大黒将志
テンプレート:サッカー選手 大黒 将志(おおぐろ まさし、1980年5月4日 - )は、大阪府豊中市出身のサッカー選手。京都サンガF.C.所属。ポジションはフォワード(FW)。元日本代表。
目次
来歴
ユース時代
5歳の時に[1]兄の影響で[2]サッカーを始める。小学1年次より豊中SSに所属し、3年次からは元日本代表FWの釜本邦茂が代表を務めていた釜本FC(ガンバ大阪ジュニアの前身)でもプレー。4年次からは、釜本FCより移管されたガンバ大阪ジュニアでのみプレー。
中学校入学と同時にガンバ大阪ジュニアユースに昇格。セレクションが無かったため100人以上の中学生を抱える大所帯になっていたが、Aチーム(1軍)入りを続け[1]、大阪府立少路高等学校進学と同時にガンバ大阪ユースへと昇格した生粋の生え抜き選手である。ユースチーム所属時にはFWとMFでプレー[2]。高校3年次にFWとして定着し、ユース同期である二川孝広[2]とともにクラブユース選手権を制した。その後に開催された高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会では決勝戦で藤枝東高校との激戦に敗れ、準優勝となった。
Jリーグ
1999年からガンバ大阪トップチームに昇格。同年3月、市原戦でJリーグ初出場[3]。2000年3月のV川崎戦でJリーグ初得点[3]。FWの選手層が厚かったことからMF(ウイングバックなど)で起用されることもあった[2]。
2001年、試合出場経験を積むために自ら志願して[2]コンサドーレ札幌にレンタル移籍。ポジションを奪うことは出来なかったものの、岡田武史監督の下で練習に取り組む姿勢を改め[2]、手応えを掴む1年となった[4]。
2002年、G大阪に復帰。復帰当初は中盤の攻撃的なポジションで起用されていたが、ユース時代からの本来のポジションであるFWでサッカー選手として最後の勝負をさせてほしいと西野朗監督に直訴しFWとして復活。2004年に才能が開花し、Jリーグ得点ランク2位、日本人選手最多となる20得点[3]テンプレート:Refnestを挙げ、同年のJリーグベストイレブンに選出された[3]。
Jリーグでの活躍が認められ、2005年には得点力不足と嘆かれていたジーコ監督率いる日本代表に初選出。代表として2戦目となった2月9日のアジア最終予選・対北朝鮮戦で後半残り10分から途中出場し、後半ロスタイムに値千金の[5]決勝点を挙げた[3]。この試合のテレビ中継の瞬間最高視聴率が57.7%(関東地区)を記録したこともあり、その知名度が瞬く間に急上昇した。日本代表では2005年の1年間で最多となる5得点を挙げている。またこの年Jリーグではアラウージョ、フェルナンジーニョと組んでG大阪の攻撃の核としてフル回転。リーグ6位の16得点を上げ、G大阪のJリーグ初優勝に貢献した。
大黒天と名前が同じ文字であることから「大黒様」「大黒神」と呼ばれる事も多く、また、G大阪のホームタウン・吹田市にあるガンバ大阪オフィシャルショップ内にはその大黒天にあやかった「ガンバ大黒(だいこく)神社」が2005年3月23日に建立された。2006年に移籍となったが、北千里サティに大黒神社の大黒像が移籍後も残っている。
海外移籍
2006年1月には当時日本企業「インデックス」がオーナーであったフランスのクラブチーム「グルノーブル・フット38」(フランスリーグ2部所属)へ完全移籍。5試合のフル出場を含め19試合6得点(2005-06:17試合5得点、2006-07:2試合1得点)。同年5月、ワールドカップドイツ大会日本代表メンバーに選出、グループリーグ3試合に全て途中出場した[6]。しかし、出場時間は短く(オーストラリア戦1分、クロアチア戦5分、ブラジル戦24分)、得点は挙げられなかった。
同年8月、ヨーロッパの移籍期限間近である8月31日にセリエAのトリノFCへの移籍が決定。大黒自身の以前からの夢であったセリエAへの移籍が実現したが、練習試合で得点を重ねてアピールするも、公式戦ではFWでのプレー機会に恵まれなかったこともあって[7]無得点に終わり、イタリアでの挑戦は消化不良に終わった。なお、2006年当時のトリノFCの監督は、元日本代表監督のアルベルト・ザッケローニであった。
Jリーグ復帰後
2008年6月30日、東京ヴェルディに完全移籍で加入することが発表され日本復帰。退団したエースFWフッキの穴埋めを期待されたが、チームにフィットするのに時間を要したこともあり、チームは低迷し、J2に降格。翌2009年も東京Vに残留し、J2を舞台に21得点を挙げたが「(攻撃は)1人じゃ厳しい[8]」と孤軍奮闘は否めず、チームの親会社変更など雑音も多くJ1昇格はならなかった。
2010年、東京Vの経営難により移籍を余儀なくされたが[8][9][10]、東京Vとは2011年末までの契約を結んでおり[11][9][10]完全移籍では高額の移籍金が発生するため、レンタル移籍でJ2の横浜FCへ。2度のハットトリックを達成するなど[12]16試合で12得点を挙げ、前年に続きJ2では別格の実力を見せた。
ワールドカップ開催によるJリーグ中断期間中の同年6月に、J1・FC東京へレンタル移籍(保有権は東京Vのまま)[13]。FC東京ではチームの主力となり、同僚の羽生直剛は「エゴイスティックなタイプかと思ったが、周囲を活かしてくれるのでやりやすい」とNHKのサッカー中継のインタビューでコメントしている。8月に開催されたスルガ銀行チャンピオンシップでは、対戦相手のLDUキトのエドガルド・バウサ監督に特に注意すべき選手として警戒されていたが[14]、試合終了間際に同点ゴールを決め、クラブのタイトル獲得に貢献した。しかし9月半ばの監督交代以後はフル出場の機会を一度も得られず[15]、翌年の戦力構想外となり[10]、移籍期間満了により退団[16]。
2011年、横浜F・マリノスに完全移籍。2005年以来となるJ1での二桁得点を達成した[17]。
2013年2月、札幌在籍時にも指導を受けた岡田が監督を務める中国サッカー・スーパーリーグの杭州緑城足球倶楽部へ期限付き移籍[18][19]。
2014年1月、横浜F・マリノスとの契約満了により杭州緑城足球倶楽部へ完全移籍[20]。同月、京都サンガF.C.への期限付き移籍が発表された[21]。
人物・エピソード
- ニックネームはオグリ。少年時代、俊足だったことから、当時活躍していた競走馬・オグリキャップにちなんで付けられた。
- 三人兄弟の次男で本人曰く「自分は、中黒ですわ」。父親はボクシング経験者で[2]記者によると話しかけるのも躊躇うような物凄い強面との話。
- ユース時代、自身のミスに反省の意味も込めて丸刈りにした所、あまりに強面の風貌へと変貌しチーム内に恐怖と恐慌をもたらす、これが原因となってコーチからも「坊主にしなくていい」と告げられる。
- テンプレート:Anchors2001年に出場機会を求めてコンサドーレ札幌に移籍したものの、当時の監督である岡田武史の構想から外れ、ほとんど出場機会は与えられなかった。しかし、代表でブレイクした際のインタビューで「札幌での経験が、自分のサッカー人生において良い肥やしになった」と語っており、岡田から「練習でゴールを決められない奴は、試合でもゴール出来ない」と言われ得心。「あの時岡田さんに言われたことが、今の自分に本当に役に立っている」とも述べた。
- 姉さん女房である夫人は、かつて「藤原みわ」という芸名でタレント活動(田辺エージェンシー所属)をしていた。大阪のラジオ番組ではFUJIWARAやつんく♂と共演歴がある。
- 「二人の愛する家族」はチワワのラオウと、クリリン。名前は大好きな漫画「北斗の拳[2]」と「ドラゴンボール」に登場するキャラクターのラオウとクリリンから付けた。
- 車好きとして知られている。サーキットでの走行会に参加するほどの車好きだが、日本代表選出以降はサーキット走行は自粛している。
- カードゲームの「UNO」好きで、2005年には日本ウノ協会から「UNO大使」に任命された[22]。
- 2005年12月26日放映のTBS系「関口宏の東京フレンドパークIISP」に日本代表選手の一員として出演する予定だったが、壁に向かってジャンプする人気コーナー「ウォールクラッシュ」のリハーサル中に右足をひねり、大事を取って出演を見合わせた[23]。
- 兄と弟もガンバ大阪ユースに所属する選手だった。弟の大黒聡[2]はサラリーマンを辞めてまでジェフ・クラブの入団テストを受けたが、合格には至らなかった。聡はその後、2007年に徳島ヴォルティス・アマチュアへ入団したが、1年で退団した。
- 2006ワールドカップ開催地・ドイツへ向けて出発する空港で頭髪に「銀メッシュ」を入れて登場。オフだった前日にMF稲本潤一行き付けの美容室で銀一色ではなく所々に銀色が光る、見る角度で色が変わる派手な色に染めあげられており周囲を驚かせた。
- セリエAへの移籍は、ドイツワールドカップで中田英寿にイタリア移籍を相談した所、中田の代理人を紹介されたのがきっかけとなった。
- 所属マネジメント事務所はサニーサイドアップ。
背番号について
- ガンバ大阪、日本代表、トリノFCで着用した背番号「16」は、自身がファンだった元野球選手の岡田彰布、掛布雅之が現役時代に着用した背番号であり、特別な思い入れを持っている。
- 背番号「9」を好み[24]、グルノーブルや東京ヴェルディ、横浜FC、横浜F・マリノスでは「9」を着用。横浜FCは、大黒を迎え入れるために既に内定していた背番号を変更して9番を空けた[25]。FC東京ではシーズン途中の加入だっため「9」(赤嶺真吾)「19」(大竹洋平)「29」(吉本一謙)が空いておらず[24]、「39」を選択した。
- 2011年に完全移籍した横浜FMでは、空き番号の中から「11」を選択[26]。その理由に「尊敬するカズさん(横浜FC)と同じ番号で、同じ横浜で自分も頑張ろうと思った[27]」と、三浦知良の存在を選択理由に挙げた。
- 2014年に移籍した京都では、ファンである掛布にあやかり「31」を選択[28]。
所属クラブ
- ユース経歴
- 1987年 - 1989年 豊中SS(豊中市立上野小学校)
- 1989年 - 1992年 釜本FC / ガンバ大阪ジュニア[注 1] (豊中市立上野小学校)
- 1993年 - 1995年 ガンバ大阪ジュニアユース(豊中市立第十一中学校)
- 1996年 - 1998年 ガンバ大阪ユース(大阪府立少路高等学校)
- プロ経歴
- 1999年 - 2005年 テンプレート:Flagicon ガンバ大阪
- 2001年 テンプレート:Flagicon コンサドーレ札幌 (期限付き移籍)
- 2006年1月 - 2006年8月 テンプレート:Flagicon グルノーブル・フット38
- 2006年9月 - 2008年6月 テンプレート:Flagicon トリノFC
- 2008年7月 - 2010年 テンプレート:Flagicon 東京ヴェルディ
- 2010年 - 同年6月 テンプレート:Flagicon 横浜FC (期限付き移籍)
- 2010年6月 - 12月 テンプレート:Flagicon FC東京 (期限付き移籍)
- 2011年 - 2013年 テンプレート:Flagicon 横浜F・マリノス
- 2013年2月 - 12月 テンプレート:Flagicon 杭州緑城足球倶楽部 (期限付き移籍)
- 2014年 - テンプレート:Flagicon 杭州緑城足球倶楽部
- 2014年 - テンプレート:Flagicon 京都サンガF.C. (期限付き移籍)
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1999||rowspan=2|G大阪||rowspan=2|29||rowspan=7|J1||11||0||2||0||0||0||13||0 |- |2000||7||1||2||0||1||0||10||1 |- |2001||札幌||17||4||0||2||0||0||0||6||0 |- |2002||rowspan=4|G大阪||rowspan=4|16||6||1||2||1||0||0||8||2 |- |2003||26||10||5||3||2||0||33||13 |- |2004||30||20||7||4||2||6||39||30 |- |2005||31||16||4||0||2||2||37||18 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2005-06||rowspan=2|テンプレート:Smaller||rowspan=2|9||rowspan=2|リーグ・ドゥ||17||5||0||0||0||0||17||5 |- |2006-07||2||1||1||0||0||0||3||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2006-07||rowspan=2|トリノ||rowspan=2|16||rowspan=2|セリエA||7||0||0||0||colspan="2"|-||7||0 |- |2007-08||3||0||1||0||colspan="2"|-||4||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2008||rowspan=2|東京V||36||J1||14||2||colspan="2"|-||0||0||14||2 |- |2009||rowspan=2|9||rowspan=2|J2||39||21||colspan="2"|-||0||0||39||21 |- |rowspan="2"|2010||横浜FC||16||12||colspan="2"|-||colspan="2"|-||16||12 |- ||FC東京||39||rowspan=3|J1||22||7||2||0||2||0||26||7 |- |2011||rowspan=2|横浜FM||11||28||10||5||3||3||4||36||17 |- |2012||9||25||2||3||1||1||0||29||3 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2013||杭州緑城||11||中国超級||24||3||colspan="2"|-||2||3||26||6 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2014||京都||31||J2||||||colspan="2"|-|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始204||69||33||12||13||12||250||93 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行55||33||colspan="2"|-||0||0||55||33 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行19||6||1||0||0||0||20||6 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行10||0||1||0||colspan="2"|-||11||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行24||3||colspan="2"|-||2||3||26||6 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終312||111|||||||||||| |}
その他の国際公式戦
- 2010年
- スルガ銀行チャンピオンシップ 1試合1得点
代表歴
出場大会
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005、東アジア選手権2005
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ
試合数
- 国際Aマッチ 21試合 5得点 (2005-2008)[6]
テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |2005||15||5 |- |2006||6||0 |- |2008||1||0 |- !通算 |22||5 |}
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2005年2月テンプレート:09日 | 日本 | テンプレート:PRKf | ○2-1 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
2. | 2005年6月テンプレート:08日 | タイ | テンプレート:PRKf | ○2-0 | |
3. | 2005年6月19日 | ドイツ | テンプレート:GREf | ○1-0 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 |
4. | 2005年6月22日 | ドイツ | テンプレート:BRAf | △2-2 | |
5. | 2005年8月17日 | 日本 | テンプレート:IRNf | ○2-1 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
タイトル
クラブ
- ガンバ大阪ユース
- 日本クラブユース選手権(U-18):1回 (1998年)
- ガンバ大阪
- Jリーグ ディビジョン1:1回 (2005年)
- FC東京
- スルガ銀行チャンピオンシップ:1回 (2010年)
個人
- Jリーグ優秀選手賞:2回 (2004年 - 2005年)
- Jリーグベストイレブン:1回 (2004年)
- Jリーグフェアプレー個人賞:1回 (2005年)
CM
- Panasonic「Strada」
- 『先読むナビ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演
- 『簡単ツートップ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演
- ダイハツ「ムーヴ カスタム」 - 今年を代表するCM大賞2005 受賞
- 『ヒーローインタビュー篇』 (2005年、2006年)
脚注
- 注釈
- 出典
関連項目
- ガンバ大阪の選手一覧
- コンサドーレ札幌の選手一覧
- 東京ヴェルディ1969の選手一覧
- 横浜FCの選手一覧
- FC東京の選手一覧
- 横浜F・マリノスの選手一覧
- 京都サンガF.C.の選手一覧
- 日本国外のリーグに所属する日本人サッカー選手一覧
外部リンク
- テンプレート:Official
- テンプレート:FIFA playerテンプレート:En icon
- テンプレート:Soccerwayテンプレート:En icon
- テンプレート:Soccerbaseテンプレート:En icon
- テンプレート:LFP.fr
- テンプレート:Medio Tiempo
- プロフィール (2006年版) - 日本サッカー協会
- テンプレート:Wayback - ガンバ大阪
- テンプレート:Wayback - グルノーブル・フット38テンプレート:Fr icon
- テンプレート:Wayback - トリノFCテンプレート:It icon
- テンプレート:Wayback - 東京ヴェルディ
- テンプレート:Wayback - FC東京
- テンプレート:Wayback - 横浜F・マリノス
テンプレート:京都サンガF.C.のメンバー テンプレート:Jリーグベストイレブン (FW) テンプレート:Jリーグフェアプレー個人賞
テンプレート:Navboxes- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Wayback Jリーグ選手協会 (2009年2月27日)
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 テンプレート:Wayback WEBサッカーマガジン (2003年5月1日)
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「sanpro
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 大黒将志 点取り屋・フィジカル問答。 Number Web (2004年11月18日)
- ↑ 大黒将志「代表もクラブも1点は1点なんで」 Number Web (2005年4月14日)
- ↑ 6.0 6.1 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「daihyo
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 大黒あくまでも欧州…セリエBも視野 スポーツニッポン (2008年5月22日)
- ↑ 8.0 8.1 テンプレート:Wayback スポーツニッポン (2009年11月19日)
- ↑ 9.0 9.1 東京V大黒、代表入りへJ1移籍希望 日刊スポーツ (2009年11月19日)
- ↑ 10.0 10.1 10.2 テンプレート:Wayback デイリースポーツ (2010年11月30日)
- ↑ 大黒 東京V移籍決定! 3年半契約 スポーツニッポン (2008年7月1日)
- ↑ 2010J2リーグ戦 第14節 大黒将志選手(横浜FC)ハットトリック達成 Jリーグ (2010年5月22日)
- ↑ テンプレート:Wayback FC東京 (2010年6月22日)
- ↑ バウサ監督(キト)試合前日会見コメント J's GOAL (2010年8月3日)
- ↑ 選手出場記録 (1/2),(2/2) Jリーグ (2010年12月4日)
- ↑ テンプレート:Wayback FC東京 (12月30日)
- ↑ 登録選手一覧表 Jリーグ (2011年12月3日)
- ↑ 大黒将志選手に関するお知らせ 横浜F・マリノス (2013年2月4日)
- ↑ 大黒将志選手 杭州緑城へ期限付き移籍のお知らせ 横浜F・マリノス (2013年2月7日)
- ↑ 大黒将志選手 契約満了のお知らせ 横浜F・マリノス (2014年1月15日)
- ↑ 大黒将志選手 期限付き移籍加入内定のお知らせ 京都サンガF.C. (2014年1月29日)
- ↑ 「UNO大使」に就任 日本代表FWの大黒 47NEWS (2005年10月23日)
- ↑ 大黒けが! TV収録トランポリン枠でひねる 日刊スポーツ (2005年12月20日)
- ↑ 24.0 24.1 大黒将志選手(FC東京)コメント J's GOAL (2010年6月22日)
- ↑ 大黒ドタバタ背番「9」サーレスが譲る 日刊スポーツ (2010年1月28日)
- ↑ 横浜F・マリノス新体制発表記者会見コメント スポーツナビ 2011年1月16日
- ↑ 大黒「11」カズ魂だ! デイリースポーツ 2011年1月17日
- ↑ 京都加入の大黒、掛布氏にあやかり背番31 日刊スポーツ 2014年1月31日
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