本田多聞
テンプレート:Infobox プロレスラー テンプレート:MedalTableTop テンプレート:MedalCountry テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalCompetition テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalBronze テンプレート:MedalBottom 本田 多聞(ほんだ たもん、男性、1963年8月15日 - )は、日本のプロレスラーで元レスリング選手、元陸上自衛官。神奈川県横浜市出身。フリーランス。土浦日本大学高等学校、日本大学卒業。プロレスでの愛称は「燃える赤鬼」、「原人」、「五輪の星」。
来歴
現在カヌー講師で1964年東京オリンピックへの出場歴があるカヌー選手であった本田大三郎の子として生まれる。プロサッカー選手、本田圭佑の実父とは、従兄弟の間柄にあたる。父から「レスリングで優勝できなければ大相撲」へ入門させると脅され、必死にレスリングの練習に励んだ。中学時代から自衛隊の練習に参加するなど、早くからレスリングの素質を見出され、日大在学時にロサンゼルスオリンピックレスリング・フリースタイル100kg級で5位入賞し(高校・大学の同窓に小林孝至がいる)、自衛隊体育学校へ進んだ。当時から異色な人物像で知られており、杉浦貴が後年述べるところによると「兵隊やくざ」と呼ばれていた。3度のオリンピック出場や全日本選手権8度優勝など日本レスリング史上、最高の実績を持つ。当時を知る関係者が「多聞さんが普通に練習をしていたら、オリンピックでメダルぐらい楽に取れていた」というほどで、ある種天才肌である。その技術力の高さから「アマレスの神様」と呼ばれた。
1993年全日本プロレス入団、同年10月8日、大分県立荷揚町体育館大会でテッド・デビアス相手にデビュー。プロレス転向後「プロレスの技術を習得するために」とレスリングの技術を封印しヘッドバットを多用するスタイルを身につけた。本田自身が述べるところでは、「同じラケットを使う競技でも、テニスとバドミントンみたいに違う」ものだと言う。試合中、ボディスラムで倒した相手に対し、側転から倒れ込み式ヘッドバットを入れるという、彼にしては珍しいアクロバティックな技を披露したことがあるが、これを見たタッグパートナーの三沢光晴は笑いを堪える程受けていた。後にテレビ番組で三沢は「僕も体操やっていたからわかるんですけど、アレまるっきり(側転をする)意味が無いんですよ」と語った。しかし、稀にレスリング技術を披露し、U系レスラーをレスリング技術で寄せ付けなかったこともある。デビューした当時の新入団選手紹介の時はスポーツ刈りだったが、後に長髪を振り乱したヘアスタイルとなった。その姿を福澤朗が「原人」と表したことからニックネームとして定着した。だがプロレスラーでは珍しく、インタビューにおける一人称に「私」を用いることや、プロレスノア中継での解説などで垣間見えるように、素性はインテリである。現在は長髪を後でくくるヘアスタイルがトレードマークである。
井上雅央とコンビを組み、タッグで活躍する。プロレスリング・ノア移籍後、GHCタッグチャンピオン秋山準・齋藤彰俊組に挑んだが惜しくも敗れ、それをきっかけに長年組んできたタッグを解散する。
度重なる故障で膝の皿が無く、従って膝に爆弾を抱えていることから満足な練習も出来ないが、「残りのレスラー人生をシングルにかける」と宣言し、当時のGHCヘビー級チャンピオン小橋建太に挑戦を表明する。この頃からレスリングの技術の封印を解き、回転地獄五輪シリーズを開発する。何度かの査定試合、挑戦者決定戦の末、挑戦権を得た。
結果として敗れはしたが、小橋に熱い気持ちが伝わり、その後、小橋とタッグを組み、GHCタッグ王座を獲得するなどの活躍をする。リングイン・アウトの時、お互いにロープを開け合うなど信頼・絆の深さを見せる。2007年12月の小橋の復帰戦で解説を務めた際には、試合中にもかかわらず涙を流した。
プロレス界の同期は志賀賢太郎。年齢は一回りほど違い、リング上では志賀にGHCタッグ王座の挑戦権争いに負けた際、「今日ほどプロレスをやめたいと思ったことはない」と言うほどのライバルであるが、お互いの信頼は非常に強い。これは志賀が欠場中、親身になって見舞っていたことで「兄者(あにじゃ)」と慕われたことや、2005年には、志賀の復帰戦の対戦相手を務めたことで分かる。「復帰試合は本田さんにやってもらいたい」と志賀が直訴したほど。本田自身も「志賀が帰ってきてくれたことが我がことの様に嬉しい」とコメントしている。また、志賀のオリジナルホールド「志賀絞め」は本田と志賀の共同開発で、本田も使用することがある。
ノアでは若手選手のコーチ役もしていた。小川良成と二人で、道場で若手の育成に励んでいた。日本テレビのスポーツニュースで育成場面が放送されたが、高いテイクダウン力とグラウンド力をみせていた。
2009年12月末日付で「年間報酬保障フリー選手契約が満了」[1]となりノアを退団、フリーランスとなった。
その後、自ら経営するレスリングスクールの傍ら、メジャー・インディー問わず他団体へ参戦。
オリンピックでの成績
- 1984年ロサンゼルスオリンピック フリースタイル100kg級 5位入賞
- 1988年ソウルオリンピック フリースタイル100kg級 2回戦敗退
- 1992年バルセロナオリンピック フリースタイル130kg級 2回戦失格
タイトル歴
- 全日本プロレス
- 第64代・第68代アジアタッグ王座(防衛1回 パートナーは泉田純→防衛3回 パートナーは井上雅央)
- あすなろ杯争奪リーグ戦第3回大会優勝
- 決勝で大森隆男をダイビング・ヘッドバットで破る
- プロレスリング・ノア
- 防衛記録は2回→0回
- WEW
- WEWタッグ王座(防衛1回 パートナーは丸藤正道)
- (タイトルは他団体のものだが、ノア所属選手として取得)
得意技
- デッドエンド
- 2段階式長滞空高角度投げっぱなしジャーマン・スープレックス。メインのフィニッシュムーブだが近年では膝の状態の悪化により往年のような軌道を描いて投げることができなくなっている。
- クロスアーム式デッドエンド
- 別名、抱え込み式デッドエンド。小橋建太と組んでGHCタッグ王座に挑戦した時に初公開した。相手の体だけではなく両腕をも巻き込む形でクラッチしてのデッドエンド。
- 回転地獄五輪シリーズ
- レスリングの経験を活かしたグラウンドの動きのコンビネーション名。丸め込んだり締め上げたりと変化自在で、様々な種類がある。
- その他の得意技
- デビュー直後からNOAH移籍直前までの間、殆どの試合で多様していた。
エピソード
- 自身の名前『多聞』は、大日本帝国海軍軍人で第二航空戦隊司令官を務めてミッドウェー海戦で戦没した山口多聞中将から採られた[2] 。
- ロックなどの音楽が好きで、特にパンクに詳しい。パンクバンド「ラモーンズ」のファンであり、特にボーカルのジョーイ・ラモーンに憧れている。その熱意は高く、自らアマチュア・バンド「タモーンズ」を結成してボーカルのジョーイ・タモーンを名乗るほどである。また入場曲にはUKハードコアパンクバンド「G.B.H.」の「NO SURVIVERS」を用いている。タモーンズでは、実弟が率いていたアマチュアバンド・超絶トリックスターの協力のもと、インディーズでCDをリリースしたこともある。
- 妻はピアニスト(ピアノ講師)。
- 料理が得意。また酒豪でもある。全日本プロレス時代にはバラエティ番組で大食いレスラーとして紹介されたこともある。
- 「三度の飯より釣りが好き」と公言するほどの釣りキチで、田上明が結成した「ノア・サーフクラブ」の一員でもある。また月間釣り情報誌「磯・投げ情報」(海悠出版/主婦と生活社)で“本田多聞のラブ&ピース釣行日誌 多聞の日々是釣日和”という連載を持っている。
- 大の『ケロロ軍曹』ファンとしても知られている。『ケロロ軍曹』を見て感動し涙を流したこともある。
- 十数年前、トークショーに於いて「似ているといわれる芸能人は」との問いに「豊川悦司」と答えた。
- 3年N組 三八先生やディファ有明戦隊ノアレンジャーでは泉田純至や川畑輝鎮と共に女子学生役を演じている。その際、三八先生では「クラスの魔女軍団」、ノアレンジャーでは「ブサイクちゃん」と呼ばれている。