三都主アレサンドロ

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テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:サッカー選手 三都主 アレサンドロ(さんとす アレサンドロ、SANTOS Alessandro, 1977年7月20日[1] - )は、ブラジル出身のサッカー選手[2]。元日本代表でキャップ数82[2]は歴代6位。愛称はアレックスJリーグFC岐阜所属[2]

パラナ州[2]マリンガ生まれ。明徳義塾高等学校出身[2]2001年11月12日、日本国に帰化[1]現在はブラジルと二重国籍[2]。帰化以前の登録名アレックスAlex)。利き足は左。

ポジションは左ウィングバック攻撃的MFとしての出場のほか、清水在籍時にはフォワード、名古屋加入以後はセンターハーフ、日本代表では左サイドバックでも出場した。

来歴

1993年、ブラジルにスカウトに来ていた当時の明徳義塾サッカー部監督の北村保夫の目に留まり、日本に誘われる[2]。「日本でプロも目指せる」との言葉に心を動かされ、1994年、16歳の時に高知の明徳義塾高校にサッカー留学で訪日。高校時代は県予選突破が出来ず全国大会に出場できなかったため、ほとんど無名であった。高校時代はアレサンと呼ばれていた。

明徳義塾高校卒業後、監督が清水エスパルスのスカウトと知り合いだったこともあり、清水の練習に練習生として参加し、契約を勝ち取る。1997年に正式入団[2]、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。

当初、清水ではスーパーサブ的な役割での出場が多かったが、1998年以降は左サイドでのスタメンでの出場機会が増えた。1999年にはスタメンとして左サイドのポジションを不動のものとし大ブレイク。同年2ndステージ優勝(年間勝点では1位)に大きく貢献、史上最年少の22歳でJリーグMVPを獲得した。また、1999-2000年アジアカップウイナーズカップ、2001年天皇杯優勝にも貢献した。

ちょうどその頃から、周囲から日本への帰化の話が持ち上がるようになっていた。かなりの期間日本で暮らして日本での生活にも慣れ、日本人の恋人もおり、日本代表にも魅力を感じていた。悩んだアレックスは、以前に同じく清水に所属し、同様にサッカー留学から日本のサッカークラブに入団した三渡洲アデミールに相談。その三渡洲から「帰化するならその国に骨をうずめても良いというくらいの気持ちで帰化すべきで、代表に入りたいという理由だけで帰化するならやめた方がいい」とアドバイスされ、熟考の末に帰化申請を決意する。

2001年11月12日、帰化申請が認められ[1]、日本名「三都主アレサンドロ」を届け出ている。「三都主」は、自身にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の三つの都市を意味している[3]。 ただし、以前から呼ばれていた『アレックス』という通称に特別の思い入れを持っていたため、これからもアレックスと呼んで欲しいと言っていた。

2002年日韓W杯に日本代表として選出される[2]。切り札として期待されていたが、出場機会は少なかった。それでも、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦では、クロスバー直撃のFKを放った。大会後には、プレミアリーグチャールトンへ移籍金4億5000万円の5年契約で入団合意が伝えられたが[4]、労働許可証を取得できなかったため白紙となった[5]

2003年12月に結婚(2005年9月第1子(長男)誕生)。清水エスパルスから浦和レッドダイヤモンズに移籍する。移籍金は当時国内最高額となる3億5000万だった[6]。浦和での応援歌の原曲はポパイのテーマ。

2002年W杯後に就任したジーコからも招集され続けたが、当初は中村俊輔ら攻撃的MFの控えであった。しかし、2003年6月に日本代表がアルゼンチンに0-4の大敗を喫し、それまで左サイドバックだった服部年宏がレギュラー落ちした為、後任の左サイドバックに抜擢。日本代表でもレギュラーとなり、3バック採用時は左サイドハーフとして、2006年W杯の最終戦まで約3年間スタメン出場を続けた。しかし、4バックの慣れない守備に追われ、サイドバックとしては難がある守備力を露呈することもあった。一方で、後に日本代表監督を務めるイビチャ・オシム(当時ジェフ千葉監督)が「(ドイツ)W杯のクロアチア、オーストラリア戦を見たがアレックスが一番いいDFだったのではないか? 左利きは数少ない上にアレックスより優れた選手は何人いるでしょうか」と語るなど攻撃面は評価された[7]。2006年W杯後のオシムジャパンでは、DFではなく本来の左アウトサイドのMFとして起用され、攻撃に比重を置いたプレーが許されたこともあり、オシムジャパンのゴール第1号・第2号を記録し、アシストも多く記録した。しかし、監督が岡田武史に代わると代表に呼ばれなくなり、3回目のワールドカップ出場はならなかった。

2007年1月30日から1年間、浦和からオーストリア・ブンデスリーガに所属するレッドブル・ザルツブルクへ期限付き移籍し、同リーグでの優勝を経験。

2008年1月27日、浦和へ復帰するも、Jリーグ開幕前の練習試合で左足付け根に全治3ヶ月の怪我を負う。第14節の戦にて復帰するが、出場僅か15分で怪我を再発。全治6ヶ月の重傷と診断を受け、同年の公式戦出場はこの1試合のみとなった。

2009年、浦和の新監督としてフォルカー・フィンケが就任。三都主は負傷の回復が遅れた上に、フィンケの若手選手重用により出場機会が激減した。このため出場機会を求めて移籍を志願し、同年8月にドラガン・ストイコビッチ監督のラブコールを受け名古屋グランパスへと完全移籍した。決して試合出場数は多くはなかったが、決定的なアシストで2010年の優勝にも貢献。2012年シーズンを以って契約満了となり、クラブを退団した。

2013年、J2の栃木SCに完全移籍[8]。シーズン終了をもって栃木との契約が満了した[9]

2014年、J2のFC岐阜に完全移籍[10]

人物

清水時代、ゴールを決めた後、テツandトモの「なんでだろ〜」のパフォーマンスをサポーターに披露。顔がアメリカ合衆国大統領のバラク・オバマに似ていると評される。三都主自身も自覚しているようで、小学校訪問などでは「こんにちは、オバマです」と挨拶することがある。

帰化後もJリーグでの登録名は「アレックス」とし、2002年W杯での登録名も「アレックス(ALEX)」とするよう申請し、FIFA国際サッカー連盟)も承認する。本人も「三都主でもアレックスでもどちらでもいい」と語る。チームメイトは「アレックス」や「アレ」と呼び、浦和やレッドブル・ザルツブルクの選手紹介の時には「アレックス」と紹介される。

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1997||rowspan="7"|清水||23||rowspan="2"|J||27||3||2||1||3||0||32||4 |- |1998||17||26||10||5||0||5||2||36||12 |- |1999||rowspan="5"|8||rowspan="8"|J1||30||11||4||0||1||0||35||11 |- |2000||30||4||5||0||5||4||40||8 |- |2001||30||12||2||1||5||1||37||14 |- |2002||29||9||2||2||3||0||34||11 |- |2003||26||7||4||0||4||0||34||7 |- |2004||rowspan="3"|浦和||16||27||2||1||0||2||1||30||3 |- |2005||rowspan="2"|8||32||4||5||0||5||0||42||4 |- |2006||34||5||0||0||1||0||35||5 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2006-07||rowspan="2"|ザルツブルク||rowspan="2"|8||rowspan="2"|ブンデス||9||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||9||0 |- |2007-08||11||1||colspan="2"|-||colspan="2"|-||11||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2008||rowspan=2|浦和||rowspan=2|8||rowspan="6"|J1||1||0||0||0||0||0||1||0 |- |rowspan="2"|2009||6||0||4||0||colspan="2"|-||10||0 |- |rowspan=4|名古屋||rowspan=4|38||14||0||colspan="2"|-||6||1||20||1 |- |2010||25||0||1||0||3||1||29||1 |- |2011||11||0||1||0||5||0||17||0 |- |2012||5||0||0||0||2||0||7||0 |- |2013||栃木||44||rowspan=2|J2||25||2||colspan=2|-||2||0||27||2 |- |2014||岐阜||11||||||colspan=2|-|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始353||67||36||4||50||10||439||81 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行25||2||colspan=2|-||2||0||27||2 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行20||1||colspan="2"|-||colspan="2"|-||20||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終398||70||36||4||52||10||486||84 |} その他の公式戦

  • 1999年
  • 2001年
    • スーパーカップ 1試合1得点
  • 2002年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2004年
    • Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
  • 2006年
    • スーパーカップ 1試合0得点

テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2002-03||清水||8||5||3 |- |2009||rowspan=3|名古屋||rowspan=3|38||4||0 |- |2011||3||0 |- |2012||2||0 |- !通算!!colspan="2"|AFC |17||3 |}

その他の国際公式戦

チームタイトル

個人タイトル

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 82試合 7得点(2002-2006)[11]

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |2002||9||1 |- |2003||15||1 |- |2004||22||2 |- |2005||17||1 |- |2006||19||2 |- !通算 |82||7 |}

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2002年5月2日 日本神戸市 テンプレート:HONf △ 3-3 キリンカップサッカー2002
2. 2003年12月7日 日本、さいたま市 テンプレート:HKGf ○ 1-0 東アジアサッカー選手権2003
3. 2004年2月12日 日本、東京 テンプレート:IRQf ○ 2-0 親善試合
4. 2004年5月30日 イングランドマンチェスター テンプレート:ISLf ○ 3-2 親善試合
5. 2005年1月29日 日本、横浜市 テンプレート:KAZf ○ 4-0 キリンチャレンジカップ2005
6. 2006年8月9日 日本、東京 テンプレート:TRIf ○ 2-0 キリンチャレンジカップ2006
7.

CM出演

  • adidas「サッカー狂症候群(三都主アレサンドロ編)」(2002年)
  • サントリー「デカビタC」(2002年)
  • レッドブル「エナジードリンク」(2007年)『宮本恒靖&三都主篇』 - 宮本恒靖との共演

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

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テンプレート:FC岐阜のメンバー テンプレート:Navboxes テンプレート:Jリーグ年間最優秀選手

テンプレート:Jリーグベストイレブン (MF)
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  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「GLOBE」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. [1] スポーツ報知テンプレート:リンク切れ
  8. テンプレート:Cite web
  9. テンプレート:Cite web
  10. テンプレート:Cite web
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