後にノド輪落としでマットに叩き付ける技。重力との効果が相まって強烈なダメージを与える。この後にさらに起き上がりこぼし形式でノド輪落としを繰り出すこともある。
- 三沢の持つGHCヘビー級王座に照準を合わせ開発された技。当初はエメラルドフロートと田上自ら名づけたが、三沢からの抗議を受け技名が変遷。エメラルドフロート→ルビーフロージョン→秩父セメント(三沢が命名)→コンクリ固めと変化していき、最終的に王座挑戦前日に「オレが田上」に決定した。
- 技名についてインタビューされた時に「新技の名前は『オレが田上』だ」と技名と文末の「だ」を繋げて読んでしまったため、技名を「オレが田上だ」と間違えられることがあり、PS2ゲームKING OF COLOSSEUM II、コナミのBATTLE CLIMAXX!でも「俺が田上だ」と間違えて表記されている。
- つくば薪割り
- ロープの反動を使ったのど輪落とし+柔道の払巻込の複合技。巨漢レスラー対策に編み出された。2005年の森嶋猛とのGHCヘビー級選手権で初公開、この技で3カウントを奪っている。
- ノド輪落とし
- 右手を相手の右脇を通してのどに当て、そのまま右手を高々と上げてマットに叩き付ける技。田上は高身長であり見た目よりもパワーがあることから、片腕一本で相手を持ち上げるこの技を可能としている。前述の「オレが田上」と「秩父セメント」はこの技を生かしたオリジナル技。
- コーナーポスト上の相手をノド輪落としする「大車輪ノド輪落とし」、エプロンから場外に叩き付ける「断崖式ノド輪地獄落とし」といったより強力なバージョンもある。今では一般的となった「断崖技」の先駆者。
- コーナーポスト上からダイビング攻撃を繰り出した三沢の喉元をキャッチして、そのままノド輪落としを決めたこともある。
- 延髄斬り
- 田上自身は後家殺しと命名している、独特のフォームの延髄斬り。普通は相手の横や後ろから蹴る技だが、田上の場合は相手の正面から足を回して蹴る。形やゆっくりとしたスピードは、天龍のそれとほぼ同じである。高山善廣によると「軽く記憶がとぶぐらいの威力はあるけど、いつも序盤にやってくるから大丈夫なんだよね」とのこと。
- ダイナミックボム
- パワーボムの体勢から担ぎ上げ開脚して前方にたたき落とすシットダウン・パワーボム。田上の場合技に入る時に大きく両腕を広げて技に入る。
- ダイナミックキック
- 正面からのジャンピングのフロントハイキック。顎に入った際の威力は強力で、96年のチャンピオン・カーニバル優勝戦ではこの技からのど輪落としへとつないでスティーブ・ウィリアムスからピンフォールを奪った。
- 3Dキック
- コーナーポスト最上段より相手の顔面にダイナミックキックをぶち込む技。大開脚ダイビングダイナミックキックの略。
- 閂(かんぬき)
- 相手の両腕を自分の脇に挟み込み、上に力を加えて絞め上げる技。
- 閂(かんぬき)スープレックス
- 上述のカンヌキの体勢のままスープレックスの要領で後方に投げ捨てる技。閂からスープレックスに移るこの一連の技が試合中出ると大きく盛り上がる。
- ランニングネックブリーカー
- 師匠ジャイアント馬場の必殺技だが、正式に馬場より直伝される。
- 拷問コブラツイスト
- ジャンボ鶴田直伝。
- ギロチン・ホイップ
- トップロープのワイヤーの部分に喉元から落ちるようにして投げるボディスラム。
- 脳天唐竹割り
- ココナッツ・クラッシュ
- これらは馬場の得意技。
- 低空高速投げ捨てジャーマン
- 上背のある田上が投げるため、かけられた相手は高い位置から落とされる。
- 八の字チョップ(片手の時と両手の時があり)
他にも突如として普段使わない技(フライングクロスチョップ)などをいきなり繰り出すこともある。
主な獲得タイトル
- 全日本プロレス
- 第15代三冠ヘビー級王座(防衛1回)
- 第19代・第22代・第26代・第28代・第31代・第35代・第42代世界タッグ王座(パートナーはジャンボ鶴田→川田利明が6回)
- 防衛回数は2回→2回→3回→0回→1回→4回→0回
- 第52代アジアタッグ王座(防衛0回 パートナーは仲野信市)
- チャンピオン・カーニバル 優勝(1996年)
- 世界最強タッグ決定リーグ戦 優勝(1996年・1997年)[4]
- パートナーは川田利明
- プロレスリング・ノア
- 第8代 GHCヘビー級王座(防衛1回)
タッグでの成績は著しく良い
入場テーマ曲
- 「Runner」(爆風スランプ)
- 「Eclipse」(イングヴェイ・マルムスティーン)
- 元々川田が好きな曲であり、川田の勧めで採用したもの。
大相撲時代の改名歴
- 田上 明(たうえ あきら)1980年1月場所-1986年3月場所
- 玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)1986年5月場所
- 田上 明(たうえ あきら)1986年7月場所
- 玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)1986年9月場所-1987年7月場所
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:プロレスリング・ノア テンプレート:プロレスリング・ノア社長 テンプレート:三冠ヘビー級王座
テンプレート:GHCヘビー級王者- ↑ 「方舟新章」5月12日(日) 後楽園ホール大会 田上社長会見の模様 プロレスリング・ノア オフィシャルサイト
- ↑ http://www.youtube.com/watch?v=iDLDFDkeRHk
- ↑ 和田京平『人生は3つ数えてちょうどいい』(メディアファクトリー)
- ↑ いずれも優勝決定戦で勝利