オペル

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テンプレート:Pathnav オペルOpel 、正式社名:アダム・オペル、Adam Opel AG[1] )は、ドイツ自動車メーカーである。会社設立は1863年であり、ヘッセン州ダルムシュタット行政管区グロース=ゲーラウ郡リュッセルスハイムを本拠としている

1929年以降はゼネラルモーターズ(GM)の100%子会社となり、イギリスを拠点とするボクスホールとともにGMの欧州ビジネスを担ってきた。2009年、親会社であるGMの経営破綻(同年6月1日連邦破産法11章の適用を申請)に伴い、カナダの自動車部品会社マグナ・インターナショナルロシア貯蓄銀行との企業連合に売却されることが決定したが、GMは土壇場でこれを撤回した。

概要

創業者はアダム・オペル(1837年-1895年)。ミシン自転車の製造を経て、創業者没後、5人の息子達によって1899年に自動車製造を開始。ルッツマンやフランスダラック車をライセンス生産して技術を修得し、1902年に独自開発車を完成した(一方でモーターサイクルも製造したが、後年に事業をNSUに売却している)。早くからフルライン化を進め、第一次世界大戦勃発以前の時点で、「ドクトルヴァーゲン」と呼ばれる小型車から、メルセデスに比肩する高級車・高性能レーシングカーを製造する有力メーカーであった。

第一次世界大戦後には、大量生産型の大衆車「ラウフプロッシュ」(通称で『雨蛙』の意。シトロエンから同社の先行モデル「5CV」に設計が酷似していると訴えられた)などの成功で、当時のドイツ国内最大手自動車メーカーの地位を確たるものにした。1920年代後期には、ロケット動力自動車による速度記録達成の試みも行っている。

しかし、不況下でドイツへのアメリカ資本流入が激化すると、1929年には欧州進出攻勢を強めていたGM資本を受け入れ、1931年にはGMの完全子会社となった。以後の中級車以上の製品にはアメリカ的な設計やデザインの要素が色濃くなり、1930年代のドイツにおいては比較的進んだ技術を導入するメーカーになった。第二次世界大戦初期にGMはナチスの圧力で権利を放棄し、軍需向けに中型トラック「ブリッツ」などを製造していたが、1948年にはGMが経営権を回復した。

第二次大戦後も、トラックと小型・中級乗用車の生産でドイツ市場での一定地位を保ち続けていたが、市場競合するフォルクスワーゲンVWビートルの対抗クラスとなる大衆車を永らく出現させていなかった。1962年、新設のボッフム工場生産で新型「カデット(『士官候補生』。戦前にあった名称の復活)」を登場させ、ビートルとの販売競争を展開した。このカデットは、FRの極常識的な設計ながら、手頃な価格や広い室内とトランク、信頼性の高さで人気を得た。以後、オペルは中型車「レコルト」とその上級仕様「コモドーレ」、大型車「アドミラル」/「ディプロマート」までを擁する自動車メーカーとなった。

1970年代、親会社GMは『一つのプラットフォームから、世界中で販売出来る車種を設計する』「グローバルカー(世界戦略車)構想」を展開、“Tカー”として構想された第3世代のカデット(通称:カデットC)にはいすゞ・ジェミニや「シボレー・シェベットアメリカブラジルでは仕様が異なる)」などの派生車種が登場した。

1980年代、日本のメディアに「日本車の刺客」と騒がれたアメリカ製小型車シボレー・キャバリエ等のベース[2]車となったのが、1983年「グローバルカー構想」の第2弾“Jカー”として登場したアスコナの第3世代(アスコナC)であり、この日本版はいすゞ・アスカである。イギリスでは、オペル車の一部が、同じくGMの完全子会社であるボクスホールブランド名で販売されている。

2009年親会社であるGMは経営破綻、同年6月1日に連邦破産法11章の適用を申請した。これに先立ってオペルの売却が検討されており、フィアットなどいくつかの候補が挙がった後、同年5月30日にはカナダの自動車部品会社の大手マグナ・インターナショナルやロシア貯蓄銀行(ズベルバンク)などが参加する企業連合へ過半数株(発行済み株式の55%)が同年中に売却されることが決定した[3]。しかし、同年11月にGMはオペル売却の決定を撤回し、自力再建を目指すことを発表した。これに対し、ロシアのウラジーミル・プーチン首相は「相手を馬鹿にした態度」「こうしたやり方をあらかじめ考慮しなければならない。これは教訓だ」とGMを痛烈に批判した[4]

日本での販売

第二次世界大戦前の時期においては1927年大阪市大正区に工場とともに設立された「日本ゼネラル・モータース」が販売を行なった。しかし同大戦の勃発に伴い1941年に閉鎖となった。戦後は1950年代から東邦モーターズが日本総代理店となり、輸入、販売が行われた。1960年代には日本車に対する商品力が低下、さらに排気ガス規制への不適合から1976年末をもって輸入が中断された。

その後も東邦モーターズは輸入権を保持しており、1983年マンタの輸入販売を再開した。続いてアスコナ、レコルトセネター、カデット、コルサ(日本名は異なる)などを導入したが、いずれも少数限定枠を利用しての輸入であり、この時期同社が輸入販売した車種に運輸省の型式認定を得ていたものはなかった。1989年からは当時GMグループであったいすゞ自動車も輸入販売を開始したが、取り扱い車種はベクトラオメガ、セネターに限られていた。

1993年輸入権はヤナセに移行し、東邦モーターズといすゞによる輸入販売は終了した。ヤナセは1992年末をもってフォルクスワーゲン、アウディの輸入、販売から撤退しており、それに代えてオペルの販売を行う格好であった。販売はベクトラ、オメガ、アストラから開始され、1994年にはカリブラが発売された。1995年には、コンパクトカー「ヴィータ(現地名 コルサ)」が発売され、エアバッグABSなどを装備しながらも、輸入車としては低価格の150万円台から販売されて人気を得た。また同年には自動車メーカーとして初めて日本語の公式ウェブサイト(www.opel.co.jp)を開設した(日産自動車がオペルに続いた)。1996年にはオペル車の年間登録台数は3万8,339台に達していたが、故障が多いことがユーザーに知られるなどして販売台数は急減、1999年には登録台数2万台未満となった[5]

2000年に輸入権は「日本ゼネラルモーターズ」に移管された。2001年、GMは日本での直営ディーラー網「GMオートワールド」を設立、オペルの販売を巡ってヤナセとの間に確執が生じた。GMは、タイで現地生産されているザフィーラ富士重工業に供給。タイ製ザフィーラは「スバル・トラヴィック」の名称で、ヤナセで販売されるザフィーラより低価格で販売された。ヤナセはオペルから他社ブランドに販売の力を移し、オペル取扱店を削減した。一方の日本GMは販売網の確立に失敗し、結果的にオペルの販売台数は激減した。日本GMは低価格モデルであるヴィータの輸入を打ち切り、それまでの低価格路線を変更して価格を値上げしたが、メルセデスBMWに価格帯が近づいたことでオペルの販売台数はさらに低迷。故障が多く修理費用も割高であること、中古買取価格リセールバリュー)の低さなどが消費者に認知されるようになったこと、さらには1990年代からの輸入車ブームで目が肥えた日本のユーザーからは「フォルクスワーゲン・メルセデス・BMWと比較して地味で、高級感に劣りプレミアム性に欠けるブランドである」と認知されてしまい、販売は激減した。

ブランドの価値が崩壊してもはや日本での販売を維持することができなくなったこと、親会社であるGMの経営悪化などの理由から、GMアジア・パシフィック・ジャパン(GMAPJ)は2006年5月8日に、在庫限りでオペルのすべての車種の新車販売を終了すると発表した[6]。GMAPJは「オペルはGMの欧州地区限定ブランドとして生き残っていく」と発表した。

登録台数

1983年から2007年の日本におけるオペル新車登録台数の推移は以下の通りである。

  • 1983年 - 24台
  • 1984年 - 70台
  • 1985年 - 111台
  • 1986年 - 157台
  • 1987年 - 292台
  • 1988年 - 449台
  • 1989年 - 2,643台
  • 1990年 - 4,021台
  • 1991年 - 2,725台
  • 1992年 - 1,371台
  • 1993年 - 17,042台
  • 1994年 - 19,145台
  • 1995年 - 32,493台
  • 1996年 - 38,339台
  • 1997年 - 34,397台
  • 1998年 - 24,223台
  • 1999年 - 19,433台
  • 2000年 - 15,318台
  • 2001年 - 12,626台
  • 2002年 - 7,846台
  • 2003年 - 3,890台
  • 2004年 - 1,694台
  • 2005年 - 1,800台
  • 2006年 - 803台
  • 2007年 - 14台[7]

海外展開

経営破綻前のGMは前述の通りオペルを欧州地区限定ブランドに位置づけており、2010年時点で欧州以外でのオペルブランド車の販売は中東諸国、南アフリカ共和国、アジアの一部(中華人民共和国台湾香港マカオシンガポール)のみとなっている。

オペルの一部車種はオセアニアではホールデンアジアラテンアメリカなどではシボレーリバッジされて販売されてきたが、これらは2000年代に順次GM大宇車ベースへ代替が進められていった。

その一方で、2000年代にはサターンとの車種統合が進められた。サターンはベルギーアントウェルペン工場からアストラを輸入して北アメリカ地域で販売を行い、逆にオペルはアメリカ合衆国デラウェア工場からサターン・スカイを欧州に輸出してオペル・GTとして販売した。また、アンタラサターン・ヴューは兄弟車となった。しかし、経営破たん寸前だったGMはつなぎ融資獲得のため2008年12月に経営再建計画を発表し、サターンはリストラ対象とされた[8]。これと前後して今度はビュイックブランドへのリバッジが進められ、インシグニア中国市場に(後に北アメリカ市場にも)ビュイック・リーガルとして、またアストラが中国市場にビュイック・エクセルXTとして、それぞれ導入された。

2010年8月、オペルが中国やオーストラリアなど、欧州以外の地域へのブランド展開を検討していることが報じられた[9]。翌9月にはチリへの輸出が2011年から開始されることが正式に発表された[10]。続いてイスラエルにも2011年春に進出を果たした[11]

一方、オーストラリア市場には2012年8月に進出したものの、価格競争への追随やブランド認知度の向上のための投資が要求されるなど採算が取れないことから、わずか1年で撤退が決定した[12]


車種一覧

現行生産/販売車種

※は過去、日本に導入されたことのある車種

かつての生産車種

第二次世界大戦後に発表された車種を列記する。

1950年代
  • オリンピア・レコルト/1200 当時の代表的小型車。2ドアながら故障が少なかったため、タクシー業界では人気であった。1200はカデット復活までの大衆車市場対策モデルだった。また、史上初めてステーションワゴンがセダンのほかに用意された。 ※
1960年代
  • カデット 1962年戦後型発表の主力車種。ゼネラルモーターズ (GM) の「グローバルカー(世界戦略車)構想」に基づき、この車をベースにした姉妹車が世界各地で生産され、1974年にはいすゞ・ジェミニが開発された。1984年FF化し、1991年アストラに代替される。 ※
  • レコルト 当時の代表的中級車種。レコルトCは、テレビドラマ「ザ・ガードマン」のガードマンたちのパトロールカーとして登場している。1986年オメガに代替される。 ※
  • コモドーレ レコルトの上級高性能仕様。レコルトと共にオメガに代替。 ※
  • カピテーン 1960年代までのオペルの代表車種。1969年に上級車アドミラル等と共に更新されたが、その後生産終了。 ※
  • アドミラル/ディプロマート 1960年代後半、本国GMの中型プラットフォームを利用して登場した最上級モデル。ディプロマートには5.4リッターV8も搭載された。 ※
  • オリンピア 1967年発表の豪華版カデット。1970年アスコナに代替される。 ※
  • GT(1100/1900) 当時の「オペル=保守的」イメージを打破したスポーティモデル。対米輸出もされた。 ※
1970年代
  • アスコナ 1970年発表。レコルトに代わって中級レンジのオペル代表となった。1988年ベクトラに代替される。 ※
  • マンタ アスコナとプラットフォームを共用した2ドアクーペ。1975年発表の2代目はアスコナと同じくWRC用のホモロゲーション(認定)モデルも製造された。 ※
  • セネター 1977年発表。ディプロマート等に代わる最上級車種。1986年、オメガと共に新世代に更新されたが、1994年生産終了。 ※
  • モンツァ 1978年発表。セネターのクーペ版。1987年生産終了。
1980年代
1990年代
2000年代

※は日本に導入されたことのある車種

人物

脚注

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外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:オペル車種年表

テンプレート:自動車
  1. 2005年から2010年終わりまでは表記がGmbHとなっていた。
  2. 最初に発売されたのはアメリカ版であるが、元々はオペルで開発が始められた。しかし、実際にはごく初期段階を除いてほとんどの設計をオペル、GM(アメリカ)、いすゞの3社が個別に同時進行したため、足回りや外版の一部を除いて部品の共通性はほとんどない。
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. [1](リンク切れ)
  6. 年を追う毎にアフターパーツの供給数が減少してきているので、車種によってはサービス自体も打ち切りになる場合もある。
  7. [2](リンク切れ)
  8. テンプレート:Cite web
  9. テンプレート:Cite web
  10. テンプレート:Cite web
  11. テンプレート:Cite web
  12. テンプレート:Cite web
  13. 日本でもかつて、タイ生産分が「スバル・トラヴィック」の名で導入されたことがある。