サガン鳥栖
テンプレート:告知 テンプレート:サッカークラブ テンプレート:Infobox サガン鳥栖(サガンとす、Sagan Tosu)は、日本の佐賀県鳥栖市をホームタウンとする[1]、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
概要
1997年に創設され、1999年よりJリーグへ加盟している。ホームタウンの人口71,489人(推計人口、2013年6月1日現在)はJリーグの全40クラブの中で最も小さい[注 1]。ただし、佐賀市でホームゲームを開催(後述)したりクラブのオフィシャルスポーツバー「THE Sagan」を開設する[2]、唐津市に下部組織(U-15唐津)を設置する、佐賀県全域でサッカースクールを開校するなど佐賀県全域での活動を行っている。さらには、同じ筑後川流域で鳥栖市と地理的に関連の深い福岡県筑後地方でも、鳥栖市が久留米市、小郡市などと組織する「筑後川流域クロスロード協議会」が共同してサガンを支援しているほか、スポンサーの一つであるブリヂストンが久留米市・朝倉市に設けた「ブリヂストン・サッカースクール」をサガンが運営する[3]など、ホームタウン区域外での活動も行っている。
2013年のJリーグスタジアム観戦者調査報告書[4](鳥栖は2013年8月17日の対大宮戦で調査を実施)によると、佐賀県外からの観戦者は33.4%で、これは2012年度に同様の調査を行ったJリーグ加盟40クラブ中で、鹿島、G大阪、東京Vに次ぐ4番目に多い数値となっている。また、県内の観戦者分布に於いても、佐賀市からの観戦者が県内観戦者の24.1%と、ホームタウンの鳥栖市(15.1%)よりも高い比率となっている。なお、オフィシャルサイトなどでチーム名をしばしば「サガントス」と表記し、敢えて「鳥栖」の文字を用いないことも多い。
チーム名の「サガン」は、砂粒が固まって砂岩になるように小さい力を集結させ、立ち向かうことを表す[1]。また「佐賀の」にも通じている[1]。運営母体は1997年から1998年シーズン途中まで任意団体「サガン鳥栖FC」、1998年途中から2004年までは株式会社サガン鳥栖、2005年以降は株式会社サガンドリームスである。
ホームスタジアムはベストアメニティスタジアム[1]、練習場は鳥栖市北部グラウンド[1]および鳥栖市陸上競技場[1]である。詳細は下記#スタジアム・練習場項を参照。クラブマスコットは「ウィントス」であり、佐賀県の県鳥である「カチガラス」をモチーフとしている[1]。
歴史
1997年 - 2011年 (J2)
1997年 - 2003年
テンプレート:See also 1991年10月、佐賀県サッカー協会が当時静岡県リーグ1部所属のプロサッカーチーム『PJMフューチャーズ』(当時の本拠地は静岡県浜松市)の佐賀県への誘致を決定[注 2]。ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)加盟後の1994年に鳥栖市へホームタウンを移転し『鳥栖フューチャーズ』(鳥栖F)と改名、Jリーグ準会員としてJリーグ入りを目指した。しかし、PJMジャパンの撤退が原因となって深刻な経営難に陥り、1997年1月にチーム運営会社の株式会社佐賀スポーツクラブが解散を決議(1998年に破産廃止)。このとき存続を求める5万人を超える署名があった事などを受け、鳥栖Fの受け皿となるチームとして1997年2月4日に佐賀県サッカー協会会長の中村安昭を代表とする任意団体として「サガン鳥栖FC」が発足した[注 3]。
しかし、急遽設立したため事務所もなければスタッフもいなかった[注 4]。Jリーグはフロント要員として関連会社で役員を務めていた元横浜M常務の熊地洋二をスーパーバイザーとして派遣した。また、監督にC大阪元監督代行の楚輪博が就任した他、C大阪からは元コーチの坪田和美がヘッドコーチに、佐賀県出身の佐藤真一は鳥栖に期限付き移籍した。
また、浦和と京都から練習着が、地元高校からビブス、用具メーカーからボールがそれぞれ寄贈された。2月13日に開かれたリーグ理事会で、組織が承継されていないことから準会員の資格は失ったものの、鳥栖Fが所属していた旧JFLと、同年のナビスコカップへの参加が特例的に認められた[5]。選手については、鳥栖F解散から契約が宙に浮いていた8選手(高嵜理貴、鈴木俊、松田悦典、大森征之、森保洋、田中哲也、森純一、工藤圭司)と前述の佐藤らレンタル選手4人に加え、急遽行ったセレクションで獲得した8人の計20人となり、2月16日に新体制が発表された[6]。さらにシーズン開幕直前には戦力補充と経費削減のため、関連会社が選手の人件費を負担し、チームは勝利給や出場給のみ支給する社員選手の制度を検討。これに市内の生花店と電気工事店が協力し、北内耕成と関本恒一が加入した[7]。JFLリーグ戦は16チーム中11位の成績。
1999年のJリーグの2部制導入に伴い、1998年に「株式会社サガン鳥栖」として法人化され(社長には引き続き中村が就任)[1]、1999年から発足したJリーグ ディビジョン2発足時の10クラブの一つとなった。 テンプレート:Infobox 鳥栖F解散に対する反省から、法人化したサガンでは大口のスポンサーは設けず、小口の株主を多くすることによって経営の安定化を図った。しかし、法人化初年度から赤字続き[8] で随時小口の融資を集めて増資することで凌いだ結果、株主が多くなったことで経営の主導権争いや、会社の経営方針に対する株主や関係者からの批判が相次ぎ、狙いとは逆に経営の混乱が続いた。1998年オフにはJリーグから2年契約で斡旋されていた大口スポンサーとの契約が終了し次期運営予算が大幅に減少、主力選手を多数解雇する羽目となった[9]。新戦力は補充したものの、入団テストの際に提示した条件は月給にしておよそ10万円で、予算不足は明らかだった[10]。
当初から暫定的な社長就任であった中村の健康問題もあり、2001年9月には当時の監督であった高祖和弘がシーズン最終戦終了後に社長に就任する人事案を可決したが[11]、後に撤回[12]、年が明けて2002年に半年前から取締役に就任していた建設・解体会社社長の古賀照子が社長に就任した[13]。しかし、古賀は自分の方針に反対する幹部、職員などを大量に解雇しスタッフを一新したが、大口スポンサーの撤退が相次ぎ経営は厳しくなる一方で、同年11月には早くも古賀は辞任を表明[14] したが結局留任するなど混迷をさらに深めた。
- 2003年
- 千疋美徳が監督に就任[1]し、攻撃重視のサッカーを目指したが機能せず、第17節から最終の第44節まで1勝も出来ず最下位に終わった。勝ち点でもこの年のJ2所属12チーム中で11位の横浜FCの半分にも満たず、最終成績はシーズン3勝、28試合連続勝ち星なし(翌シーズンと合わせ連続30試合まで更新)で当時のJ2ワーストを記録した[15][注 5]。
- チームはシーズン中から存続すら危ぶまれる状態にあり、2003年10月には古賀が再度辞任を表明[16]。次期取締役選任機関として改革委員会を立ち上げ、その会長であった元佐賀大学学長の楠田久男を新社長に選任した[17]。しかし、新組織が制作した来季の経営計画は一試合の入場者が実績の5倍近い15,000人。過大な企業協賛金も盛り込むなど見通しの甘いもので、Jリーグ諮問委員会は当然改善を求めたが、楠田ら新経営陣は「資金繰りの目処が立たない」として次期取締役への就任を撤回した[18]。結局古賀が留任することとなったが、当時チェアマンの鈴木昌は「このままの経営が続けばJリーグからの除名や退会勧告もやむをえない」とまで述べている。このような状態のチームを引き受けようという監督をなかなか見つけられずにいたが、最終的にはJリーグからの紹介で元川崎監督の松本育夫が就任した。
- 2004年
- 2004年シーズン、松本は選手の約半分を入れ替えてシーズンに臨み、前半戦は記録的なペースで勝ち点を積み重ねていた松本の古巣である川崎に勝つなどほぼ五分の成績であったが、後半戦は故障者が続出したこともあり22試合でわずか1勝であった。
- この年、ピッチ外では、社長である古賀が選手・監督らを創価学会および公明党関連の行事、選挙活動へ出席させるなど(松本らは2度参加したものの3回めに拒否[19]。)、商法違反を始めとしたクラブ経営の公私混同ぶりが露見。この件に抗議した松本を始めとした現場と古賀中心のフロントが対立し、古賀は松本をクラブハウス入室禁止処分とした[20]。経営面でも引き続き混迷を極めており、Jリーグでは抜本的な解決のため、一旦100%減資し、新スポンサーを獲得するという条件付きでJリーグの関連会社・Jリーグフォト株式会社が新しいメインスポンサーが見つかるまで暫定的に出資することを提案したが[21]、Jリーグの定めた6月末の期限までに全株主169人のうち、10人からの同意を取り付けることができず、Jリーグフォトからの出資も白紙に戻された[22]。さらに古賀はこのシーズンのサポーターミーティングにて、鳥栖スタジアムの解体案という前代未聞の経営整理案を提示、これにはスタジアムの出資元の鳥栖市から激しく抗議され自治体も古賀の退任を要求した。会社・サポ-ター・出資元という三つ巴の騒動となり、クラブ消滅も現実味を帯びていた。
- 秋には古賀が三度辞任を表明[23]。それに代わる新しい経営陣を一旦決定したが、新社長に就任する予定の井上良一が別途運営する法人の経営体質について、Jリーグから疑問視する意見が上がり、このまま運営するようであれば除名(クラブ解散、あるいは存続したとしてもJFLなど下位リーグへの強制降格)も辞さない可能性があった。また、ライブドア社長(当時)の堀江貴文もクラブ買収の意向を示したが、実現しなかった。
- その後、11月8日には古賀が新社長候補だった井上が辞退したことと、今後は県が推薦する企業を中心に話を進める考えを表明。11月12日に古川康知事が、佐賀県出身の元映像ディレクターで人材ネットワーク会社「クリーク・アンド・リバー社」を経営する井川幸広にクラブ経営を要請し、20日には井川と古賀が県、Jリーグ関係者も同席して初めて顔を合わせ、スムーズな経営体制の移譲に向けた「第一歩」を踏み出したかと思われた。しかし、一部株主により12月5日に臨時株主総会を開き、井上ら4人を取締役に選任する議案が提案された(新組織に自らの影響力を残すため、あるいは移譲を妨害するためと見られている)[24]。同時期、強化担当を兼ねる運営担当者を含む、広報・営業担当者など古賀に批判的な社員5人が30日付での解雇通告を受けていたことも発覚[25](11月30日に撤回)し前途に暗雲が漂った。しかし、これがチーム存続への最後のチャンスと見る鳥栖市は交渉が不調に終わった場合、ホームタウン返上とクラブへの支援打ち切りを表明[26]。新取締役の選任は否決された[27]。
- 結局、2005年1月に井川を中心に出資して設立された「株式会社サガンドリームス」に対し、経営権を2400万円(譲渡費用2100万円、2004年12月-2005年1月の運営費用など300万円)で譲渡することを発表した。旧法人は解散(清算)となり、ようやく経営問題は解決となる。「サガンドリームス」の社長に就任した井川は、経営譲渡にあたって「サガン鳥栖のクラブ名の継続使用」「松本の続投」の2つの条件を出したが、条件は2つとも受け入れられた[28]。
- 2005年
- クラブスローガン :「夢激闘」
- この年からのクラブスローガンは親会社のサガンドリームスに因んで、頭文字に「夢」を使用した漢字3文字のものが使われている。
- Jでの実績がある宮原裕司、氏原良二、ビジュを完全移籍、一柳夢吾、矢野大輔、八田康介などを期限付き移籍で獲得。また、新居辰基、飯尾和也、髙地系治といった実力者を下部リーグから獲得した。ヘッドコーチには長年東京Vを指導した岸野靖之、コーチに元鹿島の内藤就行を招聘した。
- 序盤は新加入の選手が多いことによる連携不足が目立ったものの尻上がりに調子を上げ、第15節終了時点では自動昇格圏内の2位にいた。しかし、第16節の草津戦での不可解なPK判定による敗戦(家本政明参照)や、DFを中心とした故障者の続出などで、最終的には8位で終えたが、圧倒的な強さでJ1昇格を果たした 京都から3勝を挙げる健闘も見られた。
- 個人では、新居が17得点を挙げてJ2の日本人得点王となった。また、鈴木孝明も15点を挙げ、2人で2004年のチーム総得点分の得点(32点)を稼いだ。
- 2006年
- クラブスローガン :「夢超戦」
- 元韓国代表でC大阪でも活躍したMF尹晶煥や、DF金裕晋など、韓国人選手を3人補強。日本人選手も大幅に入れ替え、積極的な補強を行った。攻撃陣では新居がJ2の日本人得点王になるなど選手に成長が見られ始めたことで、松本は「上位5チームの中で争うところまでいきたい」と述べた。また、この時期に松本の「総監督」就任が一部報道で噂されたが、結局は監督を続投した(ただし、翌年の松本は実際の指揮をヘッドコーチの岸野に任せている)。
- シーズン序盤は新居でしか得点できない試合が続いて出遅れ、一時は最下位に転落した。後半戦では特に守備が安定したことで(第3クール以降の失点20はリーグ最少)優勝した横浜FCと同じ14勝を挙げ、第48節には4位に浮上。第49節の東京V戦に敗れてJ1昇格は無くなったが、最終順位は過去最高の4位となった。
- 2007年
- クラブスローガン :「夢必翔」
- 松本が監督を勇退してGMに就任し、後任監督に岸野が昇格。水戸からFWアンデルソンを獲得。福岡大学からGK赤星拓が入団した。一方で、2年連続でJ2の日本人得点王となった新居が千葉に移籍し、期限付き移籍中だった濱田武と金裕晋が所属元に復帰。さらには、GKシュナイダー潤之介が仙台へ移籍した。
- 開幕戦の福岡とのダービーで大敗。第1クールは前年以上に成績が悪かったが、第2クールからは、怪我人が復帰し、大分から移籍してきた柴小屋雄一を中心とした守備が安定し勝点25を積み上げたが、第3クールと第4クールと踏ん張れず、第47節の東京V戦に敗れてJ1昇格の可能性は消滅。
- しかし、24得点をあげ、日本人得点王となった藤田祥史や、FWからサイドバックにコンバートされた日高拓磨ら、若手選手が成長。また、天皇杯4回戦で新潟を破った。
- 2008年
- クラブスローガン :「夢結蹴」
- オフには、尹晶煥・山口貴之・村主博正・吉田恵といった30代の選手との契約を更新せずに、若手選手中心に補強を行った。その結果、最年長の選手は石田博行の28歳(1979年生まれ)となり、石田以外の選手は全員1980年代生まれとなった。
- 開幕戦で山形に勝ち、J2参戦10年目にして開幕戦初勝利を挙げると、その勢いでJ1昇格争いに絡んだ。この年1度も首位を明け渡すことなく優勝した広島との試合時間の兼ね合いで、クラブ史上初めて暫定首位に立った。8月にMF船谷圭祐を獲得したが、第3クールに入ると下位チームへの取りこぼしが目立ち、昇格争いから脱落。最終順位は6位。天皇杯は大分、神戸とJ1勢に勝利し、ベスト8へ進出。
- 2009年
- クラブスローガン :「夢昇格」
- 岸野体制3年目。藤田祥史が大宮に移籍し、期限付き移籍の船谷圭祐が所属元の磐田に復帰した一方、ブラジル2部・3部のクラブで42試合29得点のFWトジン、MF島田裕介、元日本代表の山田卓也や、右SB柳沢将之、左SB磯崎敬太などを獲得した。
- しかし、開幕直後に3連敗、一時は最下位となった。5月に横浜FMより山瀬幸宏、ハーフナー・マイクを、8月に大分からホベルトを期限付き移籍で獲得。一時はJ1昇格争いに迫る位置に付けたが、終盤の上位対決(仙台、湘南、甲府)で1分け2敗に終わり、最終成績は5位。天皇杯は4回戦でG大阪に敗退。シーズン終了後に岸野が監督を退任した。
- また2009年より、九州地区のJリーグ加盟クラブなどが若手育成を目的として発足させた九州チャレンジャーズリーグに参加を決めたため、Jサテライトリーグから撤退した。
- 2010年
- クラブスローガン :「夢一岩」
- 岸野の後任監督には前年からコーチとして現場復帰していた尹晶煥が昇格する予定だったが、尹が取得しているAFCのA級ライセンスではJリーグで監督を行えないと判断されことから、監督就任に必要なS級ライセンスをチームスタッフで唯一取得していたGMの松本が4年ぶりに監督に復帰(GMは解職)。尹はヘッドコーチとなり、実際のチームの指揮を主として執っていくのと同時に、S級ライセンスの取得も並行して行っていくことになった[29]。
- 岸野は横浜FCの監督に就任し、高地系治、柳沢将之、武岡優斗、渡邉将基の4選手と一部のコーチが移籍。廣瀬浩二が栃木へ完全移籍したほか、ハーフナー・マイク、島田裕介なども期限付き移籍期間が終了し退団した。一方、福岡大学からMF藤田直之、韓国の大学からMF金民友とDF呂成海等が入団、Honda FCからMF早坂良太を、神戸からDF丹羽竜平を、仙台からDF木谷公亮をそれぞれ完全移籍で、京都からFW豊田陽平を期限付き移籍で獲得するなど、陣容は大きく入れ替わった。
- 前半戦は上位に付けていたが中盤以降は失速。最終成績は9位。なおこの年は金民友が韓国代表となり、鳥栖から初めてのA代表選出となった。
- 2011年
- クラブスローガン :「夢結束」
- 前年S級ライセンスを取得した尹が監督に就任。またGKコーチに高嵜理貴が就任。なお、松本はアドバイザーに就任したが、任期途中の2011年5月末に退任した。
- 元主将のDF飯尾和也、昨シーズン途中から期限付き移籍していたMF野崎陽介が横浜FCへ、DF日高拓磨が札幌へ、MF衛藤裕が徳島へ、MF長谷川博一が大分へそれぞれ移籍し、GK浅井俊光、DF市原大嗣、MF朴庭秀、MF金浩男、MF下地奨が退団、GK首藤慎一は引退、FW萬代宏樹は草津に期限付き移籍した。
- 補強は、DF浦田延尚、DF金明輝、MF永田亮太、MF米田兼一郎、MFキム・ビョンスクが完全移籍で、MF岡本知剛、MF國吉貴博が期限付き移籍で加入、GK奥田達朗、DF守田創、FW野田隆之介が新加入、DF田中輝和が完全移籍となり、また豊田の期限付き移籍期間を延長した。前年と異なり、この年は主力の多くを残留させることができた。さらにシーズン開幕後の4月30日に、故障の影響で前年限りで湘南を退団していた新居辰基が完全移籍で5年ぶりに復帰した。
- 開幕戦はFC東京に惜敗したが、東日本大震災による中断明けとなった第8節(2試合目)の横浜FC戦で岸野が退団してから初めて勝利すると勢いに乗り、5月終了時点で2位に浮上した。6月と7月はともに1勝ずつとやや苦戦し、シーズン試合数の半分(19試合)を消化した時点では7勝6敗6分(勝ち点27)の7位で、J1昇格圏内の3位とは勝ち点10差が付いていた。しかし、第24節(20試合目)から16試合連続無敗(11勝5分)で第31節(29試合目)で2位に再浮上した。第37節で3位の徳島との直接対決に勝利。第38節は熊本に引き分けて、2位でシーズンを終了。
- 12月の臨時理事会でJ1昇格が決定した。なお、1999年のJ2創設から13年目で初のJ1昇格となり、23得点を挙げた豊田がクラブ初のJ2得点王に輝いた。なお、鳥栖の昇格をもってJ2創設時の所属10チーム(いわゆるJ2オリジナル10)は、全チーム最低1回はJ1に昇格したことになる。
2012年 - (J1)
- 2012年
- クラブスローガン :「超!結戦」
- 尹体制2年目で、チーム初のJ1での戦い。DF浦田延尚が愛媛に、MF山瀬幸宏が富山に、MF永田亮太が山形に完全移籍、DF田中輝和、MF米田兼一郎、MF柳澤隼、MFキム・ビョンスクが退団、DF金明輝とFW新居辰基が引退。昨シーズン草津に期限付き移籍していたFW萬代宏樹は山形へ完全移籍した。
- 一方で、期限付き加入していたFW豊田陽平とMF國吉貴博が完全移籍加入、MF岡本知剛は広島からの期限付き移籍期間を延長した。また、磐田からMF船谷圭祐を、甲府からDF犬塚友輔とDF小林久晃をそれぞれ完全移籍で獲得。仙台からMF高橋義希が、横浜FMからDF金根煥とMF水沼宏太が、コリンチャンスALからFWトジンが期限付き移籍で加入した。また、2011年の特別指定選手だったFW岡田翔平、MF黒木晃平、DF黒木恭平が新加入した。高橋とトジンは3年ぶり、船谷は4年ぶりの復帰となった。
- 開幕戦はC大阪と引き分け。第3節の横浜FM戦でJ1初勝利を挙げた。リーグ戦では、豊富な運動量に前線からのプレスからのショートカウンターを組み合わせた戦術が機能し[30]、前半戦は6勝6分5敗の10位[31]。後半戦に入り第27節から3連敗したが、第30節から4連勝。第33節終了時には3位に浮上し、最終順位は初昇格初年度のチームとしてはJ1が18チームとなった2005年度以降では最高の5位であった[32]第31節の磐田戦でJ1残留を決めた[33]。豊田が得点ランキング2位となる19得点を挙げ、Jリーグベストイレブンに選出された。なお、ホームゲームは11勝3分3敗で、これは2012年シーズンの全18クラブを通じて最高勝率であった[34]。
- ナビスコカップでグループ5位となりグループリーグ敗退。天皇杯は、2回戦でJFLカマタマーレ讃岐に敗退。
- 2013年
- クラブスローガン :「超!奮迅。」
- 尹体制3年目。なお、尹と2014年までの2年契約を結んだ。また、2012年度の収入が約14億円となり、2011年からほぼ倍増した[35]。
- 契約満了でDF犬塚友輔、DF守田創が、また期限付き移籍終了でMF岡本知剛(広島に復帰)、DF金根煥(横浜FMに復帰後新潟に完全移籍)、FWトジンが退団した。加えて2012年途中から期限付き移籍していたMF國吉貴博が富山に完全移籍、DF黒木恭平が愛媛へ、MF黒木晃平が熊本へそれぞれ期限付き移籍した。
- 一方、他クラブからの獲得オファーもあった(中には海外からの高額オファーもあったと本人が後日語っている[36])FW豊田陽平と契約を更新。また、2012年に期限付き加入していたMF高橋義希とMF水沼宏太がそれぞれ完全移籍で加入。このほか、福岡からMF末吉隼也、ミジョナリオスからMFジョナサン、オンセ・カルダスからFWディエゴを完全移籍で獲得し、横浜FMからDF金井貢史、G大阪からDF金正也、サンパウロFCからロニをそれぞれ期限付き移籍で獲得。新戦力としては、2012年に特別指定選手としてプレーしたMF清武功暉、DF坂井達弥、DF岸田翔平の大卒3選手と、地元佐賀東高出身のFW平秀斗が加入した。このうちFWディエゴは家庭の事情で2ヶ月で退団している。
- 守備の軸となっていた岡本・金根煥が抜け、さらには前年までの戦術を各チームに研究されたこともあり(オフェンスラインを高い位置にとっても相手チームのプレッシャーからディフェンスラインを上げられずにコンパクトだった陣形が間延びしてしまうシーンが増加しているという指摘[37]や、2年目のJ1で選手の間に無意識に「慣れ」が生じて出足が鈍り守備からリズムをつくる戦い方が出来なくなったとの指摘[38]もある)、開幕3戦目でシーズン初勝利を挙げるも、第4節から6試合勝利なし(2分4敗)で15位まで順位を下げ、FIFAコンフェデレーションズカップによりリーグ戦が中断された第13節終了時点では、2勝4分7敗の勝点10、自動降格圏となる16位の湘南との勝点差は僅か1、最下位の大分との勝点差すら僅か3であった。7月にリーグ戦が再開した後も、8月上旬までの7試合で2連敗2回を含む2勝1分4敗で、16位との勝点差が1から3という状態が続いており、前半戦だけで前年の総失点数を上回る40失点(リーグ最多)を喫するなど、調子は必ずしも上向かなかったが、7月後半に入り、FWロニとの期限付き移籍契約を解除し、MFニルソンをブラジル・メトロポリターノから完全移籍で[39]、MF菊地直哉を新潟から[40]、FW播戸竜二をC大阪から[41]いずれも期限付き移籍で相次いで獲得。さらに、8月上旬、相次ぐ負傷によりトップチーム登録のGK3人が戦線離脱し、残るのは特別指定選手のGK藤嶋栄介(福岡大学)のみという事態[42]となったところで、急遽清水からGK林彰洋を期限付き移籍で獲得した[43]。
- 林獲得直後の第21節ホーム大宮戦で勝利し連敗を止めた後、3連勝2連勝各1回を含む6戦負けなしで一気に16位との勝点差を10に広げる。直後に3連敗した(うち2敗は菊池[40]・林[43]がそれぞれ契約で出場できない新潟戦、清水戦)ものの、その後のリーグ戦最終5節を4連勝を含む5戦負けなしで終え、結局13勝7分14敗の勝点46で12位となった。
- ヤマザキナビスコカップではBグループ6位の成績。天皇杯はクラブ史上初となるベスト4の成績(準決勝で横浜FMに敗退)。
- 2014年
- クラブスローガン :「超!激翔。」
- 尹体制4年目。MFニルソンと、愛媛へ期限付き移籍中だったDF黒木恭平が契約満了で退団。FW野田隆之介が名古屋へ、GK室拓哉が大分へ完全移籍したほか、2013年途中から期限付き移籍していたDF木谷公亮が岐阜へ、MF船谷圭祐が水戸へそれぞれ完全移籍。また、期限付き移籍終了でDF金正也がG大阪へ復帰。FW岡田翔平が湘南へ、MF末吉隼也とMFジョナサンが大分へそれぞれ期限付き移籍となり、MF黒木晃平は熊本への期限付き移籍期間を延長した。
- 一方、2013年に期限付き加入していたDF金井貢史と、2013年途中から期限付き加入したMF菊地直哉、FW播戸竜二、GK林彰洋がいずれも完全移籍で加入したほか、特別指定選手だったGK藤嶋栄介と元U-17韓国代表のDFキム・ミンヒョクが新加入。また、磐田からDF安田理大、甲府から崔誠根をいずれも完全移籍で、磐田からMF菅沼実、柏からMF谷口博之、広島からMF岡本知剛をいずれも期限付き移籍でそれぞれ獲得した。岡本は2シーズンぶりの鳥栖復帰(シーズン途中で完全移籍に移行)となった。
- 第12節には暫定ながらチーム初の単独首位に立つ[44]など前年後半からの好調を維持し、8月2日の第18節・名古屋戦でこのシーズン10度目の完封勝利で再び首位に立った[45]直後の8月8日、クラブから監督の尹との契約を前日(8月7日)付けで解除したことが発表された[46]。首位のチームが監督交代となる極めて異例の事態について、記者会見を開いた永井隆幸強化部長は「(尹との間で)今後のチーム作りのビジョンや考え方がクラブと合わなかった」「ことし来年以降の戦いを見据えたなかで監督を交代する決断をした。お互いが新たなステップとして高めていくためだ」と説明し、チーム側から尹に退任を打診したことを明らかにした[47]。後任にはコーチの吉田恵が昇格する[48]が、チームはほかに監督にふさわしい人物がいないか、人選を進めて将来を見据えたチームづくりを行っていきたいとした[47]。
戦力補強
鳥栖の戦力補強の特徴として、新卒の選手や試合になかなか出るチャンスの少なかった若手選手を積極的に補強し、試合に多く出場させるというものがある。特に近年は特別指定選手制度や期限付き移籍制度を積極的に活用し、そのまま翌年以降の完全移籍(正式加入)につなげているケースも少なくない。かつては鳥栖に加入する選手は長らく「他のチームから採ってもらえなかった選手」が多い傾向があり[30]、特別指定選手も翌年以降の加入につながらなかったケースも多々あったが、ビジネスホテルとして使われていた建物を選手寮として借り上げる[49] など、環境も整備されつつある。即戦力としての加入を期待しており、高卒加入の選手や下部組織出身者は少ない。
この理由として、鳥栖の財政力では多額の移籍金や契約金を投じた補強に頼れない点が挙げられる。鳥栖の人件費は、J1昇格初年度の2012年で約6億1,000万円[50]で、これはこの年のJ1所属18クラブの平均(約14億0,700万円)の半分以下で、コンサドーレ札幌(約4億9,500万円)に次ぐ下から2番目の少なさである。このこともあり、若手を育てて主力に成長させるという方針により、指導スタッフを充実させて、徹底した走り込みをはじめとする猛練習に取り組んで鍛え上げている[30]。
特にシーズン開幕前の毎年1月から2月には、鳥栖市内にある標高133mの朝日山の山頂まで反復して登る290段の「早朝石段トレーニング」[51][52]をはじめとした1日3回の練習(3部練習)が連日続き[53]、このトレーニングの苛酷さは移籍選手も言及している[54]。この3部練習は松本育夫監督の時に導入されたが、松本は1979年(昭和54年)に日本ユース代表の監督を務めた時、夜間の体育館練習を含めた4部練習を休み無しで1ヶ月続けた経験を持つ[55]。
2009年(平成21年)度所属の選手の中には地元佐賀県の出身が1人もおらず、ホームタウンを置く都道府県の出身者がいないのはJリーグ36クラブ(当時)の中で唯一であった。2010年(平成22年)度は2種登録選手ながら田本宗平、月成大輝の佐賀県出身選手が誕生し、月成は2011年(平成23年)度にも登録されたが、2012年(平成24年)度以降は再び佐賀県出身選手のいない状態が続いている。
2011年以降は大卒の選手数人について、チームスポンサーでホームスタジアムの命名権を取得しているベストアメニティ社が社員として雇用し、社員選手として在籍させる方針であると報じられている[56]。基本的にはチームの練習に参加し、月1回程度社員教育を行う予定で、引退後はベストアメニティの社員として雇用するという。
年 | 高卒 | 大卒 | 特別指定選手 |
---|---|---|---|
2004 | 高橋義希、下司隆士 | 加藤秀典、小井手翔太、奈良崎寛 | 田代有三 |
2005 | 中林洋次、長谷川豊喜 | 鈴木孝明 | |
2006 | 金正訓、栫大嗣 | 浅井俊光、衛藤裕、蒲原達也、廣瀬浩二、日高拓磨、藤田祥史 | 栗山裕貴†、三原雅俊 |
2007 | 太田弦貴、副島貴司、栗山裕貴、谷口堅三、ジョズエ | 赤星拓、内間安路、野崎陽介 | 河田晃兵 |
2008 | 島嵜佑、下地奨、朴炡慧 | 河田晃兵、長谷川博一† | |
2009 | サムエル | 渡邉将基、長谷川博一、武岡優斗、池田圭 | 河田晃兵、本城宏紀 |
2010 | 藤田直之、呂成海、金民友 | 黒木晃平†、森本良、野田隆之介† | |
2011 | 守田創 | 野田隆之介、奥田達朗 | 黒木晃平†、岡田翔平†、黒木恭平† |
2012 | 黒木晃平、岡田翔平、黒木恭平 | 坂井達弥†、清武功暉†、藤嶋栄介†、岸田翔平† | |
2013 | 平秀斗 | 坂井達弥、清武功暉、岸田翔平 | 藤嶋栄介†、福田晃斗、山﨑凌吾 |
2014 | 藤嶋栄介 | 福田晃斗、山﨑凌吾 |
※ 「†」付きの選手は、後に新卒でサガン鳥栖に加入した選手。
成績
タイトル
個人
- Jリーグベストイレブン
- 2012年:豊田陽平
- J2得点王
- 2011年:豊田陽平
スタジアム・練習場
ホームスタジアムはベストアメニティスタジアム[1]であり、佐賀県総合運動場陸上競技場(佐賀市)でも不定期にホームゲームを開催している(2012年は春1、秋2の3試合)。また、2001年(第37節、甲府戦)に沖縄県総合運動公園陸上競技場(沖縄県沖縄市)で沖縄県初となるJリーグ公式戦を開催した。
練習場は鳥栖スタジアム北部グラウンド(鳥栖市北部グラウンド)[1]、鳥栖市陸上競技場[1]であるが、佐賀県総合運動場陸上競技場、小郡市陸上競技場(福岡県)も利用する[57]。また、2013年4月に鳥栖スタジアム北部グラウンド内にクラブハウスが完成した。
現所属選手
クラブ情報
永久欠番
なお、他クラブがサポーターナンバーを「12」としているのに対し、サガン鳥栖は「17」を同ナンバーとしている。テンプレート:要出典範囲
佐賀県プロサッカー振興協議会
クラブ経営が行き詰まり、クラブ解散が濃厚となった2004年(平成16年)9月、佐賀県と県内各市町村は、県内の企業・団体などと共同でサガンの後援団体・「佐賀県プロサッカー振興協議会」を立ち上げた。この会では、サガンを県民参加型のクラブ運営にするため、ホームゲーム(鳥栖スタジアム、佐賀県総合運動場陸上競技場で開催)に各市町村の市民を招待するほか、サガンの選手を招いた少年サッカー教室や各種イベントを展開するというもの。また、2005年(平成17年)のシーズン開幕前には鳥栖スタジアムにこの会の事務所を移転させた。クラブ事務所との併設となり、チームとの連携をより強化することになった。
ホームゲーム招待事業
テンプレート:更新 2005年(平成17年)以降、「サガン・ドリームス」がチケットを提供する形で、佐賀県プロサッカー振興協議会によるホームゲームへの佐賀県民の無料招待事業が始まった。この事業により、それまでJ2で最低レベルの観客動員数が、2005年(平成17年)には前年比2倍以上に伸び、J1経験のないJ2チームでトップクラスの観客動員となった。ただし、全入場者数の約半数は無料招待によるもので、有料入場者数を伸ばすことが課題であった。社長の井川は2006年(平成18年)5月28日の株主総会で、Jリーグでは前例のない「有料入場者数の公表」を検討していると発表した(2006年(平成18年)には、公式ホームページのトップに「前節の入場者内訳」と題して、「公式入場者数」「有料入場者数」「地域招待者数」「招待地域」及び「累計有料入場者数」を公開した)。
集客活動の歴史
- 2003年(平成15年)「Road To 25,000 In 鳥栖スタ」
- ゴール裏のサポーターを中心に立ち上げた「Road To 25,000 In 鳥栖スタ」という大集客キャンペーン。2003年(平成15年)7月19日のアルビレックス新潟戦を皮切りに徐々に観客を伸ばす仕掛けだったが、アビスパ福岡とのダービー以外の客足は振るわなかった。
- 08/02 vs福岡 目標10,000人(結果 5,756人) ※2003年(平成15年) 平均観客動員 3,172人
- 2004年(平成16年)「Road to 25000 震源地TOSU! 鳥栖スタを揺らせ」
- 前年の反省を踏まえて「Road to 25000 震源地TOSU! 鳥栖スタを揺らせ」という新たなキャンペーンが始まる。これは9月4日の福岡とのダービーに焦点を当てた集客キャンペーンで、チケットバンクという新しいシステムを導入。全国のサッカーファンから寄付されたチケットで地元の小学生を招待する企画だった。各地のJクラブサポーターを始め40団体が支援、2111人の子供達を招待することに成功。満員とはならなかったが、後にクラブ運営を引き継ぐ井川幸広の初観戦を促した。
- 09/04 vs福岡 目標25,000人(結果 9,565人) ※2004年(平成16年) 平均観客動員 3,610人
- 2006年(平成18年)「夢プラン21 鳥栖スタジアムを満員にしたい」
- 鳥栖市が行っている子供の夢をかなえる青少年健全育成事業「夢プラン21」に鳥栖北小学校3年生の生徒の提案「鳥栖スタジアムを満員にしたい」が採用される。これによって行政、クラブのバックアップの元、スポンサーの1つであるブリヂストンも支援を表明。11月12日の湘南ベルマーレ戦を目標に活動を行い、鳥栖スタジアムでのJリーグ公式戦最多(当時)となる18,231人の観客を集め、このことがブリヂストンの支援継続と年間スポンサー料アップにつながった[58]。
- 11/12 vs湘南 目標20,000人(結果18,231人) ※2006年(平成18年) 平均観客動員 7,465人
- 2007年(平成19年)「BSデー『どこまでも行こう!ブリヂストンサマーフェスタwith 吹奏楽団』」
- 2006年の「夢プラン」を引き継ぐ形でブリヂストンは支援を継続、「夏休み最後の思い出づくり」をコンセプトに8月最後のホームゲームを冠マッチ「ブリヂストンデー」(BSデー)として支援を行った。2007年(平成19年)8月25日の水戸ホーリーホック戦がBSデーに設定され、日本最高峰の企業吹奏楽団「ブリヂストン吹奏楽団久留米」と地元高校の吹奏楽団との協演など様々な企画が催され、当日は16,661人を動員する[58] も、目標の2万人越えは達成できず、平均観客動員数も前年を下回った。
- 08/25 vs水戸 目標20,000人(結果 16,661人) ※2007年(平成19年) 平均観客動員 6,114人
- 2008年(平成20年)「BSデー 2万人の夢結蹴」
- 前年、2万人越えの目標を達成できなかった反省を踏まえて、サポーターも「×2運動」という新たな集客作戦を展開。ブリヂストン側もかつて無い規模の動員を2008年(平成20年)も実施し、9月20日のロアッソ熊本戦に21,029人という2万人越えを実現させる。その後、J1昇格を決めた2011年(平成23年)12月3日の熊本戦で記録した22,532人と言う記録が出来るまではクラブレコードとして残り続けた。
- 09/20 vs熊本 目標20,000人(結果21,029人) ※2008年(平成20年) 平均観客動員 7,261人
スタジアムDJ
- YUYA(鳥栖F時代から担当)
支援自販機
地域におけるサガン鳥栖支援の提案として、球団が「サガントス支援自販機」の設置場所を募っている[59]。テンプレート:要出典範囲コカ・コーラウエストがオペレーションを担当している。
ユニフォーム
チームカラー
- テンプレート:Color box ブルー[1]、テンプレート:Color box ピンク[1]。
ユニフォームについて
- アクセントやチームエンブレムなどで使われているピンクは、鳥栖Fのチームカラー(ピンクと紺)を継承"[60]。
- サガン鳥栖発足当時からユニフォームは紺系の青を基調としていたが、2006年(平成18年)シーズンからは紺系から水色(やや緑がかった水色)に変更された。この色は「サガンブルー」と名付けられ、佐賀平野の大地と澄んだ大空をイメージしている。
- 2011年(平成23年)から使用するユニホームは「ブルー・ピンク」という基本カラーはそのままだが、デザインアドバイザーとして14代酒井田柿右衛門が監修に携わり、ラインの入れ方などの提案を行なっている。
- 2013年からのユニフォームは、ニューバランス傘下のアメリカのスポーツ用品メーカー・テンプレート:仮リンクとサプライヤー契約を締結した。サガン鳥栖との契約は同社にとってリヴァプールFC(プレミアリーグ)、セビージャFC(リーガ・エスパニョーラ)に次ぐ3クラブ目、アジアでは初のサプライヤー契約だという[61]。
ロゴ・エンブレム
2005年(平成17年)までのエンブレムは、クラブ名の頭文字「S」と「T」の組み合わせと、佐賀県の地図をモチーフとしたものだった[60]。 2006年(平成18年)は「J1昇格への元年」と位置付け、ロゴとエンブレムを一新。新しいエンブレムはカチガラス(筑紫平野に生息する天然記念物カササギ)を取り入れ、このカチガラスはsagantosuの隠し文字で描かれている[60]。また、ピンクとサガンブルーと、更に5色(上から、青、黄、黒、緑、赤)の勝利(Victory)の頭文字であるVが描かれており、この5色は五大陸を意味し、『True champions in the hearts of all who love Sagantosu.』(「サガン鳥栖を愛する全ての人と共に、真のチャンピオンになる」という意味)がエンブレムを引き締めている[60]。新しいロゴは、今までよりシャープなイメージで強さを感じるデザインにし、ロゴの上下の飾りが「V」のイメージで、勝利にこだわっている。
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | ディーエイチシー | DHC | 2008年- | |
背中 | グラス・ワン・テクノロジー | Glass One | 2014年- | |
袖 | 佐賀新聞社 | 佐賀新聞 | 2012年- | |
パンツ | ブリヂストン | シンボルマーク「B」 | 2014年- | 2006年-2013年は背中 |
トレーニングウェアスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 |
---|---|---|
練習着胸・ビブス | ナチュラルライフ | らいふ薬局 |
練習着背中 | 髙山質店 | gage |
練習着袖 | ロキテクノ | ROKI |
ユースユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出チーム |
---|---|---|---|
胸 | ブリヂストン | BRIDGESTONE | U-18・U-15・U-15唐津 |
背中 | 村岡屋 | 村岡屋 さが錦 | U-18・U-15・U-15唐津 |
ユニフォームサプライの遍歴
- 1997年(平成9年) - 2002年(平成14年):ナイキ
- 2003年(平成15年) - 2004年(平成16年):デレルバ(一般公募によるデザインを採用)
- 2005年(平成17年):ミズノ
- 2006年(平成18年) - 2012年(平成24年):アンブロ
- 2013年(平成25年) - :テンプレート:仮リンク
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 背中 | 袖 | パンツ | サプライヤー |
1997 | - | DIREC TV | - | - | NIKE |
1998 | - | ||||
1999 | |||||
2000 | 東洋新薬 | ||||
2001 | アサヒ緑健 | ||||
2002 | - | ||||
2003 | - | DELL'ERBA | |||
2004 | PRINCESS TENKO | TOSU | 参勤交代の湯 | ||
2005 | - | -/CREEK&RIVER | -/Value Link | -/エイチ・エス証券 | Mizuno |
2006 | BBIQ[注 6] | BRIDGESTONE | UMBRO | BTU | UMBRO |
2007 | - | ||||
2008 | DHC | BBIQ | SUMCO | ||
2009 | SUMCO | - | |||
2010 | BEST AMENITY | ||||
2011 | |||||
2012 | 佐賀新聞 | ||||
2013 | Warrior | ||||
2014 | Glass One | BRIDGESTONE |
注釈
出典
関連項目
- サガン鳥栖の選手一覧
- サガン鳥栖 夢必翔2007 〜J1への道〜 (サガテレビで放送されていた応援番組)
- 九州ダービー/九州クラシコ
- 肥前山口駅~鳥栖駅で試合の開催日には臨時列車「サガン鳥栖号」が各駅停車で運行される。
外部リンク
- 公式サイト
- メディア
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 引用エラー: 無効な
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タグです。 「jleague
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:PDFlink - Jリーグ公式サイト内、2014年4月26日閲覧。
- ↑ 日本サッカー協会、サガン鳥栖承認 - 佐賀新聞1997年2月14日
- ↑ 新生「サガン鳥栖」スタート - 佐賀新聞1997年2月17日
- ↑ サガン鳥栖に2選手入団、地場企業が確保 - 佐賀新聞1997年3月11日
- ↑ サガン98年度赤字3173万円 - 佐賀新聞1999年3月22日
- ↑ サガン鳥栖、田中ら7人解雇 - 佐賀新聞1998年11月17日
- ↑ サガン鳥栖に新戦力 - 佐賀新聞1999年1月19日
- ↑ サガン臨時株主総会「高祖社長」を承認 - 佐賀新聞2001年9月21日
- ↑ サガン鳥栖、高祖氏が社長辞退へ - 佐賀新聞2001年10月23日
- ↑ サガン社長に古賀氏 - 佐賀新聞2002年3月29日
- ↑ サガン古賀社長辞任へ - 佐賀新聞2002年11月23日
- ↑ 「叶った夢」サガンJ1昇格 <上> サポーターが支えた17年 - 読売新聞九州版2011年12月5日(2012年6月27日時点でのインターネット・アーカイブ)
- ↑ サガン、古賀社長ら辞任へ - 佐賀新聞2003年10月11日
- ↑ ニュースさがTOP サガン鳥栖、新社長候補に楠田氏 - 佐賀新聞2003年10月21日
- ↑ サガン鳥栖、新経営陣が就任撤回 - 佐賀新聞2003年12月10日
- ↑ 創価学会「ニッポン洗脳」 の不気味 - 週刊文春2005年3月31日号
- ↑ J2鳥栖の松本育夫監督、球団事務所に出入り禁止 - 日刊スポーツ 2004年11月15日
- ↑ Jリーグ、サガンへの出資表明 - 佐賀新聞2004年2月15日
- ↑ ニュースさがTOP Jリーグ、鳥栖支援策を撤回 - 佐賀新聞2004年7月2日
- ↑ ニュースさがTOP サガン鳥栖・古賀社長退任へ - 佐賀新聞2004年10月1日
- ↑ サガン新体制なお混とん - 佐賀新聞2004年11月24日
- ↑ 経営陣は迷走、社員5人解雇 - 日刊スポーツ2004年11月24日
- ↑ サガン経営井川氏受諾、チェアマン「歓迎」 - 佐賀新聞2004年11月27日
- ↑ サガン鳥栖新取締役選任を否決 - 佐賀新聞2004年12月6日
- ↑ サッカーJ2サガン鳥栖に関するお知らせ 株式会社クリーク・アンド・リバー社プレスリリース 2004年11月26日
- ↑ テンプレート:Cite press release
- ↑ 30.0 30.1 30.2 テンプレート:Citation
- ↑ サガン鳥栖J1初参戦、前半回顧 健闘10位 - 佐賀新聞2012年7月10日
- ↑ 【鳥栖】初昇格チームとして最高順位5位 - 日刊スポーツ2012年12月1日
- ↑ J1:鳥栖、残留確定 磐田の猛反撃しのぎ - 毎日新聞2012年11月7日
- ↑ ホーム・アウェイ別勝敗表 2012Jリーグ ディビジョン1
- ↑ J1鳥栖 収入倍増14億円、尹監督と新たに2年契約 読売新聞 2013年1月5日付記事
- ↑ 目指すはサッカーA代表 星稜高OBの豊田、鈴木が躍進誓う - 北國新聞2013年1月8日
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ 40.0 40.1 テンプレート:Cite news
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- ↑ 43.0 43.1 テンプレート:Cite news
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- ↑ テンプレート:Cite news
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- ↑ 設備充実 サガン鳥栖が元ホテルに選手寮 - 佐賀新聞2009年2月28日
- ↑ テンプレート:PDFlink - 日本プロサッカーリーグ公表資料
- ↑ J's GOALフォトレポート、(鳥栖:キャンプレポート2014)朝日山早朝トレーニング、2014年1月22日。
- ↑ 及び頂点へ激走 サガン名物、朝日山トレ - 佐賀新聞2014年1月23日。記事内では10周したと書かれている。
- ↑ サガン鳥栖公式サイト内で発表された2014年のトップチーム練習日程によると、1月21日の全体練習開始日から1月31日までに7度の3部練習が実施された。サガン以外に3部練習を行うJリーグクラブは少ない。
- ↑ 一例として、安田理大の公式ブログ、2014年2月1日付、「シーサー。」
- ↑ 詳細は松本の項目参照、及び夕刊フジ・Zakzak、水沼貴史コラム「蹴球 7DAYS」内、2013年9月22日付、「トコトン熱い栃木・松本新監督 J史上最高齢の71歳!!」。水沼貴史はサガン所属選手の水沼宏太の父。
- ↑ ベストアメニティ、サガン鳥栖選手を社員採用 - 佐賀新聞2010年12月10日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 58.0 58.1 テンプレート:PDFlink - Jリーグ公式サイト内
- ↑ 自動販売機設置案内 - サガン鳥栖公式サイト内
- ↑ 60.0 60.1 60.2 60.3 エンブレムの世界 サガン鳥栖『サッカーマガジン』2012年2月21日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23883-2/21, 052頁。
- ↑ テンプレート:Cite press release
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