スペイングランプリ
スペイングランプリ(スペインGP、テンプレート:Lang-en-short、テンプレート:Lang-es-short、テンプレート:Lang-ca)は、スペインで行われるF1の選手権レースの1つ。
概要
1990年代以降、スペインGPは例年5月にバルセロナ近郊のカタロニア・サーキットで開催されている。シーズン開幕からアジア・オセアニア地域を転戦したのち、ここからヨーロッパラウンドの戦いが始まり、マシンに大掛かりなアップデートを施すチームもある。カタロニア・サーキットはテスト走行でも走りなれているため、ここでの成績から中盤戦以降の力関係を予想することもできる。ヨーロッパラウンドの中でもイタリア・ポルトガルと並びもっとも南に位置する地域で行われるレースであり、開催時期もあいまって猛暑の中での開催となることも多い。
正式名称は、2010年までは大手通信事業会社テレフォニカの名前を冠したGran Premio de España Telefónica(グラン・プレミオ・デ・エスパーニャ・テレフォニカ)、2011年と2012年はサンタンデール・セントラル・イスパノ銀行が冠スポンサーとなりGran Premio de España Santanderと称した。2013年は冠スポンサーはつかない予定である。
歴史
1913年にマドリード近郊のグアダラマ山脈のロードコースで、ツーリングカーイベントとして初開催された。1923年にはカタルーニャ州のシッチェスに建設されたオーバルトラック (Autódromo de Sitges-Terramar)にて、欧州のグランプリ規定に則ったレースが開催された。1926年以降はバスク地方のラサルテ・サーキット (Circuito Lasarte) へ舞台を移したが、1936年にスペイン内戦が勃発すると長い中断期間に入った。
テンプレート:F1にF1世界選手権が創設されると、テンプレート:F1とテンプレート:F1にバルセロナ市街地のペドラルベス公道コースで再開された。しかし、ル・マン24時間レースの大事故の影響で1955年のグランプリが中止され、以後1966年まで開催されなかった。
テンプレート:F1にノンチャンピオンシップ戦として再開。テンプレート:F1よりF1世界選手権に復帰し、1975年までマドリード近郊のハラマ・サーキットとバルセロナの公園内にあるモンジュイック・サーキットで交互に開催された。モンジュイックはガードレールなど施設安全面に問題があり、1975年の観客死傷事故を最後に使われなくなり、テンプレート:F1からテンプレート:F1まではツイスティーなハラマで連続開催された。
テンプレート:F1にはアンダルシア州に新設されたヘレス・サーキットで再開され、隣国のポルトガルGPとセットで、シーズン終盤の「イベリア半島連戦」として開催された。ヘレスはハラマと似た抜き所の少ないレイアウトが歓迎されず、テンプレート:F1以降はバルセロナ郊外に新設されたカタロニア・サーキットに舞台を移すことになった。
スペイン国内の経済状況も踏まえて、2014年よりカタロニアとバレンシアで隔年開催することに合意したと伝えられたが、カタロニア側は少なくとも契約期間内の2016年までは当地で開催すると主張した[1]。
スペインGP以外のF1レース
スペインGP以外にもうひとつのF1レースを開催する場合、「1カ国1開催」という原則を回避する手段としてヨーロッパグランプリという名称が使用された。テンプレート:F1とテンプレート:F1はヘレスにて開催。2000年代に入ると、スペイン出身のフェルナンド・アロンソの活躍と共に国内では高い人気と注目を集めるようになり、2008年から2012年まではバレンシア市街地コースでヨーロッパグランプリが再び開催された。
主な出来事
- 1951年 - F1での初開催は最終戦のチャンピオン決定レースとなった。フェラーリチームがタイヤ選択を失敗し、アルファ・ロメオのファン・マヌエル・ファンジオが自身初のタイトルを獲得した。この年限りで撤退するアルファ・ロメオにとって、F1最後の勝利となった。
- 1969年 - 高層式ウイングの破損によりロータスのヨッヘン・リントがクラッシュして顔面を骨折。次戦モナコGPよりウィングの固定や高さ制限が導入された。
- 1975年 - 予選では安全対策の不備を理由にボイコット騒ぎが発生。レースはロルフ・シュトメレンのコースアウトにより観客4人の死亡事故が発生し赤旗終了。F1史上2人目の女性ドライバーであるレラ・ロンバルディが6位入賞して0.5ポイントを獲得し[2]、F1で唯一の入賞記録を持つ女性ドライバーとなった。
- 1976年 - このレースよりマシンの全高制限が施行され、当時流行した大型インダクションポッドが姿を消した。また、ティレルの6輪車P34がデビューした。レースはトップチェッカーを受けたジェームス・ハント(マクラーレン)が車両寸法違反により失格し、ニキ・ラウダ(フェラーリ)が繰り上がり優勝と判定されたが、マクラーレンの抗議で2ヵ月後にハントの優勝が復活した。
- 1980年 - F1の統括団体 (FOCA) とチーム協会 (FOCA) の政治的対立のあおりを受け、レース後にFOCAから選手権除外を通達された。
- 1981年 - ジル・ヴィルヌーヴ(フェラーリ)、ジャック・ラフィット(リジェ)、ジョン・ワトソン(マクラーレン)、カルロス・ロイテマン(ウィリアムズ)、エリオ・デ・アンジェリス(ロータス)の5人が相次いでゴールし、優勝から5位までが1.24秒差という緊張感あふれるレースが展開された。2位以下の車が、後続よりも明らかに遅い首位のフェラーリを抜くことが出来なかったことで、ハラマにおけるコース幅の狭さとストレートの短さをあらわしたレースとなった。
- 1986年 - 新設のヘレスで行われ、アイルトン・セナ(ロータス)とナイジェル・マンセル(ウィリアムズ)によりその差0.014秒というゴール前での僅少差の攻防戦が演じられた。
- 1990年 - マーティン・ドネリー(ロータス)が瀕死の重傷を負う大クラッシュが発生。
- 1994年 - ベネトンのミハエル・シューマッハは5速ギアしか使えなくなってしまったマシンを巧みに駆り、2位でフィニッシュした。
- 1996年 - シューマッハが大雨の中で独走し、フェラーリ移籍後初優勝を果たす。
- 2001年 - スペインGP4連勝を目指したミカ・ハッキネン(マクラーレン)が優勝目前の最終ラップにマシントラブルのためリタイア。
- 2004年 - ジミー・ジャンプがコースに乱入。
- 2006年 - ルノーのフェルナンド・アロンソがスペイン人ドライバーとして初の母国GP制覇。
- 2008年 - スーパーアグリの売却交渉失敗が発覚。このレースを最後にF1から撤退した。
- 2012年 - ウィリアムズのパストール・マルドナドがベネズエラ人ドライバーとしてF1初優勝。レース後、勝利を祝うウィリアムズのピット内で火災騒動が発生。
結果
各グランプリの結果は下記の通り。
年 | 決勝日 | ラウンド | サーキット | 勝者 | 所属チーム | 結果 |
---|---|---|---|---|---|---|
1951 | 10月28日 | 8 | ペドラルベス | ファン・マヌエル・ファンジオ | アルファ・ロメオ | 詳細 |
1954 | 10月24日 | 9 | ペドラルベス | マイク・ホーソン | フェラーリ | 詳細 |
1968 | 5月12日 | 2 | ハラマ | グラハム・ヒル | ロータス | 詳細 |
1969 | 5月4日 | 2 | モンジュイック | ジャッキー・スチュワート | マトラ | 詳細 |
1970 | 4月19日 | 2 | ハラマ | ジャッキー・スチュワート | ティレル | 詳細 |
1971 | 4月18日 | 2 | モンジュイック | ジャッキー・スチュワート | ティレル | 詳細 |
1972 | 5月1日 | 2 | ハラマ | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス | 詳細 |
1973 | 4月29日 | 4 | モンジュイック | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス | 詳細 |
1974 | 4月28日 | 4 | ハラマ | ニキ・ラウダ | フェラーリ | 詳細 |
1975 | 4月27日 | 4 | モンジュイック | ヨッヘン・マス | マクラーレン | 詳細 |
1976 | 5月2日 | 4 | ハラマ | ジェームス・ハント | マクラーレン | 詳細 |
1977 | 5月8日 | 5 | ハラマ | マリオ・アンドレッティ | ロータス | 詳細 |
1978 | 6月4日 | 7 | ハラマ | マリオ・アンドレッティ | ロータス | 詳細 |
1979 | 4月29日 | 5 | ハラマ | パトリック・ドゥパイエ | リジェ | 詳細 |
1981 | 6月21日 | 7 | ハラマ | ジル・ヴィルヌーヴ | フェラーリ | 詳細 |
1986 | 4月13日 | 2 | ヘレス | アイルトン・セナ | ロータス | 詳細 |
1987 | 9月27日 | 13 | ヘレス | ナイジェル・マンセル | ウィリアムズ | 詳細 |
1988 | 10月2日 | 14 | ヘレス | アラン・プロスト | マクラーレン | 詳細 |
1989 | 10月1日 | 14 | ヘレス | アイルトン・セナ | マクラーレン | 詳細 |
1990 | 9月30日 | 14 | ヘレス | アラン・プロスト | フェラーリ | 詳細 |
1991 | 9月29日 | 14 | カタロニア | ナイジェル・マンセル | ウィリアムズ | 詳細 |
1992 | 5月3日 | 4 | カタロニア | ナイジェル・マンセル | ウィリアムズ | 詳細 |
1993 | 5月9日 | 5 | カタロニア | アラン・プロスト | ウィリアムズ | 詳細 |
1994 | 5月29日 | 5 | カタロニア | デイモン・ヒル | ウィリアムズ | 詳細 |
1995 | 5月14日 | 4 | カタロニア | ミハエル・シューマッハ | ベネトン | 詳細 |
1996 | 6月2日 | 7 | カタロニア | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
1997 | 5月25日 | 6 | カタロニア | ジャック・ヴィルヌーヴ | ウィリアムズ | 詳細 |
1998 | 5月10日 | 5 | カタロニア | ミカ・ハッキネン | マクラーレン | 詳細 |
1999 | 5月30日 | 5 | カタロニア | ミカ・ハッキネン | マクラーレン | 詳細 |
2000 | 5月7日 | 5 | カタロニア | ミカ・ハッキネン | マクラーレン | 詳細 |
2001 | 4月29日 | 5 | カタロニア | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2002 | 4月28日 | 5 | カタロニア | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2003 | 5月4日 | 5 | カタロニア | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2004 | 5月9日 | 5 | カタロニア | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2005 | 5月8日 | 5 | カタロニア | キミ・ライコネン | マクラーレン | 詳細 |
2006 | 5月14日 | 6 | カタロニア | フェルナンド・アロンソ | ルノー | 詳細 |
2007 | 5月13日 | 4 | カタロニア | フェリペ・マッサ | フェラーリ | 詳細 |
2008 | 4月27日 | 4 | カタロニア | キミ・ライコネン | フェラーリ | 詳細 |
2009 | 5月10日 | 5 | カタロニア | ジェンソン・バトン | ブラウン | 詳細 |
2010 | 5月9日 | 5 | カタロニア | マーク・ウェバー | レッドブル | 詳細 |
2011 | 5月22日 | 5 | カタロニア | セバスチャン・ベッテル | レッドブル | 詳細 |
2012 | 5月13日 | 5 | カタロニア | パストール・マルドナド | ウィリアムズ | 詳細 |
2013 | 5月12日 | 5 | カタロニア | フェルナンド・アロンソ | フェラーリ | 詳細 |
2014 | 5月11日 | 5 | カタロニア | ルイス・ハミルトン | メルセデス | 詳細 |
- 1980年はレース後に選手権カレンダーから除外されたため、ノンチャンピオンシップ扱い。
脚注
- ↑ "バルセロナ、来季のチケット販売に悪びれず". ESPN F1.(2013年6月28日)2013年6月28日閲覧。
- ↑ レースが規定周回数の75%未満で打ち切られた場合、入賞ポイントは半分に減らされる。