コルカタ
テンプレート:Redirect テンプレート:Pathnav テンプレート:インド系文字 テンプレート:Infobox Indian Jurisdiction コルカタ(テンプレート:Lang-en)はインドの西ベンガル州の州都。世界屈指のメガシティ。
2011年の市域人口は448万人。2011年の近郊を含む都市圏人口は1,411万人であり、世界第13位、インドではデリーとムンバイに次ぐ第3位である[1]。
目次
概要
かつては英語圏では英語化された音でカルカッタ (Calcutta) と呼ばれた。元の名前はカリカタで古い文献にもそのように記されている。コルカタと言う呼称は現地の言葉であるベンガル語での呼称で、カルカッタにあたる発音とは無縁であった。2001年には正式にコルカタに変えられたが、世界では英語綴りがまだ使われている。コルカタには「喜びの都市」と「宮殿都市」というよく知られた愛称がある。また時々"Michhil Nagari"(মিছিল নগরী, 行列都市)と呼ばれる。 ガンジス川の支流であるテンプレート:仮リンクの東岸に位置する。西岸のハウラーをはじめとする74の衛星都市を持ち、コルカタから北35㎞、南30㎞にまたがるコルカタ大都市圏を形成している。
コルカタの町はフーグリ川の自然堤防上に位置し、西をフーグリ川、東を湿地帯に囲まれている。これはほかの衛星都市も全く同じ条件であり、結果として都市圏の範囲はコルカタ中心部で開発により近年幅が広がっているほかは川から東西それぞれ2㎞程度にしか過ぎない。そのため、都市圏は自然堤防の続く南北へと伸びていき、南北65㎞、東西2㎞にわたって細長く広がることとなった[2]。
起源と歴史
イギリス東インド会社の商館
コルカタの歴史は、1690年にイギリス東インド会社のジョブ・チャーノックがこの地に商館を開設したことにはじまる。1698年にはフーグリー川東岸に並ぶスターナティー、カーリカタ、ゴーヴィンドプルの三村の徴税権が購入され、まもなくウィリアム要塞の建設が始められた。この地域がのちのコルカタのもととなった。町の周りにはマラーター濠と呼ばれる広い堀がめぐらされていた。1756年、ムガル帝国のベンガル太守シラージュ・ウッダウラは、イギリスがウィリアム要塞の強化を図ったことを理由としてコルカタを占領し、捕虜となった100人以上のイギリス人を獄死させた。1757年になるとマドラスの東インド会社軍がコルカタに到着し、コルカタを奪回したうえでフランスの拠点だったシャンデルナゴルも占領した。その後、コルカタの北150キロ程度に位置するプラッシーでもフランス支援下のシラージュ・ウッダウラ軍を撃破(プラッシーの戦い)して、コルカタだけでなくベンガル地方の徴税権を確保していった。
イギリス支配の中心都市
ベンガルの徴税権が東インド会社のものとなると、ベンガル地方はイギリスによるインド植民地化の拠点となり、コルカタはその政治的中心となった。1756年に落城した経験から、ウィリアム要塞はそれまでのダルハウジー広場の西側から南の現在地へと拡張移転され、1758年から15年の年月をかけて完成した。見通しをよくするために周囲には広大なオープンスペースが設けられた。これが現在のモイダン公園となった。東インド会社の支配権がインド全域へと拡大していくに伴い、コルカタは全インドの政治の中枢機能を持つようになった。この時期のコルカタは、北の旧スターナティー村を領域とするインド人街(ブラック・タウン)と、南の旧カーリカタ村および旧ゴーヴィンドプル村を領域とするイギリス人街(ホワイト・タウン)とに大きく2分されていた。1820年代にはイギリスとインドを結ぶ定期蒸気船航路の開設をめぐってボンベイと激しく争ったものの、喜望峰回りを推したカルカッタ財界は時間的・経済的に大きく上回るスエズ地峡ルートを推したボンベイ財界に敗れ、以後ヨーロッパとインドの窓口はボンベイが中心となり、カルカッタはブリティッシュ・インディア汽船会社が運航するインド沿岸航路などの拠点となっていった[3]。
1857年にはカルカッタ大学が設立され、同年西のダモダル炭田とハウラー駅の間にカルカッタ初の鉄道が開通した[4]。この年は西のデリー周辺でインド大反乱が勃発していた時期にあたるが、カルカッタは平静を保っていた。しかしこの大反乱の結果、イギリス東インド会社のインド統治権は取り上げられ、1858年に東インド会社の統治区域はイギリス直轄植民地となった。植民地のトップは副王(インド総督)であり、カルカッタには総督が居住しインド植民地の首都となり、1877年にイギリス領インド帝国が成立するとカルカッタは引き続きその都となった。インドの行政中心となったカルカッタにおいては、居住する大地主や下級官僚などの知識階級が成長し、彼らを担い手としてベンガル文化復興の流れが生まれ、ベンガル・ルネッサンスとも称される文化の黄金期を迎えた。この流れの中で、アジア初のノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールなど多くの文化人をカルカッタは輩出した。また、ジュートや綿花の輸出が盛んとなり、これらの集散地となったカルカッタは経済的にも繁栄した。また、綿花やジュートをもとにした繊維工業もこのころから盛んとなった。1910年代に入ると、ビハール州やオリッサ州で鉄鉱山などの金属資源が発見され、これをもとに市の南部などにおいて金属・機械工業も立地するようになった[5]。
しかし、こうした文化の興隆はやがて民族運動と結びつき、反英運動が盛んとなっていった。この動きを牽制するために1905年にはベンガル分割令が発布されベンガルはイスラム教徒とヒンドゥー教徒の地域に大まかに分割されることとなったが、この法令は強い反発を巻き起こし、1906年にはインド国民会議コルカタ大会で反英姿勢はさらに強まった。この動きを見たイギリス政府は分割令を撤回したものの、反英運動の強いカルカッタを嫌って、1911年に都はデリーへと移された。しかし、その後もカルカッタは反英運動の一中心であり続け、日本に亡命したスバス・チャンドラ・ボースやラース・ビハーリー・ボースなど、ガーンディーとは異なる武装闘争を標榜する独立運動家を多数輩出した。BOSEの創始者であるアマー・G・ボーズの父であるノニ・ゴパル・ボースも当地から亡命した独立運動家である。第二次大戦中は、1942年から1944年にかけて市街と港が日本軍によって数回爆撃された[6] [7]
インド独立後
第二次世界大戦後、インド独立は現実のものとなるが、インド独立に果たした役割の大きさにもかかわらず、独立はコルカタにとって大きな苦難をもたらした。コルカタの属するベンガル地方は、分離独立を巡って激しい対立が起こった。1946年8月16日、イスラム教徒の指導者であるムハンマド・アリー・ジンナーは「直接行動の日」を呼びかけ、ヒンドゥー教徒に対する示威を行おうとしたが、参加した民衆は暴徒化し、カルカッタでは両教徒の武力衝突が起きて数千人が死傷した。この事件はカルカッタ虐殺とも呼ばれる。この事件ののち、カルカッタで共存していた両教徒は明確な住み分けを行うようになった[8]。1947年にインドが独立すると、その後は西ベンガル州の州都になった。この分離独立の際、イスラム教徒の多い東パキスタンからヒンドゥー教徒の難民が多数カルカッタへと流れ込み、600万人ともいわれるベンガル難民の多くがカルカッタ郊外や空地へと定住した[9]。また、分離独立によって大きな後背地であり原料供給地でも市場でもあった東パキスタンが失われ、経済的に大きな打撃を受けた。さらに原料供給地から切り離された工業施設は老朽化が進み、難民の増大や社会不安の増加、多発するストライキを嫌った企業がカルカッタからボンベイなど他都市へと移転し、さらに経済の地盤沈下が加速した。それにフーグリー川のシルトの堆積によるカルカッタ港の機能低下も加わり、1980年代には都市圏の規模においてもボンベイに抜かれ、さらに2000年代に入るとデリーにも抜かれることとなった。
気候
コルカタはサバナ気候に属し、乾季と雨季が明瞭に分かれる。乾季はさらに冬と呼ばれる冷涼な乾季と、暑季と呼ばれる暑く乾いた季節とに分かれ、コルカタの季節は乾季・暑季・雨季の3つの季節に分かれている。10月から3月上旬までは乾季であり、最も気温が低くなる。冬とも呼ばれるが、冬といってももっとも寒い12月及び1月の平均気温は20℃であり、北のデリーのように氷点下を記録したようなこともなく、非常に過ごしやすい気候となり、観光のベストシーズンとなっている[10]。3月下旬から5月までは暑季であり、4月から6月までの平均気温は30℃を超える。6月から9月にかけては雨季であり、ベンガル湾方面よりやってくるモンスーンによって大量の降雨がある。コルカタの降雨のほとんどはこの4か月間にもたらされる。気温は暑季に比べてもほとんど下がらず、湿度が上昇する。コルカタの最高気温記録は43.3℃、最低気温記録は8.1℃である。年間平均雨量は1800mmである。
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地理
コルカタの中心は、テンプレート:仮リンクに近いダルハウジー広場であり、この付近にはオフィス街が広がっている。その少し南にはコルカタ発祥の地であるウィリアム要塞を中心として広大な中央公園であるモイダン公園が広がっている。モイダン公園の南にはパークストリートがのび、道路を越えた南側は19世紀以来の高級住宅街となっている。インド国立図書館もこの地域にある。モイダン公園の東端を南北に走っているのがチョウロンギ通りで、この通り沿いには商店街が広がり、コルカタのメインストリートとなっている。チョウロンギ通り沿いには、1814年に設立されたインド最古の博物館であるインド博物館がある。インド博物館の北隣を東西に延びているのが安宿街として有名なサダル・ストリートであり、世界各国から多くのバックパッカーが集まっている。チョウロンギ通りをさらに南に進むと、コルカタ成立以前からの古いカーリー寺院があり、現在でも寺院のあるカリガート地区は門前町となっている。ダルハウジー広場の少し北にはフーグリー川にかかるハウラー橋があり、東岸のコルカタと西岸のハウラーを結んでいる。ハウラーにはコルカタの中央駅であるハウラー駅がある。また、北カルカッタにはカルカッタ大学やタゴールの生家であるタゴール・ハウスがある。かつてのマラーター濠は埋め立てられて環状道路となっている。この環状道路の内側が最も古いコルカタである。コルカタの南北には衛星都市が列をなして続いているが、東西の湿地帯においても近年埋め立てが進み、住宅地域化が進んでいる。東部にはもう一つの鉄道ターミナルであり、北のダージリン方面の列車が発着するシアルダー駅がある。 テンプレート:Clearleft
経済
英領インドの首都だった時代にはインド最大の産業都市であり、繊維工業、金属工業、機械工業を中心とした大きな工業地帯を擁していたが、その後は相対的に地位を下げていった。さらにインド・パキスタン分離独立時に重要な後背地であった東パキスタン地区を失い[11]、その市場をダッカへと譲り渡したことで少なくない経済的打撃を受けた。1970年代にはボンベイにインドの経済の中心の地位を譲ったが、現在でも東部インドの経済の中心地であり、インドで2番目に大きな証券取引所であるカルカッタ証券取引所を持ち、また大企業の本社も多くおかれている。
コルカタ港はインド有数の港であるが、感潮河川のフーグリ川の河港であり、ガンジス河口からは150㎞ほどさかのぼらねばならない。ガンジス川の河道はシルトの堆積によって徐々に東へと移動する傾向にあり、ガンジス支流で最も東に位置するフーグリ川はかつては本流だったものの現在では支流の一つに過ぎず、シルトの堆積も著しい。このためコルカタ港は水深10m程度と浅く、大型船の入港はできない。特に乾季には水量が減少し、運行に支障がある。この状況を改善するために河口近くにあらたにハルディア港が建設されたが、ハルディアも水深が深いとは言えず、インド東部の港湾需要を十分に満たしているとは言えない。フーグリ川の水量を増加させることで堆積したシルトを押し流し、あわせて乾季の水量を増加させて水深を確保し、コルカタの港湾機能を少しでも改善させるために、1971年、ガンジス川本流のファラッカにファラッカ・ダムを建設した。しかしこれはバングラデシュとの国境からわずか18㎞上流にすぎず、乾季の貴重な水量の大部分が奪われ農耕に悪影響が現れるとしてバングラデシュ政府が猛反発し、水利権の紛争が勃発した[12]。この状況を改善するため、1997年にはファラッカ協定が結ばれて以後30年間の水配分が決定された[13]。
住民
調査 | 総計 | %± |
---|---|---|
1981年 | 9,194,000 | — |
1991年 | 11,021,900 | 19.9% |
2001年 | 13,114,700 | 19.0% |
2011年 | 14,112,536 | 7.6% |
ソース・インド国勢調査[14] |
コルカタの市民はカルカッタンまたはコルカタンと呼ばれる.[15][16]。2011年の国勢調査では、コルカタ地区には185km2に4,486,679人の住民が暮らしていた[17]。人口密度は24,252/㎞2だった。この数字は、2001年から2011年の10年の間に1.88%の減少を示した。性比は男性1000人に対し女性は899人であり、全国平均に比べ女性の比率が低い[18]。この男女比率は、主にビハール州、ウッタル・プラデーシュ州、オリッサ州といった近隣諸州や西ベンガル州の周辺農村地域からの男性の流入によってもたらされている。これらの労働者は故郷に妻子を残して働きに出てきているからである[19]。コルカタの識字率は87.14%であり、インド全国平均の74%を大きく上回っている[20]。コルカタ市を中心とするコルカタ大都市圏の人口は2011年に14,112,536人だった.[14]。
コルカタの人口の大半はベンガル人である。マイノリティの中でも、とくにビハール人とマルワリー(ラージャスターン系)は大規模なコミュニティを形成している.[21]。ほかの小さなコミュニティとしては、中国人、タミル人、ネパール人、オリッサ人、テルグ人、アッサム人、グジャラート人、アングロ・インディアン、アルメニア人、ギリシア人、チベット人、マハーラーシュトラ人、コンカニ人、ケララ人、パンジャブ人、およびパールシーなどがある。アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人、および外国起源の他のグループの人口は20世紀を通じて減り続けた。ユダヤ人の場合は1948年のイスラエル建国後にその傾向が特に顕著となった[22]。インド唯一のチャイナタウンは、東コルカタにある。中国人は最盛期には20,000人いたものの、2009年には10分の1の2,000人にまで減少していた。これは1962年の中印国境紛争によって両国間の関係が悪化し、インド市民権の拒否などによっての強制送還やより良い経済状況を求めての海外移民などが増加したことによる[23]。中国人はそれまでは製革業界や中華料理のレストランなどで生計をたてていた[24]。
ベンガル語は西ベンガル州の公用語であり、コルカタでもっとも使われる支配的な言語である[25]。英語は特にホワイトカラーの労働者によって話されている。ヒンディー語やウルドゥー語も少数派だがかなり多くの人々によって話されている.[26][27]。2001年の国勢調査によると、人口の77.68%がヒンドゥー教徒であり、20.27%がイスラム教徒、0.88%がキリスト教、0.46%がジャイナ教だった[28]。残りの少数派には、シク教徒や仏教徒、その他の諸宗教が含まれている[28]。人口の0.19%は調査において宗教を明かさなかった[28]。
交通
鉄道やバスなどでインド国内の他の都市と結ばれている他、近年は格安航空会社の航空便の使用が増えている。
国際空港としてネタジ・スバス・チャンドラ・ボース国際空港(旧名ダムダム空港)があり、各国からの国際線やインド国内線はこの空港を使用する。日本からの直行便はないため、成田国際空港・関西国際空港などからニューデリーかムンバイ、もしくはバンコク・シンガポール・クアラルンプール等の各国際空港で乗り継いでコルカタに入ることとなる。
長距離鉄道及び近郊鉄道のターミナルは、テンプレート:仮リンクをハウラー橋で渡った右岸側のハウラー市側にテンプレート:仮リンクが、また、左岸のコルカタ市街東南にテンプレート:仮リンクが2大ターミナルである。2006年にはコルカタ都市圏3番目のターミナルとして、ハウラー橋左岸北部のChitpur地区にテンプレート:仮リンクが開業した。
市内交通ではインドでは唯一のトラム(路面電車: CTC)が走っている。また、地下鉄 (Metro) もある。
バングラデシュの首都・ダッカとの間は、Kolkata (Chitpur) 駅発Dhaka (Cantonment) 駅行国際列車(テンプレート:仮リンク: 友情急行)[29]や公営のテンプレート:仮リンク (WBSTC) ・テンプレート:仮リンク (BRTC) 相互乗り入れによる国際間バスサービス、更に空路により結ばれている。国際間バスに関しては、民営バスも運行を競っている。
コルカタの市内交通としてはほかに、他のインド都市にもあるオートリクシャーやタクシー、バスなどもある。また、コルカタには現在インドで唯一の人力車(リクシャー)が残っているが、1997年に新規ライセンスの発給が停止されたため、やがて消滅する流れにある。
文化
19世紀には黄金のベンガルと呼ばれた豊かさを背景に、ラビンドラナート・タゴールなどの大詩人を多く輩出した。マザー・テレサが1948年から1997年まで活動を行ったのもコルカタである。また、アジア初のノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センもコルカタ大学を卒業している。ベンガルでは古くから演劇が盛んであったが、ここにイギリス人がシェークスピアなどのヨーロッパ演劇を持ち込み、さらにそれに刺激を受けて独自の演劇が発展を遂げて、19世紀末以降コルカタはインド演劇の中心都市となった。また、コルカタ出身のサタジット・レイは大映画監督として名をはせた。
コルカタには1857年創立のコルカタ大学をはじめ多くの大学がある。
スポーツ
コルカタで特に盛んなスポーツはクリケットとサッカーである。サッカーでは2013年現在、Iリーグ1部にイースト・ベンガルFC、モフン・バガンAC、パリアン・アローズ、プラヤーグ・ユナイテッドSCの4チームがコルカタに本拠を置いている。この4チームはともに、コルカタ東部の湿地埋立地であるソルトレイク地区にあるソルトレイク・スタジアム(観客収容数120000人)を本拠としている。とくにイースト・ベンガルFCとモフン・バガンACは2大名門チームであり、ダービーマッチであるコルカタダービーにおける両チームの対決は多くの観客を集める。
姉妹都市
- テンプレート:Flagicon ピッツバーグ、アメリカ合衆国
- テンプレート:Flagicon ロングビーチ、アメリカ合衆国
- テンプレート:Flagicon ダラス、アメリカ合衆国
- テンプレート:Flagicon ジャージーシティ、アメリカ合衆国
- テンプレート:Flagicon オデッサ、ウクライナ
- テンプレート:Flagicon ナポリ、イタリア
- テンプレート:Flagicon テッサロニキ、ギリシャ
- テンプレート:Flagicon 仁川広域市、大韓民国
- テンプレート:Flagicon ダッカ、バングラデシュ
- テンプレート:Flagicon マカオ、特別行政区
- テンプレート:Flagicon 昆明市、中国
出身著名人
脚注
関連項目
- 3C政策
- スバス・チャンドラ・ボース
- ソナガチ
- サダルストリート
- トクホン - カルカッタからコルカタへの改名の際、「こる肩」という単語とコルカタを掛け合わせたものをネタにしたテレビCMを放映したことがある。
- ↑ Demographia: World Urban Areas & Population Projections
- ↑ 「南アジアの国土と経済 第1巻 インド」p186 B.L.C.ジョンソン著 山中一郎・松本絹代・佐藤宏・押川文子共訳 二宮書店 昭和61年4月1日第1刷
- ↑ 横井勝彦著 『アジアの海の大英帝国』 講談社 p52-66 ISBN 978-4061596412
- ↑ 「世界の大都市(下)」p76 高野史男編 大明堂 昭和54年6月22日発行
- ↑ 辛島昇・前田専学・江島惠教ら監修『南アジアを知る事典』p166 平凡社、1992.10、ISBN 4-582-12634-0
- ↑ Randhawa, K. (15 September 2005). "The bombing of Calcutta by the Japanese". BBC. Retrieved 26 April 2006.
- ↑ Jump up ^ "Pacific War timeline: New Zealanders in the Pacific War". New Zealand Ministry for Culture and Heritage. Retrieved 13 October 2008.
- ↑ 「世界歴史の旅 北インド」p103 1999年7月25日1版1刷発行 辛島昇・坂田貞二編 山川出版社
- ↑ 「都市の顔・インドの旅」p7 坂田貞二・内藤雅雄・臼田雅之・高橋孝信編 春秋社 1991年10月30日第1刷
- ↑ 「世界の大都市(下)」p74 高野史男編 大明堂 昭和54年6月22日発行
- ↑ 「南アジアの国土と経済 第2巻 バングラデシュ」p3 B.L.C.ジョンソン著 山中一郎・松本絹代・佐藤宏・押川文子共訳 二宮書店 昭和61年10月15日第1刷
- ↑ 「南アジアの国土と経済 第1巻 インド」p76 B.L.C.ジョンソン著 山中一郎・松本絹代・佐藤宏・押川文子共訳 二宮書店 昭和61年4月1日第1刷
- ↑ 「ヒマラヤ世界」p248 向一陽 中公新書 2009年10月25日発行
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