アラン・プロスト
テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox アラン・マリー・パスカル・プロスト(Alain Marie Pascal Prost, 1955年2月24日 - )は、フランス人の元レーシングドライバー。1985年・1986年・1989年・1993年と4度のF1ドライバーズチャンピオンに輝いた。
1999年に国際モータースポーツ殿堂(The International Motorsports Hall of Fame)入り。レーシングドライバーのニコラ・プロストは長男。
目次
人物
現役時にはその走りから「プロフェッサー」の異名をもっていた(名前の“プロ”にもかけている)。ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナとは、1980年代から1990年代前半のF1を代表するドライバーとして、纏めて「四強」「ビッグ4」「F1四天王」等と称される。特に、再三チャンピオン争いを演じたセナとのライバル関係は度々話題に挙がり、日本では2人の対決は「セナ・プロ対決」と呼ばれた。
F1で通算51勝をあげており、2001年にミハエル・シューマッハが更新するまで最多勝記録であり、現在では歴代2位。通算4度のドライバーズチャンピオン獲得は、シューマッハの7回、ファン・マヌエル・ファンジオの5回に次いで、歴代3位の記録である。現在、フランス人で唯一のF1ドライバーズチャンピオンでもある。
初期の経歴
レーシングカート
1972年にヨーロッパ・ジュニア・カート選手権でチャンピオンに輝くなど、1974年までに、フランス及びヨーロッパの幾つかのジュニアカート選手権で優勝。1975年には、フランスのシニアカート選手権を制覇。
ジュニアフォーミュラ
1976年にジュニアフォーミュラに転向しフォーミュラ・ルノー・フランス選手権に参戦。全13戦中ガス欠でリタイアした最終戦を除いた12戦で勝利を挙げ、ポール・ポジション(以下:PP)6回、ファステストラップ(以下:FL)11回の成績でチャンピオンを獲得。1977年には、フォーミュラ・ルノー・ヨーロッパ選手権にステップアップし、6勝・3PP・7FLとここでもチャンピオンを獲得した。またこの年はノガロとエストリルでF2にもスポット参戦し、それぞれ10位・リタイアという結果を残している。
F3
1978年、ヨーロッパF3選手権にマルティニMk21B・ルノーで参戦したが、全11戦中1勝、1PP・1FL・3リタイア(原因は全てエンジントラブル)と振るわず、ポーで行われたF2にもシェブロンB40・ハートで出走したが、こちらもエンジントラブルでリタイアであった。この年はフランスF3選手権にも参戦し、こちらではチャンピオンを獲得している。1979年、前年に引き続きヨーロッパF3にマルティニMk27・ルノーで参戦。全13戦中9勝、4ポールポジション、8ファステストラップでチャンピオンを獲得した。この年にもフランスF3選手権に参戦し、これを連覇している。
F1における経歴
マクラーレン時代(第1期)
- 1980年
開幕戦アルゼンチンGPにて、マクラーレンからF1デビュー。予選12位から決勝6位と、デビュー戦での入賞を果たす。続く第2戦ブラジルGPでも5位に入った他、第8戦イギリスGP、第11戦オランダGPでも6位と、当時低迷期だったマクラーレンにおいて4度の入賞を記録し、ランキングは15位。チームメイトのジョン・ワトソンに対し、予選では13勝1敗と大きく勝ち越している。。
チーム低迷期だったことから、車体は信頼性不足に悩まされ、事故も数回経験した。マクラーレンとは複数年契約がなされていたが、この年地元フランスのルノーからオファーを受けて移籍を決意。ロン・デニスによる組織改革が進められている状況だったことから、「これまでのチーム・マクラーレンとデニスによるマクラーレン・インターナショナルは別組織である」という論理で、契約を破棄した。
ルノー時代
- 1981年
第3戦アルゼンチンGPにて3位となり、初表彰台を獲得。第8戦の母国フランスGPでは、予選3位からFLをマークしての初優勝を達成した。その後、第12戦オランダGPと第13戦イタリアGPを連勝するなど、計6度の表彰台でランキング5位となった。
一方でトラブルの多さにも悩まされ、表彰台に立った6レース以外は全てリタイアであった。
- 1982年
開幕戦南アフリカGP・第2戦ブラジルGPと2連勝を果たし[1]、タイトル争いで先行したが、マシンの信頼性不足や自身のミスにより、以降の7戦中5回のリタイアなど入賞すらできないレースが続く。予選では5回のPPを含め、フロントローを9回獲得する速さを見せたが、結局優勝は序盤の2回のみ、最終的なランキングは4位に留まりチャンピオン獲得はならなかった。
また、チームメイトのルネ・アルヌーとの確執が噂され、第11戦フランスGPでは、タイトルの可能性のあったプロストを先行させるようチームオーダーが出ていたが、アルヌーはこれを無視して優勝、プロストは2位に終わった。
この年、共に親友であったフェラーリのジル・ビルヌーブとディディエ・ピローニのチームメイト同士の確執、その結末としてのビルヌーブの死、また、ピローニを再起不能とした雨の事故といった出来事がその後のレース人生に影響を与えた。
- 1983年
第3戦の母国フランスGPで、シーズン初勝利をハットトリックを達成すると、第6戦ベルギーGPでポールトゥウィンを飾るなど4戦連続で表彰台を獲得し、タイトル争いをリードする。以降も第9戦イギリスGP、第11戦オーストリアGPで優勝するなど、ブラバムのネルソン・ピケに対し、オーストリアGP終了時点では14ポイントのリードを築いていた。
しかし第12戦オランダGPにて、42周目にピケへの追い抜きを試みて接触し、シーズン初リタイアを喫す[2]。ここから流れが変わってしまい、続く第13戦イタリアGPはリタイア、第14戦ヨーロッパGPは2位となり、この2戦を連勝したピケに2ポイント差にまで詰め寄られる。迎えた最終戦南アフリカGPでも流れを変えることはできず、見せ場のないままレース前半にリタイア。3位でフィニッシュしたピケに逆転され、2ポイント差でチャンピオンを逃した。
(特殊燃料の使用疑惑など)ブラバムの戦闘力向上に対してルノーは手をこまねいていたが、チームは敗戦の原因をプロストに転嫁。フランス国内でもバッシングを受け、家族とともにスイスへ移住する。ルノーとの契約を解消してフリーになったプロストにロン・デニスがアプローチし、古巣マクラーレンへの復帰を決めた。
マクラーレン時代(第2期)
- 1984年
既に2度のドライバーズチャンピオンを獲得していたニキ・ラウダがチームメイトとなり、この年は完全にマクラーレンによって支配されるシーズンとなった。予選では16戦中15戦でラウダを上回るなど、純粋な速さのみでは圧倒したが、タイトル争いはプロストが勝てば次はラウダ、ラウダが勝てば次はプロストと常に一進一退の緊迫した展開となった。
しかし優勝以外でも確実に上位入賞しポイントを稼ぐラウダが次第に差を広げ、プロストは第14戦イタリアGPをリタイアした時点で自力チャンピオンの可能性を失う。それでも第15戦ヨーロッパGPで優勝して望みを繋ぎ、4.5ポイント差を追うかたちで最終戦ポルトガルGPを迎えた。自身が優勝しラウダが3位以下なら逆転という状況の中、レースの大半をリードしての優勝を飾ったが、ラウダが最終周に2位に上がった為、0.5ポイント差という、史上最小得点差でチャンピオンを逃した。この年のシーズン7勝は、当時歴代1位タイの記録だった(ラウダは5勝)。
この頃までのプロストは速さを前面に押し出す激しいスタイルだったが、2年連続僅差でチャンピオンを逃したこと、特にこの年ラウダの走りの強さを身をもって体感したことが教訓となり、後のプロストのドライビングスタイルに大きく影響したシーズンとなった。
また結果論ではあるが、第5戦モナコGPでの行為が、チャンピオン争いに影響したとしばしば話題に上がることとなった。豪雨となったレースで、プロストは危険なコンディションであるためにレースの早期終了をアピール。規定周回数以下でレースは打ち切りとなり、優勝したプロストには正規の半分の4.5ポイントが与えられた。しかし、もしそのままレースが続行されていれば、猛追していたアイルトン・セナとステファン・ベロフに仮に抜かれていたとしても[3]、正規のポイントならば2位でも6ポイント[4]を獲得出来、ラウダを抑えてチャンピオンを獲得していたことになるためである。
- 1985年
開幕戦ブラジルGPで優勝し幸先の良いスタートを切り、フェラーリのミケーレ・アルボレートとチャンピオン争いを展開した。共に安定した成績を収めており、アルボレートがランキングトップに立つこともあるなど拮抗していた。しかし第12戦イタリアGP以降、アルボレートの成績は突如乱れ、終盤5戦は全てノーポイントとなった。これに対しプロストは、特に中盤から後半戦で着実にポイントを重ねていたためこの差が明暗を分け、最終的には5勝を含め11回の表彰台を獲得し、20ポイント差でチャンピオンを獲得。フランス人として初の栄誉となった。
- 1986年
第3戦サンマリノGPでシーズン初勝利を記録し、第4戦モナコGPでも連勝となった。この年はウィリアムズ・ホンダ勢のマンセル、ピケとのチャンピオン争いとなり、特に中盤以降ウィリアムズ優勢の中でシーズンが進むが、第6戦カナダGPからの4戦連続表彰台、ウィリアムズ勢が共にリタイアとなった第12戦オーストリアGPでの優勝など確実に結果を残し、チャンピオンの可能性を残したまま最終戦オーストラリアGPを迎えた。
プロストはランキング首位であるマンセルに6ポイント差をつけられており、逆転王座には「優勝が最低条件・尚且つマンセルが4位以下」という不利な状況だった。レースでもゲルハルト・ベルガーと接触し32周目に予定外のピットインを強いられるなど苦しい展開だったが、この際プロストのタイヤの摩耗が予想を下回っていたため、グッドイヤーのタイヤエンジニアが他チームに「タイヤ交換の必要なし」という判断を伝え、これが結果的に争いに影響を及ぼす。
まず64周目に、マンセルが左リアタイヤをバーストさせリタイア、ピケへの危険性を考慮したウィリアムズは、65周目にピケのタイヤ交換を急遽行い、この間にプロストが首位に立った。結局、ピケの猛追を抑えたプロストがそのまま優勝し、6ポイント差を逆転しチャンピオンとなった。2年連続王座は1959年と1960年のジャック・ブラバム以来26年ぶりの快挙だった。
- 1987年
前年と同じくウィリアムズ勢がシーズンを支配し、プロストは年間3勝を上げたものの、ピケ、マンセルに対しマシン戦闘力の差から苦戦を強いられ、ランキングは4位に留まった。しかし、第12戦ポルトガルGPでのシーズン3勝目は、自身通算28度目の勝利となり、ジャッキー・スチュワートの持つ最多優勝記録を破るものとなった。また、堅実にポイントを稼ぐことでシーズン終盤、第14戦メキシコGPまでタイトルの可能性を残していた。
第15戦日本GPでは、序盤のタイヤバーストで一旦は最後尾(26位)まで順位を落としながらも猛追して7位まで挽回。このレース中にプロストが記録したファステストラップは、優勝したフェラーリのベルガーよりも1.7秒速いものだった。
- 1988年
チームがホンダと提携し、V6ターボに合わせて開発したニューマシンMP4/4を投入。チームメイトにはアイルトン・セナを迎え、セナと共にシーズンを完全に席巻した。
チーム体制がジョイントNo.1だった為、2人は毎戦のようにバトルを繰り広げ、ポイントは分散した。タイトル争いは終盤までもつれ込むが、第15戦日本GPでセナに抜かれて2位に終わり、そのままセナのタイトル獲得が決定した。この年16戦中優勝7回・2位7回と安定した成績を残し、総獲得ポイントではセナを11ポイント上回っていたが、当時の有効ポイント制が結果的には不利に働くかたちとなった。
この年、マクラーレンは全16戦中15勝をマーク、開幕からは11連勝を記録していた。また15勝中の10勝は1-2フィニッシュであり、3位以下を全て周回遅れにしたこともあった。チームが他を圧倒したシーズンだったが、チャンピオン争いの最中だった第13戦ポルトガルGPでは、赤旗再スタートの直後にプロストがセナに幅寄せを行い、1周目終了のメインストレートではセナが報復するかのように幅寄せを行った。これを機に、それまで良好な関係を築いていたセナとの関係が変わっていく。
- 1989年
セナとの確執は、この年の第2戦サンマリノGPに決定的となる。ゲルハルト・ベルガークラッシュ炎上事故後の再スタート前にセナとプロストの間には、『スタート直後の最初のコーナーを抜けるまではお互い勝負しない』という曖昧な表現の「紳士協定」が結ばれていた。スタートで先行したプロストではあったが、最初のコーナーをタンブレロとするかトサとするかで2人の解釈に齟齬が生じ、セナはトサコーナーであっさりとプロストを抜き去ってしまった(1回目のスタート時はセナが先行したため問題は発生しなかった)。紳士協定を反故にしたとして怒ったプロストは、3位までの入賞者に義務づけられている記者会見をボイコットして自家用ヘリで退去、後日罰金を科せられた[5]。
チーム崩壊を恐れたロン・デニス(彼はこの紳士協定に関知していなかった)を交えた翌週の三者会談で、セナは「紳士協定は1回目のスタートのみ」「協定はトサ・コーナー入り口のブレーキングポイントまでだ」と抗弁したが、デニスに促され、最後は渋々ながら非を認め謝罪、これにより両者は一旦和解した。しかし、今度は「和解時の話し合いの内容を口外しない」という紳士協定をプロストが破り、セナの不誠実さに対する非難を交えながら仏紙レ・キップの記者にリーク。これにより、両者の間の溝は決定的になってしまった。
その後、ロン・デニスの説得にもかかわらず、プロストはシーズン中盤の地元フランスGPを前にマクラーレン離脱を発表し、決勝レースでは一度もトップを譲らず完勝する。ルノーエンジンを擁するウィリアムズから巨額の契約金をオファーされるが、最終的にフェラーリへの移籍を決断。フェラーリの地元イタリアGPを前にこれを発表して、そのレースでも優勝を飾る。ホンダの記念すべき50勝目は、既にフェラーリドライバーとしてイタリアの観衆に熱烈歓迎されるプロストにより達成という結果になった。この際、表彰式の時に契約上チームの所有物である優勝トロフィーを地元のファンに投げ与えてしまい、ロン・デニスが不快感を示した。また、度重なるエンジン待遇差別発言に業を煮やしていたホンダの怒りも頂点に達し、プロストへのエンジン供給停止を通告してきた。後日プロストは、トロフィーをレプリカで「弁償」するとともに、ホンダにも謝罪した。
日本GPの予選では、セナに1秒以上の差をつけられ2位になる。プロストはウィングを若干寝かせストレートでのスピードを伸ばすセッティング変更を、ダミーグリッド上で決断する(本人は日曜午前のフリー走行で決めたと語っている)。 決勝レースでは、スタートでセナの前に出たプロストは、セナがコーナーで接近しても直線で引き離す、という展開が続く。このような状態が47周目まで続いたが、この周回の最終コーナー手前のシケイン、イン側に寄せて追い抜こうとしたセナと、アウトからコーナーにアプローチしたプロストが接触。両者は並んでコース上に停止し、即座に車を降りたプロストは、コントロールタワーへ向かい、接触の原因はセナの無謀な追い越しにあると非難した。一方コースに復帰しトップでチェッカーを受けたセナは、レース後の再裁定でコース復帰時のシケイン不通過を理由に失格となった。
その後多くのドライバーから「シケインを通過できなかったとき、マシンをUターンさせコースに戻るのは危険であり、エスケープから安全にコースに復帰したセナの行為を危険と見なすのはおかしい。」という抗議がなされたため、セナの失格の理由は「押しがけ」(これは元々レギュレーションで禁止されている)に変更された。 テンプレート:要出典範囲
接触をめぐり、プロストとセナのどちらが悪いかでメディアやファンの間で論争が続いた。プロストはレース前にメディアに対して「セナに対してもうドアは開けない(譲らない)」と宣言しており[6]、それを実行した形となった。プロストのオンボード映像にはシケインをショートカットする勢いでステアリングをセナ側に切り込む姿が残されている。最終戦オーストラリアGP決勝は「豪雨のため危険」として走らなかったが、タイトルを争うセナがリタイアしノーポイントに終わったため、日本GPでのセナの失格裁定の行方にかかわらず、3度目の世界王座を獲得した。
フェラーリ時代
- 1990年
プロストはチャンピオンに与えられるカーナンバー"1"を手土産にフェラーリに加入し、マクラーレンに残ったセナと3年連続でチャンピオン争いを繰り広げることとなる。
ニューマシンフェラーリ641で迎えた開幕戦アメリカGPは散々な結果だったものの、続く第2戦ブラジルGPでは、首位のセナと中嶋悟の接触事故の後に首位にたち、移籍後初勝利をあげる。第6戦メキシコGPでは13位スタートながら、タイヤ無交換作戦で順位を上げて逆転優勝した。ここから3連勝、特に第7戦フランスGPでの母国優勝は、フェラーリにとってF1通算100勝目であった。第8戦イギリスGP終了時点では一旦ランキングトップに立つが、この年はセナも安定して成績を収めており、第9戦ドイツGP以降は再度リードを許した。
第14戦スペインGPでシーズン5勝目を挙げて望みを繋ぎ、セナが9ポイントをリードした状況で第15戦日本GPを迎える。スタートではプロストが先行したが、第1コーナーへ進入する際に、アウト側のプロストとイン側のセナが接触してリタイアとなり、チャンピオンを逃すこととなった。同じサーキットで同じドライバー同士が、2年連続で接触してのチャンピオン決定となった。後にセナはFIA会長ジャン=マリー・バレストルへの報復として「故意にぶつけた」ことを認めている。
- 1991年
1991年はフェラーリがレギュレーション改正に対応したマシン製作に失敗したことから低迷してゆくことになる。チームは前年のマシン641/2をレギュレーションに合わせて642として改良した。
テストが好調であったため、開幕戦から実戦に投入したが、前評判とは裏腹に成績は低迷。641/2がベストハンドリングマシンと言われたのに対し、642ではウイング幅の縮小や、ディフューザーの縮小などでダウンフォースが減少したため、持ち味のハンドリングのよさが失われてしまい、戦闘力を欠くこととなった。エンジンが重く馬力が劣ることも不利に働いた。第3戦サンマリノGPでは、濡れた路面でフォーメーションラップ中にスピンしてコースアウト。復帰できず、そのままDNS(未出走)となった。第4戦モナコGP後にはプロストと対立したチェーザレ・フィオリオ監督が解任された。
アップデートマシンの643を投入した第7戦フランスGPでは、マンセルと優勝争いを演じて復調を思わせたが、その後も不振が続き、チームとの関係は悪化する。第15戦日本GP後に「今のフェラーリは赤いカミオン(大型トラック)だ」と発言したことで最終戦を待たずしてチームを解雇され、デビューイヤー以来11年ぶりのシーズン勝利なし」という不本意な成績に終わった。
休養
- 1992年
フェラーリ解雇後は自チーム結成に向けて動きを見せる。ルノーエンジンを搭載するリジェと買収交渉を行い、自らマシンをテストした。また、マクラーレン時代のデザイナーであるジョン・バーナードと共にトムスGBを母体とした新チーム設立を試み、トヨタからエンジン供給を引き出そうとした。しかし、いずれも実現には至らず、結局1年間の休養を表明。フランスのテレビ局のF1中継解説者として浪人生活を送ることになった。
その一方、水面下でルノーの仲介によりウィリアムズと接触し、1993年からのウィリアムズ加入を発表する。セナを交えたシート争奪戦の結果、この年のチャンピオンのマンセルがウィリアムズを去り、CARTへ転向する結果となった。
ウィリアムズ時代
- 1993年
前年に圧倒的なマシン性能差を見せつけたチームと、3度のチャンピオンという組み合わせが誕生。
開幕前の予想とは裏腹に、プロストにとって決して楽な展開にはならなかった。シーズン前半戦はウェットレースが連続したこともあり、雨のレースを得意とするマクラーレンのセナに活躍を許す。復帰第1戦となる開幕戦南アフリカGPでは幸先良く勝利するが、第2戦ブラジルGPではトップ走行中のレース中盤、突然のスコールに足をすくわれリタイアに終わる。第3戦ヨーロッパGPでは雨が振ったりやんだりのコンディションに7度のピットインを繰り返してセナに惨敗した(結果は3位)。第6戦モナコGPではポールポジションを獲得するも、スタートでフライングと判定された挙句、ペナルティストップでエンジンをストールさせ2周遅れの最下位になり、ファステストラップを記録しながら追い上げたものの、1周遅れの4位(プロスト自身は1993年のベストレースを「モナコGP」と発言している[7])。第7戦カナダGPで優勝してポイントリーダーに返り咲くと、第10戦ドイツGPにかけて自己最多の4連勝を記録。第9戦イギリスGPでは通算50勝に到達した。中盤戦以降はチームメイトのデイモン・ヒルが成長し、終盤戦までタイトル争いがもつれることになった。
プロストの独走とならなかった要因としては、初めて経験するアクティブサスペンションの挙動に慣れるのに時間を要したことや[8]、ライバルチームもハイテク装置を装備してウィリアムズの優位が失われたこと、ペナルティやトラブルでポイントを失ったことなどがある[9]。
第14戦ポルトガルGPを迎え、プロストは「1年間慎重に考慮してきた結果[10]」として当季限りでの現役引退を表明した。後のインタビューではシーズン前に起きたFISAのスーパーライセンス発給拒否騒動[11]や、不可解なペナルティ[12]などで精神的ストレスが溜まっていた事をほのめかし、「あらゆることに嫌気がさして疲れてしまった」と語った[13]。また、ロードレース世界選手権 (WGP) チャンピオンであるウェイン・レイニーがレース中の事故で半身不随となったことが、良い状態で引退したいという気持ちにつながった[10]。本来はチャンピオン獲得後に発表する意向だったが、翌季のウィリアムズ入りが内定しているセナが先走って情報を漏らしたため、レース前に記者会見を行う形となった[10]。
ポルトガルGPでは2位に入賞し、4回目の世界チャンピオンの座を獲得した。この時点ではファンジオの5回に次ぐ歴代2位の記録だった。チェッカーを受けた後、コース上にやって来たファンから手渡されたフランス国旗を掲げて走行した。
その後の第15戦日本GPと最終戦オーストラリアGPでは共にセナ優勝、プロスト2位で終わった。最終戦オーストラリアGPでの表彰台ではセナと握手をしてみせた。この表彰式直前、パルクフェルメ内ではデニスを含めた3人で握手をしていた。
F1ドライバー引退後
1994年はTF1のテレビ解説者としてサーキットに帯同。サンマリノグランプリでは、フリー走行中のセナに無線でインタビューしている。セナの死後にプロスト復帰説が流れた事もあったが、プロストは「絶対にない」と否定した。
ドライバー引退後、ルノーのアドバイザーとして働いていた。この頃、プロストは「ルノー親善大使」を拝命。自身が出演したルノー・ルーテシアのテレビCMが日本でも放映されていた。すれ違いできないような細く曲がりくねった一方通行の道を間違って対向してきた女性ドライバーのために、プロスト(もルーテシアに乗っていた)がその女性ドライバーのルーテシアを猛スピードでバックさせてあげるという内容のCMだった。
ルノーとの契約を1995年半ばで打ち切り、プロストは同年のイタリアGP終了後、マクラーレンのテストドライブに参加する。「現役復帰か」と騒がれるが、結局テクニカル・アドバイザー兼テストドライバーとしてチームに加入した。1996年には新車MP4/11のシェイクダウンや同シーズンのテストを担当し、チームに貢献した。
一方1995年末には、フェラーリの監督で以前より親交のあったジャン・トッドから、ミハエル・シューマッハのサポート役として現役復帰を持ちかけられていたが、辞退したことが最近テンプレート:Whenになって本人の口から明かされている。
F1チーム設立
テンプレート:See also 1997年にリジェを買収しF1チームのオーナーとなり、「プロスト・グランプリ」と改名しグランプリに参戦した。参戦2戦目で表彰台を獲得し、翌3戦目には予選3位を獲得するなど、デビューイヤーとしては一定の活躍を見せた。1998年にはプジョーと手を組んでオールフレンチチームの実現を目指したが成績は振るわなかった。また、この前年から既に契約が決まっていたプジョーの関係者をファクトリーに招き、無限エンジンを無限の了解を得ずに見せることなどをしたため無限首脳を激怒させた。その後も不振に喘ぎスポンサー不足もあり2002年初めにチームは破産。政治的な観点でエンジンサプライヤーやスポンサーなどと様々な問題で事実上喧嘩別れに至る事が少なくなく、ドライバー時代の輝かしい経歴とは対照的な結果となり、「一流のドライバーが、一流のオーナーになれるとは限らない」実例に挙げられてしまうことにもなった。
この頃、『Number』誌によるインタビューの「ドライバーとしてのプロストは、チーム監督としてのプロストから見てどうか?今になって欠点はあるか?」の問いに対し「ない。彼はすばらしいドライバーだ、すぐにでも雇いたい」と答えている。
元F1ドライバーでプロスト・グランプリにも所属していた中野信治は、チーム監督としてのプロストの姿勢を批判していた。テンプレート:要出典範囲が、結局最後まで待遇を改善する事はなかった。
F1撤退後から現在
2003年からはフランスの氷上レース、アンドロス・トロフィーにオペル・アストラで参戦。2004年はフランストヨタの支援を得て、トヨタ・カローラで参戦している。トヨタとの関係が出来たことから、トヨタF1チームのアドバイザー就任が囁かれたこともあったが、実現はしていない。
2005年、プレゼンターとしてフランスGPを訪問。久々にF1の舞台に姿を現し、優勝したルノーのフェルナンド・アロンソにトロフィーを手渡した。アロンソはこの年、プロストが果たせなかった「ルノーのコンストラクターチャンピオン獲得」に貢献している。
またこの年は「Exagonエンジニアリング」よりクライスラーバイパーGTS-Rで、ジャン・ピエール・ジャブイーユをパートナーとしてフランスGT選手権に参戦。9月のル・マンと10月のマニ=クールでは、ジャブイーユに代わり実子のニコラス・プロストをパートナーとしている。
2006年には、ルノーF1の日産ブランドへの変更とは別の話として、日産とプロストが組んでF1に参戦するのではないかと噂された[14]。
2007年には、マクラーレン・チームのドライバー間の対立(ロン・デニスがチャンピオンのフェルナンド・アロンソを差し置いて、ルーキーでデニスと同じイギリス人のルイス・ハミルトンに肩入れしているとされた問題)に関し、「以前にもデニスは自分を差し置いてセナを依怙贔屓していた」と、自らの経験に基づいた発言が幾度かメディアに流れた。
2009年にはダチアと手を組み、氷上レース「アンドロス・トロフィー」に参戦。ダスターで2009-2010シーズンは総合2位、2012シーズンにはロッジーグレイスで総合1位の成績をおさめた。
ドライビングスタイル
1984年迄は、予選グリッドを重視した走りであったが、ニキ・ラウダとチームメイトになり(ラウダはマクラーレン在籍中の4年間ポールポジションを1度も取れなかったが、1984年にチャンピオンを獲得した)、1985年以降から、スムーズな加減速と追い抜きを武器にポイントを重ねるレース戦略を採るようになった。ライバルの動向も含めたレース展開を考慮し、安全マージンを取りつつも、必要に応じてペースを上げるようなレース展開から、「プロフェッサー」と呼ばれるほどになった。この頃よりファステストラップも多く獲得するようになった。
ニュートラルステアのセッティングを好み、少ない操作でタイヤを傷めにくい走りを身につけていた。そのタイヤを労わって走る技術を生かし、1987年と1988年のブラジルGPでは猛暑の中、ライバルよりも1回少ないタイヤ交換で優勝している。1989年の同グランプリでは、予定されていた2回目のタイヤ交換が出来ず(クラッチトラブルの影響)、序盤に交換したタイヤで最後まで走り切り2位を獲得した。このレースについてプロストは「優勝より嬉しい2位」と語っている。
かつてのチームメイト、ケケ・ロズベルグの解説によれば、傍目にはスムーズに見えるプロストのコーナリングは、ブレーキをかけないまま曲がっていき、曲がりながらロック寸前までブレーキをかけ一気に転回し、そこから全開で加速するという独特なもので、ロズベルグ自身も真似しようとしたがどうしても出来なかったという。
プロストは「チームメイトがセットアップしたマシンでそのまま走れたのはセナとラウダだけだった」と発言しており、マシンの最大の性能を引き出すセッティングは3人とも同じであった。最後のチームメイト、デイモン・ヒルは、同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ないことをデータから知り、プロストの走法を学ぶようになった[15]。
後藤治はプロストについて、「“プロフェッサー(教授)”と呼ばれていましたが、あれほど実像からかけ離れたニックネームも珍しいですよ。プロストは若い時からいいクルマに乗り続け、いい体験をいっぱいしてきたから、どういう方向にセットアップすればいいかが経験的にわかっている。それがプロストの財産でね。1989年にプロストは加速でセナに負けたから、ホンダを“エンジン操作している”と批判してきた。でも、データを見るとセナが高回転まで使っているのに対してプロストは使っていない。この時はもうNAになっていて、燃費は関係ないから回転を抑えて走っても全く意味がない。でもプロストは理屈を分からずに走っているから、ターボ時代同様に回転を抑えて走っていた。ホンダが技術的なことを説明しようとしても聞こうとしないし、興味がない。我々も困って、あの当時はまだアナログのタコメーターでしたから、“この回転数まで必ず引っ張るように”という目盛り代わりのステッカーを貼ってあげたんです。もちろん、非常に速いドライバーですよ。タイヤの使い方も抜群だし。でも、今の時代ならチャンピオンになれないでしょうね[16]」と評している。
雨嫌い
プロストは雨を極端に苦手としている、と評されることが多い。雨を嫌うようになったのは、後述するディディエ・ピローニとの事故が契機となっている。本人によるとピローニの事故に遭遇するまでは、雨の方が得意だった。また、滑ることが問題なのでは無く、前車の水煙が前方視界を奪ってしまうリスクを恐れている、と語っている。それを証明するように、1988年のイギリスGPでは豪雨の中、良いところなく自主的にリタイヤしたが、次のドイツGPでは視界に影響しない程度のウエット・コンディションであったため、セナに次ぐ2位でフィニッシュしている。1989年のオーストラリアGPでは豪雨だということで、他のドライバーに出走を取りやめるよう働きかけを行い、自身も1周で走行を取りやめた。その他、1991年サンマリノGPや1993年ブラジルGP、ヨーロッパGPで勝利を逃している。
1982年のドイツグランプリの予選は視界が極端に悪い霧雨の中で行われたが、スローダウンした前車をプロストが追い抜いたところ、後ろからアタック中だったディディエ・ピローニがこれを視認できず、ピローニ車の前輪がプロスト車の後輪に乗り上げる事故が発生。ピローニ車はプロスト車を飛び越えて前方の路面に叩きつけられ、ピローニが両足を切断寸前の複雑骨折をしてレース生命を絶たれるという惨事に発展してしまう。プロストに過失は一切なかったが、事故直後に目の当たりにした親友ピローニの惨状が、その後のレース人生において大きなトラウマとなった。
後年明らかになった事実として、2012年の「F1速報PLUS」Vol.28において、「1980年のワトキンスグレンのレースで事故にあった際、負傷により右目の視力が低下していた。」ということが発覚している。とくに雨のような薄暗いコンディションでは前がよく見えなかったという。現役時代のプロストはこの事実を隠していた。F1でのキャリアの終盤こそ雨での成績はふるわなかったが、1984年のモナコGPでは雨のなか優勝している。
エピソード
- 父は家具職人で裕福ではなかった。そのためレース人生で自費で出走したのは「初めて参戦するレースに必要な中古のカートを、アルバイトをして貯めた800フランで買った時だけだ」という。
- 鼻が曲がっているが(そのために少々ぼそぼそとした鼻声)、これは、小学生の頃サッカーの試合中に怪我をしたことが原因だという。
- 子どもの頃はサッカー選手を目指していた。レーサーとなった後もサッカー好きは続き、98年W杯仏大会の折にはプロストGPのピットに大型モニターを持ち込んで観戦した。他所のチーム関係者も詰めかけて大盛況となった。なお、この関係でレースデビューは15歳の時と他のトップドライバーに比べると遅かった。
- 爪を噛むクセがある。眉間にシワを寄せ、タイミングモニターを見つめながら爪を噛んでいる姿がしばしば捉えられた。
- 自転車の愛好家であり、ツール・ド・フランス開催期間中のレース休息日に当年開催ステージの一つを走る市民レーサー参加型サイクリングイベント「エタップ・デュ・ツール」や、フランスの自転車ロードレーサーでツール・ド・フランスにおいて7度の山岳賞(史上最多)に輝いたリシャール・ヴィランクの引退レース等を走っている。
- 出走回数は199が最も多く流布している数字だが、プロストが予選を通過し決勝に進出したレースは201であり、199はこれから「豪雨のため出走を拒否した」1989年オーストラリアGPと「フォーメーションラップ中のスピン」でスタート出来なかった1991年サンマリノGPを引いた数字である。当時はこのようなケースでは出走数に含まれないのが一般的だったが、現在はマシントラブル等でフォーメーションラップに出られなかったり、フォーメーションラップ中にストップした場合でも、出走回数としてカウントすることが多くなりつつある。このため、史家の中にはプロストの出走回数を200あるいは201と記録する者もいる。FIAの公式データでは200であり、本項ではこれに従っている。
- 1983年、ルノーとの契約で、同社の小型車に乗ることを義務づけられていたプロストは、その年の暮れに解雇されるやメルセデス・ベンツ560SECを注文した。12年後の1995年、ルノー親善大使の契約を打ち切ったプロストがドライブしたのはメルセデス・エンジンを搭載したマクラーレンMP4/10であった。
- 1987年、マクラーレンのデザイナーだったゴードン・マレーと共に初めてホンダの施設を訪問した際に、行く先々でエンジニアたちが2人をジロジロと見るので、「お前みたいな大男は日本にいないからだ」「いや、お前みたいに鼻の曲がった奴は日本にいないからだ」と互いにからかいあったという。
- 1993年末にパリで開催されたチャリティ・カート大会では、他のドライバーが派手にテールスライドさせてコーナーを曲がっているのに対し、プロストはほとんどテールスライドをしないスムーズな走りを披露した。それを見たセナは、「どうしてあの走りであのタイムが出るんだ!」と驚愕した。レースではトップを走行するアンドレア・デ・チェザリスとそれを追うセナのすぐ後ろにつけて熾烈なトップ争いを展開。最後の対決に会場は大いに沸いた。結果は、エンジントラブルからスローダウンしたセナと同じくトラブルの発生したデ・チェザリスを後ろにぴったりつけていたプロストがかわして優勝という、最後までプロストスタイルでの完勝であった。
- プロストはワールド・チャンピオンを通算4回獲得しているが、その時に着けていたカーナンバーは、連覇をした1986年を除いて、全て「2」である。
- 1993年限りで引退を表明していたが、シーズンオフにマクラーレンの要請に応える形でプジョー・エンジンを搭載したMP4/9をテストドライブした。このことにルノー首脳陣は激怒し、後にプロスト自身がチームを所有した際にエンジン供給を拒否したと言われている。
- プロストがテレビ解説を務めていた1994年ドイツ・グランプリで、リジェの2台が表彰台を獲得したが、リジェのマネージャーは、フェラーリ時代に反目したチェーザレ・フィオリオだった。マイクのスイッチが入っていないと思っていたプロストは「あの○○野郎、ついてやがるぜ」と呟き、そのまま生放送されてしまった。しかしその後自身のチームプロストGPではそのフィオリオを招聘している。
- ジャン・アレジとは、フェラーリ時代チームメイトであったり結婚式の立会人を務めるなど公私共に友人であったが、現役中は一緒に表彰台に立つことはなかった。
- ル・マンのサルト・サーキット(ブガッティ・サーキット)にはプロストの名を冠したカートコースがある。
- 1982年チャンピオンのケケ・ロズベルグは、1986年チームメイトになった際に、「プロストは私が今まで見た中で最高のF1ドライバーだ。」と発言したが、「本当にそう思いますか?」と聞かれた。するとロズベルグは、「私はプロストが世界最高だと思っているわけではない。世界最高だと知っているのだ。」と、答えた。[17]
- 初代ホンダF1監督の中村良夫は、「非力なクルマでもなんとか勝ってしまう。あれこそが本当のグランプリドライバーですよ。」と絶賛していた[18]。
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | *予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|
1980年 | マクラーレン | 5 | 15位 | 5位・1回 | 1回 | 7位・2回 |
1981年 | ルノー | 43 | 5位 | 1位・3回 | 6回 | 1位・2回 |
1982年 | 34 | 4位 | 1位・2回 | 4回 | 1位・5回 | |
1983年 | 57 | 2位 | 1位・4回 | 7回 | 1位・3回 | |
1984年 | マクラーレン | 71.5 | 2位 | 1位・7回 | 9回 | 1位・3回 |
1985年 | 73 | 1位 | 1位・5回 | 11回 | 1位・2回 | |
1986年 | 72 | 1位 | 1位・4回 | 11回 | 1位・1回 | |
1987年 | 46 | 4位 | 1位・3回 | 7回 | 2位・3回 | |
1988年 | 87 | 2位 | 1位・7回 | 14回 | 1位・2回 | |
1989年 | 76 | 1位 | 1位・4回 | 11回 | 1位・2回 | |
1990年 | フェラーリ | 71 | 2位 | 1位・5回 | 9回 | 2位・5回 |
1991年 | 34 | 5位 | 2位・3回 | 5回 | 2位・3回 | |
1993年 | ウィリアムズ | 99 | 1位 | 1位・7回 | 12回 | 1位・13回 |
*予選順位はペナルティなどを反映した決勝グリッド
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:S-sports
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ヤン・ラマース
|style="width:40%; text-align:center"|ヨーロッパF3チャンピオン
1979
|style="width:30%"|次代:
ミケーレ・アルボレート
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ニキ・ラウダ
|style="width:40%; text-align:center"|F1ドライバーズチャンピオン
1985-1986
|style="width:30%"|次代:
ネルソン・ピケ
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
アイルトン・セナ
|style="width:40%; text-align:center"|F1ドライバーズチャンピオン
1989
|style="width:30%"|次代:
アイルトン・セナ
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ナイジェル・マンセル
|style="width:40%; text-align:center"|F1ドライバーズチャンピオン
1993
|style="width:30%"|次代:
ミハエル・シューマッハ
- 転送 Template:End
テンプレート:F1ドライバーズチャンピオン テンプレート:マクラーレン テンプレート:ルノーF1 テンプレート:スクーデリア・フェラーリ テンプレート:ウィリアムズ テンプレート:プロスト・グランプリ
- ↑ ブラジルGPは、トップでチェッカーを受けたピケの失格による繰り上がり。
- ↑ ピケもリタイアとなったが、接触前の時点で既にマシントラブルを抱えていたピケに対し、数周待てば自動的に転がり込んでくる筈だった9ポイントを獲り損ねたプロストのほうが、結果的に失ったものが大きかった。
- ↑ 最大で30秒以上あった2位セナとの差が、赤旗中止となったレース最終周では7秒差にまで縮まっていた。
- ↑ ベロフは後に水タンク事件で年間のリザルトを剥奪された為、仮にセナとベロフの後ろの3位でフィニッシュしたとしても、繰上げで2位・6ポイントを獲得することができた。
- ↑ この紳士協定に関して、フジテレビNEXTのF1解説を務める今宮純は「F1 Legendsテンプレート:When」の中で、プロストからもちかけたもので、セナははっきりとした返答をせず「まぁ…やってみようか」といった内容のものだったと語っている。
- ↑ マルコム・フォリー『セナVSプロスト-史上最速の“悪魔”は誰を愛したのか!?』五十嵐哲訳、三栄書房、2010年、275-276頁
- ↑ F1速報1993日本GP直前号
- ↑ チームメイトのデイモン・ヒルは、テストドライバー時代からアクティブサスの開発に従事していた。
- ↑ ハンガリーGP・ベルギーGP・イタリアGPではプロスト、イギリスGP・ドイツGPではヒルがトップ走行中にトラブルに見舞われ、互いに勝利を譲りあう結果となっている。
- ↑ 10.0 10.1 10.2 『GPX ポルトガルGP号』 山海堂、1993年、pp.8-9。
- ↑ 新レギュレーションを批判したプロストに対してFISAが一時ライセンス発給を見送り、プロストはFISAへ謝罪して出場停止を逃れた。FISAはウィリアムズに対してもエントリー申請の遅れを指摘して、同様の態度をとった。
- ↑ ドイツGPでは後方でスピンしたマシンを回避するためシケインをショートカットしたプロストに対してペナルティが発動された。この裁定を無線で聞いたプロストは「もうF1の世界を離れようと思った」と語っている。
- ↑ 『GPX 日本GP号』 山海堂、1993年、pp.10-11。
- ↑ Nissanとプロスト、F1参戦を考慮(F1.-live.com 2006年10月3日記事)
- ↑ 『GRAND PRIX SPECIAL』(ソニー・マガジンズ)1996年6月号 p.27
- ↑ 柴田久仁夫 「究極のドライバー比較論-元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る」『AUTO SPORT-アイルトンセナ没後10年特別企画』 三栄書房、50頁-55頁、2004年。
- ↑ 双葉社刊 ナイジェル・ルーバック著「インサイドF1 グランプリの真実」p305より
- ↑ F1速報PLUSVol.28