ドルトムント

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紋章 地図
Wappen der Stadt Dortmund Lage der kreisfreien Stadt Dortmund in Deutschland
基本情報
連邦州: ノルトライン=ヴェストファーレン州
行政管区: アルンスベルク行政管区
地域連合: ヴェストファーレン=リッペ地域連合
ルール地域連合
郡: 郡独立市
面積: 280.41 km²
人口: テンプレート:PopSet[1]
人口密度: 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。 人/km²
標高: 海抜 50-254 m
郵便番号: 44001 から 44388
市街局番: 0231、02304
緯度経度: 北緯 51度 30分 58秒
東経 07度 28分 06秒
ナンバープレート: DO
自治体コード: 05 9 13 000
UN/LOコード: DE DTM
市の構成: 12 市区
市庁舎の住所: Friedensplatz 1
44122 Dortmund
ウェブサイト: www.dortmund.de
E-Mail: redaktion@dortmund.de
行政
上級市長: ウルリヒ・ジーラウ (Ullrich Sierau) (SPD)
議会の多数政党: SPD, ドイツ緑の党
最後の選挙: 2004年9月26日(決選投票2004年10月10日)
次回選挙: 2009年秋
負債: 960,861,000 € (2004年3月4日現在)
住民
失業率 16.8 % (2006年10月1日現在)
外国人 12.6 % (2006年10月1日現在)
大学等の学生数 約 30.000人 (2005年夏期)
年齢構成:
(2003年12月31日現在)
0-18 歳 17.2 %
18-65 歳 63.6 %
65 歳以上 19.2 %

ドルトムント標準ドイツ語:Dortmund、低ザクセン語:Düörpm)は、ドイツ連邦共和国の都市。ノルトライン=ヴェストファーレン州に属する。人口はおよそ58万人。

概要

かつての工業地帯として知られるルール地方の代表的な都市。交通の要衝で、鉄道の結節点であり、ドルトムント・エムス運河を通じて北海と航路がつながっている。近隣の都市としては、西にボーフムが隣接し、約50キロ北にミュンスター、95キロ東北にビーレフェルト、55キロ南西にデュッセルドルフが位置する。デュッセルドルフから特急ICEで40分程度。石炭鉄鉱石を産出し、鉄鋼工業が栄えると共に、ミュンヘンと並ぶ世界有数のビール生産地であったが、産業の構造変化によって衰退し、現在はハイテク産業や第三次産業に力を入れている。

歴史

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ドルトムント市庁舎(事務棟)

ドルトムントは880年公文書 Throtmanni [2]に小さな村として最初に書かれた。1152年に、バルバロッサ(フリードリヒ1世)がこの地域を訪れ、火災にあった街を再建した。バルバロッサが2年間ドルトムントに住んだ後、帝国でも顕著な街に成長する。 13世紀ハンザ同盟に参加し、1220年皇帝と直接の従属関係になる帝国自由都市の地位を獲得する。1320年以降、"Dorpmunde" の名で裕福な貿易都市として文書に書かれている。

ナポレオン戦争後、1803年に帝国自由都市の地位を失い、プロシアに組み込まれる。 19世紀より産業革命が進展すると、工業都市の一つとして繁栄し、石炭ビールの中心地となる。

ルール地方東部の中心都市であるため、近隣都市とともに連合国軍爆撃の標的となった。第二次世界大戦時は2/3の家が破壊された。

戦後、ドルトムントは「鉄と石炭の町」として、ドイツの復興に貢献した。市内の各地には炭坑があり、市北部にはヴェストファーレン製鉄所、南部にはフェニックス製鉄所と、大規模な製鉄所が大量の鉄を生産した。また、都心の近くのウニオン、ティア、アクティーンなど、多数のビール工場があり、ミュンヘンと肩を並べるビール都市であった。しかし、石炭から石油へのエネルギー革命や、新興国の発展等により、市を支える産業は大きく変化した。炭坑はすべて廃止され、2つの大製鉄所も生産を停止し、ビール工場は統合されて1社が残るのみである。

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テレビ塔からヴェストファーレン公園を眺める。旧フェニックス製鉄所の溶鉱炉も見える。

今日、ドルトムントはハイテク産業の街として再建しようとしており、1984年ドルトムント大学の近くにドイツ初のテクノパークが建設されている。さらに、市南部のフェニックス製鉄所跡地では、第2のテクノパークの建設が進められている。そのそばにあるヴェストファーレン公園のテレビ塔に昇り、展望台から市内と見回すと、市内各地に緑があふれている様子がわかる。2010年には、工場跡地を利用した広さ24haのフェニックス湖も完成した。この人造湖は、エムシャー川再生の一環として、遊水池機能も有している。

また、1973年からは、毎年夏にドルトムント・チェス・トーナメントが行われており、国際的にも注目されている。

交通

ファイル:Dortmund-Hauptbahnhof.JL.JPG
ドルトムント中央駅

鉄道と空港が整備されているドルトムントは、広域交通の拠点である。とくに、ドルトムント中央駅はドイツ鉄道にとって重要な駅で、多数のICE(ドイツ新幹線)が発着している。ドルトムント空港は、市の東部にある。滑走路が2,000mで、夜間発着制限もあるので、滑走路の延長や運用時間拡大が検討されているが、騒音を問題とする市民が反対している。

市内の交通は、市の子会社であるDSW21が経営する電車とバスの公共交通ネットワークが各地を結んでいる。その中心となっているのがLRT(ライトレール)で、1881年に馬が曳く形で登場した。その後蒸気機関に転換され、1894年からは電気で走る路面電車も導入された。路面電車からLRTへの転換は1960年代末に決定され、1980年代に入ると、都心でも路線を地下に移す工事が始まった。都心で最後まで残り、まだ路面電車が走っていた東西方向の路線も、2008年4月に地下に移され、都心から地上路線が消えた。この間に車両の改善も進められ、現在、DSW21は年間に延べ1億人を超える人員を輸送し、文字どおりドルトムント市民の足となっている。

スポーツ

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スタジアムの風景
ファイル:WM2006 BRA-JPN2.JPG
ワールドカップブラジル-日本戦

ドルトムントを本拠地とするボルシア・ドルトムント(Borussia 09 e.V. Dortmund)は、100年以上の歴史を持ったヨーロッパを代表する名門サッカークラブである。一時期はブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)の優勝を争い、UEFAチャンピオンズリーグ (UEFA CL) 制覇、ブンデスリーガのクラブで初めてクラブワールドカップ制覇を成し遂げた強豪クラブであったが、2004年頃より深刻な経営難が表面化し、成績不振に陥っていた。しかし2010/11からブンデスリーガとDFBポカールの2冠を2連覇、2012/13はUEFA CL の決勝に進出するなど復活してきている。日本代表香川真司は2010/11から2011/12の2シーズン所属し、2連覇に貢献した。

地元では根強い人気があり、毎試合約8万人の大観衆がヴェストファーレン・シュタディオンに詰め掛ける。観客動員数はブンデスの雄・バイエルン・ミュンヘン等を抑え、毎年1位に輝いている。そのドルトムントの応援というと地鳴りのような迫力で常に相手チームの脅威となり、後押しとなっている。ボルシア・ドルトムントのホームスタジアム、ヴェストファーレン・シュタディオンは、1974 FIFAワールドカップ開催のために建設されたサッカー専用のスタジアムである。展示場(ヴェストファーレン・ホール)やスポーツホール、ヴェストファーレン公園で構成される地区の一角を占め、ここでは各種スポーツの国際大会も開催されている。2005年より、保険会社のズィグナル・イドゥナ(Signal Iduna)がネーミングライツを獲得し、ズィグナル・イドゥナ・パーク(Signal Iduna Park)と名称を変更している。

2006年 FIFAワールドカップ・ドイツ大会の開催都市の一つであり、シュタディオン・ドルトムントズィグナル・イドゥナ・パーク)にて試合が行われた。1次リーグの日本ブラジル戦もここで行われた。

ドルトムント最大のライバルといえば、目と鼻の先にあるゲルゼンキルヒェンを本拠地とするシャルケ04であり、このルール地方の試合がヨーロッパを代表するダービーマッチの1つルールダービー(ドイツ語発音ではレフィアーダービーRevierderbyである。両クラブとも熱狂的なファンを持つことで知られ、強烈な敵対意識の下に意地と意地がぶつかりあう熱戦が毎回繰り広げられている(VfLボーフムとの試合もこれと同様)。

教育

姉妹都市

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出身者

引用

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関連項目

外部リンク

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公式
観光
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  2. Rudolf Kötzschke (Hrsg.): Die Urbare der Abtei Werden a. d. Ruhr (= Publikationen der Gesellschaft für rheinische Geschichtskunde XX: Rheinische Urbare). Bd. 2: A. Die Urbare vom 9.-13. Jahrhundert. Hrsg. von Rudolf Kötzschke, Bonn 1908, Nachdruck Düsseldorf 1978, Bd. 3: B. Lagerbücher, Hebe- und Zinsregister vom 14. bis ins 17. Jahrhundert, Bonn 1908, Nachdruck Düsseldorf 1978, Bd. 4,I: Einleitung und Register. I. Namenregister. Hrsg. von Fritz Körholz, Düsseldorf 1978, Bd. 4,II: Einleitung, Kapitel IV: Die Wirtschaftsverfassung und Verwaltung der Großgrundherrschaft Werden. Sachregister. Hrsg. von Rudolf Kötzschke, Bonn 1958