アルファ・ロメオ

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アルファ・ロメオ6C(1930年)

アルファ・ロメオAlfa Romeo )は、イタリア自動車製造会社である。

第二次世界大戦以前から自動車レース界の強豪でもある高性能車メーカーとして名声を得、戦後もランチアと並びイタリアを代表する上級車メーカーとして知られたが、経営難に陥った後の現在はイタリア最大手のフィアット傘下にあって、ブランドイメージのスポーツ性を前面に出した車の開発、生産を担っている。

ブランドの由縁

創業地・ミラノ市の白地に赤い十字架ヴィスコンティ家の紋章であるサラセン人を呑み込む大蛇ビショーネを組み合わせた紋章を頂くを表現したフロントグリルを持つ、独特の顔立ちで知られる。フィアットの傘下となって久しい今日でも、その外観の独自性は失われていない。

1920年代から1930年代にかけ、アルファ・ロメオのレース部門の総責任者であったエンツォ・フェラーリは後に独立し、フェラーリ社を設立した。後年、彼は自分の名を冠した車でアルファ・ロメオ車に勝利したとき、「私は自分の母親を殺してしまった」という複雑な感慨を周囲に漏らしたという。

歴史

栄光の発端

1910年、経営危機に喘ぐフランス・ダラック社のイタリア工場、「ダラック・イタリアーナ」をミラノの企業家集団が創立(1910年1月)した A.L.F.A. (Anonima Lombarda Fabbrica Automobili) 即ち「ロンバルダ自動車製造株式会社」(ロンバルダとは「ロンバルディアの」を意味する形容詞)が18万リラで買い取り(1910年6月24日)創業したのを発祥とする。

今に続くミラノ市章の赤十字とかつてミラノを支配したヴィスコンティ家の家紋に由来する人を飲み込む大蛇を組み合わせた同社のエンブレムには、当初「ALFA MILANO」の文字が刻まれていた。記念すべき最初の生産車は高性能な「24HP」で、A.L.F.A. はこれを武器に創業1年にして早くもレースを走り始め、その後も「30HP」「40-60HP」の活躍によってスポーツカーメーカーとしての地歩を固めていった。

1918年ナポリ出身の実業家ニコラ・ロメオ(Nicola Romeo)のニコラ・ロメオ技師有限会社と吸収合併し、会社名がニコラ・ロメオ技師株式会社となった。そして1920年、1921M/YのAlfa Romeo 20/30 E.Sport のエンブレムに、旧ブレンドの"ALFA"と新会社のロゴ"ROMEO”を(-:ハイフン)結んだ新ブレンド名”ALFA-ROMEO"が誕生する。ニコラ・ロメオは、レースが販売促進でも技術力向上でも有益であることを理解していたので、ジュゼッペ・メロージをはじめとするアルファ・ロメオの技術スタッフは更なる高性能スポーツカー開発に没頭。初期の傑作「RL」シリーズがデビューする。「RL」はあらゆるレースで大活躍し、アルファ・ロメオの名声を一気に高めた。

これに勢いを得た同社は念願のグランプリレースに挑戦するため、ALFA創業時からの設計者のジュゼッペ・メロージ設計のAlfa Romeo P1、これは前年のグランプリチャンピオンマシンのFIAT Tipo 804のデッド・コピーと言われたが、車重が重く、全く競争力が無かったが、デビュー戦の本国グランプリの1923年イタリアグランプリのプラクティスにおいて性能が低いマシンで無理した為かエースドライバーで同年のタルガフローリオでクァドリフォを着け優勝したウーゴ・シヴォッチが事故死亡し、撤収してしまった。このままでは念願のグランプリレースから撤退となるのでエンツォ・フェラーリやルイジ・バルツィが働きかけ、当時の最強チームのひとつ、フィアット・グランプリ・チームの技術者だったヴィットリオ・ヤーノをフィアット内部のゴタゴタに乗じて獲得する。

ヤーノはGPマシンの傑作「P2」「P3」のほか、レーシングスポーツカーの「8C」シリーズ、高級実用車「6C」シリーズなどを設計し、アルファ・ロメオの主要設計者として活躍した。この過程で、1930年代には市販型乗用車にまでもレースモデル同様に高度な設計のDOHCエンジンを搭載する、というアルファ・ロメオ独特の伝統が根付いた。同時期には、前輪にフェルディナント・ポルシェ特許のトレーリングアーム式、後輪にスイング・アクスル式をそれぞれ用いた全輪独立懸架化で、世界の潮流に先んじた。

かの自動車王ヘンリー・フォードは「私はアルファ・ロメオが通るたびに脱帽(Hat Off)する」と言ったといわれるが、これはアルファ・ロメオに対する賞賛であると同時に、生産効率に左右されることなく、少数生産、超高価格販売政策のもとで理想の車づくりに邁進できた同社への皮肉めいた羨望であったかもしれない。

国有化、そして戦火へ

1930年、社長のニコラ・ロメオの事業の失敗から、ニコラ・ロメオ技師株式会社から自動車部門(と航空機エンジン部門)が独立し「S.A.アルファロメオ(S.A. Alfa Romeo)」になる。 1933年世界恐慌に端を発する経営難と政治的圧力からイタリア産業復興公社(IRI)の支配下に入り、事実上国営化される。その背後には当時イタリアを支配したベニート・ムッソリーニが深く関わっていたといわれる(ミラノで政治基盤を確立したムッソリーニはアルファ・ロメオを愛用していた)。高い技術力を持つ同社は国策によって軍需産業に組み入れられ、本業のレーシングカー、スポーツカーの製作と供に航空機用エンジンをはじめとする兵器製作にも力を注ぐことになる。著名なものとしてマッキ(現アレーニア・アエルマッキ)の単座戦闘機MC.202フォルゴーレのエンジンなどがある。

1943年、ミラノ市ポルテッロ(Portello)地区にあった本社工場が連合軍の3度にわたる空襲によって廃墟と化す。

転機・量産メーカーに

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6Cヴィラ・デステ

終戦後、ウーゴ・ゴバートの後を受けてアルファロメオのトップとなったパスカレー・ギャッロと新たに自動車部門のゼネラル・マネージャーになったアントニオ・アレジオの指揮によって自動車生産の立て直しが図られ、若き設計者オラツィオ・サッタに新車開発が委ねられた。1947年、戦前の高級スポーツカー「6C」シリーズに改良を加えて生産を再開。そしてカロッツェリア・トゥーリングの手になる美しいボディをまとった「6C2500」は、ヴィラ・デステのコンクール・デレガンスで優勝し、世界一優美な車として賞賛された。これを記念して、このタイプは「6C2500 Villa D'Este(ヴィラ・デステ)」と呼ばれる。

1948年に、経営母体がIRI(イタリア産業復興公社)により設立された機械産業持株会社のフィンメッカニカ管理下になり「S.A. アルファロメオ」から「アルファ・ロメオ・S.P.A.」に改組する。

1950年、超高級・高性能スポーツカーやGTを少数生産するという戦前までのスタイルを自ら捨て去り、新型の「1900」シリーズを引っさげてより確実な利益を見込める大衆量産車メーカーへと転身した。しかしながら量産車であるはずの「1900」も、後輪独立懸架こそ廃されたものの、新開発の4気筒DOHCエンジンをはじめ、レースカーで培った高度な技術を惜しみなく投入して開発されていた。

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アルファロメオ・スパイダー・デュエット

1954年、この時代のイタリアを代表する小型高性能車として名車の誉れ高いジュリエッタシリーズがデビュー。諸事情があって、アルファ・ロメオの伝統を破り、最初にセダンボディではなく、クーペボディの「スプリント」が登場した。エンジンはアルファの伝統に則ったDOHCで、1,300ccの小排気量ながら最高速160km/hという、当時としてはかなりの高性能車だった。「ジュリエッタ」はファミリーカーとしても成功を収める一方、その素性が買われ、多くのエントラントの手で数多のツーリングカーレースや公道レースに参戦、イギリスやドイツの小型車と激戦を繰り広げた。

1962年、この年、本拠地がミラノ郊外アレーゼへと移された。そして戦後アルファのイメージを決定づけたジュリアシリーズがデビューする。この車もまた、オールアルミブロックの高性能DOHCエンジン、バルブの材質に熱伝導率の優れたソジウムの使用、5速トランスミッション、4輪ディスクブレーキなど当時としては先進的な機能の搭載によって、同クラスの車と比べても高い性能を誇った。ジョルジェット・ジウジアーロがデザインした美しいボディのクーペモデルは、今なお戦後アルファの代表格として語られている。

「ジュリア」シリーズは、十分な新車開発投資ができないこともあり、排気量の増大によって排ガス規制も乗り切り長期にわたって生産された。特にダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」にも登場した派生モデルの「スパイダー」(デュエット)はクーペの生産終了後、完全に時代遅れのシャシー性能と動力性能となりながらも、アメリカでの根強い人気に支えられ、マイナーチェンジを繰り返し、フィアットの血を入れた新しいスパイダーモデルが発表されるまで生き延びた。

乱流の時代

1968年、アルファ・ロメオは、商工業が集中する北部(ノルド)に比べ、農業中心で貧しかった南部(スッド)の雇用創出と経済格差是正という国策に従って、アルファスッド社(Industria Napoletana Costruzioni Autoveicoli Alfa Romeo-Alfasud S.p.A )を設立し、ナポリ郊外のポリミアーノ・ダルコに新工場を建設し、1970年のパリ・ショーで 同社初の量産FF(フロントエンジン・フロントドライブ)小型大衆車アルファスッドをデビューさせた。アルファスッドは廉価モデルでありながらボディ・デザインを「ジュリア」で功績のあったジョルジェット・ジウジアーロに託し、スペース効率を上げるために新開発の水平対向エンジンを採用するなど大変意欲的な車で、技術的にも性能面でもアルファの名に恥じないものだった。フロントのオーバーハングにエンジンを低くマウントし、異例にキャパシティの大きいサスペンションを得ることで、後輪駆動のジュリアシリーズ以上のコーナリング性能を手に入れたのである。

1966年に日本で発売された スバル・1000 と非常に近似したメカニズムレイアウトを指摘されることがある。また、1968年ヨーロッパへの輸出が開始されたスバル・1000の残骸がアルファロメオのジャンクヤードに積み重ねられている写真を当時のメディアで確認することができるテンプレート:要出典が、自動車雑誌スーパーCGNo.29に掲載されているアルファスッドの開発責任者だったルドルフ・ルスカへのインタビュー記事の中で、同氏はアルファスッド以前の同じレイアウトの車の車名をいくつか挙げ、アルファスッドの設計がそれらに「影響されたわけではない」と主張している。

市場に大いなる賞賛を以って迎えられたアルファスッドであったが、労働争議による国内での鉄鋼生産量の著しい減退を補うためにソ連から輸入された鋼板が、ベルギーフランスのもの(アーベッドやユジノール)より品質が劣っていたこと、工場の建設が計画通りに進まず、その鋼板を数ヶ月も露天に放置していたこと、さらに南部労働力の質的問題による防処理の不徹底などから、初期のアルファスッドは「芯から錆びる」クルマとなり、低品質車のレッテルを貼られ、結果としてアルファ・ロメオ全体のイメージを失墜させてしまうこととなった。1983年に登場した後継車の33では、品質の問題はかなり改善されたが、この車種の国外でのセールスは伸び悩んだ。なお、このナポリ進出以降、エンブレムの「ALFA-ROMEO MILANO」から、「MILANO」の文字がはずされている。

1972年、ミラノのアルファ・ロメオから、大成功を収めた「ジュリア」の後継となる新型ファミリーセダンがデビューする。それはアルフェッタと名付けられた。かつてF1GPで活躍した「ティーポ158/159」の愛称「アルフェッタ」を引き継いだこの車は、高度なメカニズムを持っていた。高性能DOHCエンジン、対地キャンバー変化の少ないド・ディオンタイプのリアサスペンション、バネ下重量軽減に効果のあるインボードタイプのリア・ディスクブレーキトーションバー式のフロントスプリング、車両の前後重量配分を最適化するためトランスミッションをリアデフと一体化したトランスアクスル レイアウトなど、いずれも車の運動性能と走行性能を高めるための仕組みである。

しかしながら、設計の古いエンジンの性能を落とすことによる排出ガス規制への対応、意欲の低い生産現場にそぐわない高度で高コストな設計、当時の世界的な水準から大きく劣った品質は、財務体質を改善するに至らず、さらにアルファの凋落を進めたとも言える。このシリーズの設計を活かして各種競技に使われたが、やはり機械的信頼性の低さから、ラリーではトラブルによるリタイヤで終わった。

「アルフェッタ」の基本構造は下級車種(新)ジュリエッタ、そしてそれらの後継のアルファロメオ社創立75周年を記念して生産された75や上級車アルファ690に引き継がれたが、度重なるストライキで労働意欲が低下し、生産技術も世界標準から大きく劣ったアルファ・ロメオにとって、これまで以上に凝ったコスト高の製品は、アルファの経営を圧迫することになった。元来、理想を追求する設計を良しとし、作業性や生産効率を二の次とする体質から、すでにそのような量産車メーカーが存続できない時代であったこと、それをブレイクスルーできる人材にも資金にも恵まれていなかったのがアルファ・ロメオの悲劇であった。ちなみに商用量産車として初めて可変バルブタイミング機構を採用したのはアルファである。

1984年には日産自動車と提携し、合弁会社「A.R.N.A.(AlfaRomeo and Nissan Automobili)」を設立。共同開発車「アルナ」を生産した。この車は日産の大衆車「パルサー」の車体にスッド由来の水平対向エンジンを搭載したもので、シャシはもちろん、外観上もフロントにアルファ伝統のグリルが付くほかはパルサーそのもので、イタリア国内ではそこそこ売れたものの、スタイリングは酷評された。日本国内でもこの提携に呼応して「パルサー・ミラノX1」というグレードが設定され、日産ディーラーにアルファ・ロメオのエンブレムが躍ったが、それはイメージ戦略以上の何物でもなく、マーケティング上は双方にもたらすものはほとんどなかった。このプロジェクト自体は結局失敗に終わったが、アルファ・ロメオは日本メーカーの持つ高度な生産システムと品質管理について多くを学んだ。

フィアットと共に・再び繁栄が

イタリア国有の持株会社、フィンメッカニカは 経営不振のアルファ・ロメオを、民営化することとなり、1986年、フォード・モーターに競り勝ったフィアットに、アルファ・ロメオ所有の全ての持ち株とともに17.5億米ドルで売却された[1]。フィアットはこの買収について、自社のスポーツカーラインアップの最高の補完になるとした[1]

そしてフィアットは自社製品とのプラットフォーム統合を進める一方、唯一の資産であったブランドイメージの高揚に注力する。前記のFR世代最後のモデル「75」が表舞台から退場する一方、1990年代初頭に、カロッツェリア・ザガートとのコラボレーションで限定生産されたSZ/RZは、スポーツカーとしての素性の良さで評判が高かった。

フィアット買収直前に「ティーポ4」計画の一環として登場した「164」、買収後の「ティーポ3」計画から誕生し、DTM(ドイツツーリングカー選手権)やBTCC(イギリスツーリングカー選手権)等でその名を轟かせた「155」、その派生型として、独創的なフォルムに纏われて登場したパーソナルモデル「スパイダー/GTV」、155の下級モデルでいながら、各々3ドアハッチバックと5ドアハッチバックセダンという独自の車種展開で登場した「145」と「146」、164の後継車「166」が新時代のアルファ・ロメオの名を担った。

これらのモデルは、性能ばかりでなく、これまで未消化だった品質と信頼性の確保にも重きが置かれ、アルファ・ロメオの市場競争力を強めた。そして1997年、「156」が登場。伝統に立脚した鮮烈なスタイルと高性能が1998年度のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを初めてアルファ・ロメオにもたらした。さらに2000年に発表された「145/146」の後継車「147」も2001年カーオブザイヤーに選ばれた。

以後、147のクーペ仕様「GT」が登場、2005年には147がフェイスリフトを受け二代目になる。そのほかクーペ「ブレラ」とそのオープンモデル「スパイダー」、156の後継となる「159」が本国で発表されている。

2006年9月のパリサロンにおいて、以前からコンセプトモデルとして提案されてきた8Cコンペティツィオーネが、全世界500台限定で発売と発表された。市販化について一切の事前発表がないまま突如としてデビューしたこのモデルは、456馬力を発生する4.7LのV型8気筒エンジンをフロントに搭載、駆動系は75以来となる後輪駆動方式を採用している。実際の生産はマセラティの支援を受けるとされている。値段は日本円で2,200万円とアナウンスされ、その生産台数の少なさと相まって、かつての高級・少数生産メーカーだったころをしのばせるものとなっている。

さらには2008年にMiToを、翌年の2009年には(第三世代)ジュリエッタが発表された。 従来のMTモデルに加えてアルファ・ロメオとしては初の乾式デュアルクラッチトランスミッション(DCT)である「ALFA TCT」を搭載したモデルも発表され、新世代アルファ・ロメオとして現在に至っている。

2012年5月23日、親会社のフィアットマツダと共に業務提携に向けて協議を行うことを発表した。協議内容はマツダ・ロードスター(MX-5)をベースにした、アルファ・ロメオの2シータースポーツカーの開発及び生産に関するもの。エンジンはそれぞれ独自のものを搭載するとし、2015年の生産開始を目指している[2]。2013年1月18日に提携合意が発表され、前出の通り2015年からロードスターベースでアルファ・ロメオの2シータースポーツカーが生産されることになり、生産はマツダの本社工場で行われる[3]

モータースポーツ

草創期

1921年発表の「RL」シリーズが公道レースやヒルクライムレースで大活躍、アルファ・ロメオはレーシングカーメーカーとしての頭角を現わした。

有名な「クワドリ・フォリオ(四葉のクローバー)」が初めてマシンに描かれたのは1923年の第14回タルガ・フローリオの時。マシンは「RLタルガ・フローリオ」で、ウーゴ・シボッチのドライブで見事に優勝し、その後このマークはワークス・チームのシンボルとなった。

このころ、同社にレーシングドライバーとして参加していたエンツォ・フェラーリは、アルファ・ロメオの販売会社を開く傍ら、同志を募り、独自のレーシングビジネスを立ち上げた。 セミ・ワークスチームとして公式チームの出場しないレースでアルファ・ロメオを走らせる、その会社こそが今に続くスクーデリア・フェラーリである。このビジネスは見事成功し、同時にエンツォ・フェラーリはアルファ・ロメオのレース活動に欠かせない存在となっていく。

グランプリ参戦

1922年秋、いよいよアルファ・ロメオは念願のグランプリマシン開発をメロージに命じる。 こうして出来たのが「G.P.R(グラン・プレミオ・ロメオ)」またの名を「P1」と呼ばれるマシンで、1923年に発効した排気量2L以下、車重600kg以上というフォーミュラに適合していた(=6気筒1,990ccDOHC、80仏馬力/4,800rpm、850kg)。このマシンは前年のグランプリを征して傑作マシンと謳われた「フィアット804」を徹底的にコピーしたもので、デビュー戦は1923年9月9日のヨーロッパ・グランプリ(イタリア・モンツァ)と決まった。 しかし、初のグランプリ前日に、あろうことかエースドライバーのウーゴ・シボッチが練習走行中に事故死してしまう。操縦性に問題があったとされ、チームはレースを棄権して引き上げざるを得なかった。 ちなみにこのレースはフィアット805に乗るカルロ・サラマーノとフェリーチェ・ナザーロがワンツーフィニッシュを飾ったが、これはスーパーチャージャーつきマシンの最初の勝利で、以後スーパーチャージング全盛時代は戦後のF1グランプリ発効後もなお続くのである。

さて、失望のどん底にあったチームは、先にフィアットのレーシングチームを辞してアルファ・ロメオに加わっていたバッツィのアイデアで、804のプレパレーションも行ったスーパーチャージャーのスペシャリスト、ヴィットリオ・ヤーノフィアットから引き抜くことにした(エンツォ・フェラーリは、これを自分の手柄としているが、ヤーノ自身の述懐によれば、事実はまったく異なる)。実はこのころ、名門のフィアットチームでは内部の紛争が原因で、技術面を支えてきた有力メンバーの離脱が相次いでいた。

スター誕生

ヴィットリオ・ヤーノがミラノにやってきてから3か月後、「P1」は劇的に改良され、名レーシングカー「P2」(8気筒1,987ccDOHC+スーパーチャージャー、140仏馬力/5,500rpm、750kg)へと生まれ変わった。1924年6月、クレモナ・サーキットに姿を現した「P2」はアントニオ・アスカーリの操縦でいきなり優勝。続くヨーロッパ・グランプリ(フランス・リヨン)で、カンパーリの駆る「P2」は、王者フィアットを完膚無きまでに叩きのめすという、最高の形で念願のグランプリ初勝利を掴み、フィアットに引導を渡したのである。この後フィアットは衰退し、さらに経営方針の変更によってサーキットを去っていった。

続く1925年、史上はじめてグランプリにマニュファクチャラー・チャンピオンシップ制度が設けられると、その栄冠は「P2」を擁するアルファ・ロメオの頭上に輝いた。 こうしてアルファ・ロメオは、一躍グランプリのスターチームになったのである。

しかしそれもつかの間、見えざる手の仕業でアルファは栄光の座を自ら降りざるを得なくなる。

黄金期の到来

真紅の「P2」は大成功を収めたが、1925年、初の世界タイトルに輝いたまさにその年を以て、表向きはアスカーリの事故死を理由に、実際は政治的理由(ファシストの介入)から、突然グランプリ活動を中止させられてしまう。ヤーノ率いる開発チームは、新型グランプリマシンの開発を諦めざるを得なかったが、代わりに市販スポーツカーの開発に集中した。

こうして生まれた「6C1500」シリーズは、高性能スポーツカーとしてアマチュアレーサーの注目を集め、各地のレースで大活躍する。さらに1927年に登場した拡大強化版の「6C1750」は、ワークスチームの手によってタルガ・フローリオやミッレ・ミリアをはじめとした主要レースを席巻し、無敵のスポーツカーとして、名声をほしいままにしたのである。その勝利数は枚挙に暇がない。

1930年、アルファ・ロメオはエンツォ・フェラーリと取引を行ない、「P2」を大幅に改造した新型マシンを、創設間もない「スクーデリア・フェラーリ」に託した。このマシンといっしょにスクーデリアに派遣されたスタードライバー、タツィオ・ヌヴォラーリの操縦で、この改造「P2」は再び数多くのレースに勝利し、その素性のよさと基本設計の確かさを見せつけた。

1931年にはレーシング・スポーツカーとして生まれた「8C2300」をストリップダウンして作られた久々の新型グランプリマシン、「8C2300 モンザ」を擁してグランプリに復帰。ヌヴォラーリ、カンパリ、ボルザッキーニといったスタードライバーを揃えて勝ちまくり、アルファ・ロメオは再びグランプリの王者に返り咲いた(その活躍は後の「P3」登場後も続いた)。

ヤーノは「8C2300 モンザ」のデビューと同じ1931年にアルファ初のモノポスト・グランプリマシンたる「ティーポA」を完成させた。これは新設計のシャシーにスポーツカー1750の6気筒エンジンを2基並べて搭載したモンスターだったが、過激な操縦性がアダとなってごく短命に終わる。しかしこの経験を活かして1932年にはグランプリマシンの真打ち、「P3」(「ティーポB」)が登場する。「P3」は8気筒DOHC2,654ccエンジンにツイン・スーパーチャージャーを備え、215馬力を発生、最高速は232km/hに達した。

「P3」は圧倒的な強さで出場するレースに悉く勝利し、伝説のグランプリマシンとなった。ここに及んでレーシング・アルファの名声は決定的なものとなったのである。

伝説のレース

1935年ナチス・ドイツの威信をかけて開催されたドイツGPで、アルファ・ロメオのセミ・ワークス・チームスクーデリア・フェラーリからエントリーしたタツィオ・ヌヴォラーリが旧式のアルファ・ロメオ「P3」を駆り、並み居るドイツ勢を振り切って優勝。モータースポーツを国威発揚に利用しようとしたヒトラーを歯噛みさせた。当時のメルセデス・ベンツアウトウニオン(現アウディ)らドイツ勢は、ヒトラー=ナチスから政治的意図による潤沢な資金を得、高い開発力と技術力に裏付けられたモンスターマシンを繰り出してレース界を席巻していた。そのボディシェルは航空機並みの高品質アルミニウムで作られ、銀色に輝くマシンはシルバーアローと呼ばれて恐れられた。

イタリアのナショナルチームとして期待されながら、アルファ・ロメオは資金にも技術者にも事欠くありさまで、ドイツ勢に対抗できるような戦闘力を持ったマシンを開発できないでいた。天才ヤーノは航空エンジン開発との二足のわらじ状態で混乱していた。リーダーの統率を欠くアルファ・ロメオ社内では中途半端なレーシング・プロジェクトがいくつも動いているような状態で、とても勝利を狙えるような雰囲気ではなかったという。 そんな最中のこの勝利は一時イタリア中を熱狂させたものの、実際のところアルファ・ロメオの勝利というよりはタツィオ・ヌヴォラーリの神がかり的な技量に支えられたものであった。

ちなみにこのとき、ドイツの勝利を疑わないレース主催者は勝者をたたえるイタリア国歌のレコードを持っておらず、ヌヴォラーリ自らが持参したレコードで面目を保ったという。

栄光と挫折

イタリア人の期待を一身に背負い、しかし国からの援助もなく、資金が枯渇して開発のままならないマシンで孤軍奮闘するチームはこうして一時の美酒に酔うが、それもこのときまでだった。その後、アルファ・ロメオのレーシング部門では政争が渦巻き、ヌヴォラーリが、ヤーノが、そしてフェラーリが去っていった。やがて戦争がすべてを覆い尽くす。

テンプレート:旧F1コンストラクター

F1世界選手権への参戦

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アルファ・ロメオ159

1945年第二次世界大戦が終結すると、空襲を避けるためにミラノ北方オルタ湖近くの乳製品工場に隠しておいた戦前のマシン「158」(「アルフェッタ」)を持ち帰り、復活したGPレースで早くも大活躍を見せた。

その後、1950年にはじめてF1世界選手権が懸けられると、ファン・マヌエル・ファンジオジュゼッペ・ファリーナらが158を駆り、7戦6勝という圧倒的な強さでシリーズを征し、ファリーナが初代F1王者となった。

1951年、この年もGPで158の改良型、159が大活躍したが、アルファ・ロメオを離れて自らの名を冠したレーシングカーでGPに挑戦するフェラーリに1951年イギリスGPシルバーストーン)で初めて敗北を喫する。この時のエンツォ・フェラーリの言葉、「私は母を殺してしまった」はあまりにも有名である。

シリーズチャンピオンはこの年もアルファ・ロメオとファンジオのものだったが、資金難を理由にこの年限りでF1GPレースから撤退してしまう。

モータースポーツ活動再開

1966年、天才カルロ・キティ率いる「アウトデルタ」を事実上のワークスチーム化して「ジュリアGTA」で欧州ツーリングカーレース選手権を戦い始める。GTAは「アウト・デルタ」監修のもと、クーペボディをスチールからアルミ製に換装して200kgの軽量化を達成したレーシング・スペシャルモデルだったが、少数ながら市販された。これにワークスチューンを施した車は「GTAコルサ」と呼ばれ、サーキットを席巻した。

他方、ポルシェなどが参戦するグループ6(スポーツカーレース)カテゴリに興味のあったアルファ=アウトデルタは2リッターV8エンジンをミドに搭載したレーシングプロトタイプ「ティーポ33」を1967年に開発。アルファ・ロメオはこの純然たるレーシングカーにフランコ・スカリオーネがデザインしたボディシェルを被せ、公道走行モデルとして、ごく少数ながら市販した(その数16台といわれる)。「ティーポ33/2ストラダーレ」と呼ばれたそのモデルには当時のフェラーリの10倍とも言われるプライス・タグがつけられた。

1973年、グループ6のレーシングカー・プロジェクトは水平対向12気筒エンジンをチューブラーシャシーに架装する「ティーポ33/TT12」に発展し、トップカテゴリで活躍した。

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F1への復帰

1951年のF1撤退後、1960年から1971年にかけてはアルファロメオ製のエンジンを使い、出走するチーム(デ・トマソLDSマクラーレンマーチなど)がいくつかあった。また、1963年1965年に、アルファ・ロメオ・スペシャルとして一時的にF1に復帰した時期もあった。ついに1976年、水平対向12気筒エンジンをイギリスに本拠を構えるF1チームブラバムに供給として本格的にF1に復帰。とびきりのパワーがある反面、重く燃費の悪いエンジンにチームは苦労するが、1978年には前年のワールドチャンピオン、ニキ・ラウダを擁して優勝している。

1979年、ブラバムチームとの契約を終え、いよいよアルファ・ロメオは自社開発のF1マシンでGP復帰を果たす[4]。エンジンは1980年からはV12、1983年からはV8ターボを搭載し、2位2回の成績をあげた。1983年まではマクラーレンと同じマールボロがメインスポンサーについたため、そっくりな紅白のカラーリングである。1984年、1985年はベネトンがメインスポンサーとなるが、エンジンの信頼性が低く、1985年のシーズンはノーポイントに終わり、当時のドライバーのリカルド・パトレーゼは、「自身、最悪のシーズン」と振り返るほど低迷し、ワークスチームはこの年限りで撤退した[5]。その後1988年まではプライベーターがオゼッラにエンジンの供給を行なった[6]。そのころすでに会社は存続の危機を迎えていた。

車種一覧

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159を使用しているカラビニエリのパトロールカー

現行車種

生産終了車種

 

日本におけるアルファ・ロメオ

日本での販売

1952年 国際自動車商事(株):現在のタクシー・バス事業の大手 KMグループの前身の国際自動車(株)の子会社 が 1900(2台)と6C2500を輸入したのが最初が定説。  しかし戦前の1927年に秩父宮雍仁親王殿下がRL Turismoを運転されたとの記録もある。

1963年に国際自動車商事(株)から日伊自動車(伊藤忠商事の子会社)が輸入権利を譲渡。

1964年に伊藤忠オートに改組。翌 1695年より本格的に輸入販売。

1981年に伊藤忠オート撤退。(実質的には1980年)。

1984年から1986年まで日英自動車が引き継いだ。同年よりコスモ石油系の「株式会社アルファロメオジャパン」(但し輸入実績無し)、1987年から1990年までは大沢商会が輸入・販売を行っていた[1]

1990年4月、フィアットグループオートモービルズは日本法人「アルファロメオジャパン株式会社」を設立、ディーラー網「アレーゼ」の整備を始めた。同年11月にはアレーゼにおけるフィアットブランド車の併売が開始され、社名を「フィアットアンドアルファロメオモータスジャパン」へと改称している。さらに1997年の「フィアットオートジャパン株式会社」への改称を経て、2007年8月より現在の社名「フィアットグループオートモービルズジャパン株式会社」を使用している。ディーラー網の名称は、2003年からアレーゼに代えて「アルファロメオ」へと変更されているがフィアット・ブランド車の併売は従前同様である[2]

新車登録台数は、中型乗用車156が人気を得ていた2002年に、過去最高となる7,426台を記録した。その後の販売は毎年減少を続け、2009年の新車登録台数は2,283台であった[3]

日本語表記

  • 二玄社ネコ・パブリッシングの書籍や雑誌では「アルファ・ロメオ」と表記するが、フィアット オート ジャパンでは半角あきの「アルファ ロメオ」と表記している。
  • 車検証に記載される車名は「アルファロメオ」と続けられている。
  • 車名を「アルファ156」の様に表現することが多いので「アルファ」と略される事が多いが、一部年配者には「ロメオ」と略すものもいる。

関連項目

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脚注

  1. 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:PDFlink - 2012年5月23日 マツダ株式会社 フィアットグループオートモービルズ
  3. マツダとフィアット、アルファロメオ車の生産に向けた事業契約を締結
  4. 1979年~82年まではアルファロメオのレース部門であるアウトデルタがチームを運営していたが、1983~1985年は後にユーロブルンチームを立ち上げるユーロレーシングが委託で運営した。
  5. この年からF1のサポートレースとして89年に予定されていた「プロカー選手権」用のマシン『164プロカー4』プロジェクトもシャシ部分をブラバムを通じて進めており、3.5リッターV10エンジンをアバルトとで製作したが、選手権自体が頓挫した。
  6. 撤退翌年の1986年には新開発の直列4気筒ターボエンジンをリジェに供給する予定だったが、開幕前のテストでトラブルが多発し、当時のリジェのドライバーだったルネ・アルヌーが難癖を付けたため、実戦投入前に契約は破棄され撤退している。その後オゼッラに供給された既存のV8ターボは、エンジン、設備を譲渡されたオゼッラによる自社チューンによるもので、アルファ・ロメオは開発に関与していない(成績下降によるブランドイメージ低下を危惧してか、最終年の1988年はアルファ・ロメオの名を外したオゼッラエンジンとなっている。)

外部リンク

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