ルノー

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ファイル:Renault Mégane III RS Kyalamigelb.JPG
メガーヌ・ルノースポール

ルノー(Renault S.A.S.)は、フランスパリに本社を置く自動車製造会社。フランス政府が株式の約15%を保有している。事実上の子会社日産自動車などを含めると、ヨーロッパ最大の自動車会社である。

目次

沿革

ヨーロッパ最大の自動車会社

1898年にフランス人技術者のルイ・ルノーLouis Renault1877年-1944年)とその兄弟によって「ルノー・フレール(ルノー兄弟)」社として設立された。現在は主に中小の乗用車や商用車を手掛ける。過去には商用車専門の子会社のルノーV.Iで大型トラックや軍用車両の生産、第二次世界大戦前は航空機ボートも生産していた。

1970年代以降PSA・プジョーシトロエンと並び、フランスの二大自動車企業の一角を占め、先進的なデザインと優れた安全性能、高品質が高い評価を受け、1998年以降2004年まで連続でヨーロッパ第1位の販売台数を維持した。

2011年現在、韓国ルノーサムスン自動車ルーマニアダチアロシアアフトヴァースの株式を保有し、これらを傘下に収めている。また日本日産自動車とお互いの株式を持ち合い名目上は対等の「ルノー=日産アライアンス」を構成しているが、日産はフランスの国内法の制限により議決権を行使できないため、ルノーが事実上傘下に収めている。これらの傘下に収めたグループ企業を含めると、2011年度の新車販売台数の実績では、日本のトヨタグループを抜いて、アメリカGMドイツフォルクスワーゲングループに次いで世界第3位の規模の会社となる。また商用車製造社の世界的再編では、商用車専門の子会社のルノーV.Iボルボに売却する一方、ボルボの株を20%保有し影響力を保持している。

安全への取り組み

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クリオ・ルノースポール

市販車で初の四輪ディスクブレーキ採用など、古くから安全性の向上に力を入れている。近年では、運転中の危険回避を補助するESP(エレクトロニック・スタビリティー・プログラム)を積極的に採用する他、世界で最も高い権威を持つ自動車衝突安全性テスト「ユーロNCAP」において、2006年現在で8車種(モデュスクリオメガーヌ、メガーヌ・グラスルーフ・カブリオレセニックラグナエスパスヴェルサティスコレオス)が5つ星の評価を得ており、これは世界の自動車会社中最多を誇る。

会社概要

本社
  • フランス、ブーローニュ・ビアンクール
設立
  • 1898年
設立者
経営陣
従業員数
  • 300,217人(傘下のルノーサムスン自動車、ダチア、日産自動車を含む)
生産台数
  • 591万1171台- 2006年度世界第4位(子会社の日産自動車、ルノーサムスン自動車、ダチア、インフィニティブランドを含む。ルノーブランドのみだと243万3372台。世界第10位。前年比-4%)、シェア9%
純利益
  • 22億1100万ユーロ(2005年上半期決算/ 前年同期比52%増)

年表

歴史

ヴォワチュレット

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ヴォワチュレットを運転するルイ・ルノー

フランスのパリ郊外に住む技術者であったルイ・ルノーは、1898年にド・ディオン・ブートン車の改造によって、現在のプロペラシャフト式フロントエンジン・リアドライブ方式(FR)の原型である「ダイレクト・ドライブ・システム」を発明した。この斬新な機構は瞬く間にフランス中の自動車会社に模倣されることとなり、1914年特許が切れるまでの間に当時の金額で数百万フランを越える莫大な特許料がルノーに転がり込んだ。

1899年にはこの機構を搭載した自動車「ヴォワチュレット」(Voiturette )を発売し、商業的成功を収めたことを受け、ルイは兄マルセルとフェルナンと共に同年10月に「ルノー・フレール」社(ルノー兄弟社)を設立した。その後は事業規模の拡大に合わせ、1904年にはフランス国内に120店舗の販売代理店網を構えるなど、事業基盤を強固なものにする。先進諸国のモータリゼーションの拡大により、イギリスドイツ日本など諸外国への輸出も開始した他、ロシアに工場を建設するなど急激にその生産台数を伸ばした。

生産規模の拡大

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FT-17軽戦車

1900年代以降は、小型車を中心とする量産政策によって生産規模が拡大したことから、先に創業されたプジョーなどを追い抜きフランスで最大の自動車製造会社となった。第一次世界大戦前後にはルノー FT-17 軽戦車等の戦車装甲車トラックなどの軍用車両や、飛行機および航空用エンジン、さらには小型船の開発・生産を行うなど、その事業範囲を拡大した。また、この頃から日本やオーストリア・ハンガリー帝国アメリカ合衆国などへ販売代理店を通じて本格的な輸出を開始した他、ロシア帝国での生産を開始するなど、世界各国へ積極的に進出した。

なお1900年代から1930年代初頭までのルノーは、エンジンの直後にラジエーターを置く独特の方式を採っており、前頭部に他社のような垂直のラジエーターグリルがない、変わった形態が特徴であった。これはウォーターポンプによる冷却水の強制循環機構に信頼を持てなかったルイ・ルノーが、温度差を利用する古典的な自然循環ラジエーター(サーモ・サイフォン方式)に長くこだわってラジエーター位置を制約した結果で、冷却機構の直接のトラブルは減ったが、客室内に熱が多く伝わり、また冷却水量も多く要するなど、効率面では決して有利な手法ではなかった。1930年代末期に至るまで、ルノー車の多くはサーモ・サイフォン式冷却機構で生産され続け、また動弁機構もほとんど一貫して効率の悪いサイドバルブ式のままだった。

マルヌのタクシー

パリの辻馬車会社は、フランスにおける自動車の普及を見て1905年からいち早く自動車化(タクシー)へのシフトを開始した。ルノーが1905年当時生産していた最小モデルの2気筒1060cc車「8CV」がタクシー用車種に選定され、のべ1,500台に達するオーダーが入った。これにより、1900年代後期には小型のルノー・タクシー多数がパリ市街を往来するようになった。

第一次世界大戦が勃発してから間もない1914年9月初旬、ドイツ陸軍はフランス領内に侵攻し、パリにほど近いマルヌ川まで到達した。ここでドイツ軍を止めようとするフランス陸軍との間で「マルヌ会戦」と呼ばれる凄絶な激戦が展開されたが、防衛するフランス側は当初形勢不利であった。鉄道輸送だけでは前線への兵士の増援が足りなかった。

パリ軍事総督として首都防衛にあたっていたジョゼフ・ガリエニ将軍は、ここでかつてない奇策を打ち出した。パリ市内を走るタクシーを緊急に大量チャーターし、兵員輸送に充てることにしたのである。動員に応じ、600台ものルノー・タクシーがドライバーと共に集結。9月7日深夜、完全武装のフランス軍兵士5名ずつを載せ、ヘッドライトを消したタクシーの車列がパリ-マルヌ間を2往復した。結果、一夜にして6,000人の兵士がフランス側前線に増援され、ドイツ軍の猛攻は食い止められた。

この「ルノーのタクシーの働きでパリが守られた」という逸話によって、その後パリを走るルノーのタクシーは「マルヌのタクシー」(Taxi de la Marne )と呼ばれることになった。自動車の軍事的重要性を世に知らしめたエピソードの一つである。

両大戦の狭間

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40CV(1922年)。巨大な9.1Lエンジンの力に任せ、大統領公用車から速度記録試験車まで様々な用途に用いられた。大排気量エンジンの冷却をサーモ・サイフォン式ラジエータで行うため、ラジエータ部分が巨大である

第一次世界大戦の終戦後にはルノーを巡る情勢にも変化が生じる。戦闘用車両や武器生産という特需がなくなった上に、イギリスやドイツなどからの輸入車の増加によりフランス国内の販売競争が急激に激化した。また競合メーカーのプジョーや後発メーカーのシトロエン等が、生産車種を減らして量産効果を追求する手法で急速に追い上げをかけてきたのに対し、ルノーは世界恐慌下の厳しい経済事情にあっても、4気筒小型大衆車から巨大な8気筒高級車に至るまでの、多様なボディバリエーションを伴う多車種少量生産を継続し、1930年代にはその地位をフランス第3位に後退させた。

さらに老年に達したルイ・ルノーは保守的な設計思想に傾くようになり、1920年代末期に至っても第一次大戦直前レベルから大差のない、古典化したレイアウトの低効率なモデルがラインナップの多数を占めた。機械式ブレーキサーボだけは早くから導入したが、当時導入が急速に進んだ独立懸架も油圧ブレーキも、ルノーへの導入は競合他社に比べて大きく遅れた。製品の品質こそ優れていたものの、業界をリードする製品を作るメーカーではなくなっていた。

それでも老舗メーカーとしての信用は厚く、高級車分野では当時フランスに多数存在した高級車専門メーカーにも劣らぬステータスを誇った。6気筒9.1Lの「40CV」(原型は1913年発表で7.5L、1919年型で排気量拡大)とその後継車である8気筒7.1L「レナステラ」(1928年)、8気筒5.5L「ネルヴァステラ」(1934年)といった巨大な高級モデルは、フランスの大統領専用車として1910年代~1930年代に一貫して用いられた。ラジエーターもようやく1930年前後からノーズ最先端配置となり(しかし相変わらずポンプなしのサーモ・サイフォン式であった)、ブレーキサーボの装備も行われた。

ルノーにようやくモダンな設計手法が取り入れられたのは1937年発表の1000cc級小型大衆車「ジュヴァキャトル」で、モノコック構造とウィッシュボーン式の前輪独立懸架を採用、全体的には1935年に発表されたドイツのオペル・オリンピアの亜流ともいうべきコンセプトではあったが、1939年までに30000台近くを売り上げるヒットとなった。だがその先進性が他のモデルに波及する以前に、ルノー社は危機的事態を迎える。

第二次世界大戦

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ジュヴァキャトル(1937年-1960年)

1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦において、戦争への準備が殆ど整っていなかったフランスは緒戦から敗北に次ぐ敗北を重ねた。1940年6月にはドイツ国防軍がパリを占領し、まもなくフランス全土はドイツの占領下に入ってしまう。この事態を受け、ルイ・ルノーは工場と従業員を守るために、やむなくドイツの占領軍とその傀儡政権・ヴィシー政権に協力することになった。しかしその結果、ルイ・ルノーは1944年連合国軍によるフランス解放後に対独協力者として逮捕され、同年10月、失意のうちに獄中で病死した。一説には対独協力者として憎まれ、獄中で虐待・暴行を受けた結果の死とも伝わる。

なお、大戦中の1942年から1943年にかけて主力工場の1つであるビヤンクール工場がアメリカ・イギリス両軍の爆撃を受けて深刻な被害を受けたほか、戦争によるインフラストラクチャーの破壊により、生産設備や販売網が壊滅的な打撃を受けている。

国営化

第二次世界大戦中に創業者の死と生産設備の破壊という苦難に陥ったルノーは、大戦終結後の1945年に、大戦中の亡命政権自由フランスの指導者で、新たにフランスの指導者となったシャルル・ド・ゴール将軍(後の大統領)の行政命令により国営化のうえ、「ルノー公団」(Regie Nationale des Usines Renault )に改組され、エンジニア出身のピエール・ルフォシュー総裁の指揮のもとで戦禍により破壊された生産設備や販売網の復興を進めると同時に、戦前から行われていた新型車の開発を続行することとなる。

4CVの成功

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4CV(1946年-1961年)

フランスは戦勝国となったものの、連合軍の度重なる空襲を受け各地の工場施設が破壊されていただけでなく、工場を稼動させるためのインフラの整備や資材の調達にも事欠く状況であったが、従業員の士気は高く、終戦後わずか1年しか経っていない1946年パリサロンで、フェルナン・ピカール技師[1]が戦時中から開発を進めていた小型車「4CV」を発表し、翌年から発売した。

4CVは廉価かつ経済的であった上、当時としては優れた走行性能を備えていたことから、大衆ユーザーの広範な支持を受けた。戦後のヨーロッパにおいてベストセラーとなった他、アメリカでも多くが販売された。その結果、1961年までの間に1,105,547台が生産され、フランスで初めて100万台を超えて生産された車種になった。日本でも日野自動車1953年から「日野ルノー」の名でライセンス生産し、その多くがタクシーとして使用されたことから、一躍日本中にルノーの名が広まった。

また、ミニマムな小型車でありながらル・マン24時間レースやミッレミリアなどの国際レースでも活躍するなど、4CVは第二次世界大戦後のルノー復興の立役者となった。

小型車

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4(1961年-1993年)

第二次世界大戦後の復興期における「4CV」の大ヒット以後、ルノーは特に小型車の分野において実績を上げた。1955年2月に死去したピエール・ルフォシュー総裁の後を継いだピエール・ドレフュス総裁指揮の元、「4CV」の系譜を引く「5CVドーフィン」や「8」などのリアエンジン小型車に続いて1960年代以降は「4」や「6」などの前輪駆動 (FF) 方式の小型車を多数送り出した。特に「4」の大ヒットは、当時行ったアメリカ進出の失敗により苦境に陥った経営を助けることになった。

他にも「カラベル」や「フロリド」などのスポーツタイプの車種にバリエーションを広げたほか、1966年ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した「16」や、「12」などの比較的収益性の高い中型車もヒットさせ、これらの相次ぐヒットによりヨーロッパ有数の自動車メーカーとしての地位を不動のものとした。

先進技術の導入

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5(1972年-1984年)

フランスの多くの自動車会社の例に漏れず、ルノーも古くから技術的、デザイン的なチャレンジに対して積極的である。1962年に発表されたリアエンジンの小型車「8」には、大量生産車として世界初の4輪ディスク・ブレーキを採用するなど、当時の最新技術を惜しげなく導入し高い評価を受けた。その後1965年に発売された「16」は、世界初のハッチバックスタイルを持つ中型車としてヨーロッパ中でヒットし、1979年までの長きにわたり生産された。

1972年に発売されたFF駆動方式のハッチバック小型車である「5」とその後継の「シュペール5」(1985年発売)は、その先進的なデザインと高い実用性、経済性が広く受け入れられて、ヨーロッパだけでなく世界中で大ベストセラーとなった。またこのモデルは量産市販車としては最も早い時期に樹脂製の前後バンパーを採用している。

1982年にはフエゴに世界で初めてキーレス・エントリーを採用している。

「モノスペース・コンセプト」

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エスパス(初代、1984年-1992年)

また、1984年に発売された、ヨーロッパの自動車メーカーとしては最初の本格的ミニバンエスパス」は、その未来的で斬新なデザインと実用的で広々とした室内スペース、高い経済性がフランスやイギリス、西ドイツをはじめとするヨーロッパの消費者に受け入れられて大ヒットモデルとなった。

エスパスがヒットしたことでヨーロッパ中でミニバンブームを巻き起こし、ヨーロッパの多くの自動車メーカーがそのコンセプト(ルノーでは「モノスパッセ・コンセプト」と呼んでいる)を模倣することとなった。なお、その後もルノーはエスパスの後継モデルをヒットさせている他、セニックなどのミニバンのヒット作を出している。

アメリカン・モーターズ買収

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21 "ネヴァダ"(1986年-1994年)

1979年には、スケールメリットとアメリカ市場への本格的進出を狙い、1960年代初頭から提携関係にあったアメリカ第4位の自動車会社、アメリカン・モーターズ(AMC)を買収し、「5」(アメリカ仕様は「ル・カー」の名で販売され、フランス国内でも一時期同名で販売された)や、1982年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー受賞車でもある「9」(同「アライアンス」)、「11」(同「アンコール」)、「フエゴ」などの複数のモデルを擁し、1950年代後半の撤退から10数年を経て再度北アメリカ市場に本格的に参入した。

アメリカン・モーターズの販売網を使ってアメリカとカナダ全土で大々的に発売を開始したものの、先に参入していた日本車やアメリカ製小型車との競争で苦戦した上に、ルノー本体の経営不振もあり、最終的に1987年に当時のクライスラーにアメリカン・モーターズを売却し北アメリカ市場から撤退した。なお、アメリカン・モーターズの売却後もクライスラーとの提携に基づき、1991年までクライスラー(イーグル)ブランドで「21」などのルノー車の販売が継続された。

民営化

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サフラン(1992年-1999年)

1986年11月17日には、アメリカ進出失敗などによる財政再建への打開策の一環として、民営化に向けた舵取りを取っていた当時の会長のジョルジュ・ベスが、パリの自宅の玄関前で左翼テロ集団のアクション・ディレクトに暗殺されるという悲劇が起きた。

その後、ベスの後を次いで会長に就任したレイモン・レヴィと、ルイ・シュヴァイツァーの指揮のもと、スケールメリットを狙って1990年2月にスウェーデンの大手自動車メーカーであるボルボと業務・資本提携することを決定し、これを機会に第二次世界大戦直後から45年間続いた公団体制から株式会社に改組された。また、同1993年9月にはボルボとの完全合併案が発表されたが、フランス政府の干渉にボルボ側の経営陣や株主、従業員などが態度を硬化したことにより交渉が決裂し、同年12月には合併が正式に撤回された。

ボルボとの合併案は撤回されたものの、その後もフランス政府は株式を売却し続け、会長の暗殺や労働組合の反対という困難を乗り切って1996年には完全民営化を果たした。2007年現在、フランス政府の持ち株比率は約15%である。

日産自動車を事実上の傘下に

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クリオ・ルノー・スポール V6(1999年-2005年)
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メガーヌ・ルノースポール(2002年-2009年)
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エスパス(現行、2004年-)

1999年3月27日に、当時深刻な経営危機下にあった日本第2位の自動車会社である日産自動車を事実上の傘下に収めることが発表された。その後同社と相互に資本提携し、ルノーが日産自動車の株を44.4%、日産自動車がルノーの株の15%を所有するという形で株を持ち合い、ルノーが日産自動車に経営陣を送り込むなど、事実上の親会社となったルノー主導で経営再建に着手した。

傘下に収めた後には、当時の取締役会長兼最高経営責任者 (PDG) であるルイ・シュヴァイツァーによって日産自動車の最高経営責任者(CEO)として送り込まれた副社長のカルロス・ゴーンとそのチームが、同年10月に発表された「日産リバイバルプラン」計画のもと、東京都武蔵村山市にある村山工場や京都府宇治市の日産車体京都工場などの余剰な生産拠点の閉鎖や余剰資産の売却、余剰人員の削減。子会社の統廃合や取引先の統合によるコスト削減や車種ラインナップの見直しなどのリストラを行うと同時に、新車種の投入や国内外の販売網の再構築、インテリア及びエクステリアデザインの刷新やブランドイメージの一新などの大幅なテコ入れを敢行した。

当初は両社の文化的土壌の違いやラインナップの重複、日産自動車の負債の大きさなどを理由に、同業他社やアナリストをはじめとする多くの専門家がその行く先を危惧した。しかし、最終的には提携前の1998年には約2兆円あった日産自動車の有利子負債を2003年6月に返済し終え、再建を成し遂げた。

ルノー・日産アライアンス

また、両社の間で言葉通りのアライアンス関係を構築し、車台やエンジン、トランスミッションなどの部品の共通化、購買の共同化などを通じてコストダウンを図っているほか、メキシコなどいくつかの国ではルノーの車を日産ブランドで販売したり(OEM供給)、その逆を行うなど、アライアンスの内容は多岐にわたっている。2005年1月にはルイ・シュヴァイツァーが「2010年までに日産自動車とともに世界市場の10%のシェアを確保し、年間400万台の生産を達成する」という目標を掲げた。

その後2005年5月に子会社の日産自動車の社長最高経営責任者(CEO)を務めていたカルロス・ゴーンが、公団時代の1992年より13年間の長きに渡り取締役会長兼最高経営責任者 (PDG) を務めたルイ・シュヴァイツァーに代わり、親会社であるルノーの9代目の社長兼最高経営責任者 (PDG) に就任し(子会社の日産の社長兼CEOも兼務)、それを受けシュヴァイツァーは取締役会長 (PCA) に就任(2010年6月23日に退任)した。

2000年代以降

その後デザイン担当副社長のパトリック・ルケモンPatrick le Quément、2011年現在は引退 )による斬新なデザインや、品質と安全性の向上が市場で好評を博したことにより、小型車メガーヌルーテシア(日本市場以外では「クリオ」の名で販売されている)、MPVカングーセニック、エスパスが大ヒットするなど、再びフランスのトップブランドに返り咲いただけでなく、1998年以降6年連続でヨーロッパ市場でトップの販売台数を誇っていた。近年ではアフリカメルコスール市場を中心とした南アメリカアジアなどでの売り上げが伸びている。

2005年11月には、ヨーロッパで最も権威のある自動車賞である「2006年ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー」を発売されたばかりのクリオが受賞した。なお、ルノーにとって同賞を受賞するのは2003年のメガーヌ以来3年ぶり6度目、クリオとしては1991年以来2度目で、同車種が2度同賞を受賞するのは史上初のことである。

2006年2月9日には、関連会社の日産自動車に対するリストラのような従業員の解雇を行わずに、2009年の販売台数を2005年の約250万台から80万台多い330万台とし、2009年の売上高に対する営業利益率を6%にするという内容の中期経営計画「ルノー・コミットメント2009」を発表した。この計画の中には、2009年までにルノー初のSUVを含む26車種の新型車の投入が含まれ、2007年内だけで初の本格的SUVであるコレオスやラグナ3、カングー2が新たに投入された。

2008年には、2012年までに複数のルノーブランドの電気自動車(EV)を市場投入することも発表されたが、これに先立つ2011年には、複数の幹部が電気自動車関連の機密情報を中華人民共和国の企業に漏えいさせたとして解雇される騒動が起きた。

2013年には、それまでのパトリック・ルケモンに代わって、マツダのデザイン本部長から転籍したローレンス・ヴァン・デン・アッカーが初めて指揮を執った、ルノーとしてはコレオスに次ぐクロスオーバーSUVであるキャプチャーが登場。

各国での生産・販売

生産拠点

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ルーマニアから輸出されるダチア・ロガン

2006年現在、ルノー本体としては本国フランスのほかにスペインスロベニアトルコオヤック・ルノー)、ブラジルアルゼンチンコロンビアモロッコインドなど世界各国に生産拠点を持つほか、ロシアポルトガルマレーシアウルグアイチリイランで組み立て(ノックダウン)生産を行っている。さらに中華人民共和国での生産計画も進んでいる。

また日産自動車や韓国ルノーサムスン自動車、ルーマニアのダチアなどの傘下企業が各国に生産拠点を持っており、生産と販売を行っている。特にルノーサムスンにおいてはコレオス(韓国国内においてはルノーサムスン・QM5)とラティテュード(同ルノーサムスン・SM5)を全量生産・輸出するなど、近年、ルノーグループのアジアにおけるハブ的な役割を果たしている。

アジア太平洋地域

アジア太平洋地域においては、シンガポールに本部を置く(2006年までは日本東京都に本部が置かれていた)アジア太平洋地域統括本部の指揮下で日本、中華民国、中華人民共和国、香港、シンガポール、マレーシア、インドネシアブルネイオーストラリアニュージーランドと、フランス領および海外県のタヒチニューカレドニアの合計12の国と地域で販売している他、マレーシアではタンチョンとの提携を行いカングーのノックダウン生産を行い、近隣諸国への輸出も行っている。

なお、オーストラリアでは1995年にフランスがムルロア環礁で行った核実験の影響でルノー車が売れなくなり、翌1996年から輸入・販売を中止。その後傘下においた日産自動車の支援を得て2001年に輸入・販売を再開した。参考リンク

日本での販売

日本市場参入

日露戦争後の1910年に、東京に本社を置く商社・水嶋商会を販売代理店として正式に日本市場に参入した。また1930年代には中外ルノーという会社が輸入業務を行っていた時期があった。その後1953年から1963年まで、日野自動車が「4CV」(日野ルノー)をライセンス生産し、多数がタクシーとして使用されたことから「亀の子ルノー」と呼ばれて大衆にも親しまれ、ルノーの名は日本全国に広まった。

相次ぐインポーター変更

その後、1977年に東京日産グループのキャピタル企業が輸入権を獲得し、ルノー・5などを輸入した。1983年にはミニなどを輸入していた「日英自動車」も加わり、輸入権は2社体制となった。1986年には当時フィアット車を輸入していた「ジヤクス・カーセールス(JAX)」 が輸入権を獲得したが、1991年にドイツのフォルクスワーゲンヤナセの販売撤退で穴があいた東京地区のディーラー網を獲得するためにJAXを買収したため、ルノーの輸入は宙に浮くこととなる。

1993年には、独立系インポーター最大手(当時)のヤナセが子会社「フランス・モーターズ」を設立したが、競合車種の多いオペルとの兼ね合いでディーラー網を別々に作らなければならず、またトゥインゴなどの利幅の低い低価格車しか売れなかったことから、結果的に、親会社であるヤナセの経営を圧迫する原因にもなってしまった。このようにインポーターが次々と変わった結果、既存のオーナーに対して満足なアフターサービスをすることができないばかりか、新規顧客獲得のための継続的なマーケティング活動も出来ない状態に陥ってしまった。

2000年には、国内での販売を加速すべく初のルノーの100%子会社である「ルノー・ジャポン」が設立され、ルノーのアジア太平洋統括本部のもとで日本国内での輸入販売業務が強化された。その後ルノー本社のリストラが行われたことを受けて、同社は2007年に日産の子会社「日産トレーディング」に業務移管され、同社の一部門とされた。なおその後も「ルノー・ジャポン」のブランドは継続して使用された。

その後、ルノー車の販売実績が上向きになり始めてきたことからルノー・ジャポンを再分離させることとなり、2012年4月2日より日産自動車の完全子会社として「ルノー・ジャポン株式会社」(RENAULT JAPON CO.,LTD.)が再スタートすることとなった。

車種一覧

現在生産されている車種

(バス・トラックなどの大型商業車を生産しているルノートラックの車種は除く)

  • ロガン
    • 子会社のダチアの車種だが、ロシアなどいくつかの国ではルノーのブランドで販売されている。</BR>ボディタイプは4ドアセダン、ステーションワゴン(ロガンMCV)、バン、ピックアップ。</BR>日本国内へ正規輸入はされていない。
  • ダスター
    • こちらもダチアの車種だが、ロシア、インドなどいくつかの国ではルノーのブランドで販売されている。</BR>ボディタイプは5ドアステーションワゴンで、小型クロスオーバーSUVの一種。</BR>日本国内へ正規輸入はされていない。
  • トゥインゴ
  • モデュス
    • バックドアの中のもう一つのドアが特徴。プジョー・1007とは何かにつけて比較される。</BR>ボディタイプは5ドアハッチバック。</BR>日本国内へ正規輸入はされていない。
  • パルス
    • インド市場のみで販売。K13型日産・マーチをベースにルノー製ディーゼルエンジンを搭載している。ボディタイプは5ドアハッチバック。
  • スカラ
  • クリオ
    • 日本名・ルーテシア(Lutécia )。シュペール5の後継。従来モデルについては日産・プラティーナの名で販売されている国もある。ボディタイプは5ドアハッチバックとステーションワゴン(エステート)。
  • キャプチャー
  • カングー2
    • 「カングー」の後継モデル。商用バージョンのカングー・エクスプレス(Kangoo Express )にはショート(ショートホイールベース)もあり、ショートモデルの派生車種としてBE POP(ビボップ)もある。カングーにはOEMとして日産・キュビスター(KUBISTAR )が存在した(NV200はキュビスターの後継車種)。</BR>2に関しては日本国内へは標準仕様とビボップが正規輸入され、ショートモデルも並行輸入として入ってきている。
  • メガーヌ
    • 「19」の後継。初代は「19」のシャーシを使っていた。</br>ホディタイプは、3ドアと5ドアハッチバック、4ドアセダン、ステーションワゴン、グラスルーフ、カブリオレ(本国での呼称はクーペカブリオレ)、ルノー・スポールバージョンがある。
  • フルエンス
  • ラグナ3
    • 2007年に3代目となった。</BR>ボディタイプは、5ドアハッチバックとステーションワゴン。</BR>日本国内へ正規輸入はされていない。
  • ラティテュード/サフラン
    • 現在のルノーにおける最高級車種。V6・2500ccエンジン(日産製VQ25DE)の他、日産自動車と共同開発したディーゼルエンジン(dCi)搭載モデル数種も用意される。3代目SM5がベースのため、生産はルノーサムスン釜山工場で行われる。</BR>日本国内へは正規輸入はされていない。
  • タリスマン
    • ルノーにおける最高級車種のひとつだが、中国市場のみでの販売となる。V6・2.5L/3.5Lエンジン(日産製VQ25DE/VQ35DE)を搭載。2代目ルノーサムスン・SM7がベースのため、生産はルノーサムスン釜山工場で行われる。</BR>日本国内へは正規輸入はされていない。
  • セニック
    • メガーヌをベースにしたMPV。欧州ではタクシーとしてもポピュラー。</br>ロングバージョンで3列シートのグラン・セニック (Grand Scénic) もある。</BR>日本国内へはグラン・セニックのみが正規輸入されている。
    • 先代モデルでは「RX4」というオフローダー風の4WDモデルの設定もあった。
  • エスパス
    • ロングバージョンのグラン・エスパス(Grand Espace )もある。</BR>日本国内へ正規輸入はされていない。
  • コレオス
    • 傘下の日産自動車とルノーサムスン自動車とのジョイントベンチャーにより開発されたルノー初の本格SUV である。ルノーサムスン・QM5 とほとんどのパーツを共有し、生産もQM5とともにルノーサムスンの釜山工場で行われる。

過去の車種

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アルピーヌA310/A110/A108

アルピーヌ

ルノーと日産の共通のプラットフォーム

1999年に傘下におさめた日産自動車の間に構築されたアライアンス関係に基づき、近年発売された両社の小・中型車の多くが共同で開発した車台を積極的に導入している。これらの車種の多くは、車台だけでなくエンジンやトランスミッションなどの主要部品も共用している。

アライアンス・Bプラットフォーム使用車

日産・Bプラットフォームを参照

アライアンス・Cプラットフォーム使用車

日産・Cプラットフォームを参照

アライアンス・Dプラットフォーム使用車

日産・Dプラットフォームを参照

モータースポーツ

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1902年パリ-ウィーンレースでのマルセル・ルノー車を描いたイラスト。35HPのルノー14CVは、最大125km/hの俊足と、操縦性が重要な山道での軽快さを武器に激戦を制した
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1903年のパリ-マドリッドレースにおけるルノー30CV(マルセル・ルノー搭乗車)。当時のカメラシャッターでは高速で疾走する車両撮影に制約があり、画像が歪んでいる
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F・スジズの90CVルノー(1906年フランスGP)

テンプレート:Main 会社発足当時から技術の向上を目的にモータースポーツへの参加を積極的に行った。1900年代初頭のヨーロッパにおける黎明期の公道レースでは、ルノー兄弟が自ら運転する大排気量の競技用車で多くの勝利を勝ち取り、名声を獲得した。1902年6月に開催された1,700kmのパリ-ウィーンレースでは、3.7L中型車の14CVに搭乗したマルセル・ルノーが、山岳コースを舞台に、はるかに強力なアンリ・ファルマン搭乗の13.7Lパナールをはじめ上位の大排気量車を接戦で打ち破って劇的な勝利を収めたことで、ルノーの名を高めた。

また史上初のグランプリレースである1906年のフランスGPにもルノーは13L・105HPの「90CV」レーサー3台を参戦させており、うち「3A」車に搭乗したフェレンク・スジズ(Ferenc Szisz 1877-1944)が、ルマンの周回コース(2日間で累計1,248km)を12時間46分台、平均101km/hで走破、同時期の強豪フィアットを下して優勝した。このフランスGPではマシーン自体の高性能・高出力に加え、後輪に当時最新鋭のミシュラン式脱着ホイールを採用したことでタイヤ交換時間の大幅短縮に成功、以後の脱着ホイール普及の端緒となった。

だがそれらの勝利の一方で、当時のヨーロッパにおける最高峰の公道レースの1つである1903年の「パリ-マドリッドレース」では、再度ドライバーとして参加したマルセル・ルノーが操縦ミスで事故死するという悲劇も起こっている(このレースの実態は、路上まで観客の溢れる未舗装の公道で重量レーサー群による130km/h超の接戦が展開されるという危険極まりないもので、他にもドライバーや観客に多数の死傷者が生じ、複数の事故で死者9人を数える未曽有の「死のレース」となった。事態を危惧したフランス政府は途中のボルドーでレースを中止させ、以後、自動車競技はクローズドサーキットを中心に実施されるようになる)。

1909年を最後にモータースポーツへの参戦は控えられるようになり、第二次世界大戦前まで、市販モデルをベースにした速度記録・連続走行記録などのレコード達成挑戦が散発的に行われるにとどまった。

第二次世界大戦後はアルピーヌゴルディーニなどのチューナーを通じてル・マン24時間レースラリーなどに積極的に参戦した。1973年に、それまでルノーの準ワークスチーム的存在であったアルピーヌを買収してモータースポーツ関連子会社のルノー・スポールを設立。以来、F1ル・マン24時間レースなどの耐久レース、ラリーなど様々なカテゴリーで活躍を繰り広げ、1978年にはル・マン24時間レース、2005年と2006年には2年連続でF1のコンストラクターズとドライバーズの両タイトルを獲得するなどしている。

自社チームによりレースに参戦するだけではなく、ワンメイクレースの開催やフォーミュラ・ルノーなど若手レーシングドライバーの育成プログラムの充実などを通じてモータースポーツの振興にも力を入れている。

フォーミュラ1

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ルノーF1チームのピット(2005年)

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革新的技術の積極的導入

1977年にはFIAフォーミュラ1世界選手権に、史上初の1.5ℓV6ターボチャージャーエンジンを搭載した車体でフルコンストラクター(車体もエンジンも自社で製作するチーム)として参入した。

当初は苦戦するものの、まもなく高い戦闘力を発揮し数々の勝利を挙げた。1980年代中盤までルノーチームとして参戦した後、1989年から1997年までエンジンサプライヤーとして、2002年以降は再びフルコンストラクターのルノーチームとして参戦し、さらに複数のチームにもエンジンを供給している。

これら3期いずれも強豪の一角に名を連ねたが、参戦のたびにターボエンジン、ニューマチックバルブ、低重心広角エンジン、といった革新性のある技術コンセプトを投入しており、単なる強豪にとどまらない影響を及ぼしている存在でもある。

2年連続チャンピオン

長らく低迷していたベネトンチームを買収して誕生した現在のルノーチームだが、この再建をも果たし、特に2005年以降はチャンピオンタイトルを争い、フェラーリマクラーレンといったライバルを凌駕し、2005年2006年の2年連続でコンストラクター(製造者)部門とドライバー部門(フェルナンド・アロンソ)の両タイトルを獲得した。

ラリー競技

ラリーで大衆車ベースとして投入される1960年代よりドーフィン、4、以降の世界ラリー選手権時代に入るまでは8、12、17をゴルディーニ仕様として投入、1972年、Gr.4マシンであるアルピーヌ・A110の投入、ジャン=クロード・アンドリューの活躍により、ライバルのポルシェはフェードアウト気味であったがフィアットランチアフォードBMCを凌駕。1973年WRCマニュファクチャラーズタイトルを獲得する。以降、選手権が再開され、ランチア・ストラトスが席巻するようになってからはA310の熟成に時間を費やし、下のグループで走らせていた5をアルピーヌ仕様へ進化させ、80年代のグループB時代に入り5ターボマキシへと進化していくとFF車使いでもあるジャン・ラニョッティブルーノ・サビーらの活躍により激しいトップ~中堅争いを繰り広げる[2]。それが過ぎ90年代に入るまでにはルノー・クリオを投入する。

1970年代後半のERAヨーロッパラリークロス選手権にもA110は投入され、ヴィック・クォイトフが駆り、並居るポルシェ・911と中堅争いを繰り広げている[3]

広告・ブランド

フランスの自動車会社の例に漏れず古くから広告に力を入れていることで知られており、グローバル担当広告代理店であるパブリシスとの長年の関係の下、1972年の5(サンク)のデビュー時の広告キャンペーンなど、広告史に残る有名な広告をいくつも世に送り出している。

コーポレートカラー

マスタードイエローと呼ばれる濃い黄色をコーポレートカラーにしており、ロゴマークの背景色となっているほか、モータースポーツに参戦する際などは、この色を基調に白もしくは黒を組み合わせるのが基本である。

テレビCMに関するエピソード

2006年ころにドイツの広告代理店により制作され、ドイツをはじめとする複数の国で放映されたテレビCM(日本においてもルノー・ジャポンのウェブサイト上で公開された)には、ルノー車の安全性をアピールするために以下に示すような奇抜な内容のものがあった。

  • 車を食べ物(主な自動車生産国になぞらえた物)に置き換えて衝突テストを行った。ソーセージ(ドイツ車)・巻き寿司(日本車)・クネッケブロート乾パンの一種、スウェーデン車)が次々と「大破」していく中、フランスパン(ルノー車)だけは先端が一瞬ひしゃげつつもほぼ無傷で終わり、ラストにもこのフランスパンが登場していた。
  • 砂漠の中で、さまざまな種類のルノー車がかつてのいすゞ・ジェミニのCM(「街の遊撃手」シリーズ)の様に踊るような隊列走行をしているが、ドアミラーの接触・破損に始まり、側面衝突や横転などを経て最後は2台のルノー車がジャンプしながら正面衝突してしまう。しかし、ラストに登場した満身創痍のルノー車群は全車が徐行ながらも動いていた[4]

子会社・提携先など

子会社・系列会社

提携先・その他

関連項目

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タイアップ

広告出演

その他

外部リンク

ルノー

オーナーズクラブ

脚注

  1. フェルディナント・ポルシェの設計という俗説は誤り。
  2. 三栄書房「ラリー&クラシックス Vol.4」より抜粋、参考。
  3. 動画ポータル等にアップされている当時の放映VTRより確認。
  4. http://www.youtube.com/watch?v=KuFSOVVpV4Q

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