ハンザ同盟
ハンザ同盟(ハンザどうめい)は、中世後期に北ドイツを中心にバルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市同盟である。
概要
「ハンザ」は古高ドイツ語。現代ドイツ語では 「ハンゼ」(Hanse) と呼ばれる。古高ドイツ語「ハンザ」は「団体」を意味し、もともと都市の間を交易してまわる商人の組合的団体のことを指した。「ハンザ同盟」に相当する訳語は日本語以外でも用いられることもあるが、原語に直訳すると二重表現となる。
ハンザ同盟の中核を占める北ドイツの都市は神聖ローマ帝国の中で皇帝に直接忠誠を誓う帝国都市であり、相互に独立性と平等性を保つ緩やかな同盟だったが、経済的連合にとどまらず、時には政治的・軍事的連合として機能した。しかし同盟の恒久的な中央機構は存在せず、同盟の決定に拘束力も弱かったので、政策においてはそれぞれの都市の利害が優先された。
リューベック、ハンブルク、ブレーメンなどかつてのハンザ同盟の中心都市は「自由ハンザ都市」を称して中世以来の都市の自由をうたっており、21世紀の現在もなおハンザ同盟の遺風を残している。
歴史
ハンザ史の歴史
ハンザ同盟の歴史研究は1870年代のドイツで本格化した。「ドイツ民族」長年の悲願であったドイツ帝国建国によるドイツ統一が叶った時期であり、ナショナリズムが高揚した時期でもあった。その影響で初期のハンザ研究はハンザ同盟を中世におけるドイツ人活躍の歴史として解釈し、ハンザ同盟を国家のように捉え、強力な同盟関係が形成された14世紀以降を主な研究対象としていた。
20世紀初頭には都市同盟が形成される以前のハンザ商人の活躍も注目されるようになっていった。
第2次世界大戦後はハンザの主体をドイツ人のみに限定する歴史観が批判され、現在ではハンザの主体を特定の国家・民族に限定するのは不適切であるとされている。それと同時に、ネーデルラントやスラヴ系住民らの果たした役割も強調されるようになっている。
前史
フリーセン人の活躍
バルト海では古くから交易がおこなわれていたが、中世初期には商業そのものが衰退していた。このバルト海で6-10世紀にかけて貿易を担ったのがゲルマン民族の一派フリーセン人である。彼らは都市生活を知らなかった点でハンザと大きく異なるが、平和的・恒久的な貿易を基本とし、ワイン・木材・穀物・織物などを扱うなどハンザ商人の先駆者としての性格も持っていた。しかし、第二次民族大移動の時代に入ると、ヴァイキングから攻撃を受けるようになる。
東方植民
ヨーロッパも中世盛期に差し掛かるころになると、商業の復活や都市の発達が見られるようになる。人口が増大し、新たな土地を求め農民たちがエルベ川以西の土地に移住し開拓を進めていった(東方植民)。しかし、この地域もドイツ人から見て異教徒であるスラヴ系住民が居住しており、土地を得るために武力による制圧も行われた。
東方植民の成果は大きく、ヨーロッパ世界の拡大と共に貿易圏も拡大していった。それと同時に都市も次々と建設され、多くの都市がハンザ同盟に加わることとなる。
リューベックの建設
1143年ホルシュタイン伯アドルフ2世は、当時まだ未開の地だったトラーヴェ川とヴァーケニツ川の間にある中洲に目をつけ、各地から住民を募り都市を建設し、リューベックと名付けた。しかし、1157年の火災でまだ小さな集落だったリューベックは荒廃してしまう。そこで、リューベックの住民はアドルフ2世の上位君主ザクセン公ハインリヒ獅子公に助けを求める。ハインリヒはリューベック市民のために新しい町を建設するものの、地理的な問題から発展が見込めなかった。そこで、アドルフからリューベックの土地を買い取り、再び町を建設した。この時、リューベックに都市としての特権が与えられた(1159年)。
しかし、ハインリヒ獅子公は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)と対立し失脚する。リューベックは形の上では王領地となるが、実質的にはホルシュタイン伯に支配されるようになった。1227年には帝国都市としての地位を獲得し、いかなる領主の支配にも属さない帝国直属の都市となった。
ハンザ同盟
成立と発展
ハンザ同盟の発祥は12世紀にまで遡ることができる。この頃、ドイツを中心に国際的な都市間交易に従事する交易商人による「ハンザ」があらわれ、団体構成員の交易特権を得るための運動を行った。ハンザ商人たちは自身の所属する都市においては都市参事会などへの参加を通じて政治に参加する有力市民であり、彼らの相互援助の都市間ネットワークを通じて都市間で条約が結ばれることにより、都市のハンザも形成されていった。その中心となったのがリューベックである。
1241年リューベックとハンブルクと間に商業同盟が結ばれた。これは、その都市の資源はその都市の商人が扱い、外来の商人は排他するというもの。1256年にはこの同盟にリューベックの同盟都市ロストク・ヴィスマルも加わった。この都市同盟は拡大を続けると同時に、ゴトランド島などバルト海沿岸に進出して東方植民によりこの方面の各都市に散らばっていたドイツ商人の組合の主導権を握った。
1358年には都市そのものが商人ハンザの組合に加入することで外地商人の組合である商人ハンザと、商人の本国都市の同盟である都市ハンザが統合され、ハンザ都市同盟が成立した。
ドイツ商人の商業活動の広がりに応じてハンザ同盟の商館の置かれる範囲は拡大し、西はイングランド(イギリス)のロンドンから東はルーシ(ロシア)のノヴゴロドまで広がった。同盟はロンドンとノヴゴロドに加えてフランドルのブルッヘ(ブリュージュ)、ノルウェーのベルゲンの4都市を「外地ハンザ」と呼ばれる根拠地とし、その勢力はヨーロッパ大陸の内陸から地中海にまで及んだ。同盟に加盟する都市は、ドイツ人の広がりを反映して必ずしもドイツ都市に限られず、15世紀の最盛期には加盟都市は200を越えた。
ハンザ同盟の加盟各市は十数名程度の市参事会によって統治され、遠隔地交易で財をなしたハンザ商人が参事会を構成する都市貴族として寡頭支配を行った。同盟全体の重要な意志決定はハンザ会議において審議された。
対デンマーク戦争とハンザ同盟の全盛期
14世紀、デンマーク国王ヴァルデマー4世再興王は王権の強大化に邁進し、デンマーク領の拡大に勤めていた。1360年にはスウェーデン南部、1361年にはハンザ同盟都市のヴィスビューを占領した。ヴィスビューはハンザ同盟にとって重要な拠点であり、そこが奪われるということは死活問題であった。そのためハンザ同盟都市はデンマークに対して開戦を行う(1362年)。デンマークの積極的な膨張策に脅威を抱いていたノルウェー王国・スウェーデン王国・シュレースヴィヒ公国・ホルシュタイン伯国・ドイツ騎士団などもハンザ同盟に味方した。
1367年、ケルンでデンマークとの戦争を議題に据えたハンザ会議が行われ、反デンマークの都市同盟であるケルン同盟が締結された。
ケルン同盟によって結束力を固めたハンザ側は1368年、国王不在のコペンハーゲンを攻略し、さらにデンマーク側に寝返ったノルウェーの首都ベルゲンも襲撃した。当時、北ドイツにいたヴァルデマー4世はハンザ同盟に停戦を呼びかけた。
1370年、シュトラールズント条約(de:Zweiter Hanse-Dänemark-Krieg、en:Treaty of Stralsund (1370))が締結された。これにより、ハンザ同盟の持つ権利が再認識され、ハンザ同盟は全盛期を迎えた。
1426年から1435年にかけてもデンマークとの戦争が行われたが、ハンザ同盟の勝利に終わった(de:Frieden von Vordingborg (1435))。
しかし、15世紀、カルマル同盟を結んで北欧諸国を統合したデンマークに敗れてバルト海の覇権を失った。
衰退
15世紀には周辺の国家の王権が中央集権化を進めた時期でもあった。
ハンザ同盟の一員であり、バルト海東岸と南岸を支配していたドイツ騎士団は、ヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合にタンネンベルクの戦いで敗れ大きく西方に後退した。プロイセン地方の新たな支配者となったポーランド王国の元、中小の都市は没落し、ダンツィヒやリガなどの都市が興隆した。この結果、東方のハンザ同盟都市は自己保身に走るようになり、同盟の一体感は失われていった。
北ドイツでは、神聖ローマ皇帝の勢力が小さくなる代わりに、領邦君主が勢力を伸ばした。領邦君主は自領内都市への圧迫をかけ、その結果多くの都市がハンザ脱退していった。またイングランド商人(イングランド国王やブルゴーニュ公の支援を受けていた)、ネーデルラント商人が北欧へ進出してハンザ同盟の商圏に食い込み、ハンザ同盟の独占体制を脅かしたことは同盟の存在意義を揺るがした。
16世紀には大航海時代によってヨーロッパの商圏の中心軸がバルト海・地中海から大西洋・北海に移動した。これによってバルト海沿岸に位置するハンザ同盟都市の発展は止まってしまう。一方でハンブルクやネーデルランド諸都市は大西洋方面の貿易にシフトし、さらなる発展を遂げることになる。
同世紀、宗教改革が生じ、ハンザ同盟もルター派とカトリックの対立に巻き込まれ、都市内・都市間で混乱と対立が生じた。
そして、17世紀の三十年戦争が勃発する。生き残りに必死な北ドイツの都市にはハンザ同盟のために義務を履行する余力がなく、リューベック・ハンブルク・ブレーメンの3都市にハンザの名で行動することを委任された。それを受けて、この3都市は強固な軍事的な同盟を結ぶ。
1648年、参戦国の間でヴェストファーレン条約が結ばれたが、上記の3都市もハンザを代表して条約に列席した。しかし、この条約によってハンザ同盟都市の大半は領邦国家に組み込まれ、ハンザ同盟の存続に終止符を打った。1669年のハンザ会議[注 1]を最期に同盟は機能を完全に失い、実質上終焉した。
17世紀以降に入るとバルト海の貿易圏は、すでにスウェーデンとオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が主流となっており、三十年戦争によってドイツの国土が疲弊していたことも終焉に拍車をかける事となった。
その後
リューベック・ハンブルク・ブレーメンの3都市の同盟は20世紀まで断続的に存続し、長い間「ハンザ同盟」として活動をつづけた。特にハンブルクとブレーメンは自立性を保ち、現在のドイツでも単独の州としてそれぞれ「自由ハンザ都市ハンブルク」「自由ハンザ都市ブレーメン」を正式名称として、かつてのハンザ同盟の名残を現在に伝えている。
また、文久年間(1862年)、幕府が開港延期交渉のために使節団を欧州に派遣した際、ハンザ同盟から外交を結ぶべく外交的接触を受けている。しかし、その後、北ドイツ連邦が設立されハンザ同盟がそれに属したため、ハンザ同盟からの直接の接触はその後行われていない。
1980年にオランダのズヴォレで「新」ハンザ同盟が結成され、311年ぶりにハンザ会議が開催された。この同盟は、ハンザ同盟本来の目的である加盟都市の貿易推進の他に、文化交流・観光誘致も目的とするまことに現代風の呑気なものとなった。加盟都市はかつてのハンザ同盟の加盟都市が原則であるが、ハンザ同盟の商館を設置した都市であれば新規加盟も可能とした。折りしも冷戦が終結しバルト海の東西を分かっていた政治的障壁が消滅したため、加盟都市は増え現在では175都市を数えている。ハンザ会議は毎年開催されるが、開催地は加盟都市の持ち回りとなっている。会議とはいっても、実際は文化フォーラムのごときもので、会議期間中は中世をしのぶ文化展示や催し物・パレードが行われ、町はお祭りとなる。
経済・貿易
ハンザ商人は、北海・バルト海を中心にヨーロッパ内陸部や地中海地域までも活動範囲とした。特にイングランド王国では、ドイツ商人の果たした役割は大きく、ロンドン市民と同じ身分を与えられていた。
ハンザ同盟の扱う交易品としては、ブリュッヘを通じて貿易されるフランドルの織物のほか、バルト海のニシンが重要である。毎年、夏から秋にかけてのニシン漁期になると北ドイツの各ハンザ都市から北欧に向けてニシン買い付けの商船隊が派遣され、年間数十万トンのニシンが塩漬けにされてヨーロッパ各地に輸出された。またドイツ騎士団領からは木材、琥珀、ポーランド王国からは穀物、ロシア方面からは黒貂、熊、リスなどの毛皮が輸出された。
ハンザ商人は現金・現物による即時決済を中心とする堅実な商業活動を行っていた。それゆえ信用経済は発達せず、金融が発達したイタリアとは対照的に、銀行・保険などのシステムは未整備のままだった。そのため、リスクを分散させ多くの投資を集めることのできる船舶共有組合が発達した。
組織
ハンザ同盟は自然発生的な諸都市間の連合体であり、恒久的な中央組織は存在しなかった。しかし、リューベックやハンブルクなど、ヴェンド地方の都市の市会参事(ラート)が無給でハンザの政務を取り仕切っていた。後述するハンザ会議も主にこれらの都市が下準備を行い主催していた。
時代が下り、周辺の王国で法律家による有給官吏が台頭した16世紀には、ハンザ同盟にも外交、法典・議事録の作成などを任されるハンザ官僚が任命された。しかし、財政的理由から人数も1人と明らかに不十分で、権威・権限も弱く、多くはリューベックの法律家・市政家が任命されたことから、リューベックの市会参事がハンザ同盟の政務を担った以前の状況と比べて大きな変化はなかった。
ハンザ会議
ハンザ同盟の意思決定は、同盟都市の都市が集まり、意思疎通を行うハンザ会議で決定された。決定方法は全会一致であったが、強制力は弱く、決議を守らない都市も少なくなかった。開催時期は不定期で、開催地もリューベックかその周辺都市で持ち回り制だった。ハンザ会議に代表を派遣した都市がハンザ同盟都市とされている。
ハンザ会議には全てのハンザ同盟都市の代表が出席したわけではなく、特に開催地から遠い中小都市の出席状況は悪かった。そこで、同盟地域をいくつかの地域に分け、各地区代表のとなる大都市に中小の都市が出席を委任する形で代替されたこともあった。
1669年を最後にハンザ会議は開かれなくなった。
商館
ハンザ同盟は外地に「商館」を建設した。商館と言っても、ハンザ商人団体のことを指す用語で、特定の建物があるとは限らない。特にロンドン・ノヴゴロド・ブリュージュ・ベンゲンの商業拠点は規模が大きく、ハンザ史学においてはこの4つのみを商館と呼び、その他の拠点である「支所」と区別している。
ロンドン商館
ロンドン商館はイングランド王国におけるハンザ商人の拠点。本部の置かれた建物の名前から「スチールヤード」とも呼ばれていた。強大な王権に対抗する必要性から商館の求心力は強く、意思決定機関である総会の決定事項は強い拘束力を持ち、違反者には罰則がかけられていた。
ロンドン商館には職員がおり、2名の商館長はイングランド人(ロンドン市高官が多かった)とハンザ商人が1人ずつ選ばれていた。ハンザ商人はイングランドにおいて特権を与えられていたため、イングランドとの関係を円滑にするため、イングランド人を商館長にしていたのだといわれている。商館長含め12人の役員が商館を指揮し、数名の有給の書記が業務を行っていた。有給の職員が置かれたことは中世では異例のことである。
15世紀になると、ハンザ商人に与えられていた特権を疎ましく思うイングランド商人や、国内の産業を育成しようとするイングランド国王がロンドン商館に様々な圧力をかけるようになる。しかし、イングランドは木材の輸入などで完全にハンザ商人に頼り切っていたため完全な排除は難しく、ロンドン商館は長い間持ちこたえていた。1598年、エリザベス1世によってロンドン商館は閉鎖された。
ブリュージュ商館
ブリュージュ商館はネーデルランドのブリュージュに置かれたハンザ商人の拠点である。本拠地となる特定の建物も居住地も存在していなかったが、ネーデルランドはヨーロッパ世界における経済・文化の中心地であったため、ブリュージュ商館は大きな役割を果たした。商館の幹部は3つの地域が排出する代表2人ずつ、計6人の商館長から構成された。フランス王国やイベリア諸国などとの外交もブリュージュ商館の役割であった。
最終的に1530年代にブリュージュの商館は発展著しいアントウェルペンに移動する。
ベンゲン商館
ベンゲン商館はノルウェー王国におけるハンザ商人の拠点である。特定の建物は存在しなかったが、ベンゲンにあるドイツ人居住区に所在したため「ドイツ人の橋(ブリッゲン)」と呼ばれた。ドイツ人居住区の住民は全員男で独身が義務付けられていた。ノルウェー王国への穀物供給で大きな役割を果たしていた。
ハンザ同盟が過去のものとなった17世紀まで商館は存続する。しかし、徐々にノルウェーの影響力は高まり、また商館の構成員もノルウェー人あるいはベンゲン市民に同化していった。
ノヴゴロド商館
ノヴゴロド商館はハンザ商人にとって最東端の拠点である。前身はゴットランド島の商人による「ゴート商館」。中心的な役割を果たした聖ペテロ教会の名前にちなんで「聖ペーター・ホーフ」と呼ばれていた。、最大の輸出品は毛皮で、その他に木材や蜜蝋なども輸出していた。
この聖ペテロ教会は「商人教会」とされ、商人によるミサだけでなく、商業資料の保管や商人による会議などが行われていた。司祭も商人団が指名しており、商人たちが教会を管理していた。ただし、教会内での商行為は許されていなかった。
ロシアにおけるモンゴルの支配(「タタールの軛」)が終わるとモスクワ大公国が台頭する。1478年、「大帝」イヴァン3世にノヴゴロド共和国が征服されたことにより、ノヴゴロド商館は弾圧をうけるようになる。1497年には商館が閉鎖され、商館に属するドイツ商人は全員捕えられ、財産を没収された。商館そのものは1514年に復活するが、もはやかつてのような力はなく、形だけの存在にとどまった。
主なハンザ同盟都市
全盛期のハンザ同盟は約200の都市から構成されたと言われている。しかし、加入の際に具体的な条約・協定が締結されたわけではないので、ハンザ同盟都市と言えるかどうかあいまいな都市も少なくない。また、都市以外にもドイツ騎士団とディートマルシェの農民団がハンザ同盟に加わっていた。
ハンザ同盟都市の中でも、都市によってハンザに対する態度は異なる。リューベック・ハンブルクなどの都市は同盟の維持に熱心だったが、当時ドイツで最大の都市であったケルンは同盟内でも独自行動が目立った。
リューベック・ハンブルク・ヴィスマル・ロストクなどはハンザ同盟最初期のメンバーであり、長い間ハンザを支え続けた。最後までハンザ同盟を担い続けたのはリューベック・ハンブルク・ブレーメンの3都市だった。
北欧
ロシア
バルト海東岸
そのうち旧ポーランド(ポーランド・リトアニア連合)
- ヴァルミエラ(ヴォルマール)
- ヴィリャンディ(フェリーン)
- ヴェンツピルス(ヴィンダウ)
- カウナス(カウエン)
- クライペダ(メーメルブルク)
- クルディーガ(ゴールディンゲン)
- タルトゥ(ドルパート)
- ツェーシス(ヴェンデン)
- リガ
ポーランド
ドイツ
- ヴィスマール
- エッセン
- オスナブリュック
- カルマール
- キール
- グライフスヴァルト
- ゲッティンゲン
- ケルン
- ゴスラー
- シュトラールズント
- デュースブルク
- デュッセルドルフ
- ドルトムント
- ハノーファー
- ハレ
- ハンブルク
- ヒルデスハイム
- ブクステフーデ
- ブラウンシュヴァイク
- ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル
- フランクフルト・アン・デア・オーダー
- ブレーメン
- マクデブルク
- ミュンスター
- ミンデン
- リューネブルク
- リューベック
- ロストック
低地地方
ハンザと世界遺産
ハンザ同盟の残した歴史的・文化的意義はユネスコに高く評価されており、ハンザ同盟に関連する世界遺産(世界文化遺産)は複数存在する。
関連項目
脚注
出典
参考文献
- 高橋理『ハンザ「同盟」の歴史: 中世ヨーロッパの都市と商業』(2013年、創元社)
外部リンク
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