宮本恒靖
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:サッカー選手 宮本 恒靖(みやもと つねやす、1977年2月7日 - )は、大阪府富田林市出身の元プロサッカー選手(元日本代表)。ポジションはディフェンダー(センターバック)。2013年7月19日、第13期FIFAマスターを卒業し、元プロ選手としては2人目、日本人元プロ選手としては初めてのFIFAマスター卒業生となった[1]。
目次
来歴
プロ入り前
大阪府富田林市出身。サッカーを始めたのは富田林市立伏山台小学校5年生(10歳)。ポジションはフォワードだった。サッカーを始めるまでは、地区の少年ソフトボールをしていた。地元の富田林市立金剛中学校に進学、同校にてサッカーの指導を受けて技術を向上、サッカーを始めてから約3年後の中学2年生時「第14回全日本選抜中学生大会」(現・14歳以下ナショナルトレセン)、日本ジュニアユース代表候補(現・U-15代表候補)合宿に招集。中学校2年生時「大阪府英語暗唱大会」で優勝。
大阪府立生野高等学校時代はガンバ大阪ユースに所属し、上級生がいなかったため初代キャプテンに就任[2]、ユースチーム卒業までの3年間務めた。ユースでは1994年12月にJユースカップで優勝し初めてのタイトルを得た[2]。1993年にはU-17日本代表に選ばれ、日本で開催された1993 FIFA U-17世界選手権に出場しベスト8の成績を修めた[3]。U-18ジュニアユース(監督・山本昌邦)招集。
ガンバ大阪時代
1995年6月24日、ガンバ大阪のトップチームにクラブでは初めて昇格[2](同期入団は實好礼忠、森下仁志、中口雅史、高木健旨、松山明男)スイーパーとして活躍。プロ契約後、数年間中々出場機会に恵まれず、ポジションも頻繁に変わりプロ選手として苦悩する事になる。同時期に同志社大学経済学部に進学。労働経済学のゼミに所属し、2001年に卒業した。
1996年から1998年頃、当時のクゼ、アントネッティ両監督にはボランチで起用されたこともあった。初ゴールは1997年10月4日、同年オールスター戦にも初選出されキャプテンを務める[2]。2000年にトップチームの主将に就任、オールスター戦にJ-EASTとJ-WESTの両チーム合わせての得票1位で選出(2002年も1位選出される)[2]。出場回数:8回【1997・1999・2000・2001・2002・2004・2005・2006】(2003年は怪我で辞退)。2001年1月にイングランドサッカーのトップリーグであるプレミアリーグに所属していたウェストハム・ユナイテッドFC[4]への移籍を試みたが、イギリス政府から労働ビザが発給されずに断念した。このゴタゴタで、背番号が5から35になった[2][5]2003年からは再び5番に戻った。2002年に就任した西野朗監督にはセンターバックで起用され、山口智・シジクレイと3バックを形成した。2004年度には再び主将に就任。2005年12月3日、リーグ最終節の川崎フロンターレ(等々力)戦ではヘディングシュートを決め、クラブ初、自身にとっても初となるJリーグ優勝のタイトルを得て、ピッチ上で号泣した[2]。
レッドブル・ザルツブルク時代
2006年シーズン終了後、オーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクに1年間の契約で完全移籍し[6][7]、初年度にリーグ優勝を果たした。
レッドブル・ザルツブルクでは、4バックの左右どちらのセンターバックもこなし、2007-08年シーズンからはSKラピード・ウィーン戦(12月7日)、SKシュトゥルム・グラーツ戦(12月15日)などで左サイドバックとしてもスタメン出場した。宮本本人は自らのブログで10年ぶりにこのポジションでプレーしたと振り返っている[8]。
2007年12月には、2009年6月までの1年半の契約延長に合意した。
2008年1月、チームでの練習中に左太腿裏の腱断裂の怪我を負い、現地で手術、リハビリに務めることになった。6月に本格的に練習再開、8月17日には8か月ぶりに公式戦出場を果たす。同年10月28日のオーストリア協会カップ3回戦では海外移籍後初のキャプテンを任され、フル出場した。 前任者のジョバンニ・トラパットーニ監督時代と違い、コー・アドリアーンセ新監督が就任してからは試合出場機会が減少した。
2008-2009シーズンはアドリアーンセ監督が攻撃戦術を採用した影響もあり、リーグ戦は1試合も出場機会がなかった[9]。そのため、ザルツブルクとの契約は6月まで残っていたものの出場機会を求めて移籍を検討。クロアチアリーグやオーストリア国内のクラブからもオファーが届いていたが[10]、欧州での経験を日本で生かしたいという思いから、複数年契約や高額年俸を用意するなど熱心に誘いのあったヴィッセル神戸入りを決めた[2][9]。
ヴィッセル神戸時代
2009年1月15日、ヴィッセル神戸が、ザルツブルクとの間で完全移籍に合意したと発表した。神戸入団後に主将に就任[11]。2009年の序盤戦はセンターバックで、2009年の後半はボランチの位置でプレーするようになった。同年7月18日のJ1リーグ第18節川崎戦では自身初となるバイシクルシュートを決め、これが宮本のプロ選手生活で最後の公式戦ゴールとなった。2010年および2011年は北本久仁衛と河本裕之をバックアップする控えのセンターバックとしてプレーし、出場機会は減った。2011年はJ1リーグ戦で4試合出場のみ、うち先発は第23節の福岡戦(レベスタ)と公式戦最終出場試合ともなった最終節の仙台戦(ユアスタ)の2試合だったが、残る30試合でも全てベンチ入りをしていた。
2011年のシーズン終了後、宮本は神戸側から出されていた契約延長の申し出を固辞。12月19日に現役引退を表明した[12][2][13]。また、引退後に国際サッカー連盟(FIFA)がスイスで運営する「FIFAマスター」(「スポーツに関する組織論、歴史・哲学、法律についての国際修士」の大学院コース)で学び、また、コーチングライセンスの取得を目指す意向を示した[14]。
日本代表
1997年にU-20に選出され、U-20ワールドカップでキャプテンとして5試合に出場[3]。
2000年6月18日のキリンチャレンジカップ・ボリビア戦で日本代表初出場[3][15]。シドニー五輪を経て、2001年末からは、トルシエJAPANにおいて日本代表キャプテンを務めていた森岡隆三の離脱時に代わってキャプテンを任された。
2002年日韓W杯では、開催直前の大学生との練習試合で競り合った際に相手の肘が顔に入り、鼻骨骨折した[3]。これにより、顔面を保護するために兵庫医大病院が用意した医療器具のフェイスガード(ノーズガード)を付けることになり、元々白いガードに自らの手で黒いマジックで色をつけて[16]出場した。そのプレーする姿を見た海外のメディアから、バットマンと渾名された[3][17]。代表初ゴールは2004年2月7日のマレーシア戦[3][15]。
トルシエ後のジーコJAPANでは、発足時よりキャプテンを務めた中田英寿が故障で離脱して以降、出場した試合全てのキャプテンを務めた。2004年のアジアカップ準々決勝のヨルダン戦のPK戦では、中村俊輔と三都主アレサンドロが外したことで、審判に「ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしでPKの位置変更を申し入れる。PK戦の途中で審判への申し入れによってサイド位置が変わることはまず無いが、変更理由にフェアプレーを持ち出すことでこれを認めさせた[18]。この時主審を務めた人間が、マレーシア出身のスブヒディン・モハマド・サレー国際審判員だった。結果、川口能活のファインセーブもありこのPK戦を制すると、日本代表は2大会連続のアジア制覇を果たし、自身も大会ベストイレブンに選出された。
2006年、自身2大会連続2度目のワールドカップ出場となった2006年ドイツW杯では、第1戦(オーストラリア戦)と第2戦(クロアチア戦)はフル出場したが、第3戦(ブラジル戦)は累積警告により出場出来なかった[3]。
日本代表ではU-17からA代表に至るまでの全カテゴリでキャプテンを務めた[19]。
現役引退後
現役引退後は、FIFAマスター入学に向けての準備に励む傍ら、サッカー教室などを開催したり、NHKやWOWOWのサッカー中継にゲスト解説者として登場。2012年ロンドンオリンピックの期間中には、ジャパンコンソーシアムの男女サッカー中継に解説者として出演した。
2012年4月17日に自らの公式サイト内のブログで、FIFAマスター第13期生への合格を公表した。日本人の元プロサッカー選手では初めての合格で、2012年9月17日に入学した[20][21]。卒業してからも、引き続き欧州にて指導者資格の取得を目指す可能性があることを表明している[22]。
2013年7月19日、2012-2013年FIFAマスター第13期生修了式が行われ、宮本恒靖を含め24か国の生徒が卒業した[1]。日本人は2013年7月19日時点で、宮本を含め通算9名ほどがFIFAマスターを卒業している。元プロサッカー選手の卒業生は2名で、日本人元プロサッカー選手としては宮本が初めてである[23]。
なお、ロンドンオリンピック開幕直前の2012年7月16日には、ホームズスタジアム神戸で引退試合を開催。ガンバ・ヴィッセル・日本代表時代のチームメートが多数参加したほか、中田英寿や宮本の長男もサプライズで登場した。この試合はスカチャン、BSスカパー!で生中継されたほか、同月22日の深夜には、この試合のダイジェストを中心に構成された特別番組『宮本恒靖引退試合スペシャル〜日本のキャプテン17年の歩み〜』が、MBSテレビで放送されている。
FIFAマスター取得後の2013年10月、ベースボール・マガジン社発行のサッカー専門誌「サッカーマガジン」のリニューアル(週刊から月刊の「サッカーマガジンZONE」に移行)[24]に伴い、特別編集長を委嘱される[25]。
2014年1月31日より、日本プロサッカーリーグにリーグ運営の円滑化を目的として新たに設置される、議決権を持たない特任理事(非常勤)に就任[26]。
2014年4月4日、2014年ブラジルW杯テクニカルスタディーグループ10名のうちの1人(試合を分析し、技術や戦術、傾向などを分析し、試合ごとのテクニカルリポート及び大会の総括リポートを作成するグループ。指導改善や強化に役立てる。W杯では、1966年イングランドW杯から導入)に内定したと発表された[27]。
家族
父、宮本恒明は東大卒の元関西電力常務取締役で、独立行政法人造幣局監事[28]を経て、現在は一般財団法人関西電気保安協会理事長。母、宮本弘子は元堺市市民人権局理事・教育委員会学校教育部長[16]。3歳年長の姉がひとりいる[29]。妻は生野高校で宮本の2年先輩にあたり[30]、2001年に結婚した。夫妻の間には長男と長女の1男1女がある。
所属クラブ
- ユース経歴
- 1987年 - 1988年 伏山台FC
- 1989年 - 1991年 金剛中学校
- 1992年 - 1994年 ガンバ大阪ユース (大阪府立生野高等学校)
- プロ経歴
- 1995年 - 2006年 テンプレート:Flagicon ガンバ大阪
- 2006年 - 2009年 テンプレート:Flagicon レッドブル・ザルツブルク
- 2009年 - 2011年 テンプレート:Flagicon ヴィッセル神戸
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1995||rowspan="12"|G大阪||rowspan="2"|-||rowspan="4"|J||11||0||colspan="2"|-||4||0||15||0 |- |1996||13||0||7||0||2||0||22||0 |- |1997||rowspan="3"|20||26||1||4||0||3||0||33||1 |- |1998||32||0||4||0||1||0||37||0 |- |1999||rowspan="8"|J1||30||0||2||0||2||0||34||0 |- |2000||5||29||0||4||0||0||0||33||0 |- |2001||rowspan="2"|35||24||0||2||0||3||0||29||0 |- |2002||20||1||2||0||2||0||24||1 |- |2003||rowspan="4"|5||26||1||5||1||2||0||33||2 |- |2004||24||0||0||0||1||0||25||0 |- |2005||30||3||4||0||2||0||36||3 |- |2006||30||1||0||0||5||0||35||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2006-07||rowspan="3"|ザルツブルク||rowspan="3"|17||rowspan="3"|ブンデス||9||0||colspan="2"|-||1||0||10||0 |- |2007-08||12||0||colspan="2"|-||0||0||12||0 |- |2008-09||0||0||colspan="2"|-||2||0||2||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2009||rowspan="3"|神戸||rowspan="3"|14||rowspan="3"|J1||32||1||5||0||2||0||39||1 |- |2010||6||0||4||0||2||0||12||0 |- |2011||4||0||0||0||1||0||5||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始337||8||43||1||32||0||412||9 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行21||0||colspan="2"|-||3||0||24||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終358||8||43||1||35||0||436||9 |}
テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2006||G大阪||5||5||1 |- !通算!!colspan="2"|AFC |5||1 |} その他の国際公式戦
- 2006年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
- 2007年
- UEFAチャンピオンズリーグ予備予選2回戦 1試合0得点
- UEFAチャンピオンズリーグ予備予選3回戦 2試合0得点
経歴
代表歴
出場大会など
- U-17日本代表
- 1993年 FIFA U-17世界選手権 (ベスト8)
- U-20日本代表
- 1997年 FIFAワールドユース(U-20)選手権 (ベスト8)
- U-23日本代表
- 2000年 シドニーオリンピック (ベスト8)
- 日本代表
- 2002年 FIFAワールドカップ (ベスト16)
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ (グループリーグ敗退)
- 2004年 AFCアジアカップ (優勝)
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ (グループリーグ敗退)
- 2006年 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
試合数
- 国際Aマッチ 71試合 3得点 (2000-2006)[15]
テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |2000||2||0 |- |2001||3||0 |- |2002||11||0 |- |2003||10||0 |- |2004||19||2 |- |2005||15||1 |- |2006||11||0 |- !通算 |71||3 |} 注:2002年5月7日、国際親善試合として、レアル・マドリード対日本代表戦が行なわれた。したがって、日本代表としての出場試合数は72となる。
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2004年2月7日 | 日本、鹿嶋 | テンプレート:MASf | ○ 4-0 | キリンチャレンジカップ2004 |
2. | 2004年9月8日 | インド、コルカタ | テンプレート:INDf | ○ 4-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
3. | 2005年2月2日 | 日本、埼玉 | テンプレート:SYRf | ○ 3-0 | キリンチャレンジカップ2005 |
タイトル
クラブ
ガンバ大阪ユース
- Jユースカップ:1回 (1994年)
ガンバ大阪
- Jリーグ ディビジョン1:1回 (2005年)
ザルツブルク
- オーストリア・ブンデスリーガ:1回 (2007年)
個人
- AFCアジアカップ ベストイレブン:1回 (2004年)
関連情報
出演
CM
- 明治乳業 明治アイス「明治エッセル スーパーカップ」 - 小島宏美・中澤佑二との共演
- WOWOW 「EURO 2000」 (2000年) - 吉原宏太との共演
- adidas
- サッカー狂症候群 DF 篇 (2002年) - 30秒バージョンは松田直樹との共演
- 「adi-NEO」 (2006年)
- 「adi-WARM」
- 日本赤十字社 平成15年献血キャンペーン (2003年)
- ECC 「ECCジュニア」 (2003年) - 秋田豊との共演
- ノーベル製菓 「はちみつきんかんのど飴」 (2005年 - 2006年)
- からぶり 篇
- しっぱい 篇
- Panasonic 「Strada」 (2005年 - 2006年)
- ナムコ 「Love FOOTBALL」 (2006年)
- 花王 「メンズビオレ」 (2006年)
- 講談社 (2006年)
- 「講談社文庫」 (2006年)
- 「講談社文庫の100冊『感動をくれた一冊』」 (2006年)
- レッドブル 「エナジードリンク」 (2007年)
- パイロン 篇
- トレーニング・バッグ 篇
- ソロ・トレーニング 篇
- 宮本恒靖&三都主 篇 - 三都主アレサンドロとの共演
脚注
関連項目
外部リンク
- テンプレート:FIFA playerテンプレート:En icon
- 「宮本恒靖公式サイト」
- 「MIYAMOTO FUTSAL PARK」 - 宮本プロデュースによるフットサル施設
- 「宮本恒靖オフィシャル」 - 公式モバイルサイト
- from FIFAマスター(宮本恒靖) - 日経新聞電子版連載コラム
- ↑ 1.0 1.1 Jones: FIFA Master graduates fundamental for success-FIFA公式HP2013年7月19日
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 偉大なキャプテン宮本恒靖の軌跡part.2クラブ編『サッカーマガジン』2012年1月10.17日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23883-1/10.17, 014-015頁。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 偉大なキャプテン宮本恒靖の軌跡part.1代表編『サッカーマガジン』2012年1月10.17日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23883-1/10.17, 012-013頁。
- ↑ ウェストハムは2011-12から同国2部であるフットボールリーグに降格。
- ↑ 2001年と2002年はジェフユナイテッド市原から移籍してきた山口智が背番号5(市原時代と同番号)となった。2003年に宮本に背番号5を譲って自らは6番になり、宮本退団後の2007年はシジクレイが付けていた背番号5に2008年から再び戻った(2011年にガンバを退団し、ジェフユナイテッド市原・千葉へ復帰)。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Wayback - 日刊スポーツ(2006年12月17日)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 9.0 9.1 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web - 日刊スポーツ(2009年1月16日)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ DF宮本恒靖選手、今シーズン限りで現役引退のお知らせ - ヴィッセル神戸(2011年12月19日)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 宮本引退「役割は多くないと思った」欧州で指導者資格の取得目指す - スポーツニッポン 2011年12月19日閲覧
- ↑ 15.0 15.1 15.2 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「daihyo
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 16.0 16.1 テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Wayback - 日刊スポーツ(2002年6月16日)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ Former Japan captain Miyamoto takes up FIFA Master duties - FIFA公式サイト(2012年9月18日)
- ↑ 宮本恒靖氏がFIFAの大学院“FIFAマスター”に入学「日本サッカーに価値ある貢献を」 - サッカーキング(2012年9月19日)
- ↑ 元日本代表DF宮本氏がFIFA大学院へ入学決定…日本人の元プロ選手としては初 - サッカーキング(2012年4月17日)
- ↑ 価値観、覆されるか サッカーを外から学ぶ-from FIFAマスター(宮本恒靖コラム)-日経新聞2012年9月10日
- ↑ 日本最古のサッカー雑誌に何が……「サッカーマガジン」宮本恒靖編集長に広がる波紋(日刊サイゾー2013年10月7日 同10月30日閲覧)
- ↑ 日本協会は複雑な思い? 新・サッカーマガジン編集長に宮本恒靖氏(夕刊フジ2013年10月2日 同10月30日閲覧)
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 日本人初!宮本氏、TSG「世界の10人」入り SANSPO.com2014年4月5日
- ↑ FDC | 2007年度 イエローリボン賞(ベスト・ファーザーin関西):宮本 恒明
- ↑ テンプレート:Cite web そのほか『週刊少年マガジン』32号・33号(2008年)掲載の『宮本恒靖 「Fire & Ice」』にも登場している
- ↑ テンプレート:Cite web