カルロス・ゴーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 人物 カルロス・ゴーンテンプレート:Lang-ar-shortテンプレート:Lang-pt-shortテンプレート:Lang-fr-short、又は Bichara(ビシャラ)若しくは Ghosn Bichara1954年3月9日 - )は、ブラジル人(レバノン系ブラジル人)の実業家ルノー取締役会長兼CEO (PDG) で、日産自動車社長最高経営責任者(CEO)も務める。親はレバノン人、生まれはブラジル、育ちはフランス。レバノンとブラジルとフランスの多重国籍を有する。アラビア語フランス語英語スペイン語ポルトガル語の5言語を話せる。日産の社員に対して自らの肉声で語りたい時は、敢えて日本語でスピーチするようにしている。法政大学名誉博士(2004年)。

プロフィール

生い立ち

ブラジル北部の中規模の都市であるポルト・ヴェーリョで生まれた。父はレバノン系ブラジル人、母はアルジェリア生まれのレバノン系フランス人である。6歳の時に父の母国のレバノン首都であるベイルートに引越し、ベイルートのイエズス会系の学校でフランス語で中等教育を受ける。

高等教育は、フランスのエリート養成校の代表であるグランゼコールの一つ、エコール・ポリテクニーク(École Polytechnique)を卒業(パリ国立高等鉱業学校(École des Mines de Paris)にてCorps des Mines課程修了)。 

20歳代で、フランスの大企業の幹部の座が約束された人生を歩むことになった。

ミシュランからルノーへ

1978年に、フランスの大手タイヤ製造会社のミシュラン社に入社。27歳でフランス国内の工場長に就任後、31歳でブラジル・ミシュラン社の社長を経て、35歳で北アメリカ・ミシュラン社の社長・経営最高責任者(CEO)に抜擢されるなど順調にキャリアを重ねていった。その後ユニロイヤル部門の再建を成功させた事などが評価され、1996年に、フランスの大手自動車製造会社であるルノー上級副社長を務めた。

ルノーでは、不採算事業所の閉鎖や調達先の集約などで経費の圧縮を進め、赤字だったルノーは数年で黒字に転換した。ルノーのベルギー工場閉鎖などは、両国間の外交問題へと発展した。これによって、ゴーンには「コストカッター」「コストキラー」の異名が付くことになる。

日産へ出向

1999年3月、ルノーが当時経営危機にあった日本第2位の自動車会社日産自動車と資本提携。同社を傘下に収めた後に、当時のルイ・シュヴァイツァー会長の指示により、ルノーの子会社となった日産自動車の最高執行責任者(COO)に就任。家族共々日本へ移り住む。

日産復活へ

当初は、両社の文化的土壌の違いやラインナップの重複、日産自動車の負債の大きさや労働組合の反発などを理由に、同業他社やアナリストをはじめとする多くの専門家がその行く先を危惧した。

ファイル:Renault Clio III Facelift front 20100410.jpg
ルノーと日産自動車の共通のプラットフォームを使用するルノー・クリオ
(日本名 ルノー・ルーテシア)

しかしその後、ルノーからの巨額な資金投入が行われた上で、ゴーンの指揮の下両社の間でプラットフォームやエンジン、トランスミッションなどの部品の共通化、購買の共同化などを通じて両社のコストダウンを行う傍ら、「日産リバイバルプラン」計画の下、東京都武蔵村山市にあった日産自動車村山工場などの生産拠点の閉鎖や子会社の統廃合、余剰資産の売却や早期退職制度による人員の削減などの大幅なリストラや新車種の投入、インテリア・エクステリアデザインの刷新やブランドイメージの一新などの計画を次々に敢行した。

また、ゴーン自身が、テレビコマーシャルやインタビューなど、メディアへの積極出演により、残された日産社員および株主、関係者への配慮を見せた。日産自動車株主総会を日本語で行うなど、全ての利害関係者へ、社内改革をアピールした。

その結果、1998年には約2兆円あった有利子負債を、2003年6月には全額返済し(社債を発行して、銀行からの借入金を全部返済している。)、12%前後まで落ちた国内シェアを20%近くまで回復させた。

ルノー会長

2001年6月には、日産自動車社長最高経営責任者(CEO)に就任。極度の経営不振の状態にあった日産自動車を立て直したということで、他社の社外取締役に招聘されている。また、2005年4月からはシュヴァイツァー取締役会長の後をついで日産自動車の親会社のルノー取締役会長兼CEO (PDG) も兼任している。

日産自動車の3か年経営計画「日産180」(全世界での売上台数を100万台増加させ、8%の営業利益率を達成し、自動車関連の実質有利子負債をなくす)における販売台数目標達成のために、計画終了(2005年9月30日)前に集中して新型車投入を行ったことによる、計画終了以降の国内販売台数の深刻な低迷や、「ゴーン以前」に入社した居残り組と、「ゴーン後」に入社した中途採用組の社内闘争など、深刻な問題を残したままの親会社への復帰に疑問の声も上がっている。

2006年以降、関連会社の日産と歩調をあわせるようにルノーの業績も悪化していることもあり、ルノーの取締役会長兼CEO (PDG) になった後の2006年2月9日には、日産に対するリストラのような従業員の解雇を行わずに、2009年の販売台数を2005年の約250万台から80万台多い330万台とし、2009年の売上高に対する営業利益率を6%にするという内容の中期経営計画「ルノー・コミットメント2009」を発表した。

パーソナリティ

ファイル:Fernando Alonso 2006 Canada.jpg
2006年度のチャンピオンマシンのルノーR26

経営陣のトップであるが自らハンドルを握って運転する事を好む。彼が立場を越えてルノーや日産自動車の車種に限定されず各社の枠を越え、自動車の運転に好意的な事例を示した過去の報道からも明らかである。この事は、ゴーン体制下の日産自動車が、2002年の排ガス規制で生産終了が決定していたスカイラインGT-Rの後継車種である日産・GT-Rや、フェアレディZを復活させた大きな要因である(両車ともゴーン自らゴーサインを出し、自ら発表している)。『日経スペシャル カンブリア宮殿』に出演した際に、「ハンドルを握って5分も運転すれば、どんな嫌なことも吹き飛ぶ。車以外にこんな製品がありますか?」と言っている。

しかしながら、日産自動車のセドリック/グロリアサニーといった伝統的な車名を次々に廃止したことに対しては、ゴーン自身は車名が体現する伝統の大事さを訴え、販売部署が望んだブランド名変更に最後まで反対だったという[1]。また、日産が長年参戦してきたル・マン24時間レースからの完全撤退など、モータースポーツに関しては比較的否定的な立場であり、ルノーF1チームが2005年2006年の2年連続で世界チャンピオンに輝いたにもかかわらず、同チームの継続的な参戦にはブランドイメージ形成や予算の面から懐疑的だと伝えられている。ただしF1チームの中では予算が少ないと言われているルノーでも、年間予算は100億円を優に超える(ただし、SUPER GTに関しては例外中の例外であり、近年ではGT-RによるFIA GT選手権への参戦も果たしている)。

また、就任1年目の1999年夏に第70回都市対抗野球を視察に訪れた際、スタンドの応援団と観客の盛り上がりに感銘を受け、その直後に記者会見を開いて当時存廃問題が取りざたされていた野球部の存続を明言し、「都市対抗野球こそが日本の企業文化の象徴である」とまで公言した。しかしながら、2009年には金融危機による不況により、日産がゴーン体制初の営業赤字に転落し、その対策として、グローバル人員を2万人削減すると同時に、野球部を含む運動部の休止が発表された。

脚注

  1. 徳大寺有恒「間違いだらけの車選び」より

参考文献

  • 「カルロス・ゴーン 経営を語る」(日本経済新聞社)
  • 「カルロス・ゴーンの『答えは会社のなかにある』」(あさ出版)
  • 「ルネッサンス ― 再生への挑戦」(ダイヤモンド社)
  • 「ゴーン神話はこうして作られた」(ぱる出版)遠藤 徹(著)

関連項目

外部リンク

テンプレート:日産自動車社長